All Chapters of 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて: Chapter 961 - Chapter 970

1055 Chapters

第961話

その言葉を聞いた瞬間、晴臣はカッとなって、佑くんのつるんとしたお腹にガブリと噛みついた。 笑いながら言う。 「じゃあやっぱりいらないな。そうすれば、もうちょっと長生きできそうだ」 佑くんはくすぐったそうにゲラゲラ笑った。 「晴臣おじさん、くすぐったいよ、助けて~」 「じゃあ俺の酸素チューブはもう抜かないか?」 「抜かないよ」 二人でじゃれ合っていると、突然ドアがバンと開いて、智哉が入ってきた。 床に転がっている二人を見て、すぐさま声を上げる。 「お前、俺の息子を床に寝かせたのか?」 晴臣は思わず睨み返した。 「何言ってやがる。お前の息子がやらかしたんだぞ、俺、溺れかけたんだよ」 そう言い終えるか終えないかで、佑くんが彼の口を手で塞ぎ、ぱちぱちと目を瞬かせた。 「晴臣おじさん、言ったこと守らないと、僕、嫌いになっちゃうよ」 智哉はそばまで歩いてきて、佑くんの服を確かめると、ひょいっと腕に抱き上げ、軽くお尻をポンと叩いた。 「昨夜、こっそり飲み物飲んだろ?」 犯行を突かれ、佑くんは黒い大きな瞳をぱちぱちさせながら、甘えた声で答えた。 「花音お姉ちゃんが飲みきれないって言うから、僕が代わりに手伝ったの。おばあちゃんが『食べ物を粗末にするのはだめ』って言ってたから、これは助けてあげただけなんだよ」 もっともらしい口ぶりに、智哉は呆れ笑いを漏らし、子どもの首筋に軽く口づけした。 「理屈をこねるのは大したもんだな。さすが弁護士の息子だ……よし、パパと一緒にお風呂入って、そのあとおばさんに会いに行こう」 「やったー!また王宮で遊べる!」 朝ごはんを終え、晴臣は花音を学校へ送り届け、智哉は佑くんを連れて王宮で麗美に会いに行った。 佑くんは今日はアイボリー色のミニスーツに黒い蝶ネクタイ姿。髪もきちんと後ろに撫でつけ、整髪料できらりと光っていた。 天使みたいに可愛らしい顔立ちと相まって、通りかかる人たちはついつい足を止めてしまう。 彼は堂々とパパの手を引き、たくさんの人々がいる王宮の中でも一切物怖じせず、ごく自然に挨拶して歩いていった。 本来なら荘厳で張り詰めた空気の場だが、突如現れたこの愛らしい子どもに、周囲はざわめいた。 「これが女王陛下の甥御さん?可愛すぎる、連れて帰りたいくら
Read more

第962話

王宮は女王の婿選びのために、特別に私的な宴を開いていた。 招かれたのは、皆M国の王侯貴族たち。 息子がいる家は連れてきて、息子がいない家はとりあえず様子を見にやってくる。 何せ女王と結ばれるとなれば、それはこの上ない栄誉であり、一生栄華を享受できるのだから。 麗美は智哉と話していたが、その時執事が近づき報告してきた。 「女王陛下、賓客は皆揃いました。そろそろご出場を」 「もう少し待って。まだ一人来てないわ」 ちょうどそう言い終えた時、晴臣が長い脚で堂々と入ってきた。 「待たなくていい。俺が来た」 麗美は佑くんの手を引いて前を歩き、智哉と晴臣がその後ろにつく。 四人が揃えば、誰もが振り返るほどの華やかさで、その場の賓客は思わず感嘆の声を漏らした。 この宴の進行役は王宮の四王子であり、麗美にとってはおじさんの世代。 四王子は麗美の隣に立ち、にこやかに言った。 「麗美、俺たちおじさんで何人か貴族の若者を選んできた。これから一人ずつ紹介するから、気に入った者がいれば教えてくれ」 麗美の顔に感情は浮かばない。こうなることは前から分かっていた。 早く来ようが遅く来ようが、結局同じこと。 どうせ政略結婚、本当の愛なんて出会えるはずもないと分かっている。 彼女は淡い微笑みを浮かべて唇を曲げた。 「おじさん、ご苦労さま。始めてください」 麗美は主座に腰を下ろし、佑くんを抱きかかえ、左右に智哉と晴臣が並ぶ。 まるで二人の護衛が控えているかのような光景だった。 智哉は今やZEROグループの社長であり、M国経済の大部分を握り、各名家とも深く関わっている。 一方、瀬名グループは医薬業界の頂点に立つ存在。 その両者が麗美を護っている今、彼女の前で無礼を働ける者など誰一人いない。 佑くんはお菓子を食べながら、黒いつぶらな瞳で次々と入ってくる王侯貴族を観察していた。 彼らは皆きちんと正装し、立ち居振る舞いも紳士的で誇り高い。 だが、麗美に自己紹介する時には、まるで自分の体毛の本数まで語りかねない勢いだった。 確かに気品ある者もいれば顔立ちの整った者もいた。 しかし麗美の心は微動だにしない。 魅力を感じないどころか、嫌悪感すら湧いてくる。 もし彼らと一生を共にするのなら、自分は永
Read more

第963話

彼女はまるで何年も前、バーで初めて玲央を見た時のような気持ちに戻ってしまった。 長い間凍りついていた心が、僅かに震えて動き出す。 彼女は男の顔をじっと見つめ、やがて男がゆっくりと歩み寄ってくるのを見守った。 深く腰を折り、温かな声で告げる。 「女王陛下、私はウィリアム家の末子、ウィリアム・ムアンです。兄たちのような才覚はございませんが、歌うことができます。そして何より、女王陛下と共に人生を楽しみたい。その機会を、私にくださいますか」 麗美の心臓はその言葉に鋭く刺されたように痛んだ。 それはかつての夢――愛する男と共に、穏やかな人生を楽しむこと。 なぜこの男の言葉は、彼女の心を正確に突くのか。 偶然か、それとも……計算か。 麗美はその顔を凝視し、低い声で問う。 「どうして仮面をつけているの?顔に何か欠点でもあるのかしら」 男は口元をわずかに弯めて笑った。 「女王に欺瞞があるなら、私は祖国で最も重い刑罰を受ける覚悟です。仮面をかけている理由はただ一つ……この顔は、女王陛下お一人のためだけに見せたいからです」 その説明は麗美の好奇心をさらに強く刺激した。 自分の心がすでに彼に揺さぶられているのを、麗美ははっきりと自覚していた。 彼の姿から、まるで玲央の影を重ねてしまう。 しかし断言できる――彼は玲央ではない。 ウィリアム家はM国の百年名門、玲央と関わるはずがないのだ。 麗美の感情が揺れ動くのを見て、智哉は彼女の手の甲を軽く叩き、低く言った。 「姉さん、この男が気になるなら、俺が素性を調べてくる」 麗美は一瞬も迷わず答えた。 「お願い」 四王子はすぐに身を屈め、言葉を添える。 「麗美、ウィリアム家は百年の名門だ。もし縁を結べば、我が王室にとって大きな助けになる。彼らは金鉱や石油をいくつも掌握している」 「分かっているわ。では、彼にしましょう」 四王子は笑みを浮かべ、宣言した。 「ムアン、女王陛下と踊っていただけますか」 場にいた誰もがその意味を悟った。 喜びの顔もあれば、肩を落とす顔もある。 ムアンは恭しく手を差し出した。 「女王陛下、ご一緒できて光栄です。どうぞ」 麗美は彼の手を取って舞踏の中央へ。音楽に合わせ、華やかに舞い始める。 男の黒曜石
Read more

第964話

麗美は男の仮面の顔をじっと見つめていた。 少しぼんやりしてしまう。 彼女はいつも、この冷たい仮面の下には灼けるような熱を秘めた瞳があると感じていた。 その瞳には、自分では理解できないほどの熱情が満ちている。 この眼差しが何を意味するか、麗美にはよく分かっていた。それは心の底からの好意。 もし彼と麗美が本当に初めて出会ったのだとしたら、一目惚れ以外に説明はつかない。でなければ、彼はずっと前から自分を想っていたことになる。 そう考えながら、麗美は感情を表に出さずに彼を見据え、声に疑念をにじませた。 「私たち、本当に初めて会うの?」 ムアンは小さく笑い、熱い吐息が麗美の頬をかすめた。 彼がそっと麗美の頬を撫で、低くかすれた声で囁く。 「気になるんだろ?だったら早く俺を好きになれよ。そしたら真実を教えてやる」 その触れ方に、麗美は少しも拒絶を感じなかった。 むしろ頬に電流のような痺れが走り、一瞬だけ呼吸すら止まってしまう。 十数秒後、彼女はふっと小さく笑った。 「これは政略結婚だわ。お互いに必要なものを取るだけで、愛なんてない……あなたもそこまで本気にならないで」 ムアンはポケットから一片の玉を取り出した。八卦の形をしたお守りだった。 彼が軽く割ると、それは二つの片に分かれた。 そしてその一つを麗美の首にかけ、耳元で囁く。 「これはお寺で祈願してもらった陰陽八卦の玉だ。君の一生の無事を守るだけじゃない。俺たちの縁も守ってくれるんだ。麗美……信じて、必ず幸せにしてあげる」 そう言って、彼は麗美の額にそっと口づけを落とした。 その品のある、抑えられた仕草に、麗美の胸の奥が不意に震えた。 心臓がまるで兎のように暴れ出す。 前にこんなふうに胸が乱れたのは、玲央と一緒にいた時だった。 長い年月を経て、すっかり忘れていた感覚に、彼女は戸惑いさえ覚えた。 玲央と別れてから、自分は二度と心を動かされないと思っていた。 愛なんてもう信じないはずだった。 だが目の前の男は、確かに彼女の心を揺さぶり、惹きつけている。 仮面の下の素顔を見たい――そんな期待すら生まれてしまう。 だがさすがに、もう少女の時代は過ぎている。 感情に任せて突っ走ることなどしない。 心の奥の動きを巧み
Read more

第965話

智哉がふっと笑った。 「俺の息子がすごいんじゃなくて、姉さんの反応がわかりやすいんだよ。姉さん、あの仮面の男を疑ってるのか?」麗美は曖昧に首を傾げた。 「そうね、どうしても誰かに似てる気がするの。ただ……多分本人じゃないと思う」「姉さんの安全のためにも、こっちで調べるつもりだったんだ。数日中に知らせるよ」「わかったわ。ねえ、今夜佑くんに私と一緒に寝てもらってもいい?」この言葉を聞いて、佑くんは小さな手を叩いて大はしゃぎした。 「いいよいいよ!おばちゃんと寝るの大好き。おばちゃんのところにはきれいなお姉さんがいっぱいだもん!一緒に遊べるでしょ」麗美は笑いながら彼のほっぺをつまんだ。 「こんな小さいのにもうきれいなお姉さんを追いかけるの?大きくなったらとんでもなくモテ男になるわね」佑くんはぱちぱちと大きな目を瞬かせて聞いた。 「モテ男ってなに?」「モテ男っていうのはね、多くの女の子と仲良くなりすぎちゃう人のことよ」すると佑くんはすぐに手をぶんぶん振った。 「おばちゃん、そんなこと言っちゃだめだよ!僕のお嫁さんが聞いたらヤキモチ妬くんだから!」その一言に麗美は堪えきれず笑った。 「お嫁さん?どこにいるの?おばちゃんに見せてよ」「今、僕のところに走って来てるとこなんだ。生まれて来たらおばちゃんに見せるね!」晴臣が笑いながら彼のお尻を軽く叩いた。 「君のお嫁さん、もう来ないってさ。君がおねしょするから嫌になって、空の上に飛んでっちゃったよ」この言葉に佑くんは目をむいて晴臣を睨んだ。 「晴臣おじさん!なんで奥さんがいないのか知ってる?それはね、おじさんが約束を守らない人だからだよ!僕に『言わない』って約束したのに、どうしてペラペラ言っちゃうの?僕に酸素チューブ抜かせたいの?」その言葉に場の全員が大笑いした。 晴臣は笑いながら彼のほっぺにキスした。 「わかったわかった。晴臣おじさんもう言わないから、酸素チューブ抜かないでね」佑くんは小さな腰に手を当てて、ふんっと鼻を鳴らす。 「ふん、これからの態度次第だね!」晴臣は彼の頭をくしゃっと撫で、優しい声で諭すように言った。 「明日な、晴臣おじさんがディズニーランドに連れてってやるよ。どうだ?」その言葉を聞いた途端、佑く
Read more

第966話

一週間後。 M国で女王の盛大な結婚式が宮殿で行われた。 複雑で長い儀式がようやく終わり、麗美はやっと自分の部屋で休めるようになった。 その時、佑くんが小さな足で駆け込み、手にスイーツの箱を抱えてやって来た。 「おばちゃん、美味しいもの持ってきたよ」 彼は麗美のそばまで走り寄り、小さなケーキを一つ取り出し、彼女に差し出した。 そして潤んだ大きな瞳で見上げながら言った。 「おばちゃん、早くちょっと食べないと、死んじゃうよ。おばちゃんが死んじゃったら、仮面おじさんのお嫁さんがいなくなっちゃうでしょ」 麗美はそのケーキを受け取り、口に入れ、笑みを浮かべて聞いた。 「これは、おばあちゃんが持ってこさせたの?」 佑くんは目をキラキラさせながら首を横に振った。 「違うよ、仮面おじさんだよ。おばちゃんが一日ほとんど食べてないから心配だって。だから僕に持ってあげてって。 それと、これも渡せって言われたんだ。おばちゃんにきっと必要になるって」 そう言ってポケットから薬の箱を取り出し、麗美に差し出した。 その箱を見た瞬間、麗美の心臓は何かに強く打たれたように震えた。 それは彼女が酒を飲んだ後によく服用していた胃薬だった。 玲央と別れたあと、酒で胃から出血したこともあり、酒を口にするたびに胃が痛んだ。 そのことを知っているのは、ごく近しい人だけ。ムアンが知るはずもない。 しかし、この人は、自分を想像以上に理解している――そう思わされる一瞬だった。 麗美はその薬の瓶を強く握りしめ、瞳の奥の感情が揺れ動いた。 ちょうどその時、高橋一家が部屋に入って来た。 奈津子は心配そうに彼女の手を取った。 「麗美……お母さんはね、あなたが苦労してるの見て、胸が痛いわ。高橋家のために自由を犠牲にして、愛も手放して、政略結婚を受け入れて……母親として辛くて仕方ない」 これが麗美の避けられない道だと分かっていても、母親としてはどうしても割り切れない。 あの悪魔を捕まえるためでなければ、この玉座に座っていたのは自分だった。 そうすれば、娘がこんな苦しみを味わうこともなかっただろう。 麗美は微笑みながら母を宥めた。 「お母さん、今日は私の結婚式なんだよ?泣かないで。政略結婚って言っても、あの人はあの人、私は私、
Read more

第967話

佑くんは数秒じっと彼を見つめたあと、こう言った。 「石井おじさんに義理のお父さんって呼んだときは、お祝い金をいっぱいくれたんだよ。だから、あなたもくれないと、呼ばないよ」 その言葉を聞いて、ムアンはふっと笑った。 すぐにポケットから大きなご祝儀袋を取り出し、佑くんに差し出しながら笑顔で尋ねた。 「これで呼んでくれるかな?」 佑くんは大きなご祝儀袋を手にすると、金銭欲に満ちた小さな目が、すぐに細くなった。「わぁ、いっぱい!石井おじさんのよりも多い!」 彼はムアンの首に腕を回し、甘えた声で言った。 「ありがとう、おじさん」 「うん。これからもよく遊びにおいで」 佑くんはお年玉を小さなリュックに詰め込み、黒い瞳をきらきらさせながら言った。 「もしおばちゃんと一緒にいさせてくれたら、もう一回呼んであげる」 その悪戯っぽい目に光るものを見て、ムアンは思わず笑ってしまった。 「今日は無理だよ。今日は俺と君のおばちゃんの新婚の夜だから」 「新婚の夜ってなに?」 「新郎と新婦が一緒に寝るってことさ」 佑くんは大きな目をぐるぐると動かし、それから智哉を見た。 「どうして僕、パパとママの新婚の夜を見なかったの?僕が小さいから隠したんでしょ?」 その言葉で家族全員が爆笑した。 智哉は彼を抱き上げ、お尻を軽く叩いた。 「その時君はまだママのお腹の中だ。さ、俺たちはもう行くぞ。おばさんとおじさんの邪魔しないようにな」 そう言って、意味深にムアンを見やりながら告げた。 「姉さんのこと、頼んだぞ」 ムアンは頷いた。 「心配しなくていい。必ず守る」 高橋一家が帰ると、部屋は一気に静まり返った。 広い部屋には、まるで二人の鼓動さえ聞こえるような空気が満ちていた。 ムアンはベッド際に歩み寄って膝をつき、麗美の足首を大きな手で掴んだ。 彼女は驚いてすぐに足を引っ込めた。 「ムアン、言ったでしょ。結婚はしても親密なことはしないって」 ムアンは小さく笑い、再び彼女の足首を握ってハイヒールを脱がせた。 すると足の指に二カ所、擦れて赤くなっている傷が見えた。彼はすぐに顔を近づけ、そっと息を吹きかけてから尋ねた。 「痛いか?」 「痛くないわ、慣れてるから」 ハイヒールを履く女性の
Read more

第968話

麗美はその言葉を聞いた瞬間、すぐに視線を伏せた。 ちょうど向かい合ったのは、ムアンの深く澄んだ眼差しだった。 その時、男の大きな手が彼女の耳の縁を優しく撫で、身を屈めて耳元に囁く。 その仕草で、元々色気を帯びた胸筋がさらに露わになる。 麗美はずっと思っていた。玲央との恋が終わって以来、もうどんな男にも心を動かされることはないと。 けれど、今こうしてムアンの胸筋を目にしただけで、鼓動は収まることなく跳ね続け、頬まで熱に焦がされていくようだった。 それでも彼女は涼しい顔を装い、横目でムアンを睨んで見せた。声色にも乱れはない。 「考えすぎだ。出て行ってください、お風呂に入るから」 ムアンは無理に引き止めもしなかった。ただ大きな手で彼女の頭を軽く撫で、「じゃあ、外で待ってる」と静かに言った。 麗美が浴室から出てきたのは、一時間後のことだった。 その頃にはムアンはすでに入浴も済ませ、寝間着に着替えてベッドに身を預けていた。 額に垂れる淡い栗色の髪が、半分ほど金色の仮面を覆い、冷たさを感じさせる仮面に、どこか柔らかな印象を添えている。 麗美が姿を現すと、ムアンはすぐさま立ち上がり、彼女を抱き上げてベッドへと運んだ。 まるで壊れ物を扱うようにそっと横たえた後、ベッド脇に膝をつき、用意していた軟膏を指先に取り、麗美の足指へと塗り広げていく。 ひんやりとした感触が足先から広がり、やがてその冷たさは痺れるような感覚に変わった。 その馴染み深い感触が、麗美の胸の奥を直撃する。 彼女はムアンの白くしなやかな指が、自分の足を優しく揉み解していく様子から目を離せず、堪えきれずに一瞬瞼を閉じた。 心の中で、自分を強く罵る。 いったい自分はどうしてしまったのか。 なぜ彼と玲央を重ねてしまうのか。 もしかして自分は、ムアンを玲央の代わりにしているから、その触れ方に抵抗を覚えないのだろうか。 麗美は思わず衣服の端を握りしめ、深呼吸で気持ちを整えようとした。 普段と変わらぬ口調で言う。 「夜もその仮面をつけたまま寝たら、苦しくないの?」 ムアンがふっと視線を上げ、唇の端にかすかな笑みを浮かべる。 「麗美、俺のことを気遣ってくれてるのか?」 「勘違いしないでください。ただ、外せないなら隣の部屋で寝た方が
Read more

第969話

両手で布団をぎゅっと握りしめる。 彼女の緊張を感じ取ったムアンは、顔を近づけて見つめた。 「無理しなくていいよ。俺は仮面を着けたまま寝られるから」 麗美は首を横に振った。 「大丈夫……少し時間が経てば慣れるから」 そう言いながら顔を布団に埋める。 けれど震える身体が、彼女の恐怖をはっきり暴いていた。 幼いころ、過ちを犯した彼女はニセの玲子に小さな真っ暗な部屋へと閉じ込められ、一夜を過ごしたことがある。 祖父に見つけられた時には、すでに意識を失っていた。 それは彼女の人生で、最も恐ろしい夜だった。 目の前には何もなく、手を伸ばしても何も触れられない。 ただただ広がる闇の中、自分ひとりだけ。 外から聞こえる些細な風の音さえ背筋を凍らせた。 その無力感に、彼女は少しずつ体力を削られ、ついには気を失った。 彼女の恐怖を悟ったムアンは、そっと抱き寄せ、額に口づけを落とした。 「麗美……怖がらないで。俺がずっとそばにいるから」 彼の体温、力強い心臓の鼓動が伝わってくる。 麗美の緊張は次第にほどけていき、両腕で思わずムアンの腰を抱きしめた。 熱を帯びた頬を胸に押し当てる。 その甘い仕草に、二人の心臓が一層速く打ち始める。 闇の中、視線が交わる。 何も見えないはずの麗美の胸に、なぜか不思議な安堵が満ちていった。 「もう平気……仮面を外していいよ」 彼女は小さくそう囁いた。 ムアンは彼女の手を取り、仮面へ導く。 「麗美の手で外して」低く囁く声はどこか誘惑の響きを帯びていた。 冷たい感触に触れ、麗美の胸がどきりと震える。 頭をよぎったのは――この男の素顔を明かりの下で見てみたい、ただそれだけだった。 彼女はゆっくりと仮面の留め具を解き、取り去る。 露わになったのは、端正な顔立ち。 強い視線が暗闇の向こうから突き刺さる。麗美は、彼の顔立ちが整っているのを想像ですら感じ取れるほどだった。 ムアンは彼女の心の内を見抜いたように、喉の奥で笑った。 「麗美は俺の顔を見たいんだろう?」 図星をつかれ、麗美は闇の中で彼を見据えた。 「違う。ただ気になっただけ。どうして仮面をつけるのか……もし顔に傷があっても、私は気にしない」 ムアンは彼女の手を取り、自分の頬
Read more

第970話

もう一方。 高橋家の人々は晴臣の家に戻ってきた。 奈津子の気分はまだ晴れない。そもそも娘が嫁いでいく時、一番寂しいのは母親だ。それに加え、麗美の今回の結婚はまさに政略結婚。 いまだに婿の顔すら見ていないのだから、無理もなかった。 ため息ばかりつく奈津子を見て、智哉がすぐに慰めた。 「お母さん、心配しないでください。ムアンのことは調べましたけど、この人は信頼できますし、姉さんに対しても本気です。きっと幸せになりますよ」 奈津子は安心したようにうなずいた。 「そうだといいけど……麗美に申し訳ない気持ちが強くて……」 征爾が少し不安そうに言った。 「ムアンが顔を見せないのって、まさか顔に欠点があるとかじゃないだろうな。それが一番心配なんだ」 「ないですよ。しかも、かなりのイケメンです。俺は本人に会ったことがあります。ただ、姉さんとの間にちょっと誤解があるから出にくいんです。それでも姉さんのためにたくさん苦労もしてましたよ。そんな男なら、きっと大事にしてくれます」 その言葉を聞き、ようやく皆も胸をなでおろした。 晴臣がすぐ口を開いた。 「もういいでしょう、兄さんを信用できないのか?一日疲れたでしょうから、早く寝てください。明日、帰国しますよね?佳奈も妊娠で一人家にいますし、危険ですよ」 佳奈はまだ六カ月ちょっとなのだが、双子ということもあってお腹はかなり大きい。 そのため安全を考え、麗美の結婚式には参加させなかったのだ。 晴臣にそう言われ、智哉は慌ててスマホを取り出した。 「佑くん、晴臣おじさんと先に寝て。パパとママはビデオ通話するから」 晴臣が即座に反対した。 「俺は嫌だ。どうせまたおねしょするだろ。今日、あいつ飲み物いっぱい飲んでたし」 佑くんはムッと唇を尖らせて言い返した。 「ふん、これは童子の尿だよ。飲んだら若返るんだ。あげてもいいけど、あげないんだもん」 晴臣は笑いながらその頭をわしゃわしゃ撫でた。 「じゃあ一度じいちゃんに飲ませてみろ。十八歳に戻れるかどうか」 征爾が豪快に笑った。 「お前、俺が飲んだことないと思ってるのか?あの子がまだ数カ月の頃、高い高いしてたら、いきなり顔に引っ掛けやがってな。その瞬間、俺は口開けてたから何口も飲んじまった。当時
Read more
PREV
1
...
9596979899
...
106
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status