《愛人の死に耐えられなかった夫、お前が死ねばよかったのにと言い残し自死ー妻は回帰したー》全部章節:第 21 章 - 第 30 章

50 章節

第21話

しばらく歩くと、近くにあるバス停に到着した。いつもなら車で移動しているところだが、公共交通機関を使うのは紫苑たっての希望だそうだ。普段あまり外に出ない彼女だからこそ、こうやって外を歩きたかったのだろう。「紫苑」「義兄さん、ありがとう」バスの段差を上がる際、碧斗が紫苑に手を差し伸べた。彼女は笑顔で彼の手に自分の手を重ねた。「あら、とっても優しい旦那さんね。羨ましいわ」そんな二人の姿を見て、後ろに並んでいたご夫人がクスクスと笑った。「うふふ、ありがとうございます」”旦那”という言葉に、紫苑は否定することもなくただ礼を言った。碧斗は紫苑の夫ではなく、本当はその後ろに並んでいる由利の夫だということを知ったら、彼女は驚いて卒倒してしまうのではないだろうか。(まぁ、いちいち訂正するのも面倒だからどうだっていいわ)由利は紫苑と碧斗について段差を上がり、先に乗っていた二人の元へ近付いた。「碧斗と紫苑は二人で座って。私は一人でいるわ」それだけ言うと、由利はすぐ傍にあった一人席に腰を下ろした。「……」他には誰も寄せ付けないというような彼女の振舞いに、碧斗は眉間にシワを寄せた。「行きましょう、義兄さん。私たちは……そうね、あそこの二人席に座ればいいわ」「……そうだな」紫苑と碧斗は再び段差を上がり、由利から少し離れた二人席に並んで腰を下ろした。(二人が近くにいないと思うと、何だか気が楽ね……)しばらくして、三人を乗せたバスが発車した。車内は満員で、立っている人も何人かいた。「わぁ、すごい!碧斗義兄さん、あれが有名なタワーよね?写真で見たことあるわ!」「し、紫苑……他にも人がいるんだから、もうちょっと静かに……」バスの車内で、紫苑は外の景色を眺めながらみっともなく騒ぎ立てた。人々の視線が彼ら二人に集中する。子供でもない紫苑がそのような行動を取るのは明らかにおかしかった。彼女は人々の刺すような視線に気付いていないのか、きょとんとした顔で碧斗を見た。「あら、別にいいじゃない。義兄さんも私はそのままでいいんだっていつも言ってくれていたでしょう?」「そ、それはそうだが……ここは公共の場なんだ……」碧斗は何とか彼女を落ち着かせようとした。由利はこのとき、やはり二人から離れた席を選んで正解だったと心から思った。しかし、いくら自分に害はないとはいえ、血
last update最後更新 : 2026-05-14
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第22話

しばらくすると、バスは目的地に到着した。立っていた由利は、紫苑たちよりも一足先にバスから降りた。ちょうど席を譲ったおばあさんもそこで降りるつもりだったようで、由利は最後まで手助けをした。「ゆっくりでいいですよ」「ありがとう」バスから降りたところで離そうとした由利の手を、彼女がギュッと掴んだ。「お姉さん、本当にありがとうね。よかったら受け取ってちょうだい」おばあさんは由利の手を握ったまま、あるものを彼女に渡した。「……お菓子?」由利の手の中にあったのは、チョコレートの包み紙だった。由利は何かに導かれるかのように、包み紙を開けてチョコレートを口に運んだ。「……美味しい」それを食べると、何故かとても胸が温かくなった。気付けばおばあさんの姿はなくなっており、代わりにある人物が由利の元へ駆け寄ってきた。「――姉さん!」「……紫苑、碧斗」駆け寄るなり、紫苑は由利の手をギュッと握った。おばあさんに握られたときはとても温かかったのに、何故か紫苑は冷たく感じた。「姉さん、さっきはとってもすごかったわ!」「……さっき?」由利は不思議そうに首をかしげた。「ほら、さっきお年寄りに席を譲ったでしょう?みんなが姉さんのことを褒めていたわ!」「あぁ……そうね」「すぐにああやって行動できる姉さんはやっぱりすごい!尊敬に値するわ!」「そ、そうかしら……?」紫苑は感動した、とでも言うかのように由利の手を掴んで揺さぶった。(あなたはずいぶんと迷惑をかけていたみたいだけどね)碧斗もちょうど由利と同じことを思っていたようで、後ろから困ったように紫苑を見つめていた。紫苑は満面の笑みを浮かべた。「誰にでも優しい姉さんは私の自慢の姉よ!」「優しい……」由利が紫苑に優しいのは当然だった。幼い頃からそうなるように教育されてきたのだから。他でもない両親や家庭教師の手によって。当然、紫苑自身はそんなこと知りもしないだろうが。由利は握られていた紫苑の手をそっと引き剥がした。「……紫苑、碧斗。そろそろ行きましょう」「ああ、そうだな」碧斗が首を縦に振り、三人は目的地へと向かった。「それにしても水族館なんていつぶりかしら……!最後に行ったのは子供の頃だったわ!お父さんとお母さんと一緒に行ったのをよく覚えているの」「そうだったのか」「……」由利たちが向かっていた
last update最後更新 : 2026-05-15
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第23話

由利は碧斗と紫苑について水族館内へと入って行った。「初めて来たわ……」由利は広い館内を見回してポツリと呟いた。二十六歳にして水族館に一度も来たことがないだなんて。彼女は何だか恥ずかしくなった。(碧斗と紫苑はどこにいるのかしら?)由利がきょろきょろと周囲を見渡していると、突然横から腕を引っ張られた。「姉さん、早く行きましょうよ!」「紫苑……」彼女の腕にしがみついたのは紫苑だった。その後ろには碧斗もいた。どうやら由利を待っていたようだ。(てっきり置いて行かれたと思っていたけれど……)由利は腕を絡ませる紫苑をじっと見つめた。いつもと変わらない、純真無垢な瞳で由利を見上げている。悪意のないその顔は、前世で見たものと全く同じだった。「姉さん、私あっちへ行きたいわ」「ええ、そうね……」紫苑は由利の腕を引いて歩き出した。紫苑は元々人懐っこい性格だ。そのようなところが周囲から好かれるのだが、一部からは異性に対する距離感がバグっているとも言われていた。恋人のいる男性への距離感の近さでトラブルになったことも何度かあったほどだ。姉の旦那と平然と関係を持つ紫苑のことだから、元々そんなもの気にも留めていなさそうだが。由利は無表情のまま碧斗の方を振り返った。「碧斗、何を突っ立っているの?」「義兄さん、早く来て!置いてっちゃうわよ!」「あ、あぁ……」碧斗は我に返った様子で二人について行った。***「わぁ、姉さん、碧斗義兄さん!すっごく綺麗よ!本物の海の中にいるみたい!」「えぇ、そうね……」紫苑が感激したように声を上げた。由利たちが今いるのは、シャチやイルカを見ることのできるエリアだ。透明なアクリルガラスの中では数頭の白いイルカが泳いでいる。(やっぱり、家族連れやカップルが多いわね)由利はすぐ隣にいた小さな子供とその両親をじっと見つめた。もし、あの子が産まれてきていれば碧斗とあんな風になれたのだろうか。顔すら見ることができずに亡くなってしまったけれど、由利は流産したあともあの子を忘れたことなんて一度もなかった。そういえば、三度目の生で私が死んだあと、紫苑は無事に子供を産めたのかな。普通の人よりも体が弱い彼女のことだから心配だった。紫苑の場合、由利と違って無事に生まれるまで碧斗が付き添ってくれるだろうから……「――ねぇ、姉さんは昔海に行ったこ
last update最後更新 : 2026-05-16
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第24話

それは、今から数年前のことだった。『姉さん!私ね、どうしても行きたい場所があるの』『……紫苑?』夜遅く、とっくに寝たと思っていた紫苑が彼女の部屋を訪れた。紫苑は寝間着姿のまま、由利の横に腰を下ろした。『紫苑、急にどうしたの……』『姉さん、一生に一度のお願いがあるのよ。私、明日どうしても外に出たいの』『外に……?どうして急に……』由利は紫苑のその頼みをすぐには受け入れることができなかった。紫苑を勝手に家から連れ出すだなんて、過保護な両親が知ったら卒倒してしまうかもしれない。『紫苑、お父さんとお母さんには伝えたの?』『いいえ、言っていないわ。言えるわけないじゃない、どうせ反対されるだけなんだから』わかっているならどうして私にそんなお願い事をするのか。いくら紫苑のお願いとはいえ、受け入れられない。由利は断りを入れて紫苑を帰すつもりだった。しかし、彼女はなかなか退かなかった。『お願い、姉さん。明日、私の好きな芸能人のイベントが隣の区で行われるの。私、どうしても見に行きたいの』『紫苑……』紫苑は一時間以上も由利の部屋に居座り続け、何度も渋る彼女を説得した。『病気がちだった私を元気付けてくれた推しなのよ……お願い、姉さん。一目見れたらすぐに帰るから』『……わかったわ、お父さんとお母さんには内緒よ?バレたら私が叱られるから……』『姉さん、ありがとう!』紫苑は嬉しそうに笑みを浮かべて由利に抱き着いた。(まったく……本当に困った子ね……)由利は紫苑のそんな我儘なところも愛らしいと思っていた。その行動が最悪な結果を招くことになるなど、このときの彼女は知る由もなかった。翌日、由利は両親に内緒で紫苑を車に乗せ、イベントが行われる場所へと向かった。ちょうど父親は仕事でおらず、母親も不在だった。由利は出かける前、紫苑と固く約束をした。一目見るだけで帰るということと、絶対に勝手な行動はしないということ。しかし、会場に着いた頃には紫苑は由利と交わした約束などすっかり忘れていた。『キャー!姉さん、推しが私の目の前にいるわ!とっても素敵!』『し、紫苑……危ないからあまり走らないで……』車を降りた紫苑は、一目散に駆けて行った。由利は紫苑を引き留めようとしたが、もはや彼女の制止など耳には入っていなかった。『ま、待ちなさい!紫苑!』すぐに帰ると約束した
last update最後更新 : 2026-05-17
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第25話

「――姉さん、そんな顔してどうしたの?」「……」由利は何も答えることができなかった。目の前にいる紫苑が恐ろしくてたまらなかったのだ。いつもと変わらない、愛らしい笑顔を浮かべているはずなのに、どうしてこうも不気味に見えるのだろうか。由利はあの日の出来事を忘れたことはなかった。彼女が家族全員から嫌悪され、見放された日だったからだ。あのときの両親と碧斗の目が未だに頭から離れない。もう一度あのような目に遭ったら、由利の心はきっと壊れてしまうだろう。(……紫苑はきっと、あの日のことを忘れているのよ。そうだわ、そうに違いない)紫苑は昔から忘れっぽいタイプだった。きっとさっきの発言も、わざとではないのだろう。「い、いいえ……何でもないわ……」「そう?なら、私をどこかへ連れて行ってくれるのね!」「え」紫苑が嬉しそうに目を輝かせた。(紫苑をどこかへ連れて行くですって……?)由利はあのような目に遭うのは二度と御免だった。そのため、断りを入れようとした。「紫苑、私は……」「――碧斗義兄さん、姉さんはとっても車の運転が上手いのよ。前に乗ったことがあるんだけど、駐車がすっごく上手だったわ!」「……!」その言葉で由利は確信した。紫苑はあの日のことを忘れてなんていない。しっかり覚えていた。――なら、どうして私にそんなことを言えるの……?私があの一件でどれだけ両親に叱られたかはあなたもよく知っているはずなのに。「……そうなのか?君が運転が上手いとは、意外だな」「……」碧斗は顔色の悪くなった由利を、首をかしげて見つめた。由利は二人の視線を受けて、震える声で何とか言葉を紡いだ。「……そんなことは、ないわ……運転なら、碧斗の方がずっと上手いわよ、だから碧斗に連れて行ってもらったらどうかしら?」「そうね、たしかに碧斗義兄さんもとっても上手だわ。碧斗義兄さんの車の助手席にまた乗りたいわ」「今度な」碧斗は紫苑の頭を優しく撫でた。紫苑が照れたようにエヘヘと笑った。(助手席に”また”乗りたい、か……)紫苑は碧斗の車の助手席に乗ったことがあるようだ。自分で運転できる由利は碧斗の助手席に乗ったことなんて一度もない。どっちが本妻で、どっちが義妹なんだか。「そうだ、この近くに海があるから……帰りにちょっと見に行くか?」「本当!?嬉しい!行きたいわ!」碧斗
last update最後更新 : 2026-05-18
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第26話

「碧斗義兄さん、姉さん。私お腹が空いたわ」「なら、そろそろご飯にしようか」「そうね、ちょうど七時だし」由利は頷き、三人は近くの飲食店を探した。水族館の周りはかなり都会で、お店はいくらでもある。碧斗は横を歩く紫苑に尋ねた。「紫苑、何か食べたいものはあるか?」「あそこのハンバーグ屋さんとかとっても美味しそう!」紫苑は近くにある洋食屋を指さした。「由利は……」「私は何でもいいわ」「……そうか、ならあそこにするか」碧斗は由利をチラリと一瞥しながらそう言った。(どうせ私が希望を言ったところで紫苑の方を優先してたでしょうに)彼が由利の希望を聞くのは形式的なものだ。わざわざ口にしたところでそれが通ることはほとんどない。わかっていて、いちいち答えるような面倒なことはしない。「楽しみだわ、碧斗義兄さん」三人は洋食屋の列に並び、十分ほど待ったあと、店内へ通された。「碧斗は紫苑の横に座って。私は一人でいいわ」「……」案内されたのは四人がけのテーブル席だ。由利は碧斗と紫苑を隣同士で座らせ、自分は向かいに一人で座った。(普通なら、夫婦が隣同士で座るわよね……)当然、最初は由利も碧斗の隣に座り、紫苑を正面に座らせていた。しかし、いつからか碧斗は紫苑委何かあったときにすぐ反応できるようにと彼女の隣を望むようになったのだ。前世ではそれが当たり前となっていた。紫苑がメニュー表を見ながら声を上げた。「とっても美味しそう!私、このチーズのハンバーグが良いわ!」「紫苑、一人でこんなに食べきれるか?」「あら、残したら碧斗義兄さんが食べてくれるんでしょう?」「そうだな……」紫苑は自然に碧斗の腕に自身の手を絡ませた。そのようなボディタッチを見せられたところで、今さら何とも思わない。「由利はもう決めたのか?」「ええ、店員を呼んでいいわよ」碧斗がボタンを押して店員を呼び、三人はそれぞれの注文を口にした。店内は満員で、料理が運ばれてくるまでは二十分ほどかかるそうだ。適当にスマホをいじっている由利とは対照的に、紫苑と碧斗は和気あいあいと話をしていた。「碧斗義兄さん、仕事は順調かしら?」「ああ……最近はちょっと忙しくてな……それでも、幹部として何とかやってるさ」「わぁ、義兄さんはとってもすごいのね!」碧斗の父親は、夏目家に引けを取らないくらいの有名企業の
last update最後更新 : 2026-05-19
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第27話

「姉さん、姉さんはどう思う?私、一回くらいは働いてみたいのよね……」「……」二人の会話を耳を傾けていただけの由利に、紫苑が話を振った。由利は彼女の問いかけにしばらく悩んだあと、答えた。「……そうね、良いと思うわ。一回どこか近所でアルバイトでもしてみたら?」その言葉に、碧斗は勢いよく椅子から立ち上がった。ガタンッとテーブルが音を立て、上にあったグラスが揺れた。「由利!!!何てことを言うんだ!!!」「……」碧斗は顔を真っ赤にして彼女を睨みつけていた。由利はそんな夫を、無表情のまま何も言わずに見つめ返した。前世で何度も見たこの目。自分が正しいと信じて疑わない、揺るぎない眼差し。「……君は自分が何を言っているか、わかっているのか?」「……私、そんなにおかしなことを言ったかしら?」由利は何故、碧斗に責められなければならないのかわからなかった。「紫苑は体が弱いんだぞ?そのことは姉である君が一番よく知っているだろう」「ええ、知っているわ」由利はニッコリと優雅に微笑みながら、それが何か?と尋ねた。そんなこと、当たり前に知っている。二十年以上も紫苑と共に過ごしてきたのだから。「そんな紫苑に働けだなんて、よくもそんなに残酷なことが言えるな」「残酷ですって?碧斗、あなたこそ何を言っているの?」「……何だと?」碧斗は眉をひそめた。「働くのが残酷だなんて、あなたは一体何を言っているの?雇用形態はどうであれ、世の中の大半の大人は働いているでしょう?むしろ仕事をしていない方が珍しいと思うのだけれど」由利の言っていることは最もだった。むしろ働いていない方が変なのだ。「学生や主婦なら話は別だけれど……紫苑は結婚しているわけでもなければ、学校に通ってるわけでもないしね」「……ッ」ふいに由利が向けた視線に、紫苑は肩をビクッと震わせた。別に由利は彼女が働いていないことを責めているわけではない。それなのに、何か都合の悪いことを言われるたびにそのような反応をする。いい加減やめてほしいものだ。碧斗は紫苑の反応に、我慢の限界だとでもいうように拳を握りしめ、凍えるような冷たい目で由利を見下ろした。「……由利、君がそこまで冷たい人間だとは知らなかったな」「何ですって?」至極当然のことを言ったのに、冷たいとは一体どういうことか。少なくとも、十年以上の時間を共にした妻
last update最後更新 : 2026-05-21
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第28話

それからしばらくすると、由利たちの元に料理が運ばれてきた。紫苑の目の前に、チーズの乗ったハンバーグと少なめのご飯が置かれた。彼女は元々食が細く、あまりたくさんは食べられないのだ。「わぁ、とっても美味しそう!」彼女は顔を輝かせながら、テーブルの隅に置かれていたナイフとフォークを手に取った。「こんなもので喜んでくれるなんて嬉しいなぁ」「こんなものだなんて……私、高級なディナーはもう食べ飽きたのよ。家でも味の薄いものばかりだし」「それは義父さんと義母さんが紫苑のためを思って用意したものだろう?」「でも、美味しくはないのよ。義兄さんも今度食べてみてよ」碧斗と由利の元にも料理が運ばれ、三人はそれぞれ食べ進めた。熱々のハンバーグを一口食べた紫苑が満面の笑みを浮かべた。「わぁ、すっごく美味しいわ!」「それはよかった、唇にソースが付いているぞ」食事中の碧斗は、すぐ隣にいる紫苑の口元をナプキンで拭ってやった。両親も紫苑に対しては過保護だが、碧斗もなかなかである。(碧斗が紫苑のお世話係なのは前世と変わってないのね)由利は目の前の光景をたびたび眺めながら、何も乗っていないシンプルなハンバーグを口に運んだ。紫苑はチーズ、碧斗のには目玉焼きがトッピングされている。本当は由利も何かトッピングしたかったが、紫苑が同じテーブルにいる今、そうはできなかった。できなかった理由は明白だ。「碧斗義兄さんのそれ、とっても美味しそうね」紫苑が碧斗の鉄板の中のハンバーグを覗き込んだ。羨ましい、というようなその視線。由利は今から紫苑が何を言うのか、容易に想像できた。紫苑はフォークを持つ碧斗の手に触れると、おねだりするように甘ったるい声で言った。「――ねぇ、義兄さん。一口ちょうだい?」「……」やっぱり、始まった。由利がシンプルなハンバーグを選んだ理由はまさにそれだった。紫苑に一口ちょうだいと言われたくないから。「仕方ないな、一口だけだぞ?」「あーんして、あーん!」碧斗は自身のフォークで一口分のハンバーグを刺すと、そっと紫苑の口に運んだ。由利の目の前で、そのようなことを平然とやってのけた。「んー、とっても美味しい!」「そうか?」「ええ、私のも一口あげるわ。義兄さん、あーん」「し、紫苑……」碧斗は一瞬たじろいだが、紫苑相手に断ることなどできず、結局彼女から差し出さ
last update最後更新 : 2026-05-22
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第29話

「行っちゃったわね……それより、紫苑ってあんなに速く走れたのね。私初めて知ったわ」「……そうだな」碧斗は気まずそうに頷いた。チラチラと、由利の顔色を窺うように彼女を見ていた。その姿は何故かとても情けなく見えてくる。(どうしてこんな人をずっと愛していたのかしら……)容姿と地位以外は何の魅力もない。いや、今となってはその二つにすら魅力を感じられなかった。横にいるご婦人たちは、気になるのかチラチラこちらを見ている。由利はそれほど気にならなかったが、碧斗の方は気になって仕方が無いようだ。(あなたは昔からいつも人の目ばかり気にしていたわよね)高貴な生まれの碧斗は、由利がだらしない格好で外へ出ることを嫌った。そのため、近くにあるコンビニへ行くだけでもメイクをしなければならなかった。由利はしばらく碧斗をじっと見つめたあと、口を開いた。「碧斗、とっても顔色が悪いわ。具合でも悪いの?」「由利……その……」碧斗は目の前の妻を前に何を言えばいいか悩んでいるようで、目が泳いでいる。由利はそんな彼に、ニッコリ笑いかけた。「あら、もしかしてさっきの言葉を気にしているの?」「……」「あなたがそんな風に思う必要は無いのよ。夫と妹が仲良くしていて嫌な気持ちになんてなるわけがないでしょう?私にとっては碧斗も紫苑も大切な人であることに変わりはないんだから」「由利……」碧斗の顔が、僅かに明るくなった。彼はずっと、由利の優しさに甘えて生きてきた。彼女ほど夫の行動に口出しをしない寛容な妻は、滅多にいないのではないか。自分でもそう思うほどだ。(……でもね、私があなたたちに何も言わないのはあなたたちが大切だからじゃない)どうでもいいのだ、別に紫苑と碧斗が仲良くしようと。今世ではそのようなこといちいち気にかけている暇もなかった。「碧斗、あなたは何も変わらなくていいのよ。ずっとそのままでいいんだから」「由利……」碧斗は感動したように潤んだ瞳で由利を見つめた。彼は由利が自身を愛するあまりそのようなことを言っているのだと信じて疑わなかった。そのような考えが、愚かだと由利は思った。「君は本当に優しいんだな……俺は、ずっと君のことを誤解していたようだ」「そう言ってもらえて嬉しいわ」その言葉に、由利は貼り付けたような笑顔で言葉を返した。周りに気付かれていないくらいには上手く笑
last update最後更新 : 2026-05-23
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第30話

「――姉さん、碧斗義兄さん、ただいま」「紫苑……」その瞬間、ちょうど紫苑が由利たちの元へ戻って来た。ずいぶんちょうどいいタイミングで来てくれた。「おかえりなさい、紫苑」由利は席に座る紫苑にニッコリと笑いかけた。碧斗は紫苑のことなど視界に入っていない様子で、由利に声をかけた。「由利、俺は……」何かを言いかけた瞬間、紫苑がその言葉を遮った。「姉さん、そろそろここを出ない?みんな食べ終えたようだし」「そうね、そうしましょう」紫苑は席を立ち、そそくさと外へ出て行った。由利もそれに続いて椅子から立ち上がり、未だに座り込んだままの碧斗を見下ろした。「碧斗、どうかした?」「いや、何でもない……」「顔色が良くないわね、今日は私が払いましょうか?」「……いいや、男として、夫として……君に財布を出させるわけにはいかないさ」碧斗はようやく立ち上がり、一人で会計へと向かった。(夫としてだなんて……そのような自覚があるのなら、どうして人前であんな行動をするのかしら)碧斗が何を言おうと、由利にとっては全て”今さら”でしかなかった。改善しようとするにはあまりにも遅く、既に彼女の心はズタズタに引き裂かれていたのだ。由利は一足先に紫苑の元へと向かった。由利を視界に入れた彼女はすぐ傍にあったアパレルのお店を指さした。「姉さん!とっても素敵なお洋服を売ってるお店を見つけたの!行ってもいい?」「ええ、もちろんよ」由利は頷き、紫苑は小走りでその店へ入って行った。しばらくして、三人分の会計を終えた碧斗が二人に合流した。「あら、このトップスとっても素敵!」「紫苑によく似合いそうね」紫苑が手に取った白色のトップスは肩にリボンがついており、可憐な雰囲気を持つ彼女によく似合いそうなデザインだった。いかにも碧斗が好みそうな服だ。そう思った由利は、彼の方を振り返って尋ねた。「ねぇ、碧斗もそう思うでしょう?」「あ、あぁ……そうだな……」碧斗は由利の隣で軽く頷いた。突然話を振られて困惑しているようだった。(紫苑を見る口元がニヤけているわ……隠してもバレバレよ)周囲の人々は気付かないだろうが、由利にはすぐにわかった。紫苑を視界に入れたときの碧斗は表情が柔らかくなるのだ。「と思ったけど、こっちのワンピースもいいわね。夏に着ていくにはピッタリだわ」紫苑はすぐ傍にかけられ
last update最後更新 : 2026-05-24
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