Masuk「綾香!」
白瀬美月は花が咲いたような笑顔で駆け寄ってきた。
ふわりと揺れる白いワンピース。
大きな瞳。 守ってあげたくなるような儚い雰囲気。前世の綾香は、その姿を疑ったことなど一度もなかった。
「最近、元気ないって聞いて心配してたの!」
美月はそう言いながら、自然な動作で理央の隣へ立った。
距離が近い。
いや、“近すぎる”。
理央もそれを拒まない。
まるで最初からそこが、美月の居場所だったかのように。
「顔色悪いよ? 大丈夫?」
美月が綾香の顔を覗き込む。
その瞬間。
綾香の脳裏に、前世の光景が蘇った。
◇◆◇
「逃げようとしたから、こうなったんだよ」
理央が笑いながら綾香の髪を掴む。
頬に焼けるような痛みが走った。
割れたガラス片。
床へ飛び散る血。 歪む視界。「やめて……!」
綾香が泣きながら抵抗しても、理央は止まらなかった。
「少し顔が傷つくくらい、大したことないだろ?」
その横で、美月は怯えた顔をしていた。
だが止めなかった。
それどころか。
「綾香お姉様、暴れたら危ないよ……」
震える声でそう言いながら、どこか安心したような目をしていた。
「どうせ刑務所に入るなら、顔なんて必要ないだろう」
綾香の顔へ刻まれていく傷を、美月はじっと見つめていた。
「ずっとあなたの人生を生きたかった」
まるで。
ずっと憎んでいたものが壊れていくのを見守るように。
◇◆◇
「……っ」
綾香は反射的に一歩下がった。
美月の手が空を切る。
「え……?」
美月がきょとんと目を丸くした。
「綾香?」
理央も不思議そうに綾香を見る。
二人とも、まるで何も知らない顔をしている。
そのことが、余計に恐ろしかった。
綾香はゆっくり息を整える。
怯えるな。
今度は、壊される側ではない。
「ごめんなさい」
綾香は微笑んだ。
「少し考え事をしていただけよ」
「本当に?」
美月が心配そうに眉を下げる。
「私、綾香お姉様が元気ないと嫌だなぁ……」
そう言いながら、美月は理央の袖を軽く掴んだ。
甘えるような仕草。
その自然さに、綾香は背筋が冷えた。
前世では気づかなかった。
この二人は、最初から妙に距離が近かったのだ。
「そういえば!」
美月が明るい声を上げる。
「理央さん、さっき婚約のお話してたんですよね?」
理央の目がわずかに動く。
「ええ、まあ……」
「いいなぁ」
美月は羨ましそうに笑った。
「綾香お姉様は昔から何でも持ってるんだもの。綺麗で、お金持ちで、理央さんまでいて……」
その言葉に、綾香は目を細めた。
彼女の言葉の奥には、粘つくような嫉妬が隠れている。
「美月」
理央がやんわりと名前を呼ぶ。
だが咎めるような響きではない。
むしろ甘い。
美月は少し唇を尖らせた。
「だって本当のことでしょう?」
そう言って、今度は綾香を見る。
「私、お姉様みたいになりたいって、ずっと思ってたの」
私になりたい?
綾香の脳裏に、ウェディングドレス姿の“自分の顔”が浮かぶ。
――君みたいな顔になりたい。
理央の言葉が蘇った。
全身がぞっと冷える。
「……そう」
綾香は静かに笑った。
「でも、人のものを欲しがるのって、あまり良いことじゃないわよ」
空気が止まった。
美月の笑顔がわずかに引きつる。
理央の視線も鋭くなる。
けれど綾香は微笑んだままだった。
「え……?」
「欲しいものがあるなら、自分で努力して手に入れないと」
柔らかな声で続ける。
「他人から奪おうとしたら、いつか全部失うもの」
美月の表情が固まった。
その目に、一瞬だけ剥き出しの敵意が浮かぶ。
だがすぐに、美月は困ったように笑った。
「理央お兄、分かっているでしょう? そんな意味で言ったんじゃないの」
言いながら、理央の腕に抱き着く。
「美月」
今度は理央が低い声で遮った。
先ほどまでとは違う声音だった。
「綾香に失礼だ」
理央はその腕を静かに振りほどいた。
美月が目を見開く。
「……っ、ごめんなさい」
唇を噛む姿は、まるで叱られた子供のようだった。
だが綾香は見逃さなかった。
美月が理央を見上げた瞬間の、不満げな目を。
そして理央もまた、美月へ一瞬だけ冷たい視線を向けていたことを。
まるで。
“今は余計なことをするな”とでも言いたげに。
綾香は静かに確信する。
やはり、この二人は繋がっている。
しかも、ずっと前から。
「……美月。君には、もう会わないと伝えたはずだけど」 理央の言葉に、美月の笑顔が凍りついた。「そんな……。だって、今日は晩餐会でしょう? 招待されているんだから、会うことくらいあるわ」「そうだね。だから、挨拶だけにしておこう」 理央は穏やかに答えた。 声を荒らげることも、責めることもない。 けれど、その態度には明らかな距離があった。「理央、私……」「綾香、九条先生。改めて、ご婚約おめでとうございます」 美月の言葉を遮るように、理央は二人に向き直った。「ありがとう」 綾香が答えると、理央は微笑んだ。「御影社長にも、近いうちにご挨拶に伺う予定なんだ。新しい事業の件で、少し相談があってね」「そうなのね」「お父様には、いつもお世話になっているよ」 理央の口調は、以前と変わらず柔らかい。 綾香はその笑顔を見つめた。 前世でも、理央はこうして人当たりのよい顔で父に近づいていた。 そして、気づいたときには会社の重要な仕事を任されるようになっていたのだ。「仕事のことは、お父様と直接お話ししてちょうだい」「もちろん。そのつもりだよ」 理央はあっさり頷いた。 そのとき、開宴を告げるベルが鳴った。「それじゃあ、また」 理央は一礼し、人々の輪へと歩いていった。「……理央!」 美月が呼び止めたが、彼は振り返らなかった。◇◆◇「ひどいわ……」 美月が小さく呟いた。 綾香は返す言葉を探したが、美月はすぐに顔を上げた。「ごめんなさい、綾香。せっかくのお祝いの日なのに、変なところを見せちゃったわね」「いいえ」「理央、最近ずっと忙しいみたい
慈善晩餐会を翌週に控えた午後、綾香はドレスを選んでいた。「こちらはいかがでしょう、お嬢様」 使用人が広げたのは、淡い青色のイブニングドレスだった。「綺麗ね。でも、少し大人しすぎるかしら」「では、こちらは?」 次に差し出されたのは、深いワインレッドのドレスだった。 肩から胸元にかけて繊細な刺繍が施され、裾には上品な光沢がある。「まあ、素敵!」 綾香は鏡の前に立ち、ドレスを体に当てた。「これにするわ」 胸元には、遥臣から贈られたダイヤモンドの指輪に合わせて、母の形見のネックレスを飾ることにした。◇◆◇ 晩餐会当日、遥臣は約束の時間ぴったりに御影家を訪れた。 玄関ホールに現れた綾香を見て、彼は足を止めた。「……綾香」「どうかしら?」 綾香は少し照れながら微笑んだ。「今日は婚約者として初めて一緒に出席するんですもの。少し頑張ってみたの」「少し、どころじゃないな」 遥臣は綾香の手を取った。「綺麗だ」「ふふ。ありがとう」 そこへ父が姿を見せた。「おや、二人ともよく似合っているね」「お父様!」「遥臣君、今日は娘をよろしく頼むよ」「はい。お任せください」 遥臣が答えると、父は満足そうに頷いた。◇◆◇ 会場となったホテルの大広間には、華やかな装いの招待客が集まっていた。 綾香が遥臣の腕に手を添えて入場すると、顔見知りの夫人が声をかけてきた。「まあ、綾香さん! 今夜もお綺麗ね」「ありがとうございます」「そちらは九条先生かしら?」「ええ。私の婚約者です」 綾香が紹介すると、夫人は目を輝かせた。「まあ! ご婚約なさったの?」「はい。先日、正式にお申し込みをいただきました」
「お嬢様のご同伴者について、すでに別の方からお申し出があったとのことでございます」 橘の言葉に、綾香は首を傾げた。「別の方?」「はい。理央がお嬢様に同伴する予定だと、主催者様にご連絡があったそうです」「理央を?」 父も驚いた顔をした。「おかしいな。私はそんな話をしていないが」「私もよ。遥臣と出席できたらと思っていたところだもの」 橘は頷いた。「先方も、正式なお申し出ではないため、念のため確認したいとのことでございました」「誰がそんな連絡をしたんだい?」「美月様だそうです」 綾香は思わず父と顔を見合わせた。「……また美月なのね」◇◆◇ 父はすぐに主催者へ電話をかけた。「御影です。このたびはお招きいただき、ありがとうございます」 しばらく和やかに挨拶を交わしたあと、同伴者の話になった。「ええ、娘の同伴者についてですが……」 父は綾香を見て微笑んだ。「実は先日、九条遥臣君から正式に結婚の申し込みを受けましてね。娘も喜んで承諾したところです」 電話の向こうから、祝福の声が聞こえてきた。「ありがとうございます。ええ、当日は九条君を同伴させたいと思っております」 父は少し間を置いた。「それから、理央君についてのお話は、こちらからお願いしたものではありません」 通話を終えると、父は困ったように笑った。「先方も驚いていたよ。美月さんは、今年も綾香と理央君が一緒に出席するものと思っていたそうだ」「でも、美月は事情を知っているはずなのに」「そうなのかい?」「ええ。本人にも話しているわ」 父は眉をひそめた。「それなら、なおさら不思議だね」◇◆◇ その日の夕方、美月から綾香に電話がかかってきた。
翌朝、綾香は目を覚ますと、真っ先に左手を持ち上げた。 薬指には、昨夜遥臣から贈られた指輪が輝いている。「……夢じゃなかったのね」 思わず笑みがこぼれた。 昨夜のプロポーズを思い出すだけで、胸が温かくなる。 遥臣の真剣な眼差しも、少し照れたような笑顔も、何度でも思い出せた。◇◆◇ 朝食の席に着くと、父が新聞から顔を上げた。「おはよう、綾香。昨日は楽しかったかい?」「ええ、とても」 綾香は微笑み、左手をそっと差し出した。「お父様、見てくださる?」 父は指輪を見るなり、目を丸くした。「これは……!」「昨夜、遥臣からプロポーズされたの」「そうか!」 父は新聞を置き、嬉しそうに笑った。「それで、返事は?」「もちろん、お受けしたわ」「おめでとう、綾香!」 父は立ち上がり、綾香を抱きしめた。「ありがとう、お父様」「いやあ、よかった。遥臣君なら安心だ」 父は少し目を潤ませていた。「お母さんにも見せてやりたかったな」「……ええ」 綾香も胸がいっぱいになった。 父はすぐに笑顔を取り戻した。「そうだ。今度、遥臣君を食事に招こう。正式な話もしたいからね」「ええ。遥臣も、お父様にご挨拶したいと言っていたわ」「それなら、早速日程を決めよう」◇◆◇ 食後、綾香が廊下を歩いていると、橘が声をかけてきた。「お嬢様、おめでとうございます」「まあ、橘。もう聞いたの?」「旦那様から、先ほど」 橘は穏やかに微笑んだ。「九条様からご相談をいただいた時から、この日を楽しみにしておりました」「そういえば、指輪のサイズを教えてく
土曜日の夕方、綾香は鏡の前で最後に髪を整えていた。 選んだのは、深い赤色のドレスだった。 肩にかかる髪をゆるくまとめ、耳元には小粒の真珠を飾る。「お嬢様、九条様がお迎えにいらっしゃいました」「ありがとう、橘。すぐに行くわ」 階段を下りると、玄関ホールで遥臣が待っていた。 黒いスーツに身を包んだ彼は、綾香を見るなり目を細めた。「……綺麗だな」「ふふ。ありがとう」 綾香はドレスの裾を軽く持ち上げた。「今日は特別な日になりそうだから、頑張ってお洒落したの」「ああ。期待していてくれ」 遥臣は綾香に手を差し出した。「行こう」◇◆◇ 車が到着したのは、都心の高層ホテルだった。 最上階のレストランへ案内されると、大きな窓の向こうに宝石を散りばめたような夜景が広がっていた。「まあ……素敵!」「気に入ったか?」「ええ、とても!」 案内されたのは、窓際の静かな席だった。 食事はどれも美しく、遥臣が選んだワインも料理によく合っていた。「こんな素敵なお店、よく知っていたわね」「以前、仕事の会食で来たことがある」「そうだったの」「その時から、綾香を連れてきたいと思っていた」 綾香は微笑んだ。「それなら、もっと早く誘ってくれてもよかったのに」「今日は特別だからな」 遥臣の言葉に、綾香の胸が高鳴った。◇◆◇ デザートを終えると、遥臣が立ち上がった。「綾香、少し付き合ってくれ」「ええ」 案内されたのは、レストランに隣接する小さなテラスだった。 ガラス越しに見えていた夜景が、今度は目の前に広がっている。 冷たい風が頬を撫でた。「寒くないか?」
『綾香。俺と結婚してくれないか?』 受話器の向こうから聞こえた言葉に、綾香は息を呑んだ。 遥臣が、自分に結婚を申し込んでいる。 それはずっと夢見ていたような、幸せな言葉だった。 けれど――。「……嫌よ!」『……何?』 遥臣の声が止まった。『綾香、今、何と言った?』「嫌だと言ったの!」 綾香は頬を膨らませた。『そうか……』 電話の向こうで、遥臣が息を吐く。『昨日の話で、少し期待してしまった。悪かったな』「ちょっと待って! そういう意味じゃないわ!」『違うのか?』「違うわよ!」 綾香は思わず声を上げた。「もう、遥臣ったら! どうして電話でプロポーズなんてするの?」『……電話では駄目なのか?』「当たり前でしょう!」 綾香は立ち上がり、窓辺まで歩いた。「女の子にとって、プロポーズは一生に一度の大切な思い出なのよ? それなのに、電話で済ませるなんて!」『いや、済ませるつもりでは……』「しかも、私、今は部屋着なのよ!」『それは俺には見えないだろう』「そういう問題じゃないの!」 遥臣が小さく笑った。『なるほど。俺が悪かった』「本当に分かっている?」『ああ。電話で言うべきじゃなかったな』「そうよ。もっとロマンチックにしてほしいわ」『分かった』 遥臣は少し間を置いて続けた。『じゃあ、今のは聞かなかったことにしてくれ』「……え?」『改めて、きちんと申し込む』 綾香は思わず微笑んだ。「ふふ。そうしてちょうだい」