All Chapters of 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った: Chapter 131 - Chapter 140

1152 Chapters

第131話

彼の顔に浮かんだ反応を見た瞬間、胸の奥から言いようのない快感が込み上げてきた。その感覚が私をさらに煽り、もっと言葉をぶつけたくなる。頭が少しぼんやりして、身体が熱を帯びているような気がした。けれど精神は極限まで研ぎ澄まされ、ただ吐き出したくてたまらなかった。漆黒の瞳を真っ直ぐに見据え、唇の端を吊り上げて、できる限り残酷に告げる。「そう――わかったのは、まだ5週目のとき。すごく小さくて、胎動なんてもちろん無いし、胎心だって確認できなかった。しかも切迫流産の兆候があって、その頃ずっとお腹が痛かったのは……妊娠していたからよ」宏は狼狽したように視線を泳がせ、かすれた声を漏らす。「……なぜ、言わなかった」「結婚3周年の日にわかったの。嬉しくてたまらなくて、早くあなたに知らせたくて……帰ってから3周年のキャンドルディナーを用意して、検査結果を手作りのケーキの中に忍ばせたの。あなたを驚かせたくて」「……ケーキなんて、見てない」「そうでしょうね。その日、あなたは私なんて眼中になかったもん」思い出して、口元に自嘲めいた笑みが浮かぶ。「アナに会いに行って、私がずっと欲しかったネックレスを自分の手で彼女の首に掛けてあげてた。私たちの記念日を忘れて、彼女の離婚を祝ってたのよ」「数日後、病院で再検査しようって誘ったのは……本当はあなたの手で赤ちゃんのエコー写真を受け取ってほしかったから」彼の表情が少しずつ崩れていくのを見ながら、私は淡々と続ける。「でもその朝、あなたはもう彼女のところへ行っていて……私ひとりで病院に行くしかなかった」「それから――健康診断の日も、本当はそのときに言おうと思ってた」「……悪かった、俺は……」「謝らないで」頬を伝った涙を乱暴に拭い、瞬きをひとつ。「その日、先生は言ったわ。赤ちゃんはとても順調で、もう小さな手も足も生えてきていて、元気そのものだって。……でも、あの日、アナに引きずられて起きた事故で、あの子は血の塊になってしまった」言えば言うほど、自分の痛みを共有できるのはこの男しかいないのだと思い知らされる。そして彼が苦しむほど、私の胸の痛みはわずかに和らいでいく。もう理性なんて残っていなかった。私はその心臓に、さらに深く刃を突き立てる。「本当は、あの子は助かったか
Read more

第132話

まだ吐き足りない――そんな衝動に駆られて、私は薄く笑みを浮かべた。「宏、私が流産したとき、あんたは他の女のそばにいた。手術室から出てきた私に、容赦なく平手打ちして――『なぜ彼女を止めなかった』って詰め寄ったわね。……私も妊娠してたのよ。怪我が怖くて……止められなかった。この答えで、満足?」「南……」こんな茫然とした顔を、彼に見るのは初めてだった。伸ばされた手が、私の手を掴もうと――だが、その手を横から遮る別の手があった。山田先輩が突然戻ってきて、穏やかさの奥に鋭い光を宿した声を放つ。「江川アナのことで詰めに来たんだろ?責任は俺にある。南には関係ない」宏は瞬時に表情を引き締め、冷ややかに笑った。「お前とは、ゆっくり清算するさ。急いで首を差し出す必要はない」私は宏の性質を知っている。だから口を開いた。「先輩は私を助けてくれただけ。八つ当たりはやめて。彼女の肩を持ちたいなら、私にぶつければいいじゃない」宏は、その庇い立てが気に入らないようだったが、罪悪感からか言葉を飲み込み、代わりに私の手首をぐっと掴んだ。「……帰るぞ」「もう、私たちには何の関係もない!」勢いよく手を振り払った瞬間、目の前がぐらりと揺れる。机に手をついてやっと立ち直り、目の奥の熱を押し殺す。「……家も、もうない」山田先輩が眉をひそめ、そっと私の頬に手の甲を当てた。その仕草に宏が警戒を露わにする。動き出そうとした宏より早く、山田先輩の指先が私の額に触れ、低く呟く。「熱がある。病院に行こう」「いらない」宏が強引に私を抱き寄せた。「こういう時は、家族が付き添うのが一番だ。お前が行ったらどう思われる?知らない奴は、南に夫がいないと思うだろう」「離して」息が詰まるような倦怠感で声が弱くなる。私は山田先輩を見つめた。「先輩、病院まで送ってもらえる?……それか来依を呼んできて」山田先輩の表情が和らぎ、すぐに頷く。「送るよ……」「社長……」秘書がためらいがちに割って入った。「このあとすぐ会議です。各部門の幹部にも招集をかけてあります」山田先輩はわずかに目を伏せ、声に冷気を帯びさせた。「明日に回せないか」秘書は一瞬私を見て、慌てて頷く。「……できます」「山田時雄、いらないと言っただろう」
Read more

第133話

病院へ向かう車の中、私は助手席にもたれ、ぼんやりと窓の外を眺めていた。出てくる前に見た宏の、あの沈痛で打ちひしがれた顔が頭をよぎり、胸の奥がレモン汁をぎゅっと搾られたようにきゅうっと痛む。ひどく酸っぱくて、息が詰まりそうだった。それでも――あれだけぶちまけたおかげで、胸の中のつかえは確かに軽くなっていた。そうだ。失ったのは、私だけの子じゃない。私と宏二人の子だ。どうして私だけが苦しまなきゃいけないの。あの人も同じように苦しめばいい。山田先輩は片手でハンドルを握り、もう一方の手で私の額に軽く触れる。「熱、かなり高いな」「平気。ちょっと風邪ひいただけ。点滴すれば治る」私はあっさり首を振った。もうお腹の中に子供はいない。ただの風邪や熱なら、薬を飲んで注射を打てば終わる。MSから一番近い病院は聖心病院。山田先輩は時間を無駄にしないよう病院を変えず、私も気にしなかった。大きな病院だ。わざとでない限り、誰かと鉢合わせなんてしないはず――そう思っていた。だが車を停め、ドアを開けた途端、院長が医師と看護師二人を伴って出迎えてきた。「奥様」院長は看護師に私を支えさせ、咳払いを一つして愛想よく言う。「社長からお電話をいただきましてね。何度も念を押されました。奥様は最近ご体調に特にご注意が必要で、しかも熱まである。決して診療をおろそかにするなと」最初は断ろうとしたが、考え直してうなずく。「わかりました」手間が省けるのもあるし、離婚届はまだ手元にない。江川家の資源を使って何が悪い。だが意外だったのは、院長がそのまま私をVIP病棟へ案内したことだった。「ここ、満室じゃなかったですか?」叔母さんの部屋でさえ、私がかなり苦労して確保したのに。院長は媚びるように笑う。「奥様こそがここの主人でいらっしゃいます。奥様がお望みなら、他の方が譲るのは当然です」――他の方?VIP病室は三部屋。入っているのは江川アナ、江川温子、それに叔母さん。この時期に叔母さんを出すはずがない。となれば、残るはあの二人……考えがまとまる前に、視線の先で江川アナの病室前に屈強な警備員が数人立ち、彼女を外に遮っていた。怒りで顔を歪めた彼女が、こちらに気づくなり声を張り上げる。「ふーん、私の部屋を奪っ
Read more

第134話

院長の後ろにいた医師が症状を聞くと、採血すらせずに薬を処方し、看護師に取りに行かせて点滴の準備を始めた。針を刺される瞬間、私は思わず身をすくめて手を引いてしまう。すると、不意にひんやりとした大きな手が視界を覆った。「大丈夫、もう刺さったよ」その声に少し安堵し、ふっと力が抜けた途端、針が静脈に入ってくる。手が離れたので、私は仰ぎ見るようにして山田先輩を見た。「先輩でも、人をだますんだね?」「善意の嘘だよ」彼は口元だけでやわらかく笑った。看護師に支えられてベッドに横になると、額にひんやりとした冷却シートを貼られた。すぐに楽になり、院長たちは先に病室を出て行った。山田先輩はベッド脇の椅子に腰を下ろし、外を指さしながら、少し迷うような、それでいて気遣うような声音で口を開いた。「さっきは……驚かせた?」「え?」一瞬きょとんとしたが、すぐに彼が先ほど江川アナに強く出たことを言っていると気づく。私は首を振った。「驚いたってほどじゃないよ。ただ……ちょっと意外だっただけ」「俺が怒るのが意外?」少し考えてから頷く。「うーん……そうでもないかな。いつも穏やかな先輩ばかり見てたからそう思っただけで。でも、人間だもの、怒るときがあって当然だよ」「……そうだな」彼の表情がふっと緩み、琥珀色の瞳がわずかに光を帯びる。口元もほんの少し上がった。「昔はあまり怒ることなんてなかったけど……それじゃ守りたい人を守れないって、あとで気づいた」「守りたい『女の子』ができたから?」冗談めかして笑うと、彼は目を細めてこちらを見つめた。「今はそうだな。でもあの子は子どもの頃、明るくて、ちょっとわがままなお姫様みたいで……むしろ俺のほうが守られてばかりだった。だから最初に守りたかったのは、実は母なんだ」「お母さんは山田家の奥様でしょ。誰がいじめたりするの?」思わず口にすると、彼はまつ毛を伏せ、口元にわずかな苦笑を浮かべた。「本来は……そうであるはずだった」「え?」声が小さく、熱でぼんやりした頭では聞き取れなかった。その時、外から来依の慌ただしい声が響いた。「南!」次の瞬間、勢いよくドアが開く。「どうしてここがわかったの?」彼女はまず私の病状を細かく確かめ、何ともないと知ってようやく安
Read more

第135話

手探りで暗闇の中、照明のスイッチを押す。ドアのほうに目を向けると、扉は閉じられていた。来依が閉めたのではない。彼女は今夜、私と同じ病院に泊まってくれている。ただ、私の睡眠を妨げて回復が遅くなるのを心配して、どうしてもリビングのソファで寝ると言い張った。とはいえ、もし私が夜中に気分が悪くなって呼んでも聞こえないと困るからと、ドアはずっと半開きのままだった。今は――明らかに誰かが入ってきたあとだ。……彼、なのだろうか。分からない。けれど、もうどうでもよかった。――翌朝、目を覚ますと、体もだいぶ楽になっていた。看護師が、二人分の栄養たっぷりの朝食と、果物、それにツバメの巣まで運んできた。実に豪華だ。来依が舌打ちする。「この病院、太っ腹じゃない」看護師は笑顔で答える。「患者さんに少しでも早く元気になってもらうためです。それに、このお部屋については、江川家の奥様のために特別に組んだ栄養プランなんですよ」そう言い終えると、体温を測ったりひと通りのチェックをしてくれた。「奥様、まだ少し熱がありますね。朝食を召し上がっていてください。財前教授をお呼びします」看護師が出て行くと、来依がじっと私を見て首をかしげる。「ほんとに離婚するつもり?」「もちろん」「じゃあ、この朝食……食べちゃってまずくない?」そう言いながら、来依は豪勢な料理に目を輝かせている。私は苦笑して言った。「離婚しても食べ物は無駄にしないよ。ほら、食べて」宏のこういうやり方には、もうとっくに慣れている。いつだって、鞭とアメを交互に出してくる。でも今の私は、もうその手には乗らない。朝食を終えたところで、土屋じいさんが数人の使用人を連れて入ってきた。高価な滋養品があっという間に客間の半分を埋め尽くす。土屋じいさんの刻まれた皺の奥に、どこか惜しむような色が浮かんでいた。「若奥様、お子さんのことは……聞きました。あまり気を落とさないでください。若奥様も若様もまだ若い。これからいくらでもお子さんを持つ機会はあります。まずはこれらで体を養ってください。旧宅にはまだたくさんありますから、退院したらしっかり体を整えて差し上げます」「土屋じいさん」彼はずっと祖父の側に仕えてきた人だ。だから私も敬意を抱いている。「私と宏
Read more

第136話

私は気を引き締めて口を開いた。「このことで遠慮しないで。離婚は私と彼の問題。でも、おじいさんはずっと私を大事にしてくれたから、あのまま訳も分からず逝ってしまうなんて嫌なんだ」そう念を押すと、土屋じいさんはついに決心したように、ポケットから透明な袋を取り出した。中には、小さな錠剤が一粒だけ入っている。――見覚えがありすぎる。おじいさんがいつもポケットに入れていた、あの救急薬だ。「これは、数日前に使用人が書斎を大掃除していたとき、机のカーペットの下から見つけたものです」受け取ってじっと見た瞬間、背筋に冷たいものが走る。鹿児島の空気は特別乾燥しているわけではない。もし長く床に落ちていたのなら、湿気を含んでいるはずだ。だが、この袋の中の薬は、まったく湿っていなかった。「旧宅で最後に大掃除をしたのはいつ?」思わず声が強くなる。「旦那様が亡くなる前日のことです」つまり、どう見ても薬が床に落ちたのは、おじいさんが亡くなったあの日だ。しかもその日、おじいさんが発作を起こしたのは、江川アナと二人きりで部屋にいたとき。――けれど、あの夜私が江川アナを問い詰めたとき、彼女はおじいさんが薬を飲もうとしたことなんて一言も口にしなかった。私と土屋じいさんは視線を交わし、互いの目に深い疑念を見る。「宏は知ってる?」「まだです」「まずは指紋鑑定に出してみましょう」少し考えて首を振る。「今の時点で彼に話しても意味がない。この程度じゃ、あの人の江川アナへの信頼は揺らがない。きっと、私が彼の大事な人を陥れようとしているって思うだけ」「若奥様……実は若様は、江川アナに決して――」土屋じいさんが何か言いかけたところで、私は静かに遮った。「どう思ってるかなんて関係ない。ただ、彼が江川アナをすごく大事にしてるのは事実でしょ」宏がアナをどういう意味で大事にしているのかは分からない。けれど、彼女が彼にとって誰よりも優先される存在だということは確かだ。それだけで十分だった。土屋じいさんの目が冷たく光り、声が鋭くなる。「安心してください。もし旦那様の死に彼女が関わっているなら……もっと惨めな最期を迎えることになります」その瞬間、土屋じいさんの姿に、おじいさんの面影を見た気がした。「それは信じてる」私は頷く
Read more

第137話

土屋じいさんは表情を引き締め、彼女を一瞥すると、重々しく鼻を鳴らした。「旦那様が亡くなって、まだ何日だ?年下のくせに、あの日、あの方が最期に残した言葉をもう忘れたのか。江川家の若奥様は、南しかいない!」低く響く声には怒気がこもっていた。「お前みたいな不孝者が江川家に入ろうなんて、おこがましい!」そう言いざま、彼女の足元に軽く唾を吐くと、今度は私に向き直り、恭しく言った。「若奥様、私はこれで失礼します。あなたも早く中へ。外のくだらない連中に絡まれて怪我でもしたらいけませんから」そう言い残し、使用人を従えて悠然と立ち去る。その背には、生前のおじいさんを彷彿とさせる威厳が漂っていた。「何よ、いきなり……!」思わぬ一喝にアナは面食らったように目を見開き、すぐさま冷笑を浮かべて私を睨む。「江川家って、年寄りから若いのまで、使用人にまであんたの肩持つようになったわけ?」「それ、単にあんたが嫌われてるだけじゃない?」皮肉を返すと、彼女は歯ぎしりした。そこへ来依が姿を現し、赤い唇を吊り上げて挑発する。「また来たの?まさか、私に言い負かされるのが癖になったんじゃないでしょうね。昨日帰ってからも、あのときの言葉を思い出してニヤニヤしてたとか?」「……あんた、ほんと性格悪い女!」言い返せずにアナはさらに奥歯を噛みしめ、「それに、あんたたちに用があったわけじゃないわ。私は母を見に来ただけ」「性格悪い?あんたよりはマシだと思うけど?さ、帰った帰った」来依はあっさりそう言い放ち、アナの青ざめた顔など気にも留めず、私の腕を取って病室に入っていった。小さな体で私をかばうその姿は、まるで雛を守る母鳥のようで、思わず笑ってしまった。「ねえ……気づいたけど、彼女を抑えられるのって、来依くらいじゃない?」「ああいう手合いには、ああいうタイプでやり返すのが一番」来依は茶色のウェーブヘアを肩に払って、小さな顔を誇らしげに上げた。しばらくして財前教授が回診に来て、薬を替え、点滴を続けてくれた。ベッドに横たわったまま、私は来依に声をかける。「……まだ仕事に行かないの?」時計はもうすぐ十時になろうとしていた。来依は鼻先を指でこすり、少しばつが悪そうに笑って言った。「言っても怒らないでよ?」「え?」「辞めた
Read more

第138話

「……」まさか叔父さんが、ここまで最低な人間だとは思わなかった。私は眉をひそめ、尋ねた。「叔父さん、カードの暗証番号まで知ってたの?」「……私、パスワードを覚えていられる自信がなくて……」うつむいた叔母さんの顔には、後悔の色がありありと浮かんでいた。「家の銀行カードと、同じ番号にしちゃったのよ」「……」「……」私も、来依も、言葉に詰まった。叔父さんは、金を騙し取ったり盗んだりするのが得意な、いわゆる老獪な人間だった。あの人がカードを手にした時点で、すぐに金を引き出しに行ったのは間違いない。今さら銀行に行ってカードを止めたところで、もう間に合わないだろう。だけど、それ以上に気になることがあった。「もしかして、またギャンブルやってる?」「……ええ」叔母さんは涙をぬぐいながら、悔しさを噛み殺すように言った。「実はね、あの人、ここ何年もずっとやめてなかったの。だから、南が毎月送ってくれるお金も、ちゃんとは伝えてなかった。……まさか、私の治療費まで奪っていくなんて、あのクソ野郎……!」「だったら、もう離婚すればいいじゃん!ギャンブルなんて底なし沼だよ!」来依が思わず声を荒げた。怒りが抑えきれない様子だった。「今回は……」叔母さんは私を見上げて、申し訳なさそうに小さく言った。「絶対に離婚するわ。もしもっと早く決断していれば、南だってあんなに長く、つらい思いをせずに済んだのに……」何が胸に引っかかったのか――両親が亡くなる前に、私に逃げ道を用意してくれていたことを思い出したからか。あるいは、あの苦しかった日々が脳裏に蘇ったのか。私は、目元にじんわりと涙をにじませた。「もう、全部過去のことだよ」私は鼻をすすりながらも、落ち着いた声で言った。「叔母さん、今だからちゃんと言っとくね。もし本気で離婚するって決めたなら、そのあとの治療費は私がなんとかする。あのとき、私を受け入れてくれたのは叔母さんだけだったから。でも、離婚しないって言うなら……ギャンブルなんて底なし沼だよ? そこに飛び込むなら、叔母さんひとりでやって。私はもう付き合えない。……言ってること、わかる?」叔母さんは恥ずかしそうに俯き、何度も小さくうなずいた。「わかる、わかってるわ。南、本当にたくさんのお金をあ
Read more

第139話

私は身を起こして、ベッドサイドのスイッチに手を伸ばした。部屋の灯りがパッと点いて、思わず息を呑んだ。そこにいたのは、これまで見たことのないほど憔悴した宏の姿だった。いつもは端正で気品ある彼の顎には無精髭が浮かび、目の下には深い隈ができている。何日もまともに眠っていないのだろう。全身から疲れと倦怠が滲み出ていた。江川家に何かあったのだろうか。彼をここまで追い詰めるようなことが。私は眉をひそめて言った。「わざわざ私を見に来るくらいなら、少しでも寝たほうがいいんじゃない?」彼は長い指でネクタイの結び目を引き下ろし、口元に苦笑を浮かべた。「……君が子どもを失った時の辛さ、少しだけ分かった気がする」私は手のひらをぎゅっと握りしめ、皮肉めいた笑みを浮かべた。「宏、別に感情を共有してほしいなんて思ってない。ただ、あなたが自分の手で最初の子どもを殺したってことを、一生忘れなければそれでいい」彼の黒い瞳に一瞬、痛みの色が走る。薄く開いた唇から、かすれた声が漏れた。「……そんなに、俺のこと憎んでるのか?」「憎んでるよ」私は迷いなく答えた。「あなたも、江川アナも、どっちも心の底から憎い。もし少しでも私や子どもに罪悪感があるなら、来月ちゃんと離婚して」「……分かった」彼は目を伏せたまま、小さく呟いた。「全部……君の言うとおりにする」その夜、私はなかなか熟睡できなかった。ようやく覚悟を決めたはずなのに、胸の奥に「こんなにすんなり終わるはずがない」という妙な予感があって、どうにも心がざわついていた。でも、翌朝――目を覚ました私に、一本の電話が届いた。「南、さすがだね。やっぱり期待を裏切らない」電話越しの山田先輩が、弾む声でそう言った。「え?」私は手にしていたフルーツフォークの動きを止めて、小首をかしげた。「先輩、朝からテンション高すぎない?」「じゃあもし、デザインコンテストの一位は南って言ったら?」山田先輩は、いたずらっぽく笑った。「……えっ、ほんとに!?」私は思わず立ち上がり、目をぱちくりさせた。信じられなかった。このところ、ずっと波乱ばかりで、自分が何位に入るかなんて考える余裕すらなかったのに。「もちろん本当だよ。俺、南のデザイン画を初めて見た時から、
Read more

第140話

来依の買い物欲は相変わらずすごくて、私を引っ張って店という店を見て回った。「やっと辞めたんだから、自分にご褒美くらいさせてよ。四年も馬車馬のように働いたんだから」そう言いながら、目を輝かせていた。ちょうど高級ブランドのブティックの前を通りかかった時、来依がふいに店内を指差した。「あれ、あの人……江川アナじゃない?」私はつられて視線を向ける。「うん、そうだね」何百万もするバッグを肩に当てて鏡で見ているところを見ると、どうやら買うつもりらしい。宏は、彼女に対して本当に太っ腹だ。私は特に興味もなく、来依の腕を引いて立ち去ろうとした。けれど、来依が目を細めて、いきなり私を柱の陰に引っ張り込んだ。「ちょ、なに?」私が怪訝な顔を向けると、来依はひそひそと驚いた声を出す。「……あんたの義父!」「義父?」「ほら、南の義父さんが、あの江川アナと一緒に買い物してる!」まるでスクープでも目撃したかのような顔つきだった。私は苦笑する。「別におかしくないでしょ。彼女、子どもの頃から義父の溺愛を一身に受けてたから」宏なんて、ろくに父親からの愛情をもらえなかったのに、その分ぜんぶ江川アナに注がれていた。来依は訝しげに眉をひそめながら、そっと顔を出して様子を伺い、すぐに引っ込めた。「……でもさ、あれ、腕組んでるよ? 継父と継娘で、あそこまでベタベタって、ちょっと珍しくない?」「まぁ、ある意味じゃ、本当の親子以上かもね」私は興味を失っていたし、江川家のことは、もうおじいさん以外どうでもよかった。「行こ」そう言って歩き出した矢先、まさかのタイミングで江川アナに呼び止められた。無視して通り過ぎようとしたが、彼女はぴったりと追いすがってきた。「退院したんだ?」「あなたに関係ないでしょ」つっけんどんに返すと、彼女はすぐに私の義父の方を振り向いて、甘えたような声を出した。「パパ~!見てよ、私が心配して声かけてあげたのに、あの態度!」来依は呆れたように白目をむく。私は彼女を後ろに下げ、義父がやってきて、いかにも年長者らしく口を開いた。「おまえ……宏と離婚するって聞いたぞ?」「ええ、来月には手続きします」私がそう答えると、義父の顔には隠しきれない喜色が浮かび、すぐに促してきた。「
Read more
PREV
1
...
1213141516
...
116
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status