All Chapters of 凍てつく愛、春風に溶けて: Chapter 1 - Chapter 10

24 Chapters

第1話

【星野さん、この離婚協議書は有効なものです。署名をすれば、一ヶ月後、自動的に婚姻関係が解消されます】星野佳苗(ほしの かなえ)はパソコンの前に座り、オンラインの法律相談チャットを利用していた。画面越しに望んでいた回答を得ると、彼女はお礼のメッセージを打ち込み、そのままログアウトした。足を引きずりながら部屋のドアを開けた途端、頭上から何枚もの写真が落ちてきた。鋭い縁が頬をかすめて血が滲んだが、佳苗は無表情のまま、その「家族写真」を見つめていた。夫である黒川明彦(くろかわ あきひこ)は満面の笑みを浮かべ、結婚前すら見せたことのないような優しい表情をしている。彼女が五年間育ててきた娘の黒川陽彩(くろかわ ひいろ)も、今にも溢れんばかりの幸せそうな顔をしている。皮肉なことに、その「家族写真」の真ん中に収まっているのは佳苗ではなく、明彦の初恋の相手、白石美鳥(しらいし みどり)だった。どう見ても陽彩の悪戯だ。半年前に美鳥が帰国して以来、佳苗はこの家において完全に「余計な存在」と化していた。……今日は佳苗の誕生日で、結婚五周年の記念日だった。明彦は適当な口実をつけて腹を立て、彼女に家でしっかり反省しろと言い捨てて、娘を連れて出かけてしまった。佳苗は美鳥のSNSで、三人が遊園地に行き、家族水入らずで楽しく遊んでいるのを見た。写真には、極度の潔癖症である明彦が地面に片膝をつき、美鳥の靴紐を結んであげている姿が写っていた。まるで鋭い刃が心臓に突き刺さったかのようで、佳苗は息ができないほど心を痛めた。自分がこの家のために全てを捧げてきたのに、結局は他人の幸せの踏み台にされただけなのだと思うと、底知れぬ悲哀が込み上げてきた。佳苗はテーブルの前に座り、バースデーケーキのろうそくが徐々に燃え尽きていくのを見つめていた。やがて目の前の世界が真っ暗になった。彼女はまるで彫像のように、冷たく無情な家の中に佇んでいた。どれほどの時間が過ぎたのだろうか。突然リビングの明かりがつき、明彦と陽彩が帰宅した。佳苗の姿を視界に捉えると、二人の目には一瞬の嫌悪が走った。明彦は手にしていたギフトボックスを佳苗に投げつけ、ひどく苛立った顔で言った。「誰が料理にラードを入れろと言った?俺が薄味しか食べないのを知っているだろう。二度と同じ真似はするな。ほら
Read more

第2話

深夜の風が窓の隙間から吹き込み、物置部屋の中は少し肌寒かった。佳苗は服を着たまま横になった。七年もの間、彼女を縛り付けていた執念が消え去ると、驚くほど体が軽くなった。かつては失うことを恐れて不眠に苛まれていたが、今は抗いようのない睡魔が押し寄せてくる。だが、眠りに落ちようとしたその瞬間、腰のあたりに手が伸びてきて、ねっとりと撫で上げられた。佳苗が目を開けると、そこには欲望をぎらつかせる明彦の瞳があった。彼が何を求めているのか、嫌というほど分かった。以前はいつも佳苗の方から求め、明彦は煩わしそうに適当にあしらうだけだった。彼から求めてきたというのに、佳苗の内心は凪のように静まり返っていた。体は微塵も反応せず、目の前の男がまるで氷の塊であるかのように感じられた。明彦は眉をひそめ、不機嫌そうに言った。「どうしたんだ?」佳苗はその手をどかし、再び目を閉じた。「疲れたの」明彦は侮辱されたかのように怒りで全身を震わせ、声を荒らげた。「まだ昼間のことで腹を立てているのか?説明しただろう、美鳥とは過去のことだ。なぜそうやって、いつまでも引きずっているんだ!」返ってきたのは、佳苗の規則正しい、穏やかな寝息だけだった。薄暗い物置部屋の中で、明彦の瞳が怒りに燃える。彼は歯を食いしばり、吐き捨てるように言った。「いい気になるな。次は泣きついてきても、もう絶対に相手をしてやらんからな」荒々しくドアが閉まる音が響いたが、佳苗は気にも留めなかった。以前の彼女なら、明彦が少しでも不機嫌になれば、恐れおののいて機嫌を取り、地に跪いて許しを乞うていただろう。だが、執着を手放した今、もはや彼の感情に振り回されることはない。その夜、佳苗は泥のように深く眠った。七年という歳月の中で、ようやく訪れた安らかな眠りだった。翌朝、目を覚ましても、あの父娘のために朝食を用意することはなかった。代わりに一杯の茶を淹れ、自分だけの自由な時間を心ゆくまで堪能する。爽やかな風が吹き込み、窓の外では花が咲き誇っている。今日は、絶好の行楽日和になりそうだった。佳苗はスマホを眺めながら、残りの二十九日間を穏やかに過ごそうと心に決める。もうあの父娘のために心を痛めることも、涙を流すこともない。そんな折、美鳥のSNSが更新された。【想い続ければ、願いは必ず
Read more

第3話

佳苗が屋敷に戻ると、明彦は袋からみそ汁の入った容器を取り出し、無造作にテーブルへ放り出した。「昨日は少し言い過ぎたが、お前が美鳥を困らせるのがいけないんだ。ほら、これは俺が直々に作ったみそ汁だ。これを食べたら、さっさと美鳥に謝りに行け」これまで一度も包丁を握ったことさえない明彦は、今回ばかりは佳苗が感涙にむせぶに違いないと高を括っているようだった。佳苗はただ、その冷え切ったみそ汁を見つめ、心の中で自嘲した。――一体どこまで卑屈になれば、これほどまでに尊厳を踏みにじられることを許してしまうのだろう。これは美鳥の食べ残しに過ぎない。それを明彦は「褒美」として彼女に与えようとしているのだ。佳苗は静かに見つめるだけで、何の反応も示さなかった。明彦は苛立ちを露わにし、怒鳴りつけた。「お前、一体何が不満なんだ?これでも俺が折れてやってるんだぞ、いい加減にしろ。外で稼いでくるだけでも十分に神経をすり減らしているというのに、家でまで騒ぎを起こしやがって……少しは器の大きい女になれないのか」佳苗は淡々と言い放った。「私、シーフードアレルギーよ」明彦は言葉を失った。ようやく思い出したのか、その顔に一瞬だけ気まずさがよぎる。だが、佳苗の冷ややかな表情を目の当たりにすると、途端に逆上した。「たかがアレルギーごときで大げさなんだよ。死ぬわけでもあるまいし、いちいち注文をつけるな!」佳苗が何度も自分に逆らい、一向に引き際をわきまえようとしないことに激昂した明彦はみそ汁の容器を掴み取ると、抗う佳苗の口内へと無理やり流し込み始めた。まさか彼がこれほど狂った真似をするとまでは思わず、佳苗は避けようとしたものの、すでに何口か飲み込んでしまっていた。彼女は床に這いつくばり、激しく嘔吐した。彼女のシーフードアレルギーはクラス5で、微量に触れただけでも命に関わる。瞬く間に呼吸が困難になり、喉には水疱が広がり、皮膚には悍ましいほどの紅斑が浮かび上がった。明彦は鼻で笑い、無惨に横たわる彼女を見下ろした。「悲劇のヒロイン気取りか?毎日毎日、俺に小細工を仕掛けやがって。自分が美鳥みたいな美女だとでも勘違いしているのか?今のお前なんて、若さも美貌も失った、ただの足の不自由な出来損ないだ!こっちが歩み寄ってやってるうちにさっさと頭を下げろ。
Read more

第4話

入院して三日が経っても、明彦からは一本の電話すらなかった。見かねた主治医が、やりきれないといった様子で溜息をつく。「たとえもうすぐ離婚する仲だとしても、書類のサインくらいするのが筋というものですけれどね……」佳苗は何も答えず、ただ黙って窓の外を見つめていた。何度も裏切られ、絶望を繰り返すうちに、彼女の心はとうの昔に腐り落ちている。悲しむための気力さえ、もう残ってはいなかった。主治医は首を横に振り、独り言のように吐き捨てて病室を後にした。「まあ、それもそうだね。奥さんの入院を知って『死ね』なんて呪うような人なら、来ても来なくてもも同じだな」佳苗に悲しみはなかった。むしろ、あの無情な父娘の世話を焼く必要もなく、吐き気のするような「家族ごっこ」の光景を見なくて済む今の状況を、清々しくすら感じていた。退院の許可が下りた時、佳苗はひどく名残惜しかった。もしあと二十日ほどここに入院していられれば、退院と同時にこの街を去ることができるのに。だが、病院の規則には逆らえず、彼女は大人しく荷物をまとめた。屋敷に戻ると、家の中には誰もいなかった。床にこぼれた牛乳にはカビが生え、空気には異臭が漂っている。そして、床に残された黒ずんだ血痕が、目を背けたくなるほど生々しかった。佳苗は腑に落ちた。明彦は陽彩を連れ、美鳥に付き添って何日も外泊しているのだ。どうりで一切の連絡がないわけだ。彼は昔からそうだ。佳苗が少しでも自分の意に沿わないと、こうして意図的に無視を決め込み、彼女がひざまずいて許しを乞うてくるのを待つのだ。無理やりみそ汁を喉にねじ込まれた時の、あの男の鬼のような形相が脳裏に蘇る。人間とは、ここまで醜悪になれるものなのかと、彼女は静かに息を吐いた。美鳥のSNSが再び更新され、一枚の写真がアップされていた。海辺を散歩する三人の姿。三人の手が、しっかりと繋がれている。添えられた一文はこうだ。【穏やかで、満ち足りた日々】以前の自分なら、嫉妬で正気を失っていただろう。だが、今の佳苗の心は凪のように静まり返っていた。あの三人は、まさに「割れ鍋に綴じ蓋」。自分が立ち去った後は、どうか一生あの三人で縛り合い、二度と他人に害を及ぼさないでほしいものだ。佳苗がスマホの画面をロックした瞬間、一通の音声ファイルが送りつけられてきた
Read more

第5話

明彦たち三人が姿を見せると、すぐに店内の多くの客の視線を集めた。美男美女の二人は実にお似合いで、その間には可愛らしくも利発そうな子供が立っている。この高級レストランの常連なのだろう、顔見知りが多かったらしく、ほどなくして知人たちに囲まれ、賑やかな宴が始まった。「明彦さん、奥さんめちゃくちゃ綺麗だな。普段連れ歩かないのは、他の男に目を付けられるのが怖いからか?」友人の一人が冗談めかして笑う。明彦はわずかに頬を染め、そっと美鳥を盗み見たが、否定することはしなかった。美鳥もまた、淀みのない洗練された立ち振る舞いで皆と語らい、その美しい容姿も相まって、周囲にますます良い印象を与えている。さらに陽彩が、「ママ、ママ」と無邪気に懐いて見せることで、彼らが「絵に描いたような幸せな三人家族」であるという事実は、その場の誰もが疑わないものとなった。周囲からの賞賛に満ちたおだてにすっかり気分を良くしている明彦は、すぐ近くの席に佳苗がいることなど露ほども気づいていない。佳苗は静かな眼差しでその光景を見つめていた。驚くほど感情の波立ちすらなく、ただ手にしたワイングラスを静かに揺らすだけだった。南国のリゾートから帰ってきたばかりの彼らは、よほど楽しい時間を過ごしたのだろう。佳苗は席を立とうかとも思ったが、妻である自分がコソコソと逃げ出しては、まるで自分の方が「愛人」であるかのように見えて癪なので、そのまま留まり、窓の外の景色を楽しむことにした。一通り挨拶を終えた美鳥は、ふと佳苗の存在に気づいた。彼女はわざと明彦の耳元に顔を寄せ、甘く囁いた。「この数日間、本当にありがとう。あなたがいてくれなかったら、私、どうしていいか分からなかったわ……」明彦は慌てたように言葉を返す。「美鳥、そんな水臭いことを言わないでくれ」美鳥はさらに意図的に距離を詰め、ほとんど頬が触れ合うほどの近さで、極めて親密な雰囲気を醸し出した。明彦は心臓の鼓動を早め、照れ隠しのように俯いてグラスを見つめる。周囲から歓声が上がった。二人の熱々ぶりを見た友人たちが、囃し立てる。「キス!キス!」陽彩も小さな手を叩きながら、「パパ、キスして!」と無邪気に笑う。明彦は困ったように美鳥を窘める視線を送るが、そのどこか煮え切らない、欲求を押し殺したような表情が、かえって美鳥
Read more

第6話

明彦の顔色はどす黒く沈んでいた。レストランから逃げるように立ち去り、美鳥の誘いを断ったのは、彼の胸の奥にわずかながら罪悪感が残っていたからだ。しかし今、佳苗の能面のように冷え切った無表情を見た途端、猛烈な苛立ちが込み上げてきた。彼は忌々しそうに眉をひそめ、鞄から一つのギフトボックスを取り出すと、ソファへと乱暴に投げ捨てた。「お前のせいで美鳥の抑うつ状態が悪化したんだ。だから俺が気晴らしに付き合ってやったんだ。謝罪もしないばかりか、レストランまで尾行してくるとはな……本当に、吐き気がするほど卑劣な女だ」佳苗は投げ出された贈り物に一瞥もくれず、ただ明彦の顔を静かに見つめていた。彼女の頭にあるのは、この男がいつ離婚を切り出すのか、その一点だけだ。そうすれば、すぐにでも荷物をまとめてこの家を出て行ける。だが皮肉なことに、明彦はレストランでの失態などなかったかのように振る舞い、それどころか見事なまでの逆ギレで全ての非を彼女に押し付けてきた。佳苗は内心で深く溜息をついた。どうやら前倒しでの離婚成立は望めそうにない。やはり、あと二十日間は耐えるしかないのだ。以前の佳苗なら、彼が声を荒らげるだけで狼狽し、無条件に折れていたはずだ。たとえ彼がどんなに理不尽な言いがかりをつけ、無茶苦茶な論理を振りかざしたとしても、彼女は反論ひとつせず、ただひたすら自分を責めて謝り続けていたのだから。それなのに、目の前にいる佳苗は、まるで遠く離れた別の世界にいるかのように、その本心が全く読めない。佳苗が自分の支配下から抜け出そうとしている感覚を、明彦は極度に嫌悪した。彼は不機嫌に言い放つ。「何度も言っているだろう、俺と美鳥はただの友人だ。なぜお前はそうやってねちねちと執着するんだ?そんな暇があるなら、少しは自分磨きにでも時間を使ったらどうだ?」佳苗はふっと笑い、静かに頷いた。「ええ、あなたの言う通りね。私……もっと自分を磨かなくちゃいけないわ」予想外の肯定に、明彦は一瞬言葉を失った。てっきり嫉妬して食ってかかってくると思っていたのだ。だが、自分からレストランの話題を持ち出すのも気まずく、彼は行き場のない怒りを爆発させ、テーブルの上の物を力任せに薙ぎ払った。ガシャーンという激しい音とともに物が散乱したが、佳苗はただ静かに見つめるだけで、止めようと
Read more

第7話

離婚が間近に迫っているという解放感のせいか、佳苗は彼らの顔を見ても以前ほど不快感を覚えなくなっていた。だが、その態度は相変わらず冷淡で、何の感情も宿っていなかった。明彦は十日あまりも外泊を続け、佳苗が折れて頭を下げてくるのを傲慢に待ち続けていた。しかし、佳苗はかつてのように「行かないで」と縋り付くこともなく、うってかわって底冷えのするような沈黙を貫いている。どんなに鈍感な明彦でも、佳苗の変化には気づかざるを得なかった。なぜかは分からないが、胸の奥底から得体の知れない焦燥感が湧き上がってくるのを感じる。従順すぎる佳苗を煩わしく思い、これまで何度も離婚を突きつけてきたのは彼の方だ。だが、今の氷のように冷たい彼女の態度は、彼をひどく不安にさせた。それは決して佳苗を愛しているからではない。ただの憐れみだ。佳苗がどれほど自分を愛し、自分なしでは生きていけないかを熟知していたからこそ、彼はこれまで幾度となく、容赦なく彼女を傷つけ続けてきたのだ。今回、予定より早く帰宅したのは、彼なりの「歩み寄り」であり、これ以上彼女が意地を張って当てつけをしないよう、折れてやるつもりだった。娘を連れて帰れば、佳苗は感極まって涙を流し、これまでの態度を泣いて詫びるだろうと思い込んでいた。だが、彼の目に映ったのは、佳苗の顔に浮かんだ、隠しようのない露骨な失望の色だった。――彼女は、俺たちの帰りを心待ちにしていたのではなかったのか?明彦は顔を曇らせ、鼻で笑って皮肉を放った。「どうやら、俺たちの帰宅が歓迎されていないようだな。なんだ?留守中に別の男でも引き込んでいたのか?」佳苗は肯定も否定もせず、無言のままきびすを返して物置部屋へと向かった。不倫をしているのは彼の方だというのに、よくもまあ彼のゲスな勘繰りを人に押し付けられるものだ。今の佳苗にとって、彼と一言でも言葉を交わすことすら時間の無駄でしかなかった。この家を出るまであと三日。これ以上、無意味な諍いを起こすつもりは毛頭ない。明彦は去っていく彼女の後ろ姿を見つめながら、顔を歪ませた。彼女を繋ぎ止めていた手綱が、指の間からするりと抜け落ちていくような感覚が強まった。結婚して以来、一度も感じたことのない動揺が胸に込み上げてきた。特に彼女の足を引きずる痛々しい姿を見た瞬間、彼の脳裏に過
Read more

第8話

佳苗は静かに美鳥を見つめていた。相手から強烈な嫉妬心が向けられているのをはっきりと感じ取り、ゆっくりと首を横に振る。「張り合う必要なんてないわ。私、もうどうでもいいから」美鳥は冷笑を浮かべた。「口では立派なことを言っても、結局は明彦のそばに居座り続けているじゃない。本当は贅沢な暮らしが手放せないんでしょう?この前、わざと明彦にみそ汁を作って帰らせて、あなたに無理やり食べさせたの。ねえ、どんな気分だった?」佳苗は全身を震わせ、美鳥を凝視した。胸の奥底に冷たい悲しみが広がっていく。美鳥でさえ自分がシーフードアレルギーであることを覚えているというのに。明彦は都合よく利用されていることにも気づかず、喜んで彼女の言いなりになっていたのだ。あの男は、自分のことなど微塵も気にかけていない。佳苗が口を開くより早く、明彦が陽彩を連れて部屋から出てきた。彼は厳しい口調で言った。「佳苗、陽彩にはよく言い聞かせておいた。普段から甘やかしすぎだんだ……俺は着替えてくる。後で一緒にオペラを見に行こう」美鳥が慌てて口を挟んだ。「明彦、私、あなたと映画を見に行きたくて来たのよ」明彦は足を止め、困惑した表情を浮かべた。彼は佳苗の様子が最近おかしいことに薄々気づいており、関係を修復しようと考えていたのだ。佳苗が自分を捨てきれるはずがないという絶対的な自負はあるものの、ここで再び美鳥を優先すれば、佳苗が本当に離れていってしまうかもしれない。少し考えた後、彼は首を横に振った。「また今度にしよう。佳苗と先に約束してしまったからな」そう言うと、彼は着替えのために二階へ上がっていった。美鳥の顔色が険しくなり、怒りで拳を強く握りしめた。以前なら明彦は自分の言うことに何でも従っていたのに、今回は断られた。強い危機感を覚えた彼女は、佳苗を憎々しげに睨みつけた。「あなた、一体どんな手を使ったの?」佳苗は彼女と男を奪い合う気など毛頭なかった。あんな人間のクズのために、エネルギーを浪費する価値などない。しかし、佳苗のその沈黙は、美鳥にとって明確な挑発と受け取られた。美鳥の表情が狂気を帯びた。持ってきたおもちゃの紙袋から一つの容器を取り出す。それはみそ汁だった。佳苗が反応する間もなく、美鳥は狂ったように飛びかかってきた。彼女は強引に佳苗の口をこじ
Read more

第9話

病院の病室では、美鳥がこれ見よがしに泣きわめいていた。しかし医師の診察によれば全く異常はなく、薬を処方されただけで入院の必要すらなかった。明彦は、苦しそうに振る舞う美鳥を見つめていた。その傍らでは、娘の陽彩がことさらに話を盛り、佳苗がいかに酷い女かを捲し立てている。わずか五歳の子供の口から、それほどまでに汚い言葉が次々と飛び出してくるなんて、一体誰が想像できただろうか。その時、明彦はふと振り返り、喋り続ける陽彩をじっと見据えた。陽彩はビクッと体を震わせ、恐怖で言葉を失った。明彦は深呼吸をして問い詰めた。「誰がそんな汚い言葉をお前に教えたんだ?お前には教養というものが全くないのか!」ここ数年、仕事にかまけて家のことはすべて佳苗に任せきりだった。昔の陽彩はとても可愛らしく、家に帰ればいつも自分に甘えてきた。あの頃の陽彩は、誰もが微笑ましく思うような天使だったのだ。いつからだろうか。陽彩が頻繁に佳苗をいじめ、母親に対する嫌悪感を隠さなくなった。最初は明彦も気に留めていなかった。佳苗が家でネガティブな感情を溜め込み、それが陽彩に悪影響を与えているのだと思い込んでいたからだ。だが突然、記憶の中の佳苗が本来はとても温厚な性格だったことを思い出した。陽彩が少し擦り傷を負っただけでも、彼女は極めて心を痛めていた。特に忘れられないのは、陽彩が癇癪を起こし、車が激しく行き交う大通りへ飛び出した時のことだ。あの時、佳苗が身を挺して抱きとめていなければ、娘の命はなかった。その代償は、彼女の片足だった。今になってよく考えてみれば、陽彩が変わり始めたのは、美鳥が帰国してからのことだった。そう気づいた瞬間、明彦は背筋が凍るような感覚に襲われた。どうやら、陽彩としっかり話し合う必要がありそうだ。明彦の様子がおかしいことに気づいた美鳥は、幼い陽彩が余計なことを口走るのではないかと焦り、慌てて頭を押さえて悲鳴を上げた。明彦の注意は一瞬で逸らされ、彼は狼狽しながら医師を呼びに走った。どうにか美鳥を落ち着かせた後、彼はようやく一息つくために病室の外へ出た。彼は美鳥を不憫に思い、人を殺そうとした佳苗の行動はあまりにも度が過ぎていると感じた。そこでスマホを取り出し、佳苗に病院へ来て土下座して謝るよう命令した。明彦は、離婚を盾にして彼女
Read more

第10話

明彦の顔が氷のように冷え切った。彼はその書類に見覚えがあった。一か月以上前、佳苗と口論になり、彼女を煩わしく思って投げつけた離婚協議書だった。あの時、佳苗は離婚協議書を見た瞬間に大人しくなり、それ以上逆らうことはなかった。明彦は以前から、佳苗を従わせるために「離婚」という言葉を脅し文句として使っており、それは毎回絶大な効果を発揮していた。あの日、彼は怒りに任せて協議書をプリントアウトし、サインを書き殴って彼女に投げ捨てた。まさか、一か月前に自ら放った弾丸が、時を越えて自分自身の胸を撃ち抜くことになるとは、夢にも思わなかった。署名欄の日付を見ると、ちょうど一か月前になっている。一か月も前から、彼女は本気で離婚するつもりだったのか。明彦は激怒して協議書をビリビリに破り捨てた。「俺は絶対に認めないぞ!」彼の歪んだ価値観では、佳苗は足の不自由な役立たずであり、自分という庇護者がいなければ生きていけない存在だった。そんな女に、自分から離婚を切り出す資格などあるはずがないのだ。明彦は無意識にスマホを手に取り、彼女に電話をかけて呼び戻し、高みから見下ろすように「罪を償う機会」を与えてやろうとした。だが、スマホを操作する彼の指が、不意に凍りついた。かつてないほどの凄まじい恐怖が全身を駆け巡る。佳苗が姿を消しただけではない。彼女の番号は、何度かけても「現在使われておりません」という無機質な音声に変わっていた。この広大な世界で、一体どこをどう探せば、彼女の痕跡を掴めるというのか。明彦はもはや、煮えくり返る怒りを抑え込むことができなかった。力任せにテーブルを叩きつけ、地を這うような低い声で吐き捨てた。「悪いのはお前じゃないか。俺が謝罪を要求して何が悪い!」屋敷の中には彼の怒号だけが響き、答える者は誰もいない。明彦は怒りを押し殺して病院へと戻った。彼は未だに、佳苗が罪悪感から逃げ出しただけであり、少し時間が経てば生活に困って自分から帰ってくるはずだと信じ込んでいた。その時が来たら、二度と勝手な真似ができないよう、徹底的に罰を与えてやるつもりだった。病室のドアの前まで来た時、明彦は美鳥と陽彩の会話を偶然耳にした。「パパには絶対に内緒よ、いい?もし聞かれたら、佳苗が私に嫉妬して、私を陥れようとしたって言うのよ。あなたも
Read more
PREV
123
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status