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Alle Kapitel von 血と束縛と: Kapitel 1241 – Kapitel 1250

1386 Kapitel

第36話(1)

 三連休に入る前日、和彦の予定は非常に慌しいものとなった。 平日であるため、当然のように日中はクリニックでの仕事をこなしたのだが、こんな日に限って、どうしても今日診てほしいと急な予約が入ったため、時間の調整に四苦八苦することになったのだ。おかげで、最後の患者を見送ったとき、診療時間を三十分ほど過ぎていた。 そこから、連休に入る前ということで、スタッフにはいつもより念入りに清掃を行ってもらう傍ら、和彦は休み明けの業務の準備を整えておく。 和彦の場合、他人の予定に振り回されることが多いため、万が一を考えておく必要がある。例えば休み明け、きちんと出勤できるとは限らないのだ。 自分の手帳に必要なことを書き込みながら、意識しないまま和彦は眉をひそめる。休み明けが平穏無事であることを願うのはもちろんだが、何より重要なのは、連休中、自分が無難に過ごせるかどうかだ。 すでにもう不安しか感じない――とは、口が裂けても言いたくないが、やはり不安だ。 スタッフたちが帰ると、和彦は即座に戸締りなどを確認して回り、アタッシェケースを掴んでクリニックをあとにする。 ビルを出ると、大通りとは逆方向へと向かって、ほとんど小走りで移動する。息が上がりかけたところで傍らにスッと車が停まり、和彦は素早く乗り込んだ。 シートベルトを締めながら隣に目をやると、朝、和彦が運び込んでおいたボストンバッグだけではなく、見覚えのないガーメントバッグもある。「……これ、ダークスーツが入っているのかな……」 思わず呟いた和彦に応じたのは、ハンドルを握る長嶺組の組員だ。「いえ、普通のスーツです。あちら――清道会からの要望だそうで、堅苦しい席ではないからということで。時間がなかったため、さすがにオーダーメイドというわけにはいきませんが、先生に似合いそうだとおっしゃられて、組長自ら選ばれたものです」 そうなのか、と和彦は口中で洩らす。慌しい思いをしたのは、どうやら自分だけではないらしく、和彦を送り出す長嶺組も、いろいろと準備に追われたようだ。 シートに身を預け、すっかり日が落ちるのが早くなった外の景色を眺めてい
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第36話(2)

「ここは、わたしの実家なんだ」 よく磨かれた廊下を歩きながら、御堂が切り出す。やはり足音を立てずに歩くのだなと、変なところに感心していた和彦は、数瞬の間を置いて目を丸くする。 御堂の寛いだ服装や、自分たち以外に人の気配が感じられないことから、何かある家だとは思っていたが、御堂の実家だというのは予想外だった。「ご覧のとおり、広さだけが取り得の古い家なんだが、家族はいないから、遠慮はいらない。ホテルか旅館を取ろうかとも思ったんだが、清道会に予約を任せると、同じ建物内に、招待されたあちこちの組の関係者がうろつく事態になりかねない。わたしとしても、人目を気にせず、君とゆっくり話したかったんだ」「お気遣いはありがたいですけど、本当に、いいんですか? 長年つき合いがあるとか、親しい友人というならともかく、ぼくは御堂さんと知り合ったばかりなのに、連休の間、滞在させてもらうなんて……」「賢吾の大事な人というだけで、十分信頼に値する。それに、わたしとしては、君ともう友人のつもりだったんだが」 肩越しに振り返った御堂から悪戯っぽく笑いかけられる。それで和彦は、いくぶん肩から力を抜くことができた。 案内されたのは、広々としたきれいな和室だった。「この部屋を使ってくれ。もし使い勝手が悪いようなら、他にいくらでも部屋はあるから、遠慮なく移ってくれていいから」「いえ、そんな……」 もごもごと口ごもった和彦だが、一旦部屋に荷物を置き、案内を続ける御堂について歩きながら、思いきって尋ねてみた。「御堂さんは、ここで一人で生活されているんですか? ホテルを転々としているとおっしゃっていたような……」「いや、今は別に部屋を借りて、そこで寝起きしている。ここは、総和会総本部にしても本部にしても、通うには遠い。清道会の事務所の一つが近くにあって、万が一にも何かあったときは駆けつけてくれるから、君を泊める間は、その点ではありがたいんだが……、まあ、はっきり言って、持て余している家だよ。実家ではあるけど、親もいないし、継いでくれる身内もいないし」
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第36話(3)

「仕事終わりのうえに、車での移動もあったから、疲れただろう?」「いえ、慌しいのには慣れているんですけど、明日は何か粗相をしでかすんじゃないかと、それが心配で……」「よほど仰々しい行事を想像しているのかもしれないけど、ただの傘寿の祝いの席だ。しかも、店を貸し切っての。集まっている面子が、少々強面揃いではあるが……」 和彦が情けない顔をすると、ニヤリと鋭い笑みを浮かべた御堂が軽く手を叩く。「さあ、風呂に入ってきて。その間に、布団を敷いておく。わたしは自分の部屋に引っ込むから、君もゆっくり過ごすといい。欲しいものがあれば、遠慮なく声をかけてくれ」 御堂が立ち上がろうとしたので、和彦は咄嗟に呼び止める。急いで手土産を差し出し、頭を下げた。「――今夜からお世話になります」** 明日のことを考えると眠れなくなりそうで、布団に入る前に和彦は安定剤を飲んでおいた。いかにも睡眠不足の情けない顔を人前に晒して、賢吾だけではなく、御堂の顔に泥を塗りたくなかったのだ。 飲み慣れた薬なので、効き目についてはよく把握している。緩やかな眠気がやってきて、朝までぐっすり眠れるし、いままで特に具合が悪くなることはなかった。――いままでは。 咳き込んで寝返りを打った和彦は、意識がぼんやりとした状態で真っ暗な天井を見上げる。不快さで目が覚めた。 猛烈な眠気に促され、次の瞬間には意識を手放してしまいそうなのに、強烈な喉の渇きがそれを許してくれない。 初めて訪れた場所で、しかも、ひどく緊張したまま横になったせいだろうかと考えながら、頭上に手を伸ばす。枕元のライトをつけて、ゆっくりと体を起こしたが、途端に頭がふらついた。 再び布団の上に倒れ込みそうになりながらも、懸命に這い出し、壁にすがりつくようにして立ち上がる。足元が覚束ないうえに、力も入らず、スリッパも履くことができない。仕方なく、裸足のまま暗い廊下に出た。 意識が朦朧としたまま、壁にもたれかかるようにして歩き出した和彦は、懸命に頭を働かせる。御堂に案内してもらったのに、キッチンがある方向がわからなくなっ
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第36話(4)

 半ば引きずられるようにして歩きながら、この青年は一体何者なのだろうかという疑問が、わずかに働く思考を占める。自分と御堂しかいないはずの家にいるということは、侵入者なのかもしれないが、そのわりには浴衣など着ているし、何より態度が落ち着いている。まるで、この家の一員のように。「部屋の場所、わかりますか?」「わからない、けど、障子を開けたまま出てきたから……。それに、電気もついてる」「だったら、わかるかな……」 独り言のように呟いた青年に連れられて、和彦は無事に元いた部屋へと戻る。慎重に布団の上に座らされると、そのまま前のめりに突っ伏しそうになったが、すかさず肩を掴まれて支えられる。「もう少しがんばってください。すぐに水を持ってきますから」 こくりと頷いた和彦がようやく顔を上げたとき、部屋を出ていく青年の後ろ姿が一瞬見えた。スッと伸びた背筋からうなじのラインに鮮烈な若々しさを感じ、だからこそ、彼のような存在がなぜここにいるのか、やはり気になる。 そもそも、実在しているのか――。 ふっと荒唐無稽なことを考えた和彦だが、妙に納得してしまう。歴史のありそうなこの家に、凛々しい面立ちをした青年の幽霊がいたとしても、きっと不思議ではない。 幽霊なのに怖くないのはありがたいと、座った姿勢のまま崩れ込みそうになりながら、和彦は口元に笑みを湛えていた。ここで、強い力で肩を抱えられ、口元に何か押し当てられる。反射的に唇を開くと、冷たい水がゆっくりと流し込まれてきた。 ようやく喉の渇きが治まり、和彦はほっと息を吐き出す。「ペットボトル、枕元に置いておきますから、足りなかったら飲んでください」「……ありがとう」 促されるまま横になった和彦は目を擦ってから、わざわざ布団をかけてくれる青年を見上げながら、頭に浮かんだ言葉をそのまま口にしていた。「ぼくは――、前に君に会ったことがある、気がする……」 青年は軽く目を瞠ったあと、口元に淡い笑みを浮かべた。「俺は、あなたをずっと前から知っている気が
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第36話(5)

「賢吾を招待するというのは清道会の発案で、そのことについて意見を求められたわたしは、賛同してしまったわけだが、ちょっと意地が悪かったかもしれないな。あの男も、なかなかつらい立場にあるとわかっているのに。父親は総和会会長。一方で、長嶺組と清道会とは昔からつき合いがあって、今も仲は悪くはない。そして、敵にも回したくない。そこで賢吾なりの返事が、君というわけだ」 苦笑いを浮かべた和彦はパンを齧る。守光と御堂の誘いを天秤にかけた結果だというのは、あえて言わなくてもいいだろう。御堂の打算によるものだとしても、そのおかげで、和彦は守光の誘いを無難に断る理由を得られたのだ。「君も、連休中は予定を入れたがっていたようだから、わたしとしても、心の痛みを感じなくて済む。……この家に、人の気配があるというのは、思っていた以上にいいものだし」 ここで和彦はあることが気になり、自分の前に並ぶ朝食を眺める。見事な手際で御堂が作ってくれたのだが、和彦が何より気になるのは、広い食卓についているのは二人だけで、当然、並んだ朝食も二人分ということだ。つまり、今この家にいるのは二人ということになる。 今朝、目が覚めてから、和彦はずっと不思議な感覚に陥っていた。とてつもなくリアルな夢を見たと思いながら枕元を見たら、水の入ったペットボトルが置いてあったのだ。つまり、夜更けに自分を助けてくれた青年は、確かに存在していたことになる。 しかし、御堂はその青年について何も語らず、実際、この場にはいない。「……やっぱり幽霊……?」 無意識に声に出して呟き、ありえないと否定しつつも和彦は、おそるおそる御堂を見遣る。青年のことを聞いてみたいが、なんのことかと聞き返されるのが怖い。なんといっても和彦は、この家にあと二泊する予定なのだ。「まだ時間があるから、着替える前に今日の流れを説明しておこう。とは言っても、仰々しい挨拶をするわけでもないし、祝いの席の間、君の世話をしてくれるよう、ある人にも頼んであるから。君は気楽に飲み食いして、誰か話しかけてきたら、長嶺組長の名代だと正直に答えておけばいい」「ご面倒をかけます…&
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第36話(6)

「――秋慈といい、独特の目で極道を眺めるんだな。冷めているような、観察するような、それでいて、ゾクリとするような艶と熱を帯びている」 突然、低くしわがれた声をかけられ、ビクリと肩を揺らした和彦は傍らを見る。立っていたのは、清道会組長補佐である綾瀬だった。ダークスーツに包まれた立派な体躯の迫力に圧倒されながら、そっと頭を下げる。「さきほどは、ありがとうございました」 和彦の言葉に、綾瀬が首を横に振る。快活な笑顔を向けてくれたが、その拍子に、綾瀬の頬に残る深い皺のような傷跡が歪んだ。 さきほど和彦は、二階の座敷にいる清道会会長に挨拶をさせてもらったのだが、緊張で何もかもぎこちない和彦をフォローしてくれたのが、同じ座敷に控えていた綾瀬だった。もちろんその席には、御堂もいた。「君の面倒を見てくれと、頼まれていたからな」「御堂さんですね……」「あいつは今日は、会長の側から離れられない。その代わりというわけだ。清道会の中では、君はあまり存在を知られていないから、どんなアヤをつけられるかわかったものじゃない――とのことだ」「……すみません。綾瀬さんのような方が、ぼくなんかのために」 とんでもない、と言いながら、綾瀬がグラスを差し出してくる。中身がオレンジジュースであることにほっとして、和彦は口をつけた。「君は、清道会と長嶺組の絆の証だ。うちの組の者たちは、長嶺組長の配慮に感謝している。だから用心棒ぐらい、お安い御用だ。……ああ、いや、決して危険があるというわけではないから」 身内の集まりという気楽さもあるのか、総和会本部で会ったときよりも綾瀬の物腰は穏やかに思えた。初対面のときから、荒々しさや凶暴性は一切うかがわせない人物だっただけに、和彦の中ではなお一層印象のよさが増す。 一方で、どうしても脳裏に蘇る光景があった。御堂を激しく抱いていた綾瀬の姿と、右の肩から腕にかけて彫られた鳳凰の刺青だ。 隣に立っているのは、〈オンナ〉を抱いている男なのだと、やけに生々しい表現が頭に浮かび、そんな自分にうろたえる。「頃合いを見計らって送って
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第36話(7)

 綾瀬が『伊勢崎』と呼んだ男は、朗らかな様子で話す。ただし、両目に宿る鋭さと力強さは異様で、体内に満ちた力が迸り出ているようだ。綾瀬に比べて体格は標準的ではあるが、放つ気迫は互角――というより、男が上回っているかもしれない。 綾瀬と肩を並べて立っていた和彦は、意識しないまま半歩後ずさる。立ち入ってはいけない空気を二人から感じたせいだが、目敏く気づいた男――伊勢崎がこちらを見て、とんでもないことを言った。「――ずいぶん毛色の変わった別嬪を連れてるが、綾瀬、お前の〈オンナ〉か?」「滅相もない。ただ、大事な客人です。清道会にとっても、俺にとっても、……秋慈にとっても」 じっと見つめてくる伊勢崎の眼差しは、明らかに和彦を値踏みしていた。自分のすべてを見透かされてしまいそうな危惧を抱き、和彦は早口に名乗ったあと、こう告げた。「お二人で話したいこともあるでしょうから、ぼくは庭のほうを見てきます」 頭を下げ、逃げるようにしてその場を離れる。単なる方便だったのだが、二人がまだ自分を見ていると知り、やむなく庭へと出る。 建物同様、見事な日本庭園だった。植えられた木々の枝はよく手入れされており、鮮やかな緑の葉をつけている。紅葉の時季にはまだ早いようだ。 水音が耳に届き、池があるのだと知った和彦は誘われるように歩き出す。庭に出ている客は自分ぐらいかと思ったが、小さな池のほとりに立つ人の姿があった。 所在なく立っている様子に、建物の中は居心地が悪かったのかなと想像してしまう。それは和彦も同じで、こんなところで仲間を見つけたと、唇を緩めたとき、こちらの気配に気づいたようにその人物が振り返った。「えっ」 和彦は声を洩らす。御堂の家で、夜中、自分に水を飲ませてくれた青年だった。今は、いかにも着慣れていないスーツ姿ではあるが、スッと伸びた背筋からうなじのラインにも、記憶を刺激される。間違いなかった。「どうして、君がここに――」 青年の側まで歩み寄り、声をかける。間近で見て改めて、やはり若いなと思う。そして、前にもどこかで会ったことがあるとも。 青年が口を開きかけたとき、突然、声が上がった。
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第36話(8)

** 御堂の実家に幽霊など出ないとはっきりしたことは、ささやかながら和彦を安堵させた。心の底から存在を信じているわけではないが、得体の知れない人物が夜、建物の中をうろついていたというのは、気持ちがいいものではないのだ。「――……つまり、昨夜、ぼくを助けてくれたのは、やっぱり君だったのか」 和彦の言葉に、伊勢崎玲は微妙な表情となる。「助けた、というのは大げさです。ただ部屋に連れて行って、水を飲ませただけですから」「でも、君が見つけてくれなかったら、ぼくは廊下で朝まで寝ていたことになる」 ここで短く笑い声を洩らしたのは、玲の父親である伊勢崎龍造だ。さきほど名刺をもらったが、そこには、北辰連合会顧問という肩書きとともに、伊勢崎組組長とも記してあった。 これまでさまざまな組織の名を目にしてきた和彦だが、北辰連合会と伊勢崎組という組織に関する知識は、まったくなかった。おそらく総和会と直接関わりがある組織ではない。「秋慈には心底迷惑そうな顔をされたが、お前をあの家に泊まらせておいてよかったな。立派な人助けができたじゃねーか、玲」「……父さんが偉そうに言うなよ。御堂さんに迷惑かけたことは事実なんだから」 目の前の伊勢崎父子のやり取りを、微笑ましさと困惑が入り混じった気持ちで眺める。 とりあえず座って話そうということで、わざわざ少人数用の客室を用意してもらい、庭から場所を移動したのだが、なぜか和彦も同席している。遠慮しようとしたのだが、龍造の押しの強さに逆らえなかった。「夜遅くになって御堂さんの家に押しかけて、連休の間、俺だけ泊まらせるよう無理を言ったあと、自分はさっさと飲みに行って。俺は申し訳なくて、朝早くに家を出たんだぞ」「あー、だから今朝はいなかったのか……」 今の玲の話からすると、もしかすると御堂は、和彦と玲が顔を合わせたことを知らなかったのかもしれない。だとしたら、夜更けの訪問客について、あえて和彦に説明しなかったのも理解できる。 和彦が安定剤で眠り込んでい
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第36話(9)

「――長嶺組の艶聞は、小耳に挟んでいる。いや、総和会の艶聞と言うべきか」 和彦が咄嗟に気にしたのは、まだ高校生の玲の反応だった。父親の長い話は聞き飽きたという様子で、不機嫌そうに唇をへの字に曲げており、今の龍造の言葉に興味をそそられた様子もない。 こんな場に顔を出しておいて、自分の立場を隠し立てするつもりはないが、だからといって積極的に知らせるようなものではない。特に相手が、高校生の場合。 どういうつもりかと、和彦が険しい眼差しを向けると、龍造が何か言いかける。そこに、トレーを持った綾瀬がやってきた。「コーヒーを持ってきました」 和彦は慌てて立ち上がる。「すみませんっ。綾瀬さんに、そんなことをっ……」「気にしないでくれ」 部屋の微妙な空気を感じ取ったのか、綾瀬がわずかに頬の辺りを強張らせる。和彦は、各人の前にコーヒーカップを置きながら、さりげなく綾瀬と龍造に視線を向ける。 この二人に遺恨はないのだろうかと、漠然と思った。賢吾から端的な説明を受けただけだが、簡単に割り切って御堂を共有していたとは考えにくいのだ。何かしらの執着があるからこそ、〈オンナ〉にしたはずだ。そこまでしなければ手元に置けない存在があると、和彦自身が証明している。 綾瀬は表情らしい表情を見せないが、一方の龍造は、意味ありげに綾瀬を見ていた。息苦しくなりそうな沈黙が訪れたが、それは長くは続かなかった。 清道会の組員らしい男が恭しい態度で部屋に入ってきて、龍造に声をかけた。会長が呼んでいるということで、龍造はコーヒーを一口だけ飲んで立ち上がった。「玲、お前も来い。せっかくだから、紹介しておきたい。お前もこっちに来たら、何かのときに世話になるかもしれないからな」「……俺、礼儀とかわかんないけど……」「ガキのお前に、誰も立派な挨拶なんて期待してねーよ」 龍造は軽く手を上げ、玲を伴って部屋を出て行く。それを綾瀬は、軽く一礼して見送った。和彦は、そんな男たちの姿を、少し離れた位置から眺める。 部屋に二人きりとなると、綾瀬に手で示された
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第36話(10)

** 綾瀬が側についてくれていたおかげで、特に問題もなく時間を過ごした和彦は、昼を過ぎてから暇を告げる。しっかりと手土産を持たされて、敷地内にある駐車場へと案内されていると、途中で玲を見かけた。 手にしたスマートフォンと周囲を交互に見ており、何かを捜している様子だ。咄嗟に声をかけようとした和彦だが、どう呼びかけるべきなのか逡巡した。「――玲、くん」 大きな組織の幹部と同じ姓を、気安く呼ぶのに気後れしていた。玲は、訝しげにこちらを見て、居心地悪そうな表情を浮かべる。「すげー、呼びにくそうですね、俺の名前」 小走りで駆け寄ってきた玲の開口一番の言葉に、和彦は乾いた笑いを洩らす。「なんと呼んでいいのか、ちょっと迷ったんだ。君のお父さんと区別するために、名前のほうがいいかなって」「うちの地元じゃ、礼儀正しく『くん』や『さん』付けで呼んでくれる人間なんていませんから、一瞬誰のことかと思いました」 ふと和彦はあることに気づき、軽い周囲を見回す。玲が、組長の息子であることを思い出したのだ。「君、護衛はついてないのか?」 何を言い出すのかという顔をして、玲が肩を竦める。「ただの高校生に、護衛はつかないでしょう。父さんならともかく。その父さんも、護衛を嫌がって、滅多なことじゃ連れ歩きませんけど」「そういう、ものなのか……。それで君は、何をしてるんだ?」「用も済んだし、これから大学の見学に行こうかと思って。進学を希望している大学が、こっちにあるんです。こんな機会でもないと、どんなところか見ることできませんから」 玲が見せてくれたスマートフォンには地図が表示されている。どうやら最寄りのバス停留所か駅を探していたらしい。 本当に高校生なのだと、妙に微笑ましい気持ちになった和彦は、深く考えずについこう口にしていた。「ぼくも一緒に行こうか」「えっ……」「どこの大学を見たいんだ?」 戸惑いながらも玲が口にした大学名を聞いて、懐かしい気持ちになる。高校生の頃の和彦が、一時進学を望ん
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