All Chapters of Soul Link ─見習い聖女と最強戦士─: Chapter 11 - Chapter 20

116 Chapters

#10:熱に浮かされて

 振り下ろしの軌道の、内側へ。 「……見事な技だ」  炎の熱が、頬を炙る。 「だが——」  もう半歩。 「まだまだ、改良の余地があるな」  その瞬間。  時間が、止まった。  観客の目には、そう映ったはずだ。  頭上から落ちる炎の剣。それを真正面から受けようとする白銀の影。両者の距離は、もはや一足。グレンの剣が、振り抜かれる寸前。あと一拍——いや、半拍で、すべてが終わる。  その、半拍。  エレンの剣が、下から、すうと持ち上がった。  刃ではなかった。  切先でもなかった。  エレンの剣身の腹が、グレンの両手で握りしめられた剣の——柄頭、その真下を、下から打ち上げた。  たった、それだけだった。  パァン、と。  乾いた音が、闘技場の中央で、ひとつ、弾けた。  上から振り下ろす、グレンの全体重。  下から打ち上げる、エレンの一点突き。  ——力の方向が、真正面から、衝突した。  てこの支点が、ずれる。  握りこんだ指の、その僅かな隙間に、力の逃げ場が走る。  次の瞬間。  グレンの両の手のひらから——剣が、すっぽ抜けた。 「……んなッ!?」  間の抜けた声が、グレンの口から漏れる。  刀身は、彼の頭上を越えていた。  炎の柱が、ぐにゃりと歪み、空中で形を失う。刃に纏わりついていた魔力の輪郭が、夜空にぶちまけられた火の粉のように、ばらばらと宙へ霧散していく。  炎の熱が、急速に冷えていく。  観客の頬を撫でていた熱気が、ふっ、と消える。  太陽の光だけが、無防備に、闘技場へ戻ってきた。  グレンの両の手のひらは、もう、何も握っていなかった。 「勝負アリだ」  エレンの声が、その耳元で落ちた。 「楽しかったぞ」  返事をする時間は、なかった。  短く、鋭い風の音が、グレンの首の裏を切る。  エレンの手刀が、首筋の一点を、寸分の狂いなく打ち抜いていた。  力ではなく、角度。  角度ではなく、位置。  ただ、そこを叩けば人は意識を失う、その一点だけを、迷いなく。  膝が、抜ける。  視界が、傾ぐ。  最後にグレンが見たのは、頭上から落ちてくる、自分自身の剣の刀身だった。  意識は、そこで途絶えた。  観客の喉が、いっせいに詰まった。  誰も、声を上げられなかった。  頭上から振り
last updateLast Updated : 2025-05-19
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#11:日常に滲む影

 控え室を飛び出してからしばらくして、エレナは廊下の角を曲がったところでようやく足を緩めた。 「はぁ……はぁ……!」  胸が苦しい。喉の奥が熱を帯び、肺が追いつかないと訴えるように上下している。距離にすれば大したことはない。それなのに、決闘の余韻をまだ引きずった身体には、たったこれだけの駆け足さえ想像以上に堪えた。 『どうした、エレナ。大した距離じゃないだろう?』  身体の内側から響く声は、いつも通り涼しい顔をしていた。まるで今しがたの疾走など、散歩のついでだったとでも言いたげな口ぶりである。 「あ、あなたの走り方と、一緒にしないでぇ……!」  息も絶え絶えに抗議すると、エレンはわずかに思案するような間を置いた。 『ふむ。呼吸だ、エレナ。意識的に息を整えろ』 「急にそんなこと言われてできるわけないでしょお!?」  半ば涙声で言い返しながらも、エレナの脳裏には、どうしても先ほどの動きがちらついて離れなかった。  同じ身体のはずなのに、エレンが主導権を握っている間の自分は、まるで別の生き物のようだった。しなやかで、鋭くて、疲労という概念を最初から知らないかのように戦い続ける。踏み込みの深さも、体重の移し方も、剣を振るう軌道のひとつひとつが、あまりに自然で、あまりに滑らかで──とても、自分の身体の出来事とは思えなかった。  あれは本当に、自分と同じ器なのだろうか。  疑いにも似た感覚が、今さらになって胸の奥へ滲んでくる。 『だが、汗が凄いぞ。このまま信者の前に出ては、聖女の面目丸つぶれだ』 (それはそう……っ! どこかで汗を拭かないと……)  指摘はあまりにも的確だった。頬に張りついた前髪も、首筋を流れ落ちる汗の筋も、人前に立つには程遠い。エレナは乱れた呼吸のまま顔を上げ、廊下の先を見据えて進路を変えた。  向かうのは、聖堂にほど近い自邸である。身支度を整える時間は、まだぎりぎり残されている。手早くシャワーを浴びるくらいの余裕なら、きっとある。  そう算段がついた途端、重たかった足取りが、ほんの少しだけ軽くなった。  ✦ ━━━━━━━━━━━━━━ ✦ 「〜♫」  湯を浴びた瞬間、身体の芯に残っていた緊張が、ようやくほろほろと解けていくのがわかった。  熱い滴が火照った肌の上を滑り、首筋から鎖骨へ、そしてやわらかな胸のふくらみへ
last updateLast Updated : 2025-05-20
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#12:遠慮という名の罪

「カルロさん、どうされました?」  エレナは柔らかく声をかけながら、老人のもとへ歩み寄った。慌てさせないよう、その歩幅はいつもよりさらに穏やかだった。 「……その」  カルロと呼ばれた老人は、何かを言いかけて、そのまま深く俯いてしまった。皺に縁取られた唇が、言葉を選びあぐねるように小さく震えている。  その沈黙に、信者たちの視線が一斉にカルロへと集まった。 「ど、どうしました?」  最初に口火を切ったのは、先ほど悩みを打ち明けていた青年だった。自分の番が終わったばかりだからこそ、言い出せない苦しさがよくわかるのだろう。身を乗り出すようにして、気遣わしげに老人を見上げる。 「なにかあるんなら、この場で言っちゃいなさいよ?」  軽やかな声で背を押したのは、先ほどの女信者だ。からりとした物言いの裏に、確かな優しさが滲んでいる。 「そうだぞ。悩みってのはな、皆で解決するもんだ」  いかつい老信者までもが、太い腕を組んだまま、ぶっきらぼうに言葉を添えた。  それでも、カルロはなかなか顔を上げられない。 「しかし……私の問題で、皆さんの集会の場を壊す訳には……」  やっとのことで絞り出したその声は、かすかに掠れていた。月に一度の、皆が心待ちにしている集会──それを自分の事情で乱すことが、どうしても忍びないのだろう。曲がった背が、さらに小さく縮こまる。  その遠慮を、ふわりと押し返す声があった。 「何言ってんだい」  皺だらけの手で膝を軽く叩き、老婆信者が顔を上げる。 「集会ならまた出来るよ。あんたのその顔つきからして、よほど急ぎの用なんだろう?」  きっぱりとした、それでいてどこまでも温かい声だった。  カルロの肩が、びくりと小さく揺れる。 「……皆さんの言う通りです」  エレナは静かに引き取り、老人の傍らに膝を折った。目線を合わせるように、ほんの少し身をかがめる。 「こういった集まりの場は、私がまた、いつでも作りますから。──カルロさん、どうされたんですか?」  優しく、けれど逃げ道を与えないように、まっすぐ問いかける。  カルロは、ようやく顔を上げた。潤んだ瞳の奥に、深い怯えと、すがるような色が浮かんでいる。 「実は……先日、妻が薬草を取りに、森へ行ったんです」  震える声が、言葉を一つずつ拾い上げるようにして続く。 「
last updateLast Updated : 2025-05-22
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#13:針穴に糸を通すように

エレナは静かに寝台の脇へと膝をつき、ゆっくりと深呼吸をした。  胸の奥で、高鳴っていた鼓動を少しずつ宥めていく。吸って、吐いて、吸って、吐いて──最後の息を細く長く吐き切った時には、聖女見習いとしての研ぎ澄まされた集中だけが、彼女の中に静かに残されていた。  瞳を伏せ、両の手のひらをそっと妻の胸の上へかざす。  指先から柔らかな光が滲み、やがてそれは淡い黄金色の粒子となって、掌の中に集まっていった。 「──浄化の光」  凛とした詠唱が、薄暗い寝室に静かに落ちる。  その瞬間、エレナの手のひらから流れ出した聖なる魔力が、糸を紡ぐように、ゆるやかに妻の身体へと染み込んでいった。  ここからが、本番だ。  急性魔力中毒の治療は、ただ聖属性の光を浴びせれば済むような、単純なものではない。体内で暴れ回る異物の魔力を、自身の魔力でそっと包み込み、ひとつの塊へとまとめ上げ、内臓を傷つけることなく体外へと引きずり出す──その一連の過程を、針穴に糸を通すような精度で行わなければならない。  魔力が体の中に残れば、それが新たな核となって再び中毒を引き起こす。流し込みすぎれば、今度はエレナの魔力そのものが毒になる。引き抜く速度が遅ければ、命が間に合わない。速すぎれば、内側の組織が裂ける。  許される幅は、あまりにも狭い。  それはもはや治癒というより──繊細な外科手術だった。 (……落ち着いて。ゆっくり、でも、確実に)  エレナは瞼を閉じたまま、体内へと送り込んだ自分の魔力を、指先の感覚ひとつで追いかけていく。暗い水底を手探りで進むような感覚。血の流れを辿り、臓腑の輪郭をなぞり、その奥に潜む異質な蠢きを探る。  ──いる。 「見つけた……!」  エレナの唇から、小さな呟きが漏れた。  右の脇腹の奥、肝の近く。そこに、粘りつくような黒い濁りがわだかまっていた。蛇のようにとぐろを巻き、血の巡りに逆らって蠢いている。魔物の魔力。触れただけで弾けそうなほどに、危うく、棘々しい気配。  エレナは慎重に、自らの魔力でそれを包み込みにかかった。膜を張るように、花びらで蕾を守るように。決して押しつぶさず、決して逃さず。輪郭を確かめながら、一枚ずつ、光の薄衣を重ねていく。  ──失敗は、許されない。  傍らでカルロが、息をひそめるように
last updateLast Updated : 2025-05-22
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#14:風薙の傭兵

 |彼女《エレナ》の身体は、再び、コロッセオの中心に立っていた。  歓声が、四方から降り注ぐ。  ある一角からは、地鳴りのような野太い男たちの叫びが押し寄せていた。試合を待ちわびた荒い呼吸、勝敗を賭けた懐の重みが滲む、欲望めいた歓声だ。別の一角からは、悲鳴に似た高い嬌声が、幾重にも重なって舞い上がる。聖女の名を呼ぶ声、傭兵の異名を呼ぶ声、そのどちらもが熱に浮かされている。  そのさらに上を、子供の歓声が抜けていった。誰の名というよりも、ただ祭りの空気そのものに興奮した、無邪気で甲高い響き。  歓声の層は、いくつもの色を持っていた。  その色彩のすべてが、闘技場の中央へ、雨のように落ちてくる。  その渦の中で、エレンは一人の男と、向かい合っていた。 「初めまして、エレンさん」  声は、低く、よく通った。  高くはない。けれど重くもない。抑制の効いた響きの奥に、ほのかな艶のようなものを孕んだ――そんな声だった。 「先の戦いには、感銘を受けました」  シオンが、静かに頭を垂れる。  所作のひとつひとつに、無駄がない。けれど、ただ礼儀を体現しているだけの動きでもなかった。言葉に込められた温度は、外交辞令のそれを越えていた。本当に、心から、目の前の戦士に敬意を抱いている――そういう確かな響きだけが、その挨拶には乗っていた。 「……それはどうも」  エレンの返事は、短い。 「だが――」  言いかけた言葉が、半ばで止まった。  代わりに、紅の瞳が、静かに鋭さを増していく。  眼前に立つシオンの全身を、上から下まで――そして下から上まで――舐めるように視線が走った。礼を失するほどの不躾さではない。けれど、戦士が戦士を見るときの、あの隠しようのない目つき。  まず、立ち姿。  長身でしなやか。風に揺れるような、捉えどころのない佇まい。けれど、それは「弱い」ことの証ではなかった。むしろ逆だ。重心の置き方に、ほんの僅かなぐらつきもない。地面と身体の間に、見えない一本の糸がぴんと張られているような、そういう静けさだった。  次に、肉。  黒い装束の上からでも、その輪郭は隠しきれていなかった。肩から腕にかけて、無駄を削ぎ落とした筋線。動いていないときには気づきにくいが、一度視点を合わせれば、その密度はすぐに知れた。鍛え抜かれた、というよりも――磨き
last updateLast Updated : 2025-05-22
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#15:傭兵の奥の手

「シッ……! ハッ……!」  短く鋭い呼気が、空中で幾度も弾ける。  エレンの身体は、まだ地に落ちていなかった。  後方へ跳んだ、あの一瞬から。両足は一度も砂地を踏んでいない。落下するはずの身体を、シオンの連撃が下から、横から、斜めから、絶えず押し上げていた。  一撃を剣の腹で逃がせば、その反作用で半身が押し戻される。二撃目を捌けば、逸れた力が姿勢を立て直す。三撃目を弾けば、その反動が、次の滞空へと繋がっていく。  反撃ではない。  防御とも少し違う。  シオンが叩き込む力そのものを、エレンは足場にしていた。 「……っ!」  観客席のどよめきが、ひと際大きく膨れ上がる。  空中に浮いた戦士が、同じく空中を駆ける傭兵の連撃を、悠然と捌き続けている。重力に抗うための足場はない。地面もない。支えるものなど、どこにもない。  ただ、降り注ぐ打撃だけがある。  本来なら、身体は崩れる。姿勢は乱れる。無防備な腹か背を晒し、次の一撃で叩き落とされる。  そのはずだった。  だがエレンは、落ちない。  打たれるたび、弾くたび、逸らすたびに、むしろその身は空中で整っていく。シオンの攻撃が強ければ強いほど、エレンの身体は次の姿勢へ運ばれていく。  剣の角度。肩の逃がし方。腰の捻り。爪先の向き。  そのすべてが、相手の力を殺さず、散らさず、次の動きへと繋げるためだけに置かれていた。 「もう十分だろう」  エレンが、低く告げる。  次の瞬間。  重く畳まれたシオンの肘が、解けた。  風を圧し固めたトンファーが、唸りを上げて振り抜かれる。先ほどまでの連撃よりも、さらに一段重い。空気そのものを丸めて叩きつけるような一撃。  エレンの剣が、その軌道へ滑り込んだ。  受け止めない。  弾き返すこともしない。  ただ、刃の腹をほんの僅かに傾ける。触れた瞬間、トンファーの回転が剣面を走り、押し込まれた風の塊が横へ逃げた。  だが、逃がした先には、シオン自身の重心があった。  ガァン、と硬い音が空を裂く。 「……!?」  シオンの目が、大きく見開かれた。  風を踏むように安定していた身体が、初めて傾く。右肩が流れ、腰が遅れ、足の置き場が半拍だけ空白になる。  その半拍。  空を支配していたはずの傭兵から、足場が消えた。 「風を持たぬあな
last updateLast Updated : 2025-05-23
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#16:闘技場の熱狂、そして静寂

 攻防は、さらに密度を増していった。  シオンが踏み込めば拳が走り、足が刈り、背後からトンファーが回り込み、頭上からもう一本が落ちてくる。エレンはそれを剣一本で捌き、弾き、逸らし、ときには肩先を掠めるほどの距離で躱しながら、それでも半歩以上は下がらなかった。  どちらも譲らない。いや、譲れない。剣と拳、脚とトンファー、風と刃が闘技場の中央で交差し、弾け、軌道を変え、またぶつかる。どちらかが半拍でも遅れれば、その瞬間に均衡は砕ける――そういう薄い刃の上で、二人はなお加速していた。  先ほどまでの静けさは、もうどこにもない。  観客席は熱に呑まれていた。誰かが叫び、誰かが拳を突き上げ、立ち上がったまま席へ戻ることも忘れている。実況の声すら、その熱の中ではひとつの騒音に過ぎなかった。 「すごいっ!! あなたは、本当にっ!!」  シオンの声が、わずかに上ずる。  乱れているわけではない。息が切れているのでもない。ただそこには、抑えきれない熱が混じり始めていた。強敵と出会えたことへの昂ぶり。磨いてきた技を、余すところなく試せる歓喜。その二つを二本のトンファーに乗せて、シオンはさらに猛る。  右の拳がエレンのこめかみを狙い、剣の腹がそれを押し流す。空いた胴へ左の蹴りが滑り込み、エレンは肘を畳んで受ける。骨へ響く重さの直後、背後から飛んできたトンファーが首筋を刈り取る角度で迫り、エレンが身を沈めた頭上を、金属の風が唸りを残して通り過ぎた。  だが、その低い姿勢を待っていたように、もう一本のトンファーが地面すれすれから跳ね上がる。エレンは即座に剣を返し、噛み合った金属の間から白い火花が散った。 「ははっ……! はははっ……!」  シオンの笑い声が、風の唸りに混じる。 (こいつ……! ハイになってきているな……!)  エレンの紅い瞳が、迫る軌道を次々と拾っていく。 (だが、それは私にも言えること……)  受け流すだけでは間に合わない。いなすだけでは追いつかれる。躱すだけでは、次が詰まる。  だからエレンは、そこで一つ、選択を変えた。  飛来するトンファーに剣を合わせる。逃がさず、角度をずらさず、真正面から叩きつけた。  ガァンッ、と甲高い衝撃が鳴り響く。  弾かれたトンファーが軌道を崩す。だがシオンは即座に風を噴かせ、無理やりそれを引き戻した。戻
last updateLast Updated : 2025-05-23
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#17:至福の時間

 コロッセオの喧騒は、分厚い扉の向こうでまだ鳴っていた。  エレン専用に用意された選手控室は、外の熱とは切り離されたように静かだった。石壁に囲まれた簡素な部屋。壁際には水差しと布、替えの上着が置かれ、中央には木製の長椅子がひとつだけ据えられている。  そのベンチの上で、エレンは自分の手のひらを見つめていた。  開く。  握る。  また、開く。  細い指が、ゆっくりと形を変える。試合中、飛来する《風牙》を掴んだ手。シオンの猛攻を受け、弾き、押し返し、最後まで剣を離さなかった手。見た目に大きな傷はない。だが、指の動きには、ほんの僅かな硬さが残っていた。 『凄かったよ! エレン!』  胸の奥から、明るい声が弾む。 「……ああ」  エレンの返事は、短かった。 『どうしたの?』  その明るさが、少しだけ傾く。  エレンは手を握ったまま、しばらく黙っていた。やがて瞼を伏せ、静かに息を吐く。 「すまない。今回の戦いは、君の身体に無茶をさせてしまった」 『そ、そんな! 気にしないでよ!』  エレナの声が、慌てたように返ってくる。 「しかし……」  言葉はそこで途切れた。  エレンの指が、もう一度開く。掌の中心を見下ろす紅い瞳は、試合中のような鋭さを失ってはいなかった。ただ、その刃先はもう相手ではなく、自分自身に向いている。 (私は、楽しんでしまっていた)  あの高揚感。  何度崩しても、何度叩き伏せても、なお迫ってくる猛攻。風を操る傭兵の技量。叩きつければ叩き返され、奪えば奪い返そうと喰らいついてくる、あの執念。  心の底から。  エレンは、それを楽しんでいた。 『エレン』  今度の声は、少しだけ落ち着いていた。 『あの人は、相当強かったでしょ?』 「ああ、間違いなく」  迷いのない答えだった。 「それこそ、好敵手と言ってもいいほどに」 『あなたがそう呼べる人って、実際のところ、あまり居ないじゃない?』  エレナの声は、責めるものではなかった。むしろ、そっと隣に腰を下ろすような柔らかさで、エレンの沈黙に寄り添っている。 『だからそれは、彼がきっと本当に強かったってこと』 「……」 『そんな人と戦って、無事に勝利を収めちゃうんだもん。むしろ私は、あなたが誇らしいよ』  胸の奥で、ふわりと温度がほどける。  エレ
last updateLast Updated : 2025-05-24
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#18:決闘の挨拶

「初めまして。――エレンさん」  穏やかな声が、テーブルの脇へ静かに落ちた。  ランプの灯を背にして立つその影に、エレンはピザをひと口かじったまま視線を上げる。次の瞬間、その眉があからさまに寄った。 『食事の最中に声を掛けるとは、いい度胸じゃないか』  内側で低く唸る声に、エレナが慌てて取りなす。 『ま、まぁまぁ……!  それより、この人……どこかで――』  エレンは口元についたチーズを指先で軽く拭い、男を見据えた。深紅の瞳が、ゆるやかに細まる。 「何用だ。見ての通り、私は今、至福の時間を過ごしているのだが」  皿の上に積まれた切れ端を一瞥しながら告げる声には、隠す気もない不機嫌が滲んでいた。邪魔をするな――その意思が、そのまま形になったような声音だった。  だが、男は動じない。申し訳なさそうに軽く頭を下げると、静かな口調のまま言葉を継ぐ。 「すみません。長くお時間をいただくつもりはありませんので」  柔らかな物腰だった。丁寧で、角も立たない。にもかかわらず、その奥には揺るがぬ芯が通っている。 「俺はマギア王立研究所所属の、シイナ・フォン・ブラウンと申します。――たまたま、あなたのお姿を見かけたもので。つい、声をかけてしまいました」  エレンはピザを皿に戻し、椅子の背にもたれかかった。指を組み、その男を下から上へと一度だけなぞるように見る。  それで十分だった。観察は、もう終わっている。  研究員、と名乗った。だが――。 (……気配が濃いな)  立ち姿に無駄がない。肩の置き方、踵の向き、腕の重心。どれを取っても、「いつでも動ける」側の人間のそれだった。机に向かうだけで身につく姿勢ではない。 「ふむ。――だが、お前。本当に研究員か?」  エレンは鷹揚に問いかける。 「気配が、やけに研ぎ澄まされているように見えるが」 「あははっ」  シイナは軽く笑った。困ったように、けれどどこか嬉しそうでもある。懐から一枚の証を取り出し、エレンの前へそっと差し出した。王立研究所の紋章が、ランプの光を受けて鈍く光る。 「ええ。――れっきとした研究員ですよ」  エレンは証を一瞥し、鼻から短く息を抜いた。わずかに口角が上がる。 「……ほう」  指先で、こつりとテーブルを鳴らす。 「ところで、その研究員どのが、私に何の用だ?」  問いには
last updateLast Updated : 2025-05-24
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#19:月下、グラフは空を突き抜ける

ベルノ王国、首都ベルステラ。 夜は深く、街は静かに眠っていた。大通りに並ぶ石造りの家々は窓の灯を落とし、時折すれ違う夜警のランタンだけが、濡れた石畳をぽつりと照らしていく。空には細い月。 ——その街並みの一角に、ひときわ白く浮かび上がる建物があった。 白亜の塔。周囲の沈黙を拒むかのように、その窓という窓から青白い光が滲んでいる。灯は絶えない。深夜であろうと、未明であろうと、あの塔の中の時間だけは、いつも現在進行形だった。 塔の最上部に近い観測室。床一面に魔導回路が走り、壁際には大小のモニターがぎっしりと並んでいる。青白い光を映した画面の前で、白衣の研究員たちが忙しなく端末を叩いていた。——そのうちの一人が、ふいに椅子から跳ねるように立ち上がる。 「お、おい……っ! この数値!!」 声は裏返っていた。指差す先の画面には、一本のグラフ。——否、グラフ”だった”ものが映っていた。折れ線が勢いよく右肩を駆け上がり、そのまま画面の上端を突き抜け、もはや測定の範疇を外れている。 「な、なに……これ……」 隣の研究員が、呆然と呟いた。眼鏡の奥で瞳が揺れている。数値は、今なお伸び続けていた。 「所長!! ラヴィス所長!!」 叫ぶ声を受けて、観測室の奥からひとりの男がゆっくりと歩み出た。 白衣の裾を揺らし、細い指で眼鏡のブリッジを軽く押し上げる。所長——ラヴィス。声色には焦燥のかけらもなく、その瞳だけが静かに画面を捉えていた。 「……これはいけないね」 低く、けれど明瞭な声。 「周辺に、被害は?」 「い、今のところは……何事もないようです……っ!」 別の研究員が早口で告げる。ラヴィスはわずかに顎を引き、数値の流れを一通りなぞった。指先がモニターの端を軽く叩く。思考の、音だった。 「……ふむ」 眼鏡のレンズに、青白い光が走る。 「だが、この魔力数値は尋常じゃない。——それも、なぜ今、このタイミングで」 独り言のような呟きに、室内の空気が一段と張り詰めた。若い研究員のひとりが、喉を鳴らして口を開く。 「ここって……禁足地ですよね……? ま、まさか——」 言葉を最後まで紡ぐことは、できなかった。 ラヴィスは首を振る。断じるというより、可能性をひとつ棚に上げる、という仕草だった。 「いや、万象神の復活はあり得ない」 静かに、けれどきっぱりと。
last updateLast Updated : 2025-05-25
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