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#15:傭兵の奥の手

Author: 渡瀬藍兵
last update publish date: 2025-05-23 19:00:39

「シッ……! ハッ……!」

 短く鋭い呼気が、空中で幾度も弾ける。

 エレンの身体は、まだ地に落ちていなかった。

 後方へ跳んだ、あの一瞬から。両足は一度も砂地を踏んでいない。落下するはずの身体を、シオンの連撃が下から、横から、斜めから、絶えず押し上げていた。

 一撃を剣の腹で逃がせば、その反作用で半身が押し戻される。二撃目を捌けば、逸れた力が姿勢を立て直す。三撃目を弾けば、その反動が、次の滞空へと繋がっていく。

 反撃ではない。

 防御とも少し違う。

 シオンが叩き込む力そのものを、エレンは足場にしていた。

「……っ!」

 観客席のどよめきが、ひと際大きく膨れ上がる。

 空中に浮いた戦士が、同じく空中を駆ける傭兵の連撃を、悠然と捌き続けている。重力に抗うための足場はない。地面もない。支えるものなど、どこにもない。

 ただ、降り注ぐ打撃だけがある。

 本来なら、身体は崩れる。姿勢は乱れる。無防備な腹か背を晒し、次の一撃で叩き落とされる。

 そのはずだった。

 だがエレンは、落ちない。

 打たれるたび、弾くたび、逸らすたびに、むしろその身は空中で整っていく。シオンの攻撃が強ければ強いほど、エレンの身体は次の姿勢へ運ばれていく。

 剣の角度。肩の逃がし方。腰の捻り。爪先の向き。

 そのすべてが、相手の力を殺さず、散らさず、次の動きへと繋げるためだけに置かれていた。

「もう十分だろう」

 エレンが、低く告げる。

 次の瞬間。

 重く畳まれたシオンの肘が、解けた。

 風を圧し固めたトンファーが、唸りを上げて振り抜かれる。先ほどまでの連撃よりも、さらに一段重い。空気そのものを丸めて叩きつけるような一撃。

 エレンの剣が、その軌道へ滑り込んだ。

 受け止めない。

 弾き返すこともしない。

 ただ、刃の腹をほんの僅かに傾ける。触れた瞬間、トンファーの回転が剣面を走り、押し込まれた風の塊が横へ逃げた。

 だが、逃がした先には、シオン自身の重心があった。

 ガァン、と硬い音が空を裂く。

「……!?」

 シオンの目が、大きく見開かれた。

 風を踏むように安定していた身体が、初めて傾く。右肩が流れ、腰が遅れ、足の置き場が半拍だけ空白になる。

 その半拍。

 空を支配していたはずの傭兵から、足場が消えた。

「風を持たぬあなたが、空で私を崩す……!?」

 シオンの声に、初めて鋭い揺らぎが混じった。

 風属性の接続者にとって、空は本来、奪われる場所ではない。

 風を生み、風を蹴り、風を裂き、風に乗る。高低差も、距離も、足場の有無も、彼らにとっては戦場を広げるための条件でしかなかった。地を蹴る者が二次元で戦うのなら、風を扱う者は三次元で戦う。頭上から、背後から、死角から。空間そのものを味方に変えることが、風属性の明確な優位だった。

 だがシオンは、ただ風に乗るだけの戦士ではない。

 風刃を飛ばすだけでもない。

 彼の風は、攻撃の形を途中で変える。

 振り抜いたはずのトンファーが、風の圧で軌道を曲げる。横薙ぎだった一撃が、途中で斜めへ沈む。沈んだはずの蹴りが、次の瞬間には浮き上がる。打撃の終点が、いつまでも終点にならない。

 風が、軌道を裏切る。

 だからこそ、シオンの攻撃は読みにくい。

 腕の動きだけを見ても足りない。武器の向きだけを追っても遅い。身体の流れ、風の巻き方、魔力の圧、呼吸、重心。そのすべてを同時に拾わなければ、次の一撃がどこへ来るのか分からない。

 空中では、なおさらだ。

 地面に足を置く者は、踏み込みで嘘をつく。風を使う者は、空間そのもので嘘をつく。

 シオンは、その嘘が抜群に上手かった。

 だが。

 嘘には、嘘をつくための手順がある。

 軌道を変えるなら、風を噛ませる瞬間がいる。打撃の重さを変えるなら、魔力を圧し固める間がいる。宙で方向を変えるなら、身体のどこかに必ず、次の動きのための支点が生まれる。

 エレンは、そのすべてを見ていた。

 真正面から浴び続けながら。

 押されているように見える、その最中に。

 押されているように見える、その最中に。

 エレンの片足が、空中で小さく畳まれた。

 足場はない。踏み込む地面もない。にもかかわらず、その動きには一切の曖昧さがなかった。シオンの重い一撃を弾いた反動が、エレンの腰を回し、肩を流し、次の一手に必要な角度だけを、ぴたりと作っていた。

 シオンの身体が、半拍、宙で崩れる。

 その隙間へ。

 エレンの脚が、鞭のように走った。

「――っ!」

 胴へ、踵が深く叩き込まれる。

 鈍い音が、歓声の底を割った。

「うっ……!!」

 シオンの身体が、弾かれた矢のように落ちる。

 風を纏う傭兵が、空から墜ちる。その光景だけで、観客席の熱が一瞬、形を失った。叫びかけた声が喉の奥で詰まり、どよめきだけが砂を擦るように広がっていく。

 だが、シオンは地に叩きつけられなかった。

 闘技場の床へ背中が触れる、その寸前。

 彼の背後で、風が爆ぜた。

 見えない噴流が砂を円形に押し広げ、黒い装束を下から支える。落下の勢いを殺しきれず、シオンの身体はわずかに揺らいだ。それでも、床までは届かない。地面から指一本ぶんほどの高さで、ぴたりと留まる。

 さすがだった。

 崩され、蹴り落とされ、なお反射だけで風を噴かせる。空を戦場とする者の意地が、ぎりぎりのところで墜落を拒んでいた。

 けれど。

 その眼前に、もうエレンがいた。

「――」

 シオンの瞳が、息を忘れたように開かれる。

 白銀の髪が、落ちる影の中で冷たく揺れていた。深紅の瞳は、歓声も、砂塵も、相手の美貌も見ていない。ただ一点。獲物の逃げ道だけを、静かに塞いでいる。

 少女の顔でありながら、そこに柔らかさはなかった。

 薄く開いた唇。感情を削ぎ落とした横顔。氷を磨いた刃のような、温度のない眼差し。

 それは、戦う者の目ではない。

 すでに仕留めると決めた、狩人の目だった。

「しま――」

 シオンの言葉は、最後まで形にならなかった。

 エレンの手が伸びる。

 細い指が、黒髪ごとシオンの頭部を掴んだ。力任せではない。逃げようとする角度を先に潰し、風を噴かせるための首の逃げ道を封じ、身体の軸だけを床へ向ける。

 そして、そのまま。

 叩きつけた。

「が、ぁあッ……!!」

 轟音。

 闘技場の床が鳴り、砂と砕けた石片が輪になって跳ね上がる。シオンの身体が床に沈み、遅れて押し潰された風が四方へ弾けた。

 観客席の歓声が、消えた。

 ほんの一瞬だけ、巨大なコロッセオ全体が息を呑む。

 その中心で、エレンだけが静かにシオンを見下ろしていた。

「立て」

 低く、短い声が落ちた。

 砂埃の向こうで、シオンの指が床を掴む。叩きつけられた衝撃は、まだ闘技場の床に細かな亀裂として残っていた。それでも黒い装束の傭兵は、乱れた髪の隙間から紅い瞳を見上げ、ゆっくりと片膝を立てる。

「お前は言ったな。この程度ではないだろう、と」

 エレンの剣先が、わずかに下がる。

 構えを解いたわけではない。ただ、次の動きに移るための余白を置いただけだった。

「その言葉、しっかりそのまま返してやる」

 観客席は、まだ完全には声を取り戻していなかった。

 風を操る傭兵が、空中戦で堕とされた。その事実が、熱に浮かされていた観客たちの喉を、一瞬だけ塞いでいた。

 その静けさの中心で、エレンはなおも言葉を重ねる。

「お前は、この程度なのか?」

 シオンが、立ち上がる。

 口元から零れた血を、袖口で軽く拭う。その所作は、叩き伏せられた直後のものとは思えないほど静かだった。けれど、黒髪の下で覗く目だけは、先ほどまでと違う色を帯びている。

「……なんて人だ」

 シオンは小さく息を吐き、わずかに目を細めた。

「空中は、私の最も得意とする戦場です。ですがあなたは風を持たぬ身でありながら、あまつさえ私を堕とすとは」

「……無駄口はいい」

 にべもない一言だった。

 シオンの唇が、薄く笑みの形を作る。

「ははっ……釣れないですね」

 その声は穏やかだった。穏やかなまま、底のほうで、刃を研ぐ音だけが混じっている。

「しかし、ええ。私も無駄口は好みではありません」

 シオンが、両手のトンファーを構え直した。

 ――かに見えた。

「本気で、行きますよ」

 その言葉と同時に、シオンは両手を開いた。

 トンファーが、手から離れる。

「……!」

 エレンの紅い瞳が、わずかに鋭さを増した。

 落ちるはずの二本の武器は、床へ向かわなかった。シオンの左右で、ふわりと浮かぶ。見えない糸に吊られたように、ではない。風が絡みつき、押し上げ、支え、刃のない双翼のように空間を滑り始める。

 二本のトンファーが、シオンの周囲を巡る。

 円を描き、角度を変え、速度を変え、時折かすかな唸りだけを残して軌道を消す。握られていた時よりも、むしろ自由だった。

(厄介だな。奴の真骨頂は……)

 思考が、最後まで形になるより早く。

 シオンの姿が掻き消えた。

 風が、爆ぜる。

 先ほどまでの滑るような加速ではない。床を蹴ったというより、空間から弾き出されたような突進。距離が潰れる。音が遅れる。黒い影が、エレンの頭上へ回り込む。

 振り下ろされたのは、拳だった。

 トンファーではない。

 素手。

 だが、軽いはずがなかった。

 拳に巻きついた風が、打撃の直前で一点に凝縮される。エレンが横へ身を逃がした瞬間、拳は床を叩いた。

 轟、と闘技場の砂地が沈む。

 砕けた石片が跳ね、風圧が円形に広がった。床を打ち砕いたその腕は、しかし止まらない。沈んだ拳を支点に、シオンの身体がしなやかに反転する。長い脚が、低い軌道でエレンの足元を刈りにきた。

 エレンは跳ぶ。

 その足先を、風を纏ったトンファーが追っていた。

 横から一本。

 背後から、もう一本。

 四肢による攻撃を掻い潜れば、その隙間を埋めるようにトンファーが飛来する。拳を避ければ、横殴りの一撃。蹴りを捌けば、背後から回り込む打撃。武器を弾けば、その瞬間にシオン本人が踏み込んでくる。

 人と武器が、分かれて動いている。

 それだけではない。

 別々に動いているはずの三つの攻撃が、まるでひとつの身体のように繋がっていた。

 シオンの拳が空を切る。

 その空振りを、右のトンファーが埋める。

 エレンが剣で弾く。

 弾いた角度の死角から、左のトンファーが滑り込む。

 それを半身で躱したところへ、シオンの膝が跳ね上がった。

「ちっ……!」

 エレンの剣が、白銀の軌跡を引く。

 飛来したトンファーを弾き、返す刃でシオンの拳の軌道を逸らす。さらに身体を沈めて蹴りを避ける。だが、沈んだその頭上へ、先ほど弾いたはずのトンファーが戻ってきていた。

 剣を返す。

 間に合う。

 金属音が鳴った。

 だが、防いだ一瞬が、また次の隙になる。

 シオン本人の動きに隙はある。拳を振れば肩が開く。蹴りを出せば軸足が残る。風で加速すれば、その直後にほんの僅かな硬直が生まれる。

 普通なら、そこを斬れる。

 普通なら、そこへ踏み込める。

 だが、その隙を、二本のトンファーが正確に潰していた。

 飛ぶ武器が盾になり、牽制になり、追撃になり、時にはシオン自身の体勢を押し戻す支点にすらなる。握られていないからこそ、軌道に腕の都合がない。関節も、肩も、肘も、踏み込みも要らない。

 風だけが、それを動かしている。

(……っ! 厄介極まりないな……!)

 エレンの剣が、また一本を弾く。

 弾いた瞬間、もう一本が視界の端で鋭く跳ねた。

(隙がない。いや、正確にはある。だが、それをあのトンファーが見事に潰している)

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