《愛人の死に耐えられなかった夫、お前が死ねばよかったのにと言い残し自死ー妻は回帰したー》全部章節:第 31 章 - 第 40 章

50 章節

第31話

碧斗はアパレルショップのレジで会計を済ませ、店員から紙袋を受け取った。その姿を見た由利が、碧斗と紫苑に声をかけた。「そろそろ帰りましょう」「そうね、今日は新しいお洋服も買えたし」紫苑は嬉しそうにニッコリと笑った。彼女にとっては楽しい時間だっただろうが、由利にはなかなかに耐えがたい苦痛の時間だった。(やっと家に帰れるわ……)由利はそのまま一足先に帰路につこうとした。そのとき、碧斗が彼女に話しかけた。「由利、君も何か買ったらどうだ?」「……私?」思いがけない提案に、由利は目を丸くした。いつも外出のときは紫苑のことしか頭に無いような碧斗が、由利を気にかけるような発言をするのは初めてだったからだ。「何かって何を買えばいいの?」「……別に何でも。紫苑のように服でも買うのはどうだ?」「服……」由利は近くにあったアパレルショップに視線を移した。たしかにオシャレな服が並んでいるが、彼女は服にあまり興味がなかった。それに今は一刻も早く帰りたい。これ以上紫苑と碧斗と一緒にはいたくないのだ。「そうしたいところだけど、今はあいにく持ち合わせがないのよ。また今度買うことにするわ」「なら、俺が買ってやる」「……何ですって?」由利が驚いたように彼を見つめると、碧斗はきょとんと不思議そうに首をかしげた。「何をそんなに驚いている?紫苑の服を買ったんだから、君のも買うのは当然だろう」「……ハッ」呆れ果てて、乾いた笑みが漏れた。(今まで紫苑にばかりプレゼントを贈ってきた男だとは思えない発言ね)今さら、彼が何を言ったところで意味がない。昔の由利なら感動して泣いていたかもしれないが、今は違う。何より、碧斗に何かを貰いたくはない。暗い表情の由利に、碧斗が明るく声をかけた。「服が嫌なら、アクセサリーでも……」「……碧斗、私は平気よ。服は前にたくさん買ったばかりだし、今は本当に欲しいものがないのよ」「そ、そうか……?」迷うことなく断りを入れた由利に、碧斗は軽くショックを受けたように視線を下げた。「帰りましょう、紫苑」「え、ええ……そうね……ほら、義兄さんも行きましょう」紫苑はガックリと項垂れた様子の碧斗の手を引いた。紫苑の顔を見た碧斗は、僅かに元気を取り戻したようだった。由利は数メートル先を歩き、その後ろを碧斗と紫苑がついて行く。時刻は既に夜の八時
last update最後更新 : 2026-05-25
閱讀更多

第32話

玄関に立つ母の姿を視界に入れた由利は、思わず足を止めた。(母さん……)由利と紫苑の実の母親であり、碧斗の義母となった人。年齢は五十近いが、見た目は三十代のように若々しい。紫苑によく似た美貌は、今でも男性からの人気があるのだという。その美貌のおかげで一般家庭の生まれであったにもかかわらず、大企業の御曹司だった父と結婚することができた。世間的に見れば彼女は良き妻、良き母親であっただろうが、由利にとっては全くそうではなかった。(私は幼い頃から、いつも母さんの後ろ姿ばかり見ていたわ)母は紫苑を溺愛する一方で、由利に対してはいつも冷たくしていた。由利にとっては母親はいつだって遠い存在だった。「母さん、ただいま」「おかえり、紫苑。楽しかった?」「ええ、とっても!碧斗義兄さんがお洋服を買ってくれたのよ」「あらぁ、碧斗君は優しいのね」紫苑や碧斗の前では朗らかに笑う母だが、由利を見るとその視線は瞬時に冷たく変わる。彼女は碧斗の後ろに立っていた由利を視界に入れた。「……由利?」「ただいま、母さん」「……あなたも行っていたのね」実の娘に向けるとは思えないような冷めた目。まるで紫苑と碧斗の外出に由利がいたことが不快、とでもいうかのような顔だった。由利は一歩前に出ると、毅然とした態度で言い放った。「ええ、そうよ。碧斗に誘われたからついて行ったの。何か問題でもあるのかしら?」「なッ……その口の利き方は何なのよ……!」生意気になった娘に、母親は声を荒らげた。「いいえ、特に深い意味はないの。ただ母さんの顔を見ているとまるで私が二人のお出かけについて行ったことが気に入らないようだったから。誤解しないようにそう言ってあげただけよ」「わ、私はそんなこと……」思っていない、だなんて嘘だ。母は昔から由利が必要以上に紫苑と関わることを不快に思っていた。可愛げのない娘を、溺愛する紫苑に近付けたくなかったのだろう。(でも誘いを断った場合は叱ってくるのよね。ホンット、理不尽にもほどがあるわ)母は見た目こそ上品で穏やかだったが、よくヒステリックを起こす人だった。主に紫苑のことで。由利にとんでもない言いがかりをつけたことも一度や二度ではなかった。「母さん、私と碧斗義兄さんが姉さんを誘ったのよ。そんなこと言わないで」「紫苑……」紫苑が間に入ったことで落ち着きを取り戻し
last update最後更新 : 2026-05-26
閱讀更多

第33話

由利は口を開けたまま固まった。目の前にいる碧斗を見上げるが、彼は目を合わせてニコッと微笑むだけだった。(何を言っているの……?)状況が全く理解できなかった。たしかに部屋に行くとは言っていたが、その件はきちんと断りを入れたはずだ。あのときの由利の返事を聞いていなかったのか、それとも忘れたのか。どちらにせよ、いい迷惑だ。碧斗はそんな彼女の気持ちに全く気付いていないようで、そっと肩に手を触れた。「ッ……」体を撫でるその手つきはいやらしく、由利は寒気がした。碧斗に抱かれるのは初めてではないが、昔と今とでは気持ちが違う。由利は体を触る碧斗の手をそっと振り払った。「碧斗、来ないでって言ったのを聞いていなかったの?」「あのときは拗ねていてそう言ったんだろう?」「何を……」碧斗は何を勘違いしているのか、拗ねたがゆえの発言だと思い込んでいるようだ。来ないでというのは彼女の本心であり、誤解しないでほしいものだ。由利は真剣な表情で彼を見上げた。「拗ねていないわ。今日は疲れているし、そういうことをできるような気分ではないのよ」「疲れているだなんて……由利、君は昔から体力があるほうだ。あれくらいでできなくなるようなタマじゃなかっただろ?」「……」たしかに由利は病弱な紫苑に比べれば体力があるほうだが、それでも一般女性の平均だ。両親や碧斗は紫苑基準で言っているため、彼らにとって由利は超元気な人間ということになるのだ。「碧斗ったら、私が最近まで寝込んでいたことを覚えていないの?病み上がりで疲れているのよ」「そうだったな……」碧斗は由利のすぐ隣に座った。そういう雰囲気のせいか、いつもより距離が近い。彼は由利の肩を抱くと、そのまま胸に抱きしめた。(キャアアアア!!!助けて!!!)由利は心の中で悲鳴を上げた。碧斗は彼女を胸に優しく抱きしめたまま、そっと背中を撫でた。それだけでは足りず、美容院で切ったばかりの髪の毛にも触れた。しばらく髪を撫でていた手が下がって行き、今度は由利の腰を撫でた。そこで碧斗は異変を感じたように、由利の顔を覗き込んだ。「由利?何だか顔色が悪いぞ?」「……」お風呂上がりだけど、もう一回お風呂入ろうかな。ぐったりした由利を見た碧斗が、焦ったように口を開いた。「やっぱり、今日はやめておいた方がいいようだな……病み上がりだし、君に無理をさ
last update最後更新 : 2026-05-27
閱讀更多

第34話

その日、由利は幼い頃の夢を見た。目の前にいるのは碧斗だった。彼は真っ白な百合の花を彼女に差し出した。「由利、この花を見たら君が思い浮かんだんだ」由利と百合。きっと彼はそのことを言っているのだろう。もっとも、清楚可憐な百合の花と自分は真逆の存在だと彼女は昔からずっと思っていたが。それでも碧斗が君の花だと言ってくれたから、彼女は百合の花が好きだった。彼の好きなものなら、無条件で彼女も好きになった。それほどに、由利は昔から碧斗を愛していた。「碧斗……とっても嬉しいわ、ありがとう」夢の中での碧斗はまだ幼く、十歳くらいだろうか。そういえば、あのときの彼はまだ自分に優しかったな。いつからだろう、彼が私に冷たい目を向けるようになったのは。結婚前はまだ温かい目をしていたはずだ。それがいつからか、由利を疎ましく思うような目に変わっていった。由利は頬を真っ赤に染めて彼の手から百合の花を受け取ろうとした。そのとき、突然二人の間にある人物が割って入った。「――碧斗義兄さん!」「紫苑……」碧斗の背後から、二人に近付いてきたのは紫苑だった。いつもと変わらず、愛らしい見た目をしている。彼女が現れた途端、碧斗の視線は彼女に釘付けになった。「碧斗義兄さん、私の部屋に美味しいお菓子があるの。よかったら食べて行かない?」「本当か?ぜひ行かせてもらうことにするよ」碧斗は手に持っていた百合の花を道端に捨てた。道の端に捨てられたしおれた花が、今の由利とそっくりだった。既に彼の瞳に、彼女は映っていなかった。由利はそのことを悲しく思いながらも、二人を止めたり割り込んだりするようなことはしなかった。『あの子はあなたのことを姉として慕っているのよ。妹のちょっとした我儘くらい我慢しなさい』昔から何度も母親に言われてきたことだった。姉である私は、妹のために我慢するのが当たり前。自らの意思など関係がない。由利は昔からそうやって洗脳にも似た教育を母親から受けてきた。――碧斗、私を置いて行かないで。そんな心の叫びは誰にも届くことなく、彼女の胸の中で静かに消えて行った。二人が視界から消えたと同時に場面が移り変わり、さっきよりもかなり成長した碧斗と紫苑が目の前に現れた。制服を着ているから、おそらく高校時代だろうか。三人は同じ高校の出身で、由利と碧斗が三年の頃、紫苑は一年だった。二人は校
last update最後更新 : 2026-05-28
閱讀更多

第35話

「由利お嬢様、おはようございます」「……杏奈」朝一番、由利の部屋に現れて挨拶をしたのは杏奈だった。そういえば、前世でも彼女だけは毎日のように由利の元へやって来ては欠かさずに挨拶をしていた。(私ったら、とっても大切な存在にどうして気付かなかったのかしら……)あまりにも碧斗だけを見つめていたがゆえに、こんなにも自分のことを思ってくれている人が身近にいるということに気が付かなかったのだ。「今日はいつもより起きるのが遅かったですね。前はいつも五時に起きていましたよね?」「五時……」由利は部屋にかけてある時計に目をやった。時刻は朝の七時。いつも出勤するのが八時だから、ちょうど一時間前だ。元々職場まではそれほど遠くはない。由利は車通勤だし、十分間に合う時間だ。(……毎日五時に起きて碧斗のためにお弁当を作っていたっけ……)前世での由利は、妻として毎日碧斗に弁当を作っていた。碧斗はそのことをどう思っていたかは知らないが、少なくとも由利は彼に愛妻弁当を作れることが幸せだった。しかし、全く手を付けることなく返された日もあった。『悪いな由利、今日は忙しくて食べられそうになかったよ』『いいのよ碧斗、気にしないで』申し訳なさそうな顔の碧斗に、由利は笑顔でそう答えた。返された分は自分の夜ごはんにしていたっけ。時間をかけて作った彼のための料理だ。もったいなくてとても捨てられなかった。彼が残した冷めたご飯を一人で食べているときほど辛い時間はなかった。「そういえば……そうだったわね……」由利は切なげにポツリと呟いた。杏奈はそんな彼女を不思議そうに見つめた。「お嬢様、今からでもお作りになられますか?私が手伝えば、簡単なものくらいなら……」「――いいえ、いいのよ。杏奈」由利はニコリと笑い、杏奈の肩に優しく手を触れた。紫苑と同じくらい小柄な杏奈は、由利よりもだいぶ背が低い。いきなりの接触に、杏奈は困惑した。美しく聡明で、誰よりも高潔に生きてきた由利は杏奈にとって住む世界があまりにも違う人だった。「今まではそうしていたけれど……もう、いいのよ」「お嬢様……?」何かを諦めたかのような呟きに、杏奈は首をかしげた。「今日は碧斗のお弁当は作らないわ。そのことを彼に伝えておいてくれるかしら?」「は、はい……かしこまりました……」杏奈は頷き、由利の部屋を出て行った。
last update最後更新 : 2026-05-29
閱讀更多

第36話

由利はずっと、自分の家族たちが普通ではないということに気付いていなかった。この世界の中心は紫苑であり、自分は脇役に過ぎない。全員が由利より紫苑を愛するのは当然のことであり、何もおかしくはない。――思えば、碧斗を含めた夏目家は最初から全てが歪んでいたのだ。そのことに気が付いたのは三回目の生、同僚たちに言われたときだった。『異常とは……どういう意味ですか?』きょとんと首をかしげてわけがわからないというような顔をする由利に、同僚たちはあ然とした。彼女は事の深刻さにまるで気付いていなかった。『夏目さん……世の中の一般的な義理の兄妹はどれだけ仲が良くても腕を組んだり同じ部屋で夜を過ごしたりはしないのよ』『あら、そうだったんですか?』由利は職場の社員たちから見ても聡明で、仕事がよくできる真面目な女性だった。そんな頭の良い彼女が、こんなにも簡単で当たり前なことに気付かないなんて。『夏目さん、一度旦那さんと話し合ってみた方がいいわよ』『話し合い?何を話せばいいのでしょうか?』『妹さんとの距離感よ。いくら何でも……夏目さんが不憫だわ』同僚たちは彼女に心配の目を向けた。由利は何故、自分がそのような目で見られないといけないのか理解できなかった。『碧斗と話し合うことは何もありません。こんな私を妻として貰ってくれたことだけでも感謝しているんですから。そんなことでいちいち騒ぎ立てるわけにはいきませんよ』『そ、そう……?夏目さん、あなたってとっても寛容なのね……』同僚たちは若干引きながらも、それ以上由利に対して何かを言うことはなかった。そして彼女も、そのことを気にすることはなかった。(今思えば……彼らの言っていたことは正しかったんだわ……)異常だったのは由利たち夏目家の人間のほうで、同僚たちの言っていることは何一つ間違っていない。「……みんな私のためを思ってああやって言ってくれていたのに、私ったら馬鹿ね」杏奈と言い、どうして私はこんなにも身近にいる大切な人たちに気付かなかったのだろうか。機会は三度もあったというのに。「今回は絶対に間違えたりしない、私は私を思ってくれる人たちを大切にするのよ」そう決意を固めた由利はオフィスバッグと車の鍵を手に、部屋を出た。***由利が家を出た頃、碧斗はキッチンで困惑していた。「義兄さん、どうかしたの?」「紫苑……」
last update最後更新 : 2026-05-30
閱讀更多

第37話

車を十五分ほど走らせると、職場に到着した。オフィスへ入ると、見慣れた人たちの顔が視界に入った。「あら、夏目さん。おはよう」「おはようございます、柴田さん」由利は碧斗と結婚していたが、彼は夏目家に婿入りをしたので苗字は変わっていない。夏目家は男児に恵まれなかったため、由利の夫となった碧斗が婿として父親の経営する会社を継ぐことになっている。「体調が優れないと聞いていたけれど、もう平気なの?」「ええ、ご迷惑をおかけしました。もう何ともありません」「迷惑だなんて、そんなこと言わないでちょうだい。具合が悪くなったらいつでも言ってね」「はい、ありがとうございます」家とは違い、職場の同僚たちは由利を温かく包み込んでくれる。大きな会社ではなかったが、由利は居心地の良いここに入社して正解だったと心の底から思った。「今日はいつもみたいにお弁当?」「いえ、病み上がりだし作る時間が無くて……今日は外で済ませようと思っているんです」「あら、珍しい。なら私たちと一緒にご飯でも行かない?」その提案に、由利は満面の笑みで頷いた。「もちろんです!ぜひ行かせていただきます!」そんな彼女を見た同僚の一人が、何気なく口を開いた。「――夏目さん、何か前と変わったよね」「……そう、でしょうか?」予想だにしない言葉に、由利はパチクリと目を瞬かせた。驚く由利をよそに、社員たちは次々と同調した。「そうそう、私も思った!何か明るくなったというか、人が変わったみたい!」「何か良いことでもあったの?」「い、いえ……特にそういうわけではないのですが……」私は変わったんだろうか、と由利は近くにあった窓ガラスに反射した自分を見つめた。たしかに、前世よりも明るい表情をしているかもしれない。笑顔に違和感が無くなったような気がする。「――でも夏目さん、今の方がいいと思うよ」「柴田さん……」最初に由利に挨拶をした先輩社員が、ニッコリと彼女に笑いかけた。「そうですか?」「うんうん、明るくなったから私たちも前より接しやすくなったというか……いや、別に以前の夏目さんが接しにくかったっていうわけじゃないんだけどね!」「アハハ、わかってますよ」由利は明るく笑い、言葉を続けた。「実は、長い間切実に望んでいたものがあったんですけど……考えが変わって、何の価値も無いものだと感じるようになった
last update最後更新 : 2026-05-31
閱讀更多

第38話

あっという間に時間が流れ、昼休憩となった。「夏目さん、行きましょう」「はい、柴田さん」仕事に区切りをつけた由利は、椅子から立ち上がって伸びをした。久しぶりに仕事をしたせいか、何だかとても疲れた。(私も年を取って体力が無くなってきているのかな……)由利は明日から朝の空いた時間に軽い運動でもしようかと考えながら、先輩社員のあとをついて行った。いつも碧斗のために作った弁当の残り物を自分の昼食にしていた彼女にとっては、久々のランチだった。「夏目さんは本当に仕事がよくできるからいつも助かってるよ」「そう言って頂けるなんて嬉しいです。ありがとうございます」しばらく会話に花を咲かせていると、店に到着した。職場から徒歩五分ほどの、オシャレなカフェだった。いかにも若い女性が好みそうなメニューが並んでいる。ランチをするのは由利を含めて三人だ。由利以外の二人は彼女より年上で先輩ではあったが、普段からとても優しいお方だ。そのため、由利は碧斗と紫苑との外食よりも気が楽だった。「私はAランチにしようかな。夏目さんはどうする?」「私もそれにします」ボタンを押すと、若い女性の店員がやって来た。「Aランチ三つお願いします」「はい、かしこまりました」注文を終え、店員が奥へ下がって行く。料理が運ばれてくるまでは時間がかかるだろう。今同じテーブルを囲んでいる三人は、全員が既婚者だ。しかも由利以外の二人は子供までいる。そうなれば、自然と会話の内容は自分たちの夫への愚痴となる。「ウチの旦那ったら、全く育児に協力しないのよ……」「わかるわ、ウチもなのよ。子供の面倒見ててって言ってもまともに見ることができないのよ」「……」子供のいない由利には、彼女たちの苦労がよくわからなかった。前世、碧斗との間に第一子を身籠ったが、それは不運な事故で流産してしまったし。(あの子は生まれてくることもできずに、亡くなってしまったのよね……)あのときの苦痛、お腹の子の気持ちを考えると、胸が痛くなる。もしもあの子が生まれてきていたとしたら、どうなっていただろうか。そのようなことを考えたことは一度や二度ではなかったが、やはり自分が母親になるという姿は想像つかなかった。(それにどうせ碧斗は良い父親になんてなれなかったはずよ。紫苑との子供ならまだしも、私との子なら……)既に過ぎ去ったことを考
last update最後更新 : 2026-06-01
閱讀更多

第39話

ランチを終えた由利たち三人は、会計を済ませて外へ出た。「今日は私の奢りね」「ごちそうさまです、柴田さん」由利たちは来た道を戻り、職場までの道のりを歩いた。徒歩数分ではあるが、とても長く感じてしまうのは何故だろうか。「今日はすごい暑いわね……もうすぐ夏が来るんだって実感しちゃう」「そうですね……でもまだまだ、真夏の猛暑に比べたら今日はマシな方ですよ」今日はちょうど五月の始めだった。香織が回帰してきたのが四月だったから、たしかにその頃と比べたらほんの少しだが気温が高くなっているような気がする。(……そういえば私はいつも、よく晴れた真夏の日に回帰していたわね)碧斗が猟銃で自殺したのも、ビルの屋上から飛び降りたのも、彼と紫苑と出かけて通り魔に刺されたあの日も。全てが夏の日のことだった。つまり彼女は、ほとんど同じ時期に人生を終えているのだ。(……偶然?いや、それにしては出来すぎているわよね……)考え込んでいた百合に、先輩社員が声をかけた。「その様子だと、夏目さんは夏があまり好きじゃなさそうね」「……ええ、あまり好きではありませんね」――自分や碧斗が死んだ日だから、由利は夏を好きになれなかった。過去二度、由利は愛する碧斗の死を目の前で目撃してしまっている。そのときのことは今でも脳裏に深く刻まれていた。忘れることなど到底できない。特に一度目の衝撃は大きかった。彼が自身の頭に突き付けた拳銃が轟音と共に彼の頭を撃ち抜いた瞬間。部屋が血で真っ赤に染まり、碧斗は血だまりの中で倒れ込んだ。由利は血で汚れることなど気にも留めず、彼の死体を抱きしめて泣き叫んだ。(忘れていたと思っていたのに……今もこんなにも鮮明に記憶に残っているだなんて……)愛する人の死ほど悲しいものはない。紫苑を失った碧斗も、あのときの由利と同じ気持ちだったのだろうか。だとすれば、彼が自ら死を選んだ理由もわからないこともなかった。「…………?」そのとき、じっと考えていた由利の視界の端に、あるものが映った。「……………紫苑?」由利たちが歩いている道の反対側。道路を挟んだ反対側の歩道を、紫苑が歩いていたのだ。人がたくさんいるせいで目立たないが、由利にはわかる。(あの華やかな容姿は間違いなく紫苑だわ……)由利が彼女のことを見間違えるはずがない。由利は思わず立ち止まり、こちらに全く気
last update最後更新 : 2026-06-02
閱讀更多

第40話

そんなこんなで仕事が終わり、由利の退勤の時間となった。「お疲れ様です」「夏目さん、お疲れ様」由利は同僚たちに挨拶をし、職場を出ようとした。そのとき、一人の社員が由利を引き留めた。「あ、夏目さん。ちょっと待って」「……?」突然呼び止められ、振り返った。きょとんとしていると、彼女がお土産の紙袋を持って由利の元へ駆け寄ってきた。「こないだ旅行に行ったの。それで夏目さんにお土産を買ってきたのよ」「え、いいんですか?」誰かに物を貰うなんて久しぶりだ。碧斗はもちろん、両親も彼女にプレゼントなんてほとんどしてこなかった。子供の頃はまだあったような気がしたけど、今ではほとんどない。(そういえば……昔、あの人に……)何だろう。何かを思い出せそうな気がする。『由利、お誕生日おめでとう。君が欲しがっていたものを買ってきたんだ。喜んでくれると嬉しいな』遠い昔の記憶だった。まだ彼女が幼稚園だった頃。大きなクマのぬいぐるみを持った少し年上の少年が微笑んでいる。その顔は、碧斗にほんの少しだけ似ていた。今はもうほとんど思い出せないけれど、とっても大切な思い出。「――夏目さん、どうかしたの?」「……!」由利は我に返り、紙袋を受け取った。「いえ、何でもありません。お土産ありがとうございます」「どういたしまして、妹さんと旦那さんにもよろしくね」「はい」由利はお土産の礼を言い、今度こそオフィスを後にした。お土産の紙袋に書かれている可愛らしい生き物を見た由利は僅かに微笑んだ。(何だかとっても良い気分だわ)不意のプレゼントというのはこんなにも嬉しいのか。ほとんどされたことが無いからわからなかった。由利は車に乗り、帰路についた。あの人たちのいる家に帰るのは憂鬱だったが、そこ以外には行く場所がない。(部屋にこもっていればいいか……そうすれば両親や紫苑、碧斗とも顔を合わせなくて済む)家の広い駐車場に車をとめた由利は、紙袋とオフィスバッグを手に車を降りた。玄関を開けて中に入った彼女を真っ先に出迎えたのは、紫苑だった。「――姉さん、お帰りなさい」「……ただいま、紫苑」彼女が帰るのを待っていたのだろうか。ちょうど玄関に立っていた。いつもと変わらない笑顔でこちらを真っ直ぐに見つめる紫苑に、由利は何だか複雑な気持ちになった。(……今日、外にいたことを問い詰めるべき
last update最後更新 : 2026-06-03
閱讀更多
上一章
12345
掃碼在 APP 閱讀
DMCA.com Protection Status