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三十二話:霊を引き寄せる力

Author: 渡瀬藍兵
last update publish date: 2025-05-26 18:59:59

「赤い影の霊……」

 悠斗の喉が、小さく鳴った。

「はい。彼らは明確な敵意を抱いており、生きた人間や侵入者に危害を加えます」

 美琴の声がわずかに沈む。一瞬の間。何かを言い淀むような気配が、二人の間をよぎった。

 悠斗がそれを感じ取った瞬間、美琴は静かに口を開いた。

「先輩、本日、私が霊眼術の扱い方を教えようとした理由——心当たりはありますか?」

(美琴がわざわざこんな言い回しをするということは、きっと僕にとって見逃せない事情が隠されているはずだ……)

 頭痛に耐えながら思考を巡らせる。けれど答えは浮かばない。霧の中を手探りするように、考えが定まらなかった。

「えっと……その、もしよければ……教えてくれないかな」

「霊眼術の扱い方を教えようとした理由——それは、この術を発現した者が、霊を引き寄せてしまうからです」

 悠斗の表情が凍りついた。

「……え?」

 霊を引き寄せる。その言葉が、頭の中で何度もこだまする。

「……先輩は、これまで霊を避けて生きてこられました。それが今後は——霊に見つけられやすくなってしまうのです」

「恐らく、先輩の日常に支障が出るでしょう。だからこそ、少しでも対策を講じるために——こうして説明することにしたのです」

 美琴の声には、いつもの丁寧さに加え、申し訳なさがにじんでいた。

「ちょっと待って。霊眼術が霊を引き寄せるって……どういうこと?」

 声が普段より高い。動揺が、そのまま音になって出ていた。

「霊には、霊が見える人間の存在がぼんやりと分かるものなのです。はっきりとはしませんが、漠然とした感覚で察知できるんです」

 それは、悠斗自身も薄々感じていたことだった。こちらが見ている時、向こうもどこかでこちらを意識している——そんな、居心地の悪い感覚。

「ただ、それは曖昧な感覚にすぎません。ですが、霊眼術を持つ者は霊気を自然に纏うため、霊たちからは鮮明に映ってしまうのです」

 悠斗の背筋を、冷たいものが這い上がった。曖昧だったものが、鮮明になる。それは——これまで薄い壁一枚で保たれていた安全が、一夜にして剥がされたということではないか。

「だからこそ、霊は助けを求めて僕たちの元へと寄ってくる……ってことか」

「はい。ここからが霊眼術の本質なのですが——」

 美琴の声が、わずかに力を帯びた。

「霊眼術を使いこなせるようになれば、霊の残滓から記憶の一部を覗き見ることができます。さらに——霊に物理的な干渉が可能になるんです」

「……!?」

 悠斗の目が見開かれた。

「ぶ、物理的に干渉が可能だって!?」

 物理的に、干渉。その意味を噛み砕こうとした瞬間、ある光景が鮮やかに蘇った。

 美琴が、誠也の頭を撫でていた——あの瞬間。霊である彼に、確かに触れていた彼女の手。

「……待って、そういえば——」

「美琴が、誠也君の頭を撫でていた……! 霊である彼に、確かに触れていたんだ……!」

 生きた人間は霊に触れられない。けれど霊は、一方的に触れることができる。どれだけ手を伸ばしても届かない、理不尽な非対称。それがずっと、悠斗にとっての当たり前だった。

 霊眼術は——その理不尽を覆す力だったのだ。

「そう、私は確かに誠也君に触れていました。あの時、先輩は緊張状態で、そこまで気が回らなかったのでしょうね」

「……ちょっと整理させて」

 悠斗は額を押さえた。情報が一度に押し寄せてきて、頭痛と相まって思考がうまく回らない。​​​​​​​​​​​​​​​​

「霊眼術って、目が変化するだけの力だよね? それなのに、どうして霊に触れることができるようになるの? 目の力と、触れる力って……全然別物じゃない?」

「とても良い質問ですね」

 美琴の瞳に、教える者の真剣さが宿った。

「霊眼術——それは霊の残滓や記憶を読み取ることもできますが、本質は『霊の真の輪郭を視る力』なのです」

 悠斗は唇を結び、耳を傾けた。

「私たちが普段目にしている霊は、確かに輪郭も姿も見えています。ですが、その見え方は必ずしも正確ではないのです」

 美琴は言葉を選びながら続ける。

「霊の力の強弱によって、実際よりも大きく見えたり小さく見えたり……位置も、微妙にずれて見えることがあります。霊眼術を使えば、その歪みを取り払い、霊の真の輪郭を——正確な位置、正確な大きさで捉えることができるんです」

 悠斗の脳裏に、これまで見てきた霊たちの姿がよぎった。あの輪郭は——歪んでいたのか。自分が見ていたものは、本当の姿ではなかったのか。

「そして、正確に視えるということは——」

「正確に、触れることができるということなのです」

「っ……なるほど……」

 視ることと触れること。一見別物に思えた二つの力が、ひとつの根から伸びた枝だった。頭痛で霞む思考の中でも、その論理は鮮やかに腑に落ちた。

「……すみません。体調が優れないというのに、このような複雑で難解な話を、これほど長々とお話ししてしまいまして」

 美琴が深々と頭を下げた。

「……いや。美琴は分かりやすく教えてくれたよ」

 悠斗は小さく首を振った。頭痛は相変わらずだが、美琴の説明は驚くほど明瞭だった。

「違いますよ。先輩の理解力が高いのです」

 美琴の声に、わずかに誇らしげな色が混じる。

「ありがとう。とりあえず……今後の生活をどうするか、考えないと……」

 額を押さえながら呟いた、その時だった。

 屋上のフェンスの向こう側——下の方から、何かが這い上がってくる気配。

「……!」

 じり、じり、と。

 フェンスの下から、白く青ざめた人の手が現れた。爪を金網に食い込ませ、緩慢に、しかし確実に這い上がってくる。悠斗の背筋を氷の指がなぞり、視線がその手に縫い止められた。

「大丈夫ですよ」

 美琴の声が、凪いだ水面のように静かだった。

 彼女は迷いなくフェンスへと歩いていく。その足取りに、恐れの色はない。美琴がフェンスに近づいた瞬間、あの手は透明な水に溶けるように薄れ、やがて消えた。

「ひとまず、こちらの話は終わりました」

 美琴が静かに区切りを告げる。

「先輩、今回は霊眼術がどんな力なのか——その説明でした」

「……うん」

「ですが、霊眼術は実践を通して学ばなければ、うまく扱えるようにはならないでしょう」

 実践。つまり、霊と向き合うということだ。悠斗の胸がわずかに重くなる。

「……そうだね」

 短く答えたものの、その先に何が待っているのか、想像するだけで喉が渇いた。

「……このような提案はあまりしたくないのですが」

 美琴が一瞬、躊躇うように間を置いた。申し訳なさと、それでも伝えなければならないという意思が、その表情にせめぎ合っている。

「先輩——実践も兼ねて、もう一度風鳴トンネルへ私と一緒に行っていただけませんか?」

「……実践もかねて……か」

(今までの僕だったら、考えることもなかったことだ)

 霊が怖かった。見て見ぬふりを続けてきた。けれど——美琴と出会い、誠也と向き合ったあの日から、自分の中で何かが変わり始めていたことに、悠斗はようやく気づいた。

(今までなら、きっと断っていた。でも——)

 霊も苦しんでいるのだと、知ってしまった。ただ恐ろしいだけの存在ではないのだと。

 答えは、もう決まっていた。

「……わかった。もう一度、風鳴トンネルへ一緒に行こう」​​​​​​​​​​​​​​​​

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