All Chapters of 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった: Chapter 121 - Chapter 130

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第121話

珠季は住職と仏典について語り合い、ゆっくりとお茶をいただいていた。そこへ、小夜と佑介が慌てた様子で戻ってくる。珠季が何事かと見ていると、住職に詫びを入れる間もなく、小夜に腕を引かれて外へと連れ出された。「どうしてそんなに急ぐの?帰ったって、どうせ暇でしょ」珠季は心底不思議そうに首を傾げる。「暇なわけないではありません!やることは山積みなんですから!」小夜は珠季を引っ張って本堂の喧騒から離れると、声を潜めて言った。「大叔母様、一つの寺だけではご利益も物足りないでしょ?せっかくの初詣なんですから、色々な神様仏様にご挨拶した方がいいでしょう」珠季は一瞬きょとんとしたが、それも一理あるかと思い直す。しかし、どうにも腑に落ちない。そんなにたくさん回ったら、神様仏様同士で喧嘩になったりしないだろうか。そうは思ったものの、次から次へと寺社を巡るうちに、そんな些細な疑問は吹き飛んでしまった。まずはお参りだ。お布施はたっぷり弾むのだから、ご利益もその分あるに違いない!彼女が参拝すればするほど上機嫌になっていく一方で、それを提案した張本人である小夜と佑介はさんざんだった。一日中寺社を巡り、足は棒のよう。線香の匂いを吸い込みすぎて、頭までくらくらする。一体、大叔母のあの元気はどこから湧いてくるのだろう。夜になってもまだ元気いっぱいの珠季とは対照的に、若い二人の方が先にばててしまった。家に帰る頃には、もう一歩も動きたくないほどだった。「今の若い者は……情けないねぇ」珠季は二人を軽蔑するように一瞥すると、大量のお守りが入った大きな袋を抱え、意気揚々と自室へ戻っていった。……翌日。食卓で、珠季がふと尋ねた。「そういえば、樹はいつ新年の挨拶に来るの?」もう正月も二日だというのに、可愛い曾姪孫が顔を見せないのはどういうことか。小夜は一瞬、返答に窮した。樹からは、新年のメッセージ一つ届いていない。きっと若葉と過ごすのが楽しくて、母親である自分のことなどすっかり忘れているのだろう。挨拶に来るはずもなかった。彼女は本当のことを言う勇気はなく、努めて明るい声を作った。「長谷川家は親戚が多いですから、きっと挨拶回りで忙しいんですよ。それに、電話ではちゃんと挨拶してくれましたし……」「そうか」珠季は
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第122話

「へぇ、そう」芽衣は素直に頷いたが、すぐに何かがおかしいと首を傾げた。「でもあんた、もう離婚するんでしょ?なんで今更、あいつの弟の面倒なんか見てるのよ」小夜は肩をすくめて、こともなげに説明した。「彼、ちょっと事情が特殊でね。その話は、また今度ゆっくり」ちょうどその時、花火を並べ終えた佑介がこちらへ歩いてきた。……芽衣は良くも悪くも物事にこだわらない性格で、遊び始めると他のことは綺麗さっぱり忘れてしまう。三人は夢中になって次々と花火に火をつけた。夜空に咲いては消える光の饗宴が、言葉にできないほど美しい。途中で、業者が運んできた羊の丸焼きも始まった。小夜と芽衣は火花のきらめきを浴びながら、時折、佑介が焼き加減を完璧に仕上げて切り分けてくれる羊肉を頬張る。肉を食べ、酒を飲み、歌い、心の底から笑い合った。満天に咲き乱れる花火が、過去の憂いを洗い流し、輝かしい炎で古い一年を焼き尽くし、新しい年を祝福してくれているかのようだ。一夜中、三人の笑い声が途切れることはなかった。ここは帝都の郊外で市街地から遠いため、花火が終わると三人は近くの民宿に泊まることにした。少し酒を飲んだせいか、小夜は眠りが浅かった。朝の五時過ぎには目が覚めてしまい、その後どうしても寝付けず、いっそ起き上がってベランダに出る。冷たい椅子に腰掛け、お茶をすすりながら、夜明けを待つことにした。民宿のすぐ裏手は、静まり返った山だった。冬の太陽は昇るのが遅く、空にはまだ夜の気配が深く沈んでいる。彼女はただ遠くの山々の稜線を眺め、早朝の静寂に身を浸した。まるで天地の間に自分一人だけが取り残されたような孤独が、不思議と心を穏やかにしていく。しばらくそうして遠くを眺めていると、ふと、動く光が視界の隅を捉えた。何だろうと目を凝らすと、民宿から少し離れた山道で、一台の車がゆっくりと斜面を上っているのが見えた。奇妙なことに、車はヘッドライトをつけているだけでなく、車窓から懐中電灯の光がいくつも投げかけられ、何かを探すように辺りを照らしている。何かをなくした観光客だろうか。彼女も特に気に留めず、再びお茶に口をつけ、白んでいく空の色を待った。しかし、しばらくして、また何かがおかしいと気づく。民宿に近い山道脇の灌木が、不自然に揺れ
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第123話

人攫いとおぼしき男たちの声は、そう遠くない。一刻の猶予もなかった。小夜は相手を刺激せぬよう電話をかけるのは諦め、まずスマホをマナーモードに切り替えると、芽衣、佑介、そして民宿のオーナーに、現在地を添えたメッセージを送信した。誰か一人でも早く気づき、警察に通報してくれることを祈るしかない。だが、それだけでは心許ない。続けて緊急通報用のアプリを開き、現在地と『児童の人身売買、追跡されています』という状況をテキストで送信する。かつてデザインの素材集めのため、辺鄙な山奥を取材して回った経験が、今ここで生きていた。命知らずの暴徒に遭遇したことも一度や二度ではない。どちらが先でもいい。一つでも多くのチャンスを。あとは、天に祈るだけだ。すべてを終えると、小夜は深く息を吸い、子供を背負い直す。そして、身をかがめ、息を殺しながら、声のする方向から逸れるように灌木の中をゆっくりと進んだ。わずかな物音も命取りになる。子供も聡いのか、ただ黙って彼女の背中にしがみつき、一声も発しない。男たちの声が、じりじりと近づいてくる。懐中電灯の光が目の前の茂みを神経質に行き来し、時折、下卑た罵声が聞こえてきた。その時、一人の男が叫んだ。「兄貴、ここの枝が折れてる!誰か通った跡だ!あっ、布切れも落ちてやがる!」「追え、こっちだ!」「小僧、とっとと出てこい!」「逃げられると思うなよ!捕まえたら足の一本や二本、へし折ってやるからな、このクソガキが!」罵声が、自分たちの逃げる方角へと急速に迫ってくる。小夜は総毛立ち、もはや隠れている猶予はないと悟った。彼女は歯を食いしばると、身を隠すのをやめ、子供を背負ったまま、死に物狂いで坂道を駆け下りた。後ろから追ってきた男たちは、まさか子供の他に大人が現れるとは思っていなかったのだろう、一瞬虚を突かれた顔をしたが、すぐに我に返ると、鉈や棍棒を手に追いかけてくる。「追え!」「あの女、ガキを連れてやがるぞ!」「逃がすな! あの女を逃したら俺たちが終わりだ!」「捕まえろ!」「クソ女、止まれ!」背後から複数の足音が迫る。心臓が喉まで競り上がってくるようだった。凍てつく風が顔を打ち、肌がこわばる。だが、速度を緩めるわけにはいかない。頭の中は、ただ「走れ」という命令だけで満たされて
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第124話

もう、すぐそこだ。小夜は叫ぼうと口を開いたが、ひゅっと息が漏れるだけで、声にならない。凍てつく風に晒され、顔の筋肉が強張っているのだ。口を開くことすら困難で、喉は焼き火箸を突っ込まれたように痛む。助けて……心で叫んでも、唇は震えるだけ。体は鉛のように重く、意識が明滅する。すぐそこに見えるはずの大通りと、救いの光であるはずの車のライトが、まるでこの世の果てのように遠い。もう、走れない。せめて、背中の子供だけでも。この子だけでも、逃がしてやらないと。意識が途切れかけた、その時。路上で数台の車が甲高いブレーキ音を立てて停まった。ドアが開くや否や、数匹の屈強な黒い大型犬が獰猛な咆哮と共に飛び出し、小夜の脇を駆け抜けて、追ってくる男たちに襲いかかっていく。見覚えがある。民宿のオーナーが飼っている番犬だ。続いて、車から包丁やモップ、鍋を振りかざした十数人の男たちが雪崩のように降りてくる。パジャマ姿の芽衣と佑介がその先頭を走り、血相を変えてこちらへ向かってきた。――助かった。そう思った瞬間、全身の力が抜けた。目頭が熱くなり、前のめりに崩れ落ちる体を、滑り込んできた佑介が必死の形相で抱きとめた。「お姉さん!しっかりして、お姉さん!」耳元で、佑介の悲痛な叫び声が響く。それを最後に、小夜の意識はぷつりと途絶えた。……すぐに警察が駆けつけた。数人が現場の確保と捕縛した犯人の監視に残り、他の警官たちは犬の吠え声を頼りに、負傷して逃げた残党を追跡していく。しかし、地面に倒れた小夜を運ぼうとした時、皆一様に頭を悩ませた。「どうしよう。この子も気を失ってるのに、高宮さんの体にがっちりしがみついて、びくともしないぞ」佑介は顔を歪め、小夜の腕に絡みつく子供の手を無理やり引き剥がそうとしたが、芽衣に強く制止された。「だめ!下手にやったら二人とも怪我するわよ!」「じゃあ、もう二人まとめて運んじゃおう!とにかく、一刻も早く病院へ!」話がまとまり、数人がかりで小夜と子供を一つの塊のようにパトカーに乗せる。芽衣と佑介もそれに続き、サイレンを鳴らして病院へと急行した。民宿のオーナーは現場に残り、自分の犬たちが戻るのを待ちながら、後処理のために警官と話し合っている。……病院に到着し、点滴を受けて間もなく
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第125話

小夜が目を覚まして間もなく、自分の腕の中に誰かがいることに気づいた。それが、自分が助けた子供だと分かると、下手に動くこともできず、横になったままの姿勢を保った。佑介は彼女の腕の中の子供を忌々しげに睨みつけ、歯ぎしりしながら言った。「このガキ、病院に着いてすぐ目を覚ましたんですけど、誰が何を言っても聞き分けなくて。お姉さんのそばから引き離そうもんなら、泣き叫んで暴れますから、もう手が付けられないんです。せっかく手当てした傷が開いたら大変だって、仕方なく二人を一緒に寝かせたんですよ」小夜には、その気持ちが痛いほど理解できた。子供はまだ幼く、あんな恐ろしい目に遭ったのだ。今、一番足りないのは「安心」だろう。自分を命懸けで助けてくれた彼女だけが、その拠り所なのかもしれない。ただ……「この子の親は?まだ見つからないの?」佑介は首を横に振った。「いえ、まだ……警察が調べて連絡を取っている最中だそうです」小夜は頷いたが、二言三言話しただけで少し息苦しくなり、頭がずきずきと痛み始める。佑介はそっと彼女に寄り添い、熱っぽい指でそのこめかみを優しく揉んだ。「医者が言っていました。お姉さんの額の傷、治りかけで本当に良かったって。じゃなければ、あの冷たい風に吹かれたら、酷く感染していたかもしれない。そしたら、もっと大変なことになっていたそうです」背後にある心配と安堵を感じ、小夜はばつが悪そうに頷くしかなかった。小夜は思い出したように尋ねた。「そうだ、大叔母様には……話してないわよね?」佑介は首を横に振る。「はい、まだです。前に、数日外で遊んでくると伝えてあるので、このことはご存じありません」「それならよかった。後で改めて話せばいいわ。余計な心配をかけちゃうから」その時、ドアの外から、ばたばたと慌ただしい足音が聞こえた。二人は同時にそちらを見る。会計と入院手続きに行った芽衣が戻ってきたのかと思ったが、ドアが開いた瞬間、二人とも息を呑んだ。柏木翔?なぜ彼がここに?……翔は憔悴しきった様子で病室に駆け込んできて、中にいる二人を見て一瞬動きを止め、すぐに布団から半分だけ頭を出している子供に視線を落とした。彼は血相を変えて駆け寄ると、布団を剥いで子供を抱き上げようとする。「何をする!」
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第126話

病室は、しばらく水を打ったように静まり返っていた。誰も、口を開こうとしない。小夜は何と言えばいいのか分からなかった。何を言っても相手を不快にさせてしまいそうだし、何よりこの一家の状況はあまりにも奇妙で、言葉を選ぶのが難しい。重く、気まずい空気が流れる。しばらくして、このまま黙っているのも失礼な気がしてきた。小夜が何か言おうと口を開きかけた時、先に翔がためらいがちに口を開いた。「……すまないが、数日間、星文の面倒を見てもらえないだろうか」「ふざけるな!」佑介が、真っ先に噛みついた。「柏木、どの面下げてそんなこと言えるんだ?あんたが昔、お姉さんにどんな態度を取ってきたか、思い出させてやろうか!」「佑介」小夜は軽く窘めたが、同意もしなかった。星文の境遇には同情するが、翔との過去の確执もまた事実だ。大人の事情は星文には関係ない。そう頭では分かっていても、心に澱のように溜まったわだかまりが消えるわけではなかった。翔は反論もできず、苦々しく顔を歪める。彼は圭介や若葉とは幼馴染で、途中から割り込んできて圭介を射止めた小夜のことを、ずっと見下していた。圭介の彼女に対する嫌悪があまりにも露骨だったこともあり、それに乗じて小夜をぞんざいに扱い、侮辱してきたのだ。まさか、自分がこの女に頭を下げる日が来るとは、夢にも思わなかった。だが、星文のためだ……彼は歯を食いしばり、立ち上がると、ベッドの小夜に向かって深々と頭を下げた。「過去のことは、俺が浅はかだった。本当に、すまなかった!」小夜は眉をひそめ、何も言わなかった。佑介は、冷たく鼻を鳴らす。翔は頭を下げたまま、続けた。「本当に、頼む。星文のお母さんは、あいつが三つの時に刑務所に入ったんだ。本人には記憶がなくて、お母さんは遠くへ出かけているとしか言えてない。でも、あいつはずっと彼女を捜してる。お前がこの子を助けてくれたから、きっと母親だと勘違いしたんだ。どうか、この状況で数日だけでも、面倒を見てやってくれないか。この子が落ち着いたら、すぐに連れて帰る。絶対に迷惑はかけないから。頼む……!」佑介は乾いた笑いを漏らし、その同情を引くやり方を罵ろうとしたが、小夜に腕をそっと引かれた。納得のいかない彼は、声を上げた。「お姉さん!」小夜は彼に向
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第127話

小夜は佑介の頭をぽんぽんと撫でた。「馬鹿なこと言わないの」それに、自分の息子でさえ、うまく育てられたとは言えない。樹は、自分に懐いてはいないのだ。そのことを思うと、小夜の胸にちくりと痛みが走った。……ほどなくして、芽衣が病室に戻ってきた。入院手続きを終えたばかりの彼女は、ドアを開ける前から、その快活な声が廊下に響く。「ねえ、聞いてよ!会計に行ったらさ、もう誰かさんが全額払ってくれてるって言うのよ、看護師さんが!名前も名乗らずにだって。どこの太っ腹な殿方かしらね?」小夜は細い眉を微かに動かし、推測した。「柏木翔かしら」佑介は冷たく鼻を鳴らす。「あの偽善者め」「柏木翔?」芽衣は椅子を引き寄せ、まず水を二口あおってから、不思議そうに尋ねた。「彼が、何しに来たのよ?」小夜は腕の中の星文に視線を落とす。「この子、彼の甥っ子なんですって」芽衣は目を丸くし、やがて合点がいったようにぽんと太ももを叩いた。「あーもう、なんで私がいない時に来たのよ!一発くらい殴ってやったのに!……で、なんで子供を連れて帰らなかったの?」腕の中の星文がその声に驚いたように身じろぎし、小夜は慌てて唇に指を当てた。「しっ、もう少し静かにして」星文が再び寝息を立て始めると、彼女はこれまでの経緯をかいつまんで説明した。芽衣はそれを聞いて眉をひそめ、小夜のお人好しさを何度も窘める。「悪いことは言わないから、この件からは手を引いた方がいいわ」彼女は声を潜めた。「マジな話よ。柏木家のこと、特にこの子のことには、深入りしない方が身のため。とんでもない爆弾なんだから」小夜は不思議そうに尋ねた。「どういうこと?」自分は柏木家のことを知らない。正確に言えば、圭介の周りの人間については、ずっと爪弾きにされてきたため、ほとんど何も知らなかった。芽衣のただならぬ様子からして、明らかに何か裏があるようだった。芽衣は星文にちらりと目をやり、まず確認する。「ぐっすり眠ってるわよね?」小夜は頷いた。星文は今回酷い目に遭い、体中擦り傷だらけだったのだ。とっくに疲れ果てて、深い眠りに落ちている。芽衣はそこでようやく、重々しく口を開いた。「そういえば、これ、私がまだ司法修習生だった頃に、指導教官から聞いた事件なの。
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第128話

芽衣はもったいぶる素振りも見せず、核心から語り始めた。「まあ、五、六年前の古い事件よ。当事者は、柏木翔の姉さんである柏木雪(かしわぎ ゆき)と、その夫の斎藤修平(さいとう しゅうへい)。二人は大学時代に出会って、大恋愛の末に結ばれたの。もっとも、二人の家柄は月とスッポン。雪は正真正銘のお嬢様で、修平の方はごく平凡な家庭。当然、柏木家は最初、結婚に猛反対したけど、二人の意志は固く、あらゆる障壁を乗り越えてゴールインしたわ。結婚後、雪は実家のグループ企業で役員に。医者だった修平も、もともとの才能に加えて柏木家の後ろ盾を得て、院内でとんとん拍子に出世。数年で市内の有名病院の外科部長にまで上り詰めた。若くして、前途有望なエリートよ。結婚後すぐに息子にも恵まれて、仕事も順調、家庭は円満。誰もが羨むおしどり夫婦……のはずだった。でも、幸せは長くは続かない。子供が三歳になった年のこどもの日、雪は夫と一緒に、子供をどこかへ遊びに連れて行ってあげようと計画したの。二人とも仕事が忙しくて、これまであまり構ってあげられなかったから、この日くらいは家族サービスしようってね。でもその日、修平は『急な手術が入ったから、帰りが遅くなる』って言った。雪の方が先に仕事が終わったから、サプライズで夫を迎えに行こうとしたのよ。でも、病院に着いてみたら……夫は手術室にいるどころか、自分のオフィスで、看護師だか何だか知らない女と情事に耽ってたの。それも、かなりお盛んだったみたいね。彼女、それで完全に心が壊れちゃった。家に帰って、その日の夜、修平が帰宅してから、二人は激しい口論になった。傷ついた雪は離婚を決意して、『柏木家があなたに与えた恩恵も地位もすべて取り上げるし、この不貞を世間に公表して、あなたを社会的に破滅させてやる』って言い放ったの!全てを失うと悟った修平は逆上し、彼女に手を上げた。そして、そのもみ合いの最中、悲しみと怒りで我を忘れた雪が、夫から逃れようとした弾みに……包丁で、彼を刺し殺してしまったのよ」……「実はね、この事件、疑わしい点がたくさんあるの」芽衣は続けた。「その夜、具体的に何があったのかは誰にも分からない。事件の詳細は、当事者の自己申告だけ。おまけに、事件の終結もひどく杜撰だったわ。事件発生
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第129話

だが、芽衣の次の一言に、小夜は星文の髪を撫でていた手を止め、背筋が凍りついた。「……事件の夜、この子は家にいたの」……事件の夜。ベビーシッターが家で星文の面倒を見ていた。だが、正気を失った雪は家に帰るなり、ベビーシッターを追い返した。法廷では、家の醜聞を外に漏らしたくなかったから、と供述したそうだ。まさか、ただの痴話喧嘩が、血腥い事件にまで発展するとは夢にも思わずに。その夜、家の中はひどく騒がしく、隣人が異変に気づいた。ドアには鍵がかかっておらず、恐る恐る中へ入った隣人は、その光景に悲鳴を上げた。修平が血の海に倒れ、その傍らで、三歳の星文が人形を抱いて静かに座っていた。全身血まみれだというのに、その大きな瞳は虚ろに開かれ、泣きも騒ぎもせず、まるで魂が抜け落ちた人形のようだったという。そして、その雪は包丁を振り上げ、星文にまで切りかかろうとしていた。もし隣人が間に合わなければ、その夜、命を落としたのは修平だけでは済まなかっただろう。小夜は聞いていて心臓を鷲掴みにされるような思いだった。「待って、どうして……?そんな状態だったのに、精神鑑定で『正常』なんて判断が下りるの?」雪のその時の状態は、どう考えても普通ではなかった。芽衣は首を横に振る。「だから言ったじゃない?あの事件、処理が杜撰だったのよ。それに、当事者本人が罪を認めたから、結審も異例の速さだった」小夜には、到底理解できなかった。芽衣は続けた。「とにかく、忠告したからね。この子のことには、これ以上関わるべきじゃない。お母さんのやったこと、ある意味では天晴れだと思うけど、それはそれ、これはこれよ。筋金入りのヤバい女なんだから!あと半年もすれば、出所してくるのよ。あの人の性格を考えたら、絶対に一筋縄じゃいかない。そんな家庭と関わるなんて、危険すぎるわ。それに……」芽衣は一瞬言葉を切り、やはり本音を吐き出した。「この子、あんな目に遭ったっていうのに、普通の子供みたいな反応がなかったんでしょ?下手したら、精神的に……ねえ?色んな意味で、とんでもない爆弾よ。ましてや柏木家の人間なんだから、あんたがお人好しで面倒を見る義理なんてないの」小夜は聞いていて眉をひそめた。自分には、この子はむしろ賢い子だと思えた。ただ
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第130話

「ママ、あけましておめでとう!」電話の向こうから聞こえてくる、樹の弾んだ声に、小夜の表情がふわりと和らいだ。彼女は以前、樹が新年の挨拶に来ないだろうと半ば諦め、用意していたおもちゃや金の延べ棒、宝玉といったプレゼントも渡せずにいた。仕方なく、正月の日に彼の口座へ二百万円を振り込み、それをお年玉としたのだ。少し遅くなってしまったけれど、それでも、こうして声を聞かせてくれたことが嬉しかった。小夜は穏やかな声で樹の近況を尋ね、彼が最近出会った面白い出来事の数々を、相槌を打ちながら辛抱強く聞いた。しばらく話した後、樹が不意に言った。「ねえママ、パパが言ってたんだけど、ママは忙しくてお正月に帰ってこれないって。もう仕事は終わったの?会いたいな。今日、お家に帰ってきて一緒に遊んでくれない?」小夜の心が、ちくりと揺れた。星文を助けたばかりで、その光景に心を揺さぶられ、感情の起伏も激しかったせいか、彼女も無性に樹に会いたくなっていた。だが、今の自分は体が弱って怪我もしており、まだ入院中だ。会いに行けるはずもなかった。「樹、ごめんね。ママはまだ仕事が終わってないの。また今度、必ず会いに行くから。パパに先に……」小夜は言葉を選びながら、穏やかな声で断った。それを聞いた樹は、途端に機嫌を損ねた。本当にママに会いたかったのだ。それに、この数日、パパと若葉おばさんはどこかへ遊びに行ってしまい、自分を連れて行ってくれない。おじいちゃんとおばあちゃんはひいおじいちゃんの家に行ってしまい、家には誰も遊んでくれる人がいない。一人でゲームをするのは、もう飽きた。それなのに、自分から電話をかけてあげたのに、断られた。昔なら、自分が「一緒に遊びたい」と言えば、ママは何をしていても喜んで飛んできたのに。今では、断るなんて!考えれば考えるほど腹が立ち、苛立って、樹はもうママの話を聞きたくなくなった。ぷつり、と一方的に電話を切る。もう二度と、ママに電話なんてかけてやらない。たとえママからかかってきても、絶対に出てやらない。やっぱり若葉おばさんが一番だ。パパがどこに連れて行ったかさえ分かれば、今頃、若葉おばさんと一緒に遊べたのに。そう思うと、彼はすぐに若葉に電話をかけた。電話があまりに突然切れたので、小夜は何かあったの
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