All Chapters of 身代わり婚のはずが、冷酷な黒竜様の狂おしい執着愛から逃げられません: Chapter 11 - Chapter 20

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第3話 他人(ひと)の夫(もの)を欲しがる女 03

「あの、痛い、です……黎斗様」 薫子が微かな声を漏らすと、黎斗はハッとしたように指の力を緩めた。  しかしその手は離さない。白く細い手首に刻まれた自分の指の跡を見て、黎斗の胸の奥で、黒竜が嗜虐的な悦びと、それを上回るほどの庇護欲に震えた。(なぜ、こんなにもこの女に触れていたいのだ。……噂では妹や使用人を虐げ、俺を騙すためにこの地へ来た、卑しい女のはずなのに!) 白藤家へ密偵をやり、届いていた報告書には、薫子の悪評がこれでもかと並んでいた。  妹の鈴子を呪い、家財を盗み、巫女としての力を悪用する「毒婦」。  黎斗はその言葉を信じて怒った。彼女がここを出て行くように仕向けてやろうとさえ思ったほどだ。 だが、目の前で藤色の着物に身を包み、今にも壊れそうに震えているこの女から感じるのは、泥のような邪気ではない。凛とした、そしてあまりにも懐かしい、清らかな香気だ。 理性が鳴らす警鐘を無視して、彼の本能は薫子の藤色の着物から漂う、清らかな百合のような香りを求めていた。 「お姉様、大丈夫? 黎斗様、お姉様は体が弱いですから、そんなに強くされては可哀想ですわ」  鈴子が割り込むように、黎斗の腕に自分の身体を密着させた。袖口から、薫子の霊力を変換した、鼻をつくほど甘ったるい媚香が放たれる。「……離せ」 黎斗が低く唸った。鈴子の香りは、理屈では「心地よいはずのもの」として認識されているが、今の彼には、腐った果実のような不快感しか与えない。「そんなこと仰らずに。……さあ、黎斗様。私がお疲れを癒やして差し上げますわ」 (この男、絶対に私のものにしてみせるわ。お姉様からすべてを奪うために、なんとか黎斗様に取り入らなきゃ) 鈴子の袖口から、薫子の霊力を変換した甘ったるい媚香が放たれる。だが黎斗はその香りに、言いようのない不快感を覚えていた。「離せと言っている。聞こえなかったのか」 彼の冷ややかな声に鈴子は一瞬顔を硬らせたが、すぐに艶やかな笑みを浮かべた。 「あら大変! 鈴子様、お顔に埃がついておりますよ!」 またしても千代(ちよ)だ。彼女はどこから取り出したのか、大きな手ぬぐいを鈴子の顔の前で勢いよく振って邪魔をする。「な、なんなのよ、もう!」 千代が放つ「無意識の浄化」によって、鈴子の術はまたしても消えてしまった。  鈴子が千代を殺さんとばかりに睨
last updateLast Updated : 2026-04-15
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第3話 他人(ひと)の夫(もの)を欲しがる女 04

 黎斗の鋭い牙が、薫子の柔らかな首筋に今にも食い込もうとした、その時―― 「お姉様、大切な物をお届けに上がりましたわ!」  静寂を切り裂くような甲高い声とともに、客間の重厚な扉が勢いよく開かれた。  千代が止める間もなく、鈴子が強引に戻ってきたのだ。 黎斗は苛立ちとともに薫子の体を離したが、その瞳は獣のような熱を帯びたまま鈴子を射抜く。「なんの用だ。下がれと言ったはずだ」「まあ、そんなに怖いお顔をなさらないでくださいまし。お姉様、お母様から持たされた『白藤家秘伝の香茶』を一緒にいただきましょう。黎斗様も、これをお飲みになればきっとお疲れが癒やされますわ」 鈴子は黎斗の殺気を感じながらも、慌てずに告げた。この香茶は、特殊な妖術が刷り込まれたもので、簡単な命令程度なら一般人を操ることができるものだ。もちろん、薫子には効果がないため、力を奪うために利用している。  鈴子は千代と薫子に微笑みかけた。「さあ、千代さん。お姉様にお茶の出し方を聞いて、用意していただけませんこと? とても体にいいものが入っておりますのよ」 黎斗は薫子を自分の腕の中から手放すのが惜しかったが、鈴子たちの前で続きはできない。「薫子、行ってこい」 「はい」  薫子がそそくさと立ち上がり、千代とともに足早に退室していった。部屋には黎斗と鈴子のふたりが残された。「少し、お話をしませんこと?」「特に話すことは無い」 (チッ、ガード固いな) 鈴子は舌打ちしたいのを堪え、幼少期のことを話しだす。「実は昔、このあたりに来たことがあったのです。その時、黎斗様にお会いしたような気がするのです」 真っ赤な嘘だったが、かつて薫子がこの辺りで行方不明になり、意識不明で見つかった話を覚えていたので、自分のことのように語った。もしやうまく接点を持っていれば、記憶を塗り返す術を使えばいい―― 鈴子の言葉に、黎斗がはっとした。「お前……もしかしてあの時の……?」(あの時? なにか知らないけどちょうどいいわ)「覚えてくださっていたのですか? 私もうろ覚えなのですが、はるか昔、あなた様にお会いしたことが――きゃっ」 黎斗はぎゅっと鈴子を抱きしめた。 幼い頃、命を救うために彼女が必死に祈ってくれたこと。  温かな気が、死にゆく自分を助けてくれたこと。  この容姿を見ても、驚かず、笑顔を見せて
last updateLast Updated : 2026-04-16
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第4話 偽りの絆 02

「……お前の慈悲深さには、胸を打たれるな。鈴子」  黎斗の低い声には、もはや薫子への情けなど一欠片も残っていなかった。鈴子の放った偽りの記憶は、彼の魂の核を侵食し、薫子を恩人の座を奪おうとした詐欺女として認識させている。 「……連れて行け。二度と俺の視界に入れるな。……離れの奥にある、古い地下蔵に閉じ込めておけ。鈴子、この女の処遇はお前に任せる」 「ありがとうございます、黎斗様。……さあ、お姉様。参りましょう?」 鈴子は黎斗の胸から離れると、薫子に近づき、その細い腕を強引に掴み上げた。耳元で、黎斗には聞こえないほどの冷酷な囁きを落とす。「……逃がさないわよ、お姉様♡」(私の妖力を維持するための『家畜』として、死ぬまで搾り取ってあげる) 薫子声も出なかった。 結局ここでも同じ扱いを受けることになるなんて。  実家とさほど変わらない冷遇になるなら、最初から期待なんかさせないで欲しかった。(……ああ。わたくしの居場所なんて、初めからなかったのね……) 引きずられるようにして連れて行かれたのは、和館の華やかな畳廊下からは想像もつかない、地の底に穿たれた隔離空間だった。 和館の縁側のさらに下、頑強な石積みの基礎を潜り抜けた先にある地下蔵。そこは、この屋敷の建築当初から時が止まったままの、陽の光を一切拒絶した「死の静域」である。  急勾配の木製階段を下りるたびに、空気は粘り気を帯びた湿り気に変わり、カビと古い木材、そして逃げ場のない土の匂いが鼻を突く。壁面は、かつて火事から家宝を守るために厚く塗り固められた漆喰が剥げ落ち、剥き出しになった赤煉瓦が、墓標のように冷たく並んでいた。 「ここがお似合いですわ。お姉様」  鈴子が手を離すと、薫子は冷え切った床に力なく崩れ落ちた。  天井を見上げれば、太い煤けた梁がまるで巨大な蜘蛛の足のようにのしかかっている。わずかに開いた高窓は土砂で埋もれ、そこから漏れるのは月光ですらなく、ただ淀んだ闇だけだった。 部屋の隅には、先代から忘れ去られたような埃まみれで朽ちかけたつづらが積み上がり、その隙間から這い出す冷気が、薫子の心を容赦なく侵食していく。 「ああ、そうだ。お姉様、暗いから特別な明かりを置いていってあげますわね」  鈴子が指を鳴らすと、蔵の入り口に置かれた古びた燭台に、妖しい青紫の炎が灯った。  それ
last updateLast Updated : 2026-04-18
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第4話 偽りの絆 03

  一方、薫子を地下へ追いやった黎斗は、洋館の二階にある書斎にいた。  和館の静謐(せいひつ)さとは対極にあるその空間は、帝都でも指折りの贅を尽くしたイギリス・チューダー様式の意匠(いしょう)で固められていた。  壁面を埋め尽くすのは、緻密な彫刻が施されたオーク材のパネル。マントルピースの上では、精巧なブロンズの置時計が、静まり返った部屋に規則正しい時を刻んでいた。重厚な絨毯は、下働きの者たちの気配さえも完全に吸い込み、そこには主君への畏怖と、死のような静寂だけが横たわっている。   黎斗はマホガニーの深い色つやを放つ書斎テーブルに肘を置き、物思いに耽った。  先ほどからの理性と本能の戦いにも疲弊していた。自分の頭の中で、ふたつの声が聞こえ、同時にそれらが反発するのだ。頭痛がひどい。  書斎へ図々しく同席してきた鈴子は、まるで自分がこの館の正妃であるかのように、勝手気ままに振る舞いだした。  彼女は薫子から奪った瑞々しい霊力を誇示するように、書斎に置かれた繊細な花瓶に触れ、室内の調度品を一つ一つ品定めするように愛でていた。  やがて鈴子が、七宝焼きの香炉に火を焚く。ゆらゆらと立ち昇る煙は、鼻をつくほど甘く、それでいて底に腐敗したような粘り気を感じる媚香の香りだった。途端に黎斗は不愉快になった。さきほどまで自分の理性を驚くほど落ち着かせてくれていた、あの、詐欺師女から香っている百合の匂いが消えてしまったからだ。   「黎斗様、この香り、素敵でしょう? 心が落ち着きますわ」  鈴子がうっとりと微笑み、彼に寄り添おうとする。華やかなレー
last updateLast Updated : 2026-04-19
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第4話 偽りの絆 04

  黎斗は、自分の足音だけが虚しく反響する階段を、何かに憑りつかれたように下りていった。 鉄の閂(かんぬき)に手をかけ、重厚な扉を引く。  そこには、冷え切った床の上に丸まり、震えている薫子の姿があった。鈴子が置いた呪いの青い灯火が、彼女の顔を蒼白に照らし出している。 藤色の着物は土埃に汚れ、乱れた髪がその白い頬に張り付いていた。その無残な光景を目にした瞬間、黎斗の胸の奥にある本能が暴れるように疼きだした。 「……薫子」  低く唸るような、でもどこか切なげな声に、薫子がゆっくりと重い瞼を持ち上げた。その虚ろな瞳から一筋の涙がこぼれ、闇に吸い込まれていく。 「黎斗、様……なぜ、ここに……」「黙れ。……お前のような詐欺師を、こんな場所に置いておけば、外聞が悪い」  吐き捨てるような言葉とは裏腹に、黎斗の身体は勝手に動いていた。蓄積された汚れと埃まみれの冷たい床に跪き、震える薫子の肩をその大きな掌で包み込んだ。 触れた瞬間、パチリと小さな光が弾けた。 (この香りだ……。どういうわけか拒絶しているのに、身体がこいつを求めている……なぜだ……)  黎斗の理性がプツリと音を
last updateLast Updated : 2026-04-20
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第5話 首筋に刻まれた刻印 01

「あら……」 先日の鈴子がやってきた事件から3日ほど経った。  着替えを行っていた薫子が、長い髪を結い上げた際、黎斗に触れられ、若干痣になっていた箇所が、小さな竜の刻印のようになっていた。(黎斗様がわたくしに付けた印……) そっとその痣を指でなぞってみると、心臓がとくん、と跳ねる。「薫子様、黎斗様に呼ばれたので、少し離籍いたしますね」 千代が鏡台の前でぼんやりしている薫子に声をかけたので、彼女が我に返った。「あ、ええ。行ってきて。わたくしは大丈夫だから」「はい。すぐ戻ります」 千代は薫子の部屋を後にした。 一方黎斗は書斎で一人、最近の帝都にはびこる妖の動きについての報告書に目を通していた。目で書類を追うのに内容が入ってこない。  黎斗の頭には、地下蔵で味わった薫子の甘い感触が忘れられずに、そのことばかりが占領していた。現在、鈴子という物理的な障壁が消えたことで、かえって彼の中で「鈴子への違和感」が肥大化しており、薫子への執着が増している気がした。(なぜあの詐欺師のことが気になるんだ。俺を助けてくれたのは鈴子なのに……) そう自分に言い聞かせるたび、黒竜の鱗が逆立ち、魂が否定を叫ぶ。  黎斗は苛立ちを隠すように、書斎から和館へと続く長い廊下へと足を踏み出した。  彼が向かうのは、以前より格段に待遇が良くなった薫子の部屋だ。「あれ、黎斗様。いかがされましたか?」「あ……薫子の様子を見に来たのだ。悪いことはしていないか?」「奥様がですか? とんでもありません。私達下々の者にも分け隔てなく優しくしてくださいます」「……そうか」「黎明様、それより千代に用事とはいかがされましたか?」「……お前を呼んだか?」「ええ。急ぎで来るようにと言伝があったので、伺いに行こうと思っていた次第です」「……」 呼びつけた記憶すらなかった。それほど黎斗は、薫子のことで頭がいっぱいだった。「様子を見よう」  薫子の部屋を開け、中に入っていった。黎斗が入室したことに気が付いた薫子が振り返る。  黎斗の視線は、真っ直ぐに彼女の首筋へと注がれた。  そこには、自分の付けた口づけの痕が、まるで真珠のような淡い光を纏った竜の紋章となって浮かび上がっている。「……!」 黎斗は息を呑んだ。  彼は無意識に瞬きを繰り返し、紋章を見つめた。
last updateLast Updated : 2026-04-21
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第5話 首筋に刻まれた刻印 02

  黎斗が去った後の薫子の部屋には、まだ彼の放つ冷たくも猛々しい覇気が残っていた。  薫子は指先で首筋の紋章をなぞる。それは触れるたびに、まるで生きているかのように微かな鼓動を返し、熱を放っていた。   (黎斗様、貴方はなぜ苦しそうな顔をされているの……?)    千代が戻るまでのわずかな時間、薫子は独り、鏡に映る自分の姿を見つめた。 この刻印は、黎斗の魂の一部。彼が自分を憎んでいるという言葉とは裏腹に、その黒竜の血は、彼自身も知らぬ間に薫子を「番(つがい)」として選び取っていたのだ。 そのことを、薫子も、ましてや印をつけた本人でさえ、知りえぬこと。    一方、洋館へと戻った黎斗の心は、激しい不協和音を奏でていた。 書斎の静寂の中、彼はマントルピースの前に立ち尽くす。 視界の端で、ブロンズの置時計がカチリ、カチリと冷徹な音を立てる。そのリズムが、まるで鈴子によって施された偽りの記憶を脳内に固定する杭のように感じられた。   (あの女は詐欺師だ。俺を救ったのは鈴子なのだ……)    そう呟くたび、心臓の鼓動が不規則に跳ねる。まるで自然界の摂理を崩そうとするかのような、不快な違和感。 彼の黒竜としての本能は、理性が作り上げた鈴子という像をことごとく拒絶し、地下蔵で涙を流していた薫子という真実
last updateLast Updated : 2026-04-22
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第5話 首筋に刻まれた刻印 03

  千代が再び印を結んで空を切る。 指先から放たれた微かな霊光が黎斗の額に触れ、黒竜の呪いによって澱んでいた意識の靄が、陽光に溶ける霜のようにわずかに晴れた。 「……ふう。少しは楽になったか」  黎斗は深く息を吐き、重たい頭を押さえた。だが、その安堵も束の間だった。 空を切った千代の指先が、何か硬質な障壁に弾かれるような鈍い感覚に襲われる。 (――なにかおかしい……)  千代は直感的に異変を感じ取った。今の浄化の術を阻んだのは、物理的な邪魔者ではない。この館の空間そのものに、鈴子の執着が妖術となって張り付いているのだ。それは、黎斗の意識が薫子の方へ向くたびに、強固に彼を縛り付けようとする呪いの残滓(ざんし)に他ならなかった。 「黎斗様、……失礼ながら申し上げます。鈴子様の戻りを待たずとも、薫子様の手を借りれば、その頭痛はもっと早く、確実に癒えるはずでございます」  千代の言葉に、黎斗の眉が険しく寄せられた。 「……あの詐欺師に、そんなことができるわけないだろう。しかもあいつに触れたら、黒竜の血が逆立つのだ」  黎斗は冷たく言い放ったが、その瞳には矛盾が宿っている。彼自身、地下蔵で薫子の首筋に口づけをした際、頭痛が嘘のように消失したことを覚え
last updateLast Updated : 2026-04-23
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第5話 首筋に刻まれた刻印 04

  それから1週間が過ぎた。準備を整えた千代は、早速黎斗の下を訪れ、書斎の扉を叩いた。  広い書斎の中央で、黎斗は山積みの書類に囲まれていた。  窓から差し込む斜光が、彼の漆黒の翼を煌めき照らしている。黎斗は人間ではなく異形の者であるが、その美しさは帝都一だ。千代は使えている主人に深く頭を下げた。そして、身内の法要のため数日の暇を要請した。  彼は羽ペンを走らせていたが、その動きがピタリと止まった。深く溜息を吐き、苛立ちを隠そうともせずに眉間の皺を深める。 「……今この時期にか。あの女がやって来たせいで、館の者たちが落ち着かないというのに」  不機嫌を塗り固めたような低い声音。  しかし、その瞳の奥には、館という巨大な迷宮の中で唯一の正気を失うことへの、言葉にならない焦燥が滲んでいた。  黎斗にとって千代は、単なる使用人ではなく、荒ぶる黒竜の血を鎮めるための、数少ない精神の均衡を保つ楔(くさび)でもあったからだ。体調が悪い時、朝にやってもらったように彼女に祓ってもらうことがある。 「申しわけございません。ですが、どうしても外せぬ用事でございます」  千代が恭(うやうや)しく頭を下げると、黎斗は不承不承といった様子で羽ペンを置き、傍らに控える従者に目配せをした。 「……わかった。馬車を手配してやる」 「ありがとうございます! とても助かります!」  千代が喜ぶ姿を見て、黎斗は険しかった顔の眉尻を少し下げ、ふ、と笑った。しかし、すぐに無表情に戻る。 「千代、里で無駄に時を過ごすな。できるだけ早く戻れ。お前がいなくては、この屋敷の空気が悪くなる」  それは、彼なりの不器
last updateLast Updated : 2026-04-24
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