All Chapters of Soul Link ─見習い聖女と最強戦士─: Chapter 31 - Chapter 40

43 Chapters

第30話 :聖女の使命

「まずは……一人ずつ、私が診ます」 私は静かにそう宣言し、ゆっくりと村人たちに視線を送った。衣服は擦り切れ、顔色も真っ青。今にも倒れてしまいそうな人が、そこかしこにいる。 「ゴホッ、ゴホッ……!」 苦しげな咳が響いたかと思えば、その口元から血が滲み出るのが見えた。 (これは……本当に急がなきゃ) 「ミストさん、シイナさん。お手伝いをお願いします。村人の方々を、私のもとへ一人ずつ誘導してください!」 ふたりはすぐに頷き、動き出してくれた。私は続けて、シオンさんとグレンさんの方を向く。 「シオンさん。お肉とミルク……それからバターと小麦粉を、近くの町で買ってきていただけますか?」 「分かりました」 すぐさま風の魔力をまとって飛び立とうとする彼を、私は慌てて呼び止めた。 「ちょ、ちょっと待ってください!」 急いで自分の財布を差し出す。 「これは……私のわがままでやることなんです。こっちの財布に入っているリヴィアを使ってください」 「……分かりました」 シオンさんは穏やかに頷いて、そのまま風に乗って空へと舞い上がった。 次に私は、グレンさんの方へ振り向く。 「グレンさん。私が祈っている間に木を切ってきてください。村人たち、呪いの影響で体温が下がっているみたいなんです。村の中央で、大きな焚き火を起こしてあげてほしいんです」 「おう! 任せろ!」 力強くそう答えて、グレンさんは勢いよく走り出していった。 ──さあ、次は私の番。 「では、これより浄化に入ります」 私は、最初に来たひとりの男性の手をそっと取った。 「《聖なる光よ、我らを清め給え》」 聖語の祈りとともに、聖属性の浄化魔法を行使する。この人の苦しみが、少しでも軽くなるように──そう願いを込めて。 その瞬間、柔らかな黄金の光が彼の全身を優しく包み込んだ。 けれど── (っ…!この呪い…強い…!すごく濃い……!) 光だけでは祓いきれないほどの穢れが、体の芯にまで深く染み込んでいる。私は祈りの力を強め、さらに深く、内側へと意識を集中させた。 (お願い……届いて……!) 願いを込め続けると、やがて呪いの瘴気がすーっと薄れていくのが感じられた。 「あ、あれ……体が、楽に……」 私はその手を離さず、穏やかに、でも確かな祈りを続ける。やがて、光が静かに収まり、彼の顔色は見
last updateLast Updated : 2025-06-09
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第31話:認められた者が聖女

「うっ……」 (どれくらい……寝てしまっていたんだろう) まぶたの奥がじんわりと重くて、体の芯に心地よいだるさが残っていた。窓の向こうに、うっすらと朝の光が差している。まだ夜の静けさが、わずかに空気に漂っている時間だ。 (あれ……そういえば私、椅子で寝てたよね……?) でも今、私は簡素なベッドの布団の上で眠っている。誰かが、丁寧に運んでくれたんだ。 (……目が覚めたか、エレナ) エレンの声が、頭の中にふわりと響いた。 (あっ、おはよう……ごめん、私……どれくらい寝てたの?) (ざっと、一日半ほどだ) 「えっ!?」 思わず声が漏れた。 (……余程疲れたんだろう。無理もない。あの規模の呪いだからな) (そっか……そんなに寝ちゃってたんだね……) (ああ。だが、エレナ──君は本当によくやった) (……えっ?) 不意にかけられたその言葉に、心がぽかんとする。嬉しくて、でも照れくさくて、うまく返せない。 (あの呪いを祓った実績……君は、もう“聖女”と呼ばれるに足る存在だ) (そ、そんな……! 私なんて、まだまだだよ!) (ふふ。君がどう思おうと──助けられた人々は、もう君を“聖女様”と呼ぶだろう。私は……君のことが、誇らしいよ) エレンが、いつもよりずっと、あたたかな言葉をくれる。胸の奥が、じんわりと熱くなった。 (さあ、エレナ。自分の目で見てごらん。君が成し遂げたことを) (……うん、分かった) 私は、少し重たい体を起こして、扉の前へと歩き出した。 そして──キィ……と小さな音とともに、扉を開ける。 目の前に広がっていたのは──焚き火の炎に照らされた、あたたかな光の世界だった。 子どもたちが笑いながら走り回り、おじいさんやおばあさんたちは火のそばでお茶を啜っている。若者たちは焚き火を囲んで、手を叩きながら踊っていた。 平和と、笑顔と、あたたかさに満ちた光景。 その中で、誰よりも先に私を見つけたのは── 「おう!! エレナ!! 目が覚めたか!」 グレンさんだった。 「すみません……寝すぎてしまったみたいで……」 「気にすんなって。これはお前が作った光景だ。……誇れよ?」 言われて、私は思わず彼の顔をまっすぐ見つめてしまった。 「おはようございます」 今度は、シオンさんがゆっくりと歩いてくる。「体の具合は?」
last updateLast Updated : 2025-06-09
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第32話:ミルサーレ村

夜の湿り気を吸った土が陽の光に温められ、生命力に満ちた若草の匂いが風に運ばれてくる。昨日までの重苦しい沈黙が嘘のように、世界は澄み渡った音色を奏でていた。 私たちはようやく、次なる目的地――メモリスへ向かう準備を整えていた。 「そういえば……まだ、この村の名前を伺っていませんでした」 私は村長さんへと歩み寄り、そっと微笑みながら尋ねた。 “呪われた村”と呼んできたけれど、この村が背負ってきた痛みを、その一言で終わらせてしまうのはなんだか寂しい。この場所が取り戻した“本当の名前”を、ちゃんと私の心に刻んでおきたかったんだ。 「……! おお、この村はミルサーレ村じゃ。昔は、上等なミルクが名物でのう……」 ミルサーレ村。 その優しい響きに、かつてこの痩せた土地に広がっていたであろう、穏やかで牧歌的な風景が目に浮かぶようだった。 「大丈夫ですよ。皆さんは呪いに打ち勝ったんですもの。きっとまた、甘いミルクの香りがする素敵な村に戻れます」 私の言葉に、村長さんは深く刻まれた皺の奥の瞳をわずかに潤ませ、何度も、何度も静かに頷いてくれた。 「では……皆さん、お元気で」 私たちがそう告げて歩き出そうとした、まさにその時だった。 「ちょっと待ったァ!!」 村の後方から、やけにけたたましい声が響き渡る。 そこにいたのは、かつて私たちを襲おうとした元盗賊の六人組。なぜか、お世辞にも立派とは言えない、かなり不格好な馬車を引いている。 「はぁ……はぁ……間に合ったぁ……!」 「ほらよ! あんたらにゃ迷惑かけたからな! 昨日の晩から村の近くで一番速そうな馬、捕まえてきたぜ!」 「馬車もな……あり合わせで急ごしらえしたから、正直、乗り心地は保証できねぇけど……!」 彼らは盛大に息を切らしながらも、照れ臭さと誇らしさがごちゃ混ぜになった、まるで悪戯が成功した少年のような顔で笑っていた。 「マジか! サンキュー!!」 一番に反応したグレンさんが、満面の笑みで馬車へ豪快に飛び乗る。 「せっかくだ。彼らの厚意に甘えよう」 シイナさんが私たちを振り返り、静かに促した。私たちは一人ずつ馬車に乗り込み、ぎしぎしと鳴る座席に腰を下ろす。 「んじゃ、行くぜぇ! きっかり30分でメモリスに着けてやらぁ!」 車輪が不協和音を奏で、馬車はゆっくりと、しかし力強く動き始めた。
last updateLast Updated : 2025-06-10
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第33話:入門審査

白亜の城壁が天を衝き、その威容を誇る“記憶の街”メモリス。私たちは今、その巨大な門の前で、門番による入場審査の列に並んでいた。 行き交う人々の数も、これまで見てきた街とは比べ物にならない。その分、警備兵の眼差しは鋭く、その一糸乱れぬ動きからは、この街の鉄壁の守りが窺えた。きっと、ここで暮らす人々は、確かな安心の中で日々を過ごしているんだろうな。 私たちの前で順番を待つ人々の中で、ひときわ声を張り上げている男がいた。知性の高さをひけらかすような口調の、神経質そうな眼鏡の中年男性だ。 「まだなのか!? いつまで待たせるつもりだ! 早くメモリスに入れろと私は言っているのだ!!」 隠す気もない苛立ちを、門番に容赦なくぶつけている。 「申し訳ございません。ただいま審査の途中でして……今しばらくお待ちを」 門番は丁寧に対応するが、男性の不満は収まる気配がない。そんな中、別の門番がこちらへ向かって声をかけてきた。 「お待たせいたしました。ベルノ王国魔法研究所、シイナ様ご一行の審査が完了いたしました。こちらへどうぞ」 その声を聞いた瞬間、眼鏡の男性がカッと目を見開き、怒声を張り上げた。 「まてまてまて!! なぜ私より後に来たその若造どもが、先に通されるのだ!? 説明しろ!!」 門番は表情一つ変えず、静かに事実だけを告げる。 「申し訳ございません。この方々は、我々にとって“賓客”にあたられますので」 「はぁ!? 馬鹿馬鹿しい! 私の時間が、あのような旅人風情の若者たちより軽いとでも!? 私の研究成果の報告が遅れることの損失を、貴様らは理解しているのか!?」 怒鳴り散らすその声が、広場に不快に響き渡る。 (……うわぁ、すごく嫌な感じの人……) 思わず眉をひそめてしまった私に気づいたのか、ミストさんがいつもの笑顔で言った。 「そういう人の言葉は、聞き流した方がいいですよっ!」 「なんだと貴様!!?」 男性の顔が、怒りで一気に赤く染まる。今度はその矛先を、まっすぐ私たちへと向けてきた。 「君たちには分かるまい!! 私の研究が、この街の未来にどれほどの貢献をもたらすものなのか! 一刻を争う重要な案件なのだよ!! それを君たちのような輩のせいで遅らされるなど――断じて許せるか!!」 早口でまくし立てる男性に、ミストさんがわざとらしく、深いため息をついてみ
last updateLast Updated : 2025-06-10
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第34話:戦士の休息

「なんか……メモリスに着いたばかりなのに、もうくたびれたな……」 ぽつりと、シイナさんが本音を漏らした。 あの騒動の残響がまだ耳の奥でくすぶっているようで、降り注ぐ陽光がやけに重く感じられる。 「…………はい」 「……ええ、まったくです」 私とシオンさんが、心の底からの同意を込めて静かに頷く。 疲労感と気まずさとツッコミ疲れ。それらがない交ぜになった感情が、パーティ全員の表情にありありと滲み出ていた。 「とりあえず、どうします? ここからは別行動にしますか~?」 ミストさんが、あえて空気を変えるように軽い調子で提案する。 「ああ、それがいいだろうな」 シイナさんがそれに頷いた瞬間──なぜかミストさんは満面の笑みで天にガッツポーズを突き上げた。 「やったーー!! これで心置きなく未知の探求に没頭できる! 研究の時間が来ましたよォォ!!」 ──その直後。 「えっ」 ミストさんの歓喜の声は、間の抜けた一言に変わった。 無言で差し伸べられたシイナさんの手が、寸分の狂いもなく彼女の首根っこを掴んでいる。 「お前はダメだ、ミスト。俺と同じ“魔法研究所所属”だろう?」 そう言って、にこりと笑うシイナさん。その笑顔は完璧に整っているのに、瞳の奥は全く笑っていない。 「さぁ、行くぞ。山積みの報告書が我々を待っている」 「アァァァァァ~!! 私の!! 知的好奇心と探究の自由がァァァ~~!!!!」 メモリスの美しい石畳に、儚い絶叫が吸い込まれていく。あっという間に小さくなるミストさんの背中を、私たちはただ呆然と見送ることしかできなかった。 「…………」 (…………) 隣に立つシオンさんに視線を送ると、彼は何も言わずに静かに頷き返してくれた。その深い色の瞳の奥に、いつもの“彼”がいるのを感じる。 (夜の街の時に感じた違和感は、私の気のせいだったのかな……?) (気のせいではあるまい。私もあの時のシオンの様子には違和感を覚えている) エレンの静かな声が、私の不安を肯定する。 やっぱり、気のせいじゃなかったんだ。 (うーん……とりあえず、今は街を歩いてみよっか) (ああ。そうしよう) こうして私たちは、それぞれの場所へ向かって歩き出した。 *** 「あっ……」 (どうした、エレナ?) 街の喧騒の中、私は心の中でそっと彼に語りか
last updateLast Updated : 2025-06-11
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第35話:錬金術

「待たせたな」 調理亭を出た私は、店の前のベンチに腰かけていたラムザスに声をかける。 「いえいえ。では……参りましょうか」 立ち上がったラムザスが、私の歩調に合わせて歩き始める。 「ちなみに旅の方、あなたのお名前は?」 「エレンだ」 「エレン……様、ですか。……はて、どこかで聞いたような……」 「そんなことはどうでもいい。この街は“記憶の売買ができる都市”で、間違いないな?」 その言葉を聞いた途端、ラムザスの眼鏡が怪しく光った。口元には、全てを見透かしたような意味ありげな笑みが浮かんでいる。 「えぇ。ですが……ひとつ、付け加えさせていただきましょう。この都市――メモリスは、記憶の売買ができる街であると同時に、“錬金術”にも深く通じた大都市なのです」 彼は誇らしげにそう言い放つ。 錬金術。 それは、“何かを代償に、別の何かを生み出す技術”。対価は物に限らず、時に“己の大切なもの”であることもある。そして、支払う代償が大きければ大きいほど、生み出されるものの価値もまた、比例して高くなる……と言われている禁忌の秘術だ。 「なるほどな」 (エレン……実際にやるわけじゃないけど……錬金術を使って、あなたの“身体”を作る……なんて、できたりしないのかな?) ふと、エレナが純粋な願いを込めてそう問いかけてきた。 私は、即座にその可能性を斬り捨てる。 (……やめておけ) (えっ……) (何かを“代償”として差し出してまで手に入れるものなど、総じてろくなものではない。それに……私はこのままで、何一つ不自由していない) 言葉に迷いはなかった。それは、自分自身への戒めでもあった。 ──下手な願いを口にすれば、それを叶えるために、この心優しい少女が“何か”を支払ってしまうかもしれないのだから。 ラムザスが一際大きな、天を突く尖塔を指さす。 「あれが、記憶の塔です」 「記憶の塔?」 「はい。この都市――メモリスは、確かに“記憶の売買”が可能な街です。ですが、もう少し正確に申し上げましょう」 ラムザスはメガネを押し上げ、微笑を浮かべながら続けた。 「街の中心にある“記憶の塔”――あそこでは、街にいるすべての人の記憶を覗くことができます。そして、その仕組みに“錬金術”が応用されているのです」 「……覗く?」 「はい。そして“抜く”ことも可
last updateLast Updated : 2025-06-13
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第36話:記憶市場と記憶劇場

私たちは、都市の中央に広がる市場へと訪れた。 「こちらが、記憶市場《レム・マルシェ》となります」 ラムザスの言葉に促され見渡した光景に、私は思わず眉をひそめた。 そこに広がっていたのは──ガラスケースにずらりと陳列された、無数の“記憶結晶”だった。 “初めて恋に落ちた日の記憶” “恐怖に震えた夜の記憶” “家族と笑い合った休日の記憶” まるで生命の輝きを剥奪され、ただの商品として値札をつけられた人生の断片。美術品か、あるいは高級な嗜好品のように、それらは静かに買い手を待っている。 その光景は、戦場で見る死体の山よりも、冒涜的に映った。 「こちらで、ご希望の記憶を購入することが可能です」 ラムザスが販売員に目配せをすると、慣れた手つきで一つの記憶結晶が取り出され、私の前に差し出される。 「どうぞ。こちらは“家族からの無償の愛情”に包まれた、非常に純度の高い温かな記憶となっております」 「ふむ」 ラムザスは無言でそれを受け取ると、まるで石ころでも扱うかのように、指先に力を込めた。 パリィン……。 乾いた音を立てて、誰かの大切な思い出だったものが砕け散る。 「魔人ではなくとも砕けるよう、意図的に強度が調整されていましてね」 「……ええ、なるほど。これはごく平凡な家庭で、大切に育てられた少女の記憶のようですね。素晴らしい」 まるで昆虫標本でも鑑定するかのように、ラムザスは誰かの人生の痕跡を淡々と分析する。その表情は、微塵も変わらない。 その記憶を、本人が自ら“売った”のか。それとも、売らざるを得ない状況に追い込まれたのか。 真実は分からん。だが、どちらにせよ……腹の底から不快感がこみ上げてくる。 「このように、記憶は《記憶市場》で確かな“価値”として流通しています」 そして── 「次に、あちらをご覧ください」 ラムザスが指さした先には、円形の巨大な建物がそびえ立っていた。出入りする人々が、興奮気味に言葉を交わしている。 「あの剣士の記憶、最高だったな! また観たいぜ!」 「俺もあんな風に戦ってみたいもんだ!」 他人の人生を覗き見た後の、一種の気怠さと高揚感が混じった表情。彼らは自らの現実から目を逸らすように、借り物の体験に熱狂していた。 「《記憶劇場》──《メモワ
last updateLast Updated : 2025-06-14
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第37話:伝説の給付服

────── エレナの視点 ────── ラムザスさんと別れた後、私は一人、メモリスの大通りを歩いていた。 陽光を浴びて輝く白亜の街並みは、まるで神々が住まう都のよう。けれど、そのあまりの美しさが、かえって人々の会話の歪みを際立たせていた。 「ねぇ、あの劇場でやってる『堕ちた英雄の物語』、もう観た!?」 「もちろん! 処刑される瞬間の絶望の記憶、最高だったわ!」 「前に買った『幸せな家庭の記憶』がすごく良くてさ……。だから今度は、もっと刺激的な裏切りの記憶が欲しいんだよな」 「わかる〜! 私は大魔法使いの『属性を上手く操るコツ』を探してるの。ちょっと高いけど、自分へのご褒美ってことで!」 街ゆく人々は、みんな笑顔を浮かべている。 でも、その笑顔はどこか借り物みたいに見えた。他人の人生を切り売りした記憶を消費して得た、束の間の高揚感。 この街の人たちにとって、記憶の売買はもう……食事や呼吸と同じ、当たり前の日常なんだ。 その事実が、ただ歩いているだけで、痛いほどに伝わってくる。 (…………。) エレンは、ラムザスさんと別れてからずっと口数が少ない。意識を代わってくれた後も、彼の心の中から感じるのは、静かで、氷のように冷たい怒りの感情だけだった。 きっと……彼が言ったように、この街の仕組みそのものに、強い嫌悪感を抱いているんだと思う。 そんなことを考えながら歩いていると、突然後方から、やけに芝居がかった声が飛んできた。 「そこの可憐なお嬢さんッ!!!」 (……ん? まさかね) もちろん、私が呼ばれたなんて微塵も思わない。この街には、私なんかよりずっと綺麗な人がたくさんいるんだから。絶対、私の後ろを歩いている人のことだよね。 そう思って真っ直ぐ歩き続けていると、目の前にひょいっと人影が躍り出た。派手な色合いの服を着た、少し目つきの鋭い男性が、私の行く手を塞ぐように立っている。 「ですから、あなた様のことですよ! 可憐なお嬢さん!」 「あっ……! えっ!? わ、私だったのですか!?」 「はっはっは! あなた様ほど可憐な方を、私は他に存じ上げませんとも!」 大げさな身振り手振りで、男は楽しそうに笑ってみせる。 (いやいやいや、そんなわけないでしょ! 普通、私のことだなんて思わないよ!) (自分の姿を鏡で見たことがないのか。そ
last updateLast Updated : 2025-06-19
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第38話:聖女、酒場に降臨す

酒場の熱気は、すでに最高潮に達していた。 男性たちの野太い笑い声、グラスがぶつかる高らかな音、そして注文を叫ぶ声。その全てが渦を巻いて、私の思考をかき乱していく。 「うぅ……足が、もう限界……」 お盆を片手に、壁際でほんの少しだけ休憩しながら、私は悲鳴を上げそうな足をさすった。慣れないハイヒールは、私の体力を容赦なく削っていく。 (だいぶ様になってきたではないか) 頭の中から聞こえてくるのは、相変わらず冷静なエレンの声。 (でも、この格好はやっぱり恥ずかしすぎるよぉ……) (何を今更。エレナ、恥ずかしいと感じるのであれば、いっそ一つの高みを目指してみるといい) (えっ……? な、何を目指すの……?) 彼のあまりに突拍子もない提案に、私は思わず聞き返す。するとエレンは、まるで武術の師匠が弟子に奥義を授けるかのような、厳かな口調で言った。 (『無我の境地』だ。雑念を払い、己を空にする……私でさえ、容易には辿り着けなかった武芸の極みの一つだが、今の君には良い修行になるだろう) (………………) 彼の助言が、私の今の状況からあまりにかけ離れすぎていて、もはや言葉も出てこない。私の脳が完全に思考を停止させた、まさにその時だった。 「エレナちゃーん! お疲れ様!! いやー、すごく助かってるよ!!」 店の奥から、マスターが満面の笑みで駆け寄ってきた。その顔は、喜びと忙しさで上気している。 「あっ……あはは……そ、それなら良かったです……はい……」 私が引きつった笑顔でそう答えるのが精一杯だった。 「お陰様で、見ての通り今は満員御礼だ!! エレナちゃんが可愛いって噂を聞きつけて、わざわざ来てくれた人もいるみたいだし!」 「え"っ」 噂……? 私の、噂……? その一言が、私の心に直撃した。もう、恥ずかしすぎて消えてなくなりたいとまで思ってしまう。 「ということで……エレナちゃん! 悪いけど、続きを頼むよ!!」 「は、はいぃ……行って、まいります……」 私はほとんどふらふらと戦場――もとい、客席へと再び足を踏み出した。 *** 熱気と喧騒が、壁のように私にぶつかってくる。 「嬢ちゃん、こっちにエールをくれ!」 「こっちの皿、下げてくれよ!」 四方八方から飛んでくる声。人の波。アルコールの匂い。 頭がくらくらして、今にも泣き出して
last updateLast Updated : 2025-06-29
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第39話:喧騒の酒場、静寂の路地

黄金色のエールが満たされたジョッキが打ち鳴らされる高らかな音。燻された肉の香ばしい匂い。酔客たちの、熱気を帯びた陽気な声。その全てが渦を巻く酒場の中、私とミストさんの、奇妙な夜は始まった。(うぅ……やっぱりダメ! 全然慣れないよぉ……!)(さっきは、うまく出来ていたじゃないか?)(ミストさんが来てから崩れちゃった……)さっきまでと違って、お盆を持つ手はロボットみたいにぎこちないし、お客さんと話そうとすると声がひっくり返っちゃう。頬に集まった熱は、もう私のものじゃないみたいに熱いままだ。だけど……隣にいるミストさんは、本当にすごかった。「はいはいー! こちらエール酒になりますー!」彼女はまるで、この喧騒という海を誰よりも自由に泳ぐ人魚のようだった。持ち前の太陽みたいな笑顔と、よく通る元気な声で、あっという間に酒場の中心になっていく。「メガネの嬢ちゃん、こっちも追加で頼む!」「はい、ただいまー!」ひらり、と。まるで蝶が舞うように人混みをすり抜け、的確に注文の品を届けていく。その一連の動きに、一切の無駄というものが見当たらない。すごい……。私とは大違いだ。「おっ! もう飲み干したんですね! いやー、いい飲みっぷりですねぇ!」「だはは! とびきり可愛いあんたたちがいるからな! 酒が進んで仕方ねぇってもんよォ!」「またまた〜! じゃあ、お次は感謝を込めて、ちょっとだけ量をサービスしちゃいますね!」お客さんの心を掴むのが、天才的に上手いんだ。この格好だって、彼女は全然恥ずかしそうじゃない。むしろ、客の表情、声の高さ、お酒を飲む速さ、その全部を瞬時に分析して、一番喜んでもらえる「答え」を導き出すための、最高の舞台だとでも思っているみたい。あの屈託のない笑顔でさえ、好感度を最大まで引き上げるために、完璧に計算された表情なんじゃないかなって、そんな風に思えてしまうほど。私がただ呆然と立ち尽くしていると、エレンが心の中で、どこか慄然とした声で呟いた。(……なんだ、あの女は。尋常ではないな。人間の感情の機微を、まるで数式のように処理しているのか……?)最強の戦士であるエレンでさえ、未知の生命体を観察するみたいな目で、ミストさんの才能を分析しているみたいだった。***あれから、どれほどの時間が流れただろう。最後の客が上機嫌で帰っていくと、嵐の
last updateLast Updated : 2025-07-30
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