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第61話:独占欲の最高権力者

仁さんとのあの甘く濃密な夜から、二ヶ月の時が流れた。 季節はすっかり移り変わり、街路樹を揺らす風にも夏の名残ではなく、秋の気配が混じり始めていた。 この二ヶ月の間、私たちの会社『Blue Code Studio』を取り巻く環境は、それまでとは全く違う方向へと激変していた。 あの世紀の記者会見、そして社交界での西園寺グループの告発。あの日を境に、私たちの名前は一気に世間へ広まり、今では社会現象とまで呼ばれる存在になっていた。 「代表! また新しい依頼です!」 「企業コラボのお問い合わせが三件追加です!」 「採用応募、午前中だけで百二十件を超えました!」 「法学部主席だって! この子すごい!」 オフィス中を飛び交う明るい声。 電話は鳴り止まず、メールの通知音もひっきりなしに響く。社員たちは慌ただしく動き回っているのに、その表情は疲労よりも充実感に満ちていた。 ネットを開けば、 『最高の復讐劇!』 『Blue Code Studio、本当にかっこいい!』 そんな称賛が並ぶ一方で、 『どうせ山城グループの力だろ』 『裏で何かやってるに違いない』 といった心ない書き込みも少なくない。 もっとも、それ以上に採用ページには全国から履歴書が押し寄せていた。 法学生、元警察関係者、天才ハッカーに調査会社勤務経験者。 『ここで働きたい』そんな言葉が、毎日のように届く。 会社が大きくなるということは、多くの期待を背負うということでもあった。そんな忙しいオフィスの空気とは対照的に、一人だけ深刻そうな顔をしている人物がいた。 山城グループ代表でもあり、璃子の夫。 仁さんは、 「……CMなど認めない!」 そう言ってオフィスのソファへ腰かけ、資料を穴が開くほど一点を見る。 そう思えば、 「密着取材も却下だ」 周りのスタッフは、何としても仁さんを納得させたいと意気込んで口々に伝える。 「代表、大手飲料メーカーからのCMですよ?」 「これ以上ない、世界に誇れるほどの会社に成長していけますよ!」 「却下」 「ゴールデン帯の特番ですが……」 「却下」 「雑誌の表紙は……」 「却下」 「インタビューだけでも……」 「却下だ。却下!」 一切の迷いがない。
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第62話:愛しき予感と、動き出す未来

「大丈夫……よ」 込み上げる吐き気をどうにか飲み込みながら、璃子はゆっくりと息を整えた。 「少し最近、メディア対応や契約書の精査が続いていたでしょう? きっと胃が荒れているだけ。少し……めまいがするけれど」 引き出しから取り出したミネラルウォーターを口に含む。 冷たい水が喉を通ると、胃の奥で渦巻いていた不快感がほんの少しだけ和らいだ気がした。 この二ヶ月。 Blue Code Studioは想像以上の勢いで成長を続けていた。 朝から晩まで続く取材対応、企業との打ち合わせに契約書の確認。 採用面接と社員教育。 SNSの対応まで加わり、一日が終わる頃には、椅子に座ったまま眠ってしまうことも珍しくなかった。 最近は体が妙にだるく、何時間眠っても眠気が抜けない日が続いている。それでも璃子は、忙しさのせいだと信じて疑わなかった。 「本当に大丈夫だから」 無理に笑顔を作ってみせるけれど、 「……違う」 静かな声だった。 それなのに、部屋の空気が一瞬で張り詰める。 仁さんだった。 先ほどまで璃子のファンクラブに本気で嫉妬していた人とは思えないほど、その瞳は鋭く、冷静で、経営者として数々の修羅場を潜り抜けてきた山城グループの仁さんのものへと変わっていた。 「これは、ただの寝不足ではない」 「仁さん……?」 「最近のお前を見ていれば分かる」 璃子は思わず言葉を失う。 仁さんは一歩、また一歩と璃子の前まで歩み寄ると、静かに見つめた。 「朝食を残す日が増えた」 「……確かに」 「夜はソファで眠ってしまうことが多くなった」 「……そうかも」 「階段を上るだけで、息を整えていることもあった」 その一つひとつが、ぴったり一致する、気に留めていなかったことは事実だけど。 「それでも私は、忙しさのせいだと思おうとしていた」 低く抑えた声。けれど、その奥に隠しきれない不安が滲んでいる。 「だが、今の璃子を見て確信した」 そう仁さんが言った瞬間だった。 ふわり、と視界が浮く。 「えっ……?」 気付けば璃子は、仁さんの腕の中にいた。逞しい腕が璃子をしっかりと支え、まるで壊れ物を扱うように優しく抱き上げている。 「仁さん……っ!」 思わず声を上げる。 「皆が見ています……!」 「見ていようが関係ない」 即答だった。その声に一
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第63話:最強の男の、最も長い時間

僕、黒岩悠斗は山城グループが誇る、都内最高峰の総合病院にいる。 仁さん一人では、何をしでかすか分からないと僕なりの判断で病院へ同行したのだが――その判断は、どうやら大正解だったらしい。 その最上階にあるVIP専用特診室の前に広がる静かな待合室には、場違いなほど鋭く規則的な足音が、先ほどから絶え間なく響いていた。 カツ、カツ、カツ、カツ――。 イタリア製の最高級革靴が床を叩く音の主は、言わずと知れた山城グループの若き最高権力者の仁さんである。 仁さんと一緒に仕事をするようになってからは、公私ともに支えてきた秘書であり、右腕でもある僕から見ても、今日の仁さんの取り乱し方は過去最高と言ってもいいくらいだ。 何百億円、何千億円という巨額の国家プロジェクトを冷徹な顔で動かし、どんな修羅場でも眉一つ動かさないあの若きカリスマが、今や見る影もなく狭い病院の廊下を往復している。その美しい額には、冷や汗さえ浮かんでいた。 「仁さん、少し落ち着いてください。特注の床板に穴が空きます」 僕が呆れて声をかけるが、仁さんの耳には全く届いていないようだった。仁さんはガチガチに緊張した手で自身の前髪を掻き上げ、まるで世界の終わりを告げる書類でも待つかのように、診察室の重厚なドアを睨みつけている。 「……遅い」 「まだ中に入られてから、十分も経っていませんが」 「十分も、だ。黒岩、お前はあの顔色の悪さを見たのに落ち着いていられるな? もし……もし璃子に万が一のことがあったら、俺は……いや、山城の総力を挙げて世界中から名医を集める。必要なら今すぐスイスの療養所を丸ごと買い取って――」 「落ち着きなさい、我がボス」 僕は心の中で深い溜息をついた。 この男は、奥方のことになると途端にIQが幼児並みに低下する。先ほどオフィスで見せた、全社員を平伏させるような冷徹なトップの覇気はどこへ行ったのか。ただの心配性な、それも限界突破した不器用な夫がそこにいるだけだ。 けれど、それと同時に、僕の胸の奥には静かな温かさが広がってもいた。かつての仁さんは、文字通り血も涙もない完璧なマシーンだった。誰も寄せ付けず、孤独の頂でただグループの利益のためだけに冷酷な判断を下し続けていた。 そんな仁さんに「恐怖」や「焦燥」、そしてこれほどまでに人間臭い「愛」を教え
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第64話:新しい命と、不滅の絆

重厚な木目のドアの隙間から、看護師の重々しい声が待合室に響いた。 (ご家族の方――) その響きを耳にした瞬間、僕、黒岩悠斗の心臓は冷たく跳ね上がった。 病院という場所でわざわざ身内が呼び出されるのは、大抵、本人には直接伝えにくい「良くない告知」の時だと相場が決まっている。まさか、本当に過労だけでは済まないような、重大な病気が見つかってしまったのではなかろうか。 僕でさえ血の気が引くのを感じたのだ。隣にいた仁さんの衝撃は計り知れなかった。 国家の命運を分ける決断の時でさえ見せたことのないほどの緊張と、今にも崩れそうなほどの焦燥を全身に張り詰めて、仁さんは弾かれたようにドアへと飛びついていた。 「璃子……っ!」 仁さんが勢いよくドアを開けると、診察室の椅子から立ち上がったばかりの璃子さんが、どこか呆然とした様子で立ち尽くしていた。その手には、一枚の小さな紙片が握られている。 「容体はどうなんだ!? やはり過労か? どんな病だ!? 今すぐすべての業務を俺の直属の部下に引き継がせて、世界中から名医を――」 パニックのままに璃子さんの華奢な肩を包み込み、一気呵成にまくし立てる仁さん。その尋常ではない取り乱しぶりに、璃子さんは驚いたようにパチクリと瞬きをした。そして、ゆっくりと顔を上げると、不安と心配で今にも押しつぶされそうになっている最愛の夫の瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。 その瞳には、ほんのりと涙が浮かんでいる。けれど、その表情は僕が恐れていたような絶望ではなく――溢れそうになる幸せを必死にこらえるような、この上なく優しい微笑みだった。 「仁さん、落ち着いてください。お医者様から言われました……私、病気ではありません」 「病気ではない? ならば、あの激しい吐き気やめまいは一体……」 わけが分からないというように狼狽する仁さん。そんな仁さんの大きな手を、璃子さんは愛おしそうに両手で包み込み、そして、そっと自分のお腹へと導いた。 「お腹の中に、小さな命が宿っているそうです。……妊娠二ヶ月、だそうです。仁さん」 「……え?」 その瞬間、仁さんの時間が完全に停止した。 口をわずかに開けたまま、まるで精巧な彫刻のように凝固する。あの明晰な頭脳が、生まれて初めて「処理不能」という大パニックを起こしているのが、すぐ後ろで見守る僕にもはっきりと分かった。
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第65話:依頼内容、空白

スマートフォンの画面を閉じ、私・横田明衣はオフィスのデスクで、深く、深く安堵の息を吐き出した。 さっきまで心配で張り裂けそうだった胸の奥が、黒岩さんの「これ以上ない吉報」という言葉で一気に温かくなる。詳しい理由は戻ってからと言っていたけれど、あの黒岩さんがそこまで言うのだ。きっと、璃子さんと仁さんにとって、これ以上ないくらい幸せな理由に違いない。スタジオの皆にも早く伝えて安心させてあげたい。そう思った。 思ったのだけれど――。 私の視線は、再び目の前のPCモニターへと引き戻される。そこに映し出されている「返却請求代行サイト」の管理画面を見た瞬間、せっかく温まりかけた指先が、嘘のように冷たくなっていくのを感じた。 「これ……どういうことなの?」 ぽつりと漏らした私の声は、静かなオフィスに力なく消えた。 私たちが運営する『返却請求代行サイト』は、本来、悪質な取引先から回収できない機密データや、不当に持ち逃げされた契約書、あるいは不当な関係を断ち切るための書類などを、システムとロジックの力でスマートに「返却請求」するための窓口だ。 けれど、数分前に飛び込んできたこの問い合わせは、これまでのどんな案件とも、その異質さが違いすぎていた。 画面に並ぶ、奇妙な文字をもう一度なぞる。 【ご依頼内容】空欄(白紙) 【備考・詳細】 『どうしても、Blue Code Studioのトップである代表に直接、会いしたい。お会いできるまで、何度でもアプローチします』 それだけだった。 依頼内容も、請求対象も、希望工期も、すべてが白紙。 問い合わせフォームの最後に添えられたその一文には、名前こそ匿名になっているものの、画面越しに喉元へ刃を突きつけられているかのような、異常なまでの執着と傲慢さが満ちていた。 それに、璃子さんの名前を出さずに、わざわざ『代表に会いたい』と書かれている。失礼にも程がある。サイト内にはしっかり璃子さんの顔写真も、自己紹介から会社案内まで載せているのだから。 何より不気味なのは、発信元のIPアドレスのログだった。 セキュリティを幾重にもすり抜けて残されたその暗号化データの片隅に、かつて私が身を置いていた古巣『桐島ホールディングス』の役員専用回線を示す、特殊なコードが混ざっていたのだ。 (麗香専務……?) 私の脳裏に、あの冷酷無比なト
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第66話:最強の盾と、暴かれる影

「皆さん、聞いてください! 璃子代表、病気じゃありませんでした! 体調ももう落ち着いているそうです!」 私、横田明衣がオフィスの中心でそう声を張り上げると、張り詰めていたスタジオの空気が一瞬で歓声へと変わった。 「本当ですか!?」「よかった……!」と涙ぐむスタッフもいる。詳しい理由はまだ秘密だけど、黒岩さんの言った通り、まずはみんなの不安を吹き飛ばすことができてホッとした。 「それから、もうすぐ頼人さんと聖子さんが、大事な用件でこちらに見えるそうです。会議室を使うので、お二人が来られたらすぐにお通ししてください」 そう付け加えると、みんな「お、差し入れかな?」「また面白い井戸端会議が始まるぞ」と、黒岩さんの狙い通りにすっかりリラックスした様子で頷いてくれた。 みんなの笑顔に背を向け、私はそっと会議室へと入る。 そこには、すでにプロジェクターの準備を終え、険しい顔で腕を組んでいる黒岩さんが待っていた。 それから十分も経たないうちだった。 トントン、と会議室のドアが小気味よく叩かれ、事前の連絡通りに二人の人物が姿を現した。 「明衣ちゃん、黒岩くん。おめでたい話の最中に、ずいぶんと物騒なヘルプ要請ね」 華やかなハイブランドのスーツを着こなし、凛とした微笑みを浮かべて入ってきたのは聖子さん。そのすぐ後ろから、「相変わらずここは落ち着くね」と、仕立てのいいジャケットのポケットに片手を入れながら、大人の余裕を漂わせた頼人さんが続く。 宇佐美ファイナンシャルグループ代表と、山城グループの事実上のトップ代行。 部屋に入ってきただけで、そこが小さなスタジオの会議室であることを忘れさせるような、圧倒的なオーラが満ちていく。 「お忙しいところ、急な呼び出しに応じていただき感謝します、頼人さん、聖子さん」 黒岩さんが深く頭を下げると、頼人さんはひらひらと手を振ってそれを制した。 「水臭いな、黒岩くん。僕たちは一度手を引いたとはいえ、ここは僕と聖子が立ち上げに関わった大切な場所だ。それで? 仁と璃子ちゃんが病院にいる隙を狙って、うちのシステムに飛び込んできたっていう不気味なコンタクトはどこからだい?」 頼人さんの目が、一瞬で冷徹なビジネスパーンのそれへと切り替わる。 黒岩さんが無言で頷き、リモコンを操作してプロジェクターの
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第67話:堕ちた女の無様な懇求

私、横田明衣。 頼人さんと聖子さんが「この案件を預かる」と言ってくれた翌日のことだった。 黒岩さんが指定したBlue Code Studioの緊迫した会議室。 ついにあの女が姿を現した。 「……お久しぶりです、皆さん。それから、横田さんも」 コンコン、という力ないノックの後に部屋に入ってきた人物を見て、私は自分の目を疑った。 そこにいたのは、かつて私が桐島ホールディングスで嫌というほど見上げてきた、あの完璧で冷酷な麗香専務の面影を無くした一人の女性だった。 ハイブランドのスーツはどこか型崩れしていて、いつも完璧にセットされていた髪は少しパサついている。何より、出会う人間すべてを見下していたあの傲慢な瞳が、今は怯えたように泳いでいた。 「本当に、一人で来たのね。……座ったら、麗香さん」 聖子さんが冷ややかな声をかける。麗香専務はビクッと肩を揺らし、促されるままに椅子へ腰掛けた。その手は、自分の膝の上で小さく震えている。 「単刀直入に聞こう。仁と璃子ちゃんが席を外しているこのタイミングで、うちのサイトに『白紙の依頼』なんて不気味な真似をしてまでここへ来た目的は何だい? 聖子は『直樹の返却か謝罪か』なんて言っていたけれど」 頼人さんがデスクに肘をつき、綺麗な指を組んで麗香専務を見据える。その目は、憐れみすら含まない、ただの観測者のそれだった。 麗香専専務は乾いた唇を戦慄かせ、何度も喉を鳴らした。そして、目の前にいる宇佐美と山城のトップ、そして黒岩さんと私を見回し、ついに消え入りそうな声で本音を吐き出した。 「……私を、ここで雇ってほしいの」 「「え……?」」 私と黒岩さんの声が綺麗にハモった。 あまりにも予想とかけ離れた斜め上の言葉に、頭の回転が追いつかない。 「雇ってほしい……? あなたが、このBlue Code Studioで、働きたいと言っているの?」 私が呆然としながら問い返すと、麗香専務はプライドを粉々にへし折られた顔で、惨めに視線を落とした。 「……桐島家から、縁を切られたわ。仕事も、役職も、住む場所も、すべて剥ぎ取られた。今の私は、ただの『元・桐島』。私には、何も残っていないのよ……!」 感情を爆発させるようにそう言うと、麗香専務はデスクに両手をついて、私たちに向かって深く頭を下げた。あの、世界の中心にいるかのように
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第68話:どうして、麗香専務が……

あの一件から、璃子は聖子さんに半ば強制的に休暇を言い渡され、自宅で安静に過ごしていた。 『璃子ちゃん、今はとにかく身体が第一よ。初期の無理は絶対に禁物。一週間は自宅で大人しくしていなさい』 聖子さんはそう言って怒っていたけれど、会社の様子が気になって、どうしてもじっとしていられなかった。体調が落ち着いているのを見計らい、三日振りにオフィスに出社した璃子は、会議室の前に漂う異様な空気に足を止めた。 (まだ……いらっしゃるの?) ドアを少しだけ開けると、そこには三日前と変わらない、張り詰めた空気が満ちていた。 そして、璃子の姿が視界に入った瞬間。 パイプ椅子に座っていた麗香専務の目が、カッと見開かれた。 「璃子……! 璃子さん……っ!!」 立ち上がった麗香専務は、遮ろうとした頼人さんや黒岩さんの手をすり抜け、狂ったような勢いで璃子に向かって駆け寄ってきた。 「きゃっ、」 璃子が身をすくめるよりも早く、麗香専務はその場に崩れ落ちるように床に膝をついた。そして、璃子のスカートの裾、剥き出しの膝を、痛いほどの力で掴んできたのだ。 「麗香専務が……!?」 「お願い、お願いよ。如月さん! 私をここで雇ってちょうだい……!」 見上げんばかりに璃子にすがりつく麗香専務の目からは、大粒の涙がボロボロと溢れていた。完璧だったメイクは完全に崩れ、かつて桐島ホールディングスの頂点に君臨していた面影なんて、どこにもない。 「私にはもう、本当に何もないの……! 桐島家からも追放されて、仕事も、お金も、住む場所すら失ったわ! 知識も努力もしてこなかった私を、外の会社は誰も見向きもしてくれない! でも、あなたなら優しいでしょう。私を見捨てたりしないでしょ!? お願い、ここで働かせて! 何でもするから……っ!!」 涙と鼻水に塗れながら、プライドの破片すらなく璃子に泣きつく元・専務。その無様な姿に、背後で明衣ちゃんが息を呑み、黒岩さんがいつでも引き離せるように身構えるのが分かった。 聖子さんが「離れなさい!」と激昂しかけた、その時。 璃子は自分の膝を掴む麗香専務の、小刻みに震える冷たい手を見つめながら、静かに息を吸い込んだ。 「皆さん、ありがとうございます。……でも、大丈夫です」 璃子は周囲の皆を見回し、それから、足元で泣き崩れる麗香専務をまっすぐに見据えて言った
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第69話:それぞれの終着点

麗香専務が警備員に連れられてスタジオを去った、その日の夕方のことだった。 頼人さんと黒岩さんに「今日はもう早く帰りなさい」と促され、聖子さんに車で送ってもらうためにスタジオの裏口を出たとき、建物の陰から、ボロボロのコートを着た一人の男がふらりと姿を現した。 「……璃子」 掠れた声に振り返ると、そこにいたのは直樹だった。 かつては身だしなみに人一倍気を使っていたはずの直樹は、髪も肌も荒れ果て、高級そうだったブランド物のスーツはヨレヨレに汚れている。 麗香専務が言っていた通り、別のパトロンに乗り換えたものの、すぐに使い捨てられて放り出されたのだろう。その目は酷く充血し、怯えたように泳いでいた。 「直樹さん……」 「璃子、頼む、僕を助けてくれ……! 僕は麗香に騙されていたんだ! あいつが桐島の権力で僕を脅すから、僕は従うしかなかったんだよ……っ。僕が本当に愛していたのは、今でも君だけだ!」 ――意外だった。 これまで、直樹は自分のことをずっと『俺』と言っていた。 付き合っていた頃、「社会人になったら『僕』と言った方が印象がいいよ」と璃子がどれだけ提案しても、プライドが邪魔をするのか、直樹は頑なに受け入れずずっと『俺』を通していたのだ。 それが、今は『僕』と言っている。 この人に一体何があったら、プライドの塊だった男が、こうも変われるものなのだろうか。 必死に璃子に媚びるように言い訳を並べ立てる直樹を見つめながら、璃子の胸に湧き上がってきたのは、怒りでも憎しみでもなかった。ただ、言いようのない『哀れみ』だけ。 (直樹さんは、そんな人じゃなかったのに……) お金と権力という魔力に魅せられ、自分を見失い、泥沼に落ちてしまった目の前の男。その引き金が麗香専務との出会いだったとしても、最終的にその道を選び、プライドすら売り払って変わってしまったのは、直樹自身。 直樹は璃子の手へ縋り付こうと手を伸ばしてきたけれど、隣にいた聖子さんが鋭い目つきでその手をピシャリと叩き落とした。 「近寄らないでくださるかしら。芹沢直樹さん」 聖子さんの言葉はとても強く、これまでにないほどの低い声だった。 「璃子! お願いだ、あの返却請求代行の会社で、僕を雇ってくれ! 僕なら君の右腕として、いくらでも役に立てる! 昔みたいに、二
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第70話:温かな光の中で(最終話)

車から降りてマンションを見上げると、リビングの窓からあたたかな灯りが漏れていた。 静かに玄関の鍵を開けると、足音に気づいた仁さんが、弾かれたように廊下へ走ってきた。 「璃子! おかえり、無事だったか!?」 「仁さん……」 心配でたまらなかったという顔をした仁さんは、璃子のもとへ駆け寄ると、力強く璃子のお腹を圧迫しないように優しく抱きしめてくれた。その温もりに包まれた瞬間、今日一日張っていた緊張の糸が、ふっと解けていくのが分かった。 「……うん、ただいま。全部、終わりました」 リビングで温かいお茶を飲みながら、麗香専務と直樹に告げた最後の言葉、そして二人との完全な決別について報告した。 仁さんは静かに耳を傾け、最後に璃子の手をぎゅっと握りしめてくれた。 「よく頑張った、璃子。君が過去のすべてにちゃんと向き合ってケジメをつけたこと、本当に誇りに思う……これからはもう、過去に怯える必要なんて何もない。俺たちの未来だけを見つめていこう」 「はい……っ」 仁さんの温かい言葉に、瞳から静かに涙が溢れ落ちた。 けれど、それは悲しい涙ではなく、心が満たされていく温かい涙だった。 ◇ 数日後。体調がすっかり安定した休日、私たちは仁さんのご実家を訪れていた。 「お義父さん、お義母さん。今日はおふたりにお伝えしたい大切な報告があって来ました」 お茶を淹れてくれた義母と、少し緊張した面持ちで座る義父に向かって、仁さんが真っ直ぐな瞳で告げた。 「璃子の体に、新しい命が宿りました。妊娠二ヶ月です」 「まあ……っ!」 両手を合わせて瞳をまん丸に輝かせた義母。 「本当か……!?」 目を見開きそう言って義父は口が開いたままだった。 一瞬の静寂の後、義母は両手で口元を覆って目を出涙で濡らし、義父は破顔して深く頷いた。 「おめでとう、璃子ちゃん……! 体は大丈夫なの? つわりは? 無理しちゃダメよ!」 義母は璃子のお腹に手を触れながらそう言った。 「ありがとうございます、お義母さん。聖子さんや頼人さん、みんなが過保護なほど守ってくれているので大丈夫です」 「そうか、そうか……。ゴタゴタもあって、君には苦労ばかりかけてしまったな。これからは真壁家総出で、君と赤ちゃんを守るからね」 義父のあたたかい言葉に、
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