Alle Kapitel von 離婚後に妊娠発覚、元夫の溺愛同居: Kapitel 11 – Kapitel 20

100 Kapitel

第11話

結局、櫂は魚を数匹しか釣れなかったが、日が西に傾く頃になって、琴葉は慈悲深く「本日の訓練は終了」と宣言してやった。帰り道、櫂はたまらず尋ねた。「琴葉さん、明日はどんな訓練をするんですか?」「明日からの3日間も、ここで釣りよ」「ええっ?」櫂は絶望したような顔になった。「まだ釣るんですか!?」「忍耐力なんて一朝一夕で身につくものじゃないわ。時間をかけて培っていくものよ」琴葉は真剣な面持ちで説明した。「修復作業そのものが、地道で気の遠くなるような作業の連続なの。外部のノイズに惑わされない精神力と、持続的な集中力が不可欠なのよ」彼女は櫂をちらりと見た。「今のうちに気を鎮めることを覚えておかないと、将来修復の現場に出たときに苦労するわよ」その声は穏やかで根気強く、不思議と心地よい説得力があり、櫂は深く感銘を受けたように何度も頷いた。……静まり返った夜。碧斗は寝室のソファに1人腰掛け、複雑な思いを抱いていた。以前なら、どんなに忙しくても、家に帰れば琴葉がいた。彼女はいつも目元を細めて彼に笑いかけ、他愛のない日常の出来事を飽きもせず話してくれた。そして数え切れないほどの夜、2人はこのベッドで肌を重ねてきた……今は違う。碧斗が部屋を見渡すと、ベッドボードの上の壁にぽっかりと空いた不自然な空間に視線が止まった。愛する妻どころか、ウェディング写真すらなくなってしまった。ガランとした部屋と同じように、彼の心にもぽっかりと穴が空いていた。碧斗はスマホを手に取り、うつむいたまま琴葉の連絡先を開き、無意識のうちに発信ボタンを押していた。自分が何をしたのかに気づき、慌てて切ろうとした時には、すでに電話は繋がっていた。「碧斗?」微かな戸惑いを帯びた、柔らかく落ち着いた女の声が聞こえ、碧斗は思わず背筋をこわばらせた。彼は気まずそうに軽く咳払いし、必死に声を平坦に保った。「俺だ」シャワーを浴びて出てきたばかりの琴葉は尋ねた。「何か用?」膝の上に置いた手をぐっと握りしめ、碧斗の頭は猛スピードで回転した。「その……ごほん。財産分与の現金化の手続きが済んだ。お前のサインが必要だから、明日時間を合わせて会えないか」なんだ、そんなことか。琴葉はベッドに腰を下ろした。「結城社長の貴重な時間を割くわけにはいかない
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第12話

口座への着金は、碧斗との繋がりがまた一枚、剥がれ落ちたことを意味していた。あとは来月、離婚の手続きが正式に完了する日を待つだけだ。そうなれば、2人の関係は……名実ともに完全に終わりを迎える。それからの日々、琴葉は余計なことを考えないよう、櫂の指導に無理やり没頭した。あっという間に大半の月日が過ぎ、お盆の時期がやってきた。琴葉の地元の風習では、お盆には帰省してご先祖様の供養をすることになっている。竜也たちとは極力顔を合わせたくなかったが、この日ばかりは彼女も田舎へ帰り、祖父母の墓参りをするつもりだった。ついでに、叔父の桑原宏樹(くわばら ひろき)に会うためでもあった。宏樹は名の知れた画家である。20年以上前、愛する妻を難産で亡くして以来、生涯再婚はせず、妻と亡き子の遺骨を抱いて本家へと戻った。それからずっと両親のそばで親孝行を尽くし、2人が天寿を全うした後も、彼は田舎を離れずにいた。……お盆の前日、琴葉は1人で車を運転して本家へ向かった。前日の夜、竜也から「一緒に出発しないか」と電話があったが、琴葉はきっぱりと断っていた。本家に到着したのは、午後5時を回った頃だった。車が門に着く前から、門前で首を長くして待っている宏樹の姿が遠くに見えた。琴葉の車だと気づくと、宏樹は満面の笑みを浮かべ、車が入りやすいようにと慌てて門を大きく開け放った。琴葉は庭に車を停めるなり、弾むような声で宏樹に呼びかけた。「叔父さん、ただいま!」宏樹は歩み寄り、慈愛に満ちた眼差しで彼女を見つめた。「どうして自分で運転してきたんだ?お父さんたちと一緒に帰らないにしても、碧斗くんが運転手を手配してくれなかったのか?3時間以上もかかる道のりを、若い娘が1人で運転してくるなんて危ないじゃないか?前は帰省するってなったら、あの子がちゃんと送迎車を手配してくれただろう?なんで今回はお前に1人で運転なんて……」宏樹は昔から琴葉を実の娘のように可愛がっており、その小言にも彼女への愛情が溢れていた。琴葉は胸が温かくなるのを感じた。碧斗の名前が出た瞬間、心臓がチクリと痛んだが、顔の笑顔は崩さなかった。「たまには自分で運転したかったのよ」これ以上碧斗の話にならないよう、琴葉は慌てて話題を変えた。「叔父さん、お土産をたくさん買ってきたの。早く家の中
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第13話

琴葉は足早に庭へと飛び出した。ふと目を上げると、庭に新たに車が2台増えて停まっており、その傍らに数人の人影がある。彼女はピタリと足を止め、突如としてそこに現れた碧斗を、驚きと困惑の入り交じった目で見つめた。頭の中が真っ白になり、思考が完全に停止する。物音に気づいた碧斗が振り返り、呆然と立ち尽くす彼女を見つけると、静かに歩み寄ってきた。彼が何か口を開きかけたその時、琴葉の後ろから宏樹が出てきたため、碧斗はすかさず礼儀正しく軽く頭を下げた。「宏樹さん、ご無沙汰しております。お変わりありませんか?」そう挨拶しながら、彼はごく自然な動作で琴葉の隣に並び立った。「ああ、元気にしてるよ」宏樹は笑顔で2、3の言葉を交わしたが、ふと首を傾げ、不思議そうに琴葉を見た。「琴葉、お前、一昨日の電話じゃ碧斗くんは仕事が忙しくて帰ってこられないって言ってなかったか?」不意を突かれ、琴葉は言葉に詰まった。適当な言い訳を探そうとした矢先、碧斗が先回りして口を開く。「一昨日の時点ではまだスケジュールが確定していなかったので、琴葉は俺が間に合わなかった時のために、あえてはっきりとは言わなかったのでしょう」「それなら、どうして琴葉と一緒に帰ってこなかったんだ?竜也たちと一緒に来るなんて」碧斗は無意識に琴葉をちらりと見やり、釈明した。「お義父さんたちとは高速を降りる時に偶然居合わせただけで、一緒に来たわけではありません」「そうなんですよ、叔父さん。私たち、道中で碧斗さんと偶然お会いしたんです」甘ったるい笑みを浮かべた紗菜が、碧斗を見つめながら3人の方へ歩み寄ってきた。長年、彼女は翔太の呼び方に倣って、宏樹のことを「叔父さん」と呼んでいるのだ。「琴葉さん、おじさんが一緒に帰ろうって誘ったのを断るから、てっきり碧斗さんと一緒に来るのかと思ってたわ。まさか1人で先に帰ってきちゃうなんてね」一見するとただの何気ない疑問のように聞こえるが、よくよく考えれば、琴葉が両親とも夫とも一緒に帰省せず、自分勝手で非常識な行動をとっていると暗に当てこすっているのだ。琴葉は彼女の嫌味を聞く気にもなれず、今はただ、なぜ碧斗がここにいるのかを問いただしたかった。「叔父さん、この人喉が渇いたみたいだから、中で水を飲ませてくるわ」そう言うが早いか、彼女は碧斗の
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第14話

正式な離婚手続きが済むまでは、余計な波風を立てたくなかったのだ。どこまでも他人行儀でよそよそしい琴葉の態度に、碧斗はふと、去年の今頃を思い出さずにはいられなかった。あの時、墓参りに付き添って帰省した彼女は、目に見えて上機嫌だった。墓参りを終えた翌日には、嬉々として彼を連れ回し、毎年夏休みに帰省した際のお気に入りの遊び場を案内して、果物狩りにも連れ出してくれた。革靴にスーツ姿だった彼を見て、彼女は笑いながら言ったものだ。「その格好じゃダメね。次は動きやすい服で来てよ。そしたら木に登って採れるから」あの頃の彼女は、いつも目をキラキラと輝かせていた。今のように、冷ややかな目で彼を見つめ、あろうことか彼の訪問を疎ましがるような真似などしなかった。あの日、役所で顔を合わせて別れて以来、琴葉は碧斗と一度も会っていなかった。今こうして不意に目の前に現れられ、どう接していいのか戸惑いを隠せない。「ええと……とりあえず、ここで少し休んでて。私、叔父さんに用があるから」彼の返事も待たず、背を向けて足早に出ていく。碧斗は遠ざかる彼女の後ろ姿を見送ったあと、運転手にメッセージを送り、車を出して引き揚げるよう指示した。琴葉が奥の広間を出て外廊下を歩いていると、ちょうど竜也と鉢合わせた。竜也は彼女の姿を認めるなり、すかさず尋ねた。「琴葉、碧斗くんは中にいるのか?」碧斗に取り入ろうと躍起になっている姿を見るにつけ、琴葉の胸にはふつふつと怒りが湧き上がった。「桑原家のことに彼を巻き込まないで。今後、彼をこき使うのはやめてちょうだい」竜也は心外だとばかりに眉をひそめた。「俺がいつ彼をこき使ったって言うんだ?」「じゃあ、なんで彼を呼び戻したのよ?」「俺が呼び戻しただと?いや、俺はただ……」「とにかく、これ以上彼に付きまとわないで!」琴葉はこれ以上無駄話をする気にもなれず、それだけを吐き捨てると、彼を通り越して大股で歩き去った。あとに残された竜也は、濡れ衣を着せられたような顔でぽかんと立ち尽くした。昨日、結城グループへ南岬プロジェクトの商談に赴いた際、碧斗の姿を見かけて何気なく尋ねただけなのだ。「琴葉が明日の帰省は俺たちと一緒に行かないと言っていたんだが、碧斗くん、お前が付き添って帰るのか?」と。その時、碧斗は顔を上
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第15話

紗菜の浅ましい思惑など、琴葉にはとうにお見通しだった。彼女は悠然と碧斗の隣の席に腰を下ろすと、わざと紗菜の方を向いてにっこりと微笑んでみせた。紗菜は絶句した。千代が傍らで料理を並べていると、宏樹が竜也に尋ねた。「翔太はどうして今年も帰ってこないんだ?」直美がすかさず口を挟んだ。「翔太は今、海外での学業が忙しくて、なかなか休みが取れないのよ。だから無理して帰ってこなくていいと言っておいたの。でも、あの子も家族思いなのよ。昨夜もわざわざ電話をかけてきて、明日、お祖父さんとお祖母さんのお墓の前で自分の分も多めにお線香をあげてくれって、紗菜に頼んでいたくらいだし」その言葉を聞き、琴葉は心の中で鼻で笑った。今年19歳になる翔太は、昔から直美に蝶よ花よと甘やかされて育った。幼い頃から帰省するたびに癇癪を起こし、「田舎は汚くて嫌だ」と愚痴っては、着いたその日の晩にはもう帰ると駄々をこねていた。4年前に祖父母が相次いで亡くなってからは、一度も本家に寄り付こうとしない。彼を溺愛する直美が、毎年の墓参りのたびにこうして様々な口実を作って庇っているのだ。――まさに今のように。琴葉はそんな話題には一切興味がなかった。それよりも卓上に並んだ大好物の数々に食欲をそそられ、彼女は余計な口を挟むこともなく、ひたすら黙々と箸を進めていた。頬をいっぱいに膨らませて頬張る彼女を見て、碧斗の口角が知らず知らずのうちに緩んだ。彼女がこんなにも食いしん坊だったなんて、今までどうして気づかなかったのだろう。まるで小さなハムスターみたいだ。千代が彼女のそばに料理を置き、小声で囁いた。「琴葉様、こちらの豚の角煮は宏樹様が特別に言いつけて作らせたものですよ。朝一番からコトコト煮込みましたから、早く召し上がってみてくださいな」「わあ、すごくいい匂い!佐藤さん、手間をかけてくれてありがとう。叔父さんもありがとう」碧斗は、隣に座る彼女が千代や宏樹に向けて目尻を下げ、愛くるしい笑顔を見せるのを見つめていた。その様子は、たっぷりと愛情を注がれて育った幸せな少女のようだった。彼が思わず見とれていると、視線の先で琴葉が角煮を一切れ口に運び、目をキラキラと輝かせて千代に親指を立ててみせた。「お肉がほろほろで、味がしっかり染み込んでる!私の大好きな味だわ。佐藤さん
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第16話

1階の広間に入ると、琴葉は足をとめることなく真っ直ぐ3階へ向かおうとしたが、背後から紗菜に呼び止められた。「琴葉さん、夕食の前に叔父さんに貴重な木箱を渡しているのを見ちゃったんだけど……あれって、もしかして天然の霊芝?」天然の霊芝だと?一足遅れて入ってきた竜也が、ハッとして琴葉を振り向いた。琴葉はぴたりと足を止め、ゆっくりと振り返って紗菜を見据えた。「あなたには関係ない」まさか碧斗の目の前で、名家の若奥様としての体面など微塵も気に留めず、これほど冷酷に切り捨ててくるとは思わなかったのだろう。紗菜は一瞬ぽかんとしたが、気を取り直すと、再びか弱げな笑みを浮かべた。「琴葉さん、そんなに怒らないでよ。実はこの間、おじさんが体調を崩した時、お医者様から滋養強壮には良質な霊芝がいいって勧められたの。ずっと質のいいものを探していたのに全然見つからなくて……さっき向こうで、琴葉さんが叔父さんに極上の霊芝を渡したって話しているのが聞こえたから、つい気になって聞いただけなの」琴葉は腕を組み、彼女の白々しい三文芝居を眺めながらすげなく返した。「それで?」「琴葉、そんなに貴重なものがあるなら、どうして自分のお父さんに渡さないのよ?」直美が不満も露わに責め立てた。「実の父親と叔父の、どっちを優先すべきかくらい分からないの?」琴葉はためらいなく言い放った。「叔父さんは私を我が子同然に可愛がってくれたわ。叔父さんの方が大事に決まってるじゃない」その言葉を聞いた竜也は、ハッとして顔を強張らせた。琴葉は冷ややかに3人を一瞥した。「叔父さんは小さい頃から、私を本当の娘のように慈しんでくれたのよ。大人になった私が叔父さんに尽くして、何かいけないことでもある?」彼女の傍らに立つ碧斗は微かに眉をひそめて琴葉を見やった。碧斗が不快感を覚えたように見えたことで、紗菜の瞳の奥に得意げな色がよぎる。だが、表面上はあくまで従順で心優しい態度を取り繕ってみせる。「琴葉さん、別に責めてるわけじゃないの。ただ……おじさんこそが琴葉さんの本当のお父さんでしょ?いくら叔父さんが優しくしてくれたって、おじさんと比べられるはずがないじゃない。やっぱり血を分けた実の親が一番だし、他人がどれだけ良くしてくれたって敵うわけないもの」「ということは――」琴葉はわざ
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第17話

2階まで上がると、1階からの騒ぎ声はもう聞こえなくなっていた。碧斗は足早に2、3歩進んで琴葉に追いついた。「あいつらとは、折り合いが悪いのか?」琴葉は彼を一瞥もせず、そのまま階段を上り続けた。「見ての通りよ。私は親不孝な娘なの」ちょうど2階から3階へと向かう踊り場に差し掛かった時、碧斗は長い脚を踏み出して琴葉の前に立ち塞がった。そして首を横に振り、きっぱりと言い切った。「あいつらがお前にひどすぎるだけだ。お前が親不孝なわけじゃない」ある種の事実は、自分で分かっているのと、他人の口から言われるのとでは訳が違う。心の奥底に押し込めていた感情が、いともたやすく揺さぶられてしまうのだ。琴葉は突然、堰を切ったように感情が込み上げ、目頭が熱くなるのを感じた。彼女はきつく唇を噛み締め、うつむいて押し黙った。意地を張って強がりながらも、隠しきれないやるせなさを滲ませるその姿に、碧斗は心臓を鋭く抉られたような痛みを感じた。これまで何度か彼女の帰省に付き添ったことがあったが、その時、彼女と桑原家の人々との間に不和は見られず、今日のように冷たい態度をとることもなかった。だからてっきり、彼女の母親を亡くしたとはいえ、少なくとも父親だけは彼女をそれなりに大切にしているのだと思い込んでいたのだ。だがまさか、竜也が実の娘である彼女よりも、紗菜を可愛がっているとは思いもよらなかった。「どうして今まで、こういうことを俺に一言も言わなかったんだ?」その言葉に、琴葉は長いまつ毛を微かに震わせ、だらりと下げた両手の指先をきゅっと丸めた。そもそも、彼女と碧斗とでは家柄の格差があまりにも大きかった。以前は彼を慕っていたからこそ、常に一番良い自分を見せ、少しでも彼にふさわしい存在になりたいと願っていた。自分が実家でこれほど惨めな扱いを受けているなど、どうして知られたいだろうか。だから、自分が桑原家で疎まれ、冷遇されている状況を一度も口にしなかった。たとえ彼と一緒に帰省する時であっても、込み上げる嫌悪感を必死に抑え込み、波風が立たないよう取り繕ってきた。桑原家の醜い内情を彼に見せたくなかった。しかし、今は違う。あと5日もすれば最後の手続きが完了する。正式に離婚が成立すれば、彼女と碧斗は交わることのない2本の平行線――完全に赤の他人に戻るのだ。
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第18話

「本当に大丈夫よ」「なら、まずは部屋に戻って座って休め。もしまた気分が悪くなるようなら、俺が宏樹さんのところへ薬をもらってくるから」琴葉は顔を上げて彼を見上げた。バスルームの暖色系の照明のせいだろうか、今の彼の表情はどこか柔らかく、いつものような近寄りがたい冷たさを感じなかった。「……ええ」琴葉は視線を外し、うつむき加減で彼の横を通り抜けてバスルームを出た。寝室に戻り、千代が自分と碧斗のスーツケースを並べて置いているのを目にして、琴葉はハッと気がついた。今夜、碧斗と同室で寝なければならないのだと。周囲の目には、2人はまだれっきとした夫婦なのだ。背後に彼の足音が近づいてくるのを感じ、琴葉は密かに心を落ち着かせた。振り返った時には、その表情はすでに平静を取り戻していた。「私、先にお風呂に入るわ」そう言って、彼女はクローゼットへパジャマを取りに向かった。季節柄ちょうどいいキャミソールタイプのネグリジェが目に入ったが、彼女はあえてシルクタッチの長袖のパジャマを手に取り、バスルームへと向かった。シャワーを浴びて出てくると、碧斗が小さなソファに座り、眉を寄せて何やら物思いに沈んでいるのが見えた。彼が顔を上げたのに気づき、琴葉はさっと視線を逸らした。それでもなお、熱を帯びた強い視線が自分に注がれているのが肌で分かった。肌の露出が少ない長袖のパジャマを着ているというのに、なぜだかひどく居心地が悪かった。「田舎の夜は早いの。あなたもさっさとシャワーを浴びてきて」彼女はそう急かした。男は立ち上がった。「ああ」琴葉は彼を見なかった。スーツケースのファスナーが開く音がして、また閉められ、彼がバスルームに入っていく音だけが聞こえた。ドアに鍵がかけられた瞬間、琴葉は密かに安堵の息を吐いた。千代が綺麗に整えてくれたベッドを見やり、彼女はため息をついた。この部屋のソファは小さい。御庭苑の主寝室にあるような、大人が一人寝られるほど大きなソファとは違うのだ。だから今夜は、碧斗と同じベッドで寝るしかない。幸いなことに、結婚を機に叔父さんがわざわざ幅2メートルのキングサイズベッドに買い替えてくれていた。これだけ広ければ、左右それぞれの端に分かれて眠れば、互いに干渉せずきっちり一線を引くことができる。少し考えてか
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第19話

琴葉の呼吸が静かで規則正しくなるまで気長に待ってから、碧斗はゆっくりと首を巡らせて彼女を一瞥した。すっかり寝入ったことを確認すると、彼はナイトテーブルの上のエアコンのリモコンを手に取り、設定温度を一気に数度下げた。5分も経たないうちに、案の定、ベッドの反対側で小さな気配がした。碧斗は彼女の方を向いて横向きになり、淡い月明かりを頼りにその様子を見守る。琴葉はまず寒そうに布団の中で小さく体を丸め、それからゴソゴソと寝返りを打つと、微睡んだまま無意識に温もりを求めて彼の方へと擦り寄ってきた。伸ばした手が温かい肌に触れるや否や、慣れた仕草でその腕の中へと潜り込んでくる。碧斗の口元に、ふっと微かな笑みが浮かんだ。彼女に掛かっていたピンクの薄布団をそっと払いのけると、腕の中に甘えるように擦り寄ってきた柔らかい体を、まるごと自分の布団の中へと引き入れた。彼女の白く柔らかな手は、まるで吸い寄せられるかのように迷いなく、寸分の狂いもなく彼の胸元にぴたりと添えられた。それが、彼女のいつもの寝相だった。碧斗は大きな手でその細くしなやかな腰をそっと抱き寄せ、伏し目がちに、気持ちよさそうに眠るほんのり色づいた頬を至近距離で見つめた。彼女の肌から漂う馴染み深い香りを嗅いでいると、ここ半月ほどぽっかりと空洞になっていた心の一部が、ようやく確かなもので満たされたような気がした。……琴葉は朝までぐっすりと眠った。寝ぼけ眼のまま、手のひらに心地よくて懐かしい感触を覚え、無意識のうちに指先でぎゅっと掴んでみる。がっしりとした筋肉の張りが伝わってきて、彼女はぴくりと眉を動かし、勢いよく目を見開いた。次の瞬間、視界に飛び込んできたのは――男の艶めかしい喉仏だった。琴葉は目を丸くし、一瞬にして頭が冴え渡った。ある可能性に気づき、ごくりと生唾を飲み込むと、ぎこちなく顔を上げた。目に入ったのは、熟睡している男の端正な寝顔だ。琴葉は内心でヒッと息を呑み、再び視線を落とした。いつの間にか自分が彼の布団の中に潜り込み、あろうことかその腕の中にすっぽりと収まって、ぴったりと身を寄せているではないか。どうしてこんなことに?昨夜はあんなに偉そうに「境界線を越えないで」と警告しておきながら、いざ目が覚めてみれば、自分から相手の胸に飛び込んでいただなんて
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第20話

琴葉は宏樹の手からお供え物を受け取り、傍らに置いた。「あの人はまだ下りてきてないわ」「ゴホッ、ゴホッ……」背後から咳き込む音が聞こえ、宏樹が振り返ると、竜也が顔をしかめて胸元を押さえながら咳をしていた。「琴葉、ここはごちゃごちゃしてて空気がこもってる。お父さんを外へ連れ出して、少し休ませてやりなさい」琴葉は振り返りもせずに言い放った。「足があるんだから、自分で行けるでしょ」「こら、お前って子は」宏樹は彼女の額を軽く小突くと、声を落として言った。「碧斗くんを呼んで朝飯を食うついでだ。外まで手を貸してやりなさい」琴葉は昔からこの叔父の言うことには素直に従ってきた。彼にそう言われてしまっては、顔を潰すわけにはいかない。「……わかったわ」と不承不承返事をし、手にしていた物を置いて振り返ると、竜也の腕を支えた。母屋を出て、前庭の石のベンチに彼を座らせるや否や、琴葉はさっさと手を離して立ち去ろうとした。「琴葉」竜也が彼女を呼び止める。琴葉は振り返り、冷ややかな視線を向けた。「まだ何か?」竜也は申し訳なさそうな顔を浮かべて言った。「俺は昔……お前にはずいぶんとひどいことをした。お前が心の中で、俺を恨んでいるのは分かっているんだ」実のところ、ここ数年、琴葉が自分に対してますますよそよそしく冷ややかになっていることは、彼自身も肌で感じていた。幼い頃は、父親からの一言の褒め言葉と愛情が欲しくて、彼の誕生日にはわざわざ手の込んだ手作りのプレゼントを用意してくれた娘だった。それがいつからか、彼の誕生パーティーにすら顔を出さなくなり、「おめでとう」の一言すら掛けなくなった。それなのに、宏樹の誕生日の時には、遠路はるばる本家まで帰省して祝うのだ。今となっては、父親である彼に笑顔を見せるどころか、まともに目を合わせようとすらしない。昨夜、彼女の口から「叔父さんの方が大事に決まってるじゃない」という言葉を聞いた時、彼ははっきりと悟った。自分の娘はもはや、今さら父親らしい素振りをほんの少し見せたところで、過去の仕打ちを水に流してくれるような子供ではない、と。「分かっている。俺が紗菜ばかり可愛がってきたことを、お前が気にしているのは。だが、あれはあの子が両親を亡くし、身寄りもなくて可哀想だったから、少しばかり手厚く面倒を見てやっただけ
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