午後一時を少し過ぎた頃、フロアには昼食から戻った社員たちのざわめきが戻り始めていた。机上の書類がめくられ、プリンターが断続的に音を立て、空調の吹き出し口からは涼やかな風がひんやりと肩先を撫でていく。河内は、手に資料を数枚抱えて、クリエイティブチームの島へと足を運んでいた。業務連絡の名目があるにはあったが、実際は理由にならない理由を自分で用意したようなものだった。胸の奥にくすぶる“気になる”という感情を誤魔化すには、仕事という仮面がちょうどよかった。島に足を踏み入れた瞬間、空気の密度がわずかに変わったように感じられた。声をかけるまでもなく、彼の視線は小阪を探していた。その姿はいつもの位置にあった。右手にマウス、左手に資料。背筋を伸ばし、肘の角度も無駄がない。真横から見える顔は淡白で、彫刻のように無機質な静けさをまとっていた。だが、そのときふと、小阪が視線をこちらに向けかけた。ほんの一瞬。けれど確かに、河内の存在を認識した視線だった。その瞬間だった。河内の目に、小阪の耳元でわずかに揺れる黒い光が映った。耳たぶに添うように、さりげなくつけられた小さな黒いスタッズピアス。ごく細い縁に、かすかに銀のラインが縁どられている。──あの夜、気づいていなかった。視線がそこに吸い寄せられる。柔らかな髪が少しだけ動いたとき、照明の光がそのピアスの縁に当たり、ごく短く輝いた。まるで、そこだけが夜の名残を秘めたような、無言の装飾。河内は、一歩足を止めた。資料を持ったまま、その場に立ち尽くしていた。心臓が、音を立てて打った。ほんのわずかに、喉が乾く。──なんやねん、それ。そんなふうに思ったのに、口に出すことはできなかった。言葉にした瞬間に、なにかが壊れる気がした。言葉は境界だ。踏み越えれば戻れない。「そのピアス、似合ってんな」そう言いかけた。だが、唇はそのまま閉じたままだ
オフィスの時計が正午を指した瞬間、フロアの空気が一気に緩んだ。キーボードを叩く音が少しずつ減り、電子レンジの稼働音や紙袋のシャカシャカという音が代わりに広がっていく。誰かの笑い声が会議室の方から洩れ聞こえ、空調の風音がその隙間を縫って低く唸った。河内は、自販機の前に立ち尽くしていた。紙コップのコーヒーから立ちのぼる湯気を見つめながら、浅い呼吸を何度も繰り返す。眠っていないような感覚が、まだ背中のあたりに張り付いていた。あの夜の、無音のまま絡み合った身体と、朝のドアが閉まる音。どこを切り取っても、感触だけが鮮明に残っていて、記憶の奥がずっとざわついている。カップを口に運びながら、自販機横の小さなスペースに背を預けた瞬間、廊下の向こうから軽い足音が聞こえてきた。何気なく顔を上げたその先に、見慣れた細身のシルエットがあった。小阪だった。黒のシャツに、耳にはイヤホン。歩幅は一定で、姿勢は崩れず、誰とも視線を交わさないまま、真っ直ぐこちらに近づいてくる。河内は反射的に声を出しかけた。「なあ──」けれど、声は半分で止まった。喉の奥に何かが詰まり、呼び止めるには弱すぎたその一音は、空気に溶けていった。小阪は立ち止まらなかった。こちらを見ることもなく、すれ違う寸前にイヤホンのコードを指先で無意識になぞっていた。白く長い指が、線の先をゆっくりとたぐる仕草。それが妙に幼く見えて、河内の胸に引っかかる。すれ違いざま、ふと微かに、香が鼻をかすめた。伽羅。あの夜と同じ匂い。湿った木のような、熱を孕んだ香り。微かで、だが確実に、肌の裏側に触れてくるようなその残り香に、河内の指先が小さく震えた。思わずコーヒーのカップを握りしめた。液体が少し溢れ、熱が手のひらを掠める。舌打ちをこらえながら、自販機横のゴミ箱へと投げ捨てた。カップが内側にぶつかって響いた音が、周囲のざわめきとは異質に感じられた。小阪の背中
月曜午前九時半。クリエイティブ第三チームの定例ミーティングが、会議室の奥で始まった。ガラス張りの壁越しに外の光が差し込んで、ホワイトボードの端にうっすらと影を落としている。葉山が、資料をタブレットでスクロールしながら淡々と議題を読み上げていく。声は落ち着いていて、口調はいつもと変わらない。「じゃあ、今週の進行確認入ります。プロジェクトA、ビジュアル案、更新来てたよね」「はい。修正案、先ほどスライドに反映しました」小阪の声が、穏やかに響いた。一言のみ。静かで、透明で、温度のない声だった。小阪はスクリーンに資料を映し出し、レーザーポインターを持って立ち上がる。スライドの切り替え、デザインの説明──どれも必要最小限の言葉で進む。説明の途中も、目線は決して誰かに触れようとはしなかった。河内は、その横顔ばかりを見ていた。指先の動き、資料を送るタイミング、スライドの背景色に光を吸われる頬の輪郭。すべてが整いすぎていて、逆に痛い。まるで感情を塗りつぶすために“完璧”を装っているようだった。この三日間、何があったのか。あるいは“なかったこと”にされたそれは、一体、どこへ消えたのか。「…そんで、木曜までにパターンAとB、両方クライアントに出す形でええな?」葉山の確認に、小阪がうなずく。「はい、問題ありません」河内はその返事に遅れて相槌を打ちかけたが、ほんの一瞬、言葉が詰まった。──問題ない、って。何が。誰にとって。自分が何を言いたいのか、すぐにはわからなかった。ただ、胸の奥に何かが引っかかったまま、口を開けないまま黙った。「タク、そっちはどう?」「…あ、うん、営業側は先方と調整済み。スケジュールもこの通りで通ると思う」慌てて返しながら、視線を逃がすようにタブレットを見た。そのとき、向かいに座っていた森の視線がふと、小阪へ向けられたのを感じた。森──ディレクター職、三十一歳。小阪とは美大の同
オフィスビルのエレベーターが九階に止まり、扉が静かに開いた。朝九時前のフロアには、いつもと変わらぬ軽やかな会話と、コーヒーの香りが満ちていた。河内はその空気に合わせるように、わざと足音を軽く、歩幅をやや広めに取りながら廊下を進んだ。「おはようございます」明るい声を出すと、近くの女性社員がふたり、顔を上げて笑った。「タクちゃん、おはよ。髪型ちゃうやん」「ほんまや、週末どこ行ってたん?」「そんな変わった?適当セットやで。遅刻ギリギリ」軽口を返しながらも、河内の視線は一瞬、フロア奥のデスクへとすべっていた。小阪がいる。いつも通り、背筋を伸ばしてパソコンの前に座っていた。黒の長袖シャツに細身のパンツ。髪は整っており、襟元に乱れもない。だが、よく見ると、目の下に薄くクマがある。肌もどこか青白い。それでも、指先は止まることなくキーボードを叩いていた。河内は、胸の奥がわずかにざわつくのを感じながら、ゆっくりと彼の島に近づいた。「おはよう」ほんの少し、声を落として小阪にだけ届くトーンで言う。小阪は顔を上げなかった。打鍵の音が一瞬だけ止まりかけたが、わずかな間を挟んだのち、何事もなかったように再びタイピングを始めた。まるで、その声など届いていなかったかのように。あるいは、それに応じる必要などないと思っているかのように。河内はその様子に、一瞬だけ目を伏せた。自然な動きのつもりだったが、自分でも微かに表情が強張ったのがわかった。──こいつ、週末のこと全部、切り捨てるんやな。自分がまだ、あの夜の温度を引きずっていることが、途端に馬鹿らしく思えた。だが、言葉にしてしまえば、それがすべてになってしまう気がした。だから、何も言わずに通り過ぎる。小阪の側を抜けて自席に戻りながら、河内は背中越しにもう一度だけ振り返る。それでも小阪の肩は動かず、視線はモニターに釘付けられたままだった。整いすぎている。きちんとボタンを留め、襟元を正し、髪を
シーツにはまだ、小阪の体温が残っていた。ぬるく湿った跡が、河内の指の腹に絡みつく。仰向けに寝たその輪郭だけがくっきりとベッドの片側に刻まれていて、それがもうすぐ乾いて消えてしまうことに、妙な焦燥感を覚える。少しでも長く残っていてくれと願いながら、河内はそこにそっと腰を下ろした。窓の外は、薄桃色の朝焼けに染まりかけている。カーテンの隙間から差し込む光が、床に長い影を落としていた。音はなかった。テレビもつけていない。カーテンの布が、わずかに揺れる音だけが耳の奥で響く。小阪の匂いがまだ部屋のどこかに残っていた。いつも身につけているあの伽羅の香り。線香とも香木ともつかない、湿った土と燻された煙のような重たく甘い匂い。香水のように主張はしないが、確実に残る。河内はその香りを吸い込んだ瞬間、昨日の夜、指先がなぞったあの冷たい皮膚の感触が蘇るのを感じた。空になったグラスが、ナイトテーブルの上に置かれている。氷はすっかり溶けて、薄まったウイスキーの香りすら漂ってこなかった。河内はそのグラスを取り上げ、縁を親指でなぞった。小阪がそこに口をつけていたのか、それとも違うグラスだったのかは、もう確かめようもなかった。なぜ、何も言わなかったのか。なぜ、涙を流したのか。そしてなぜ、何も聞かずに部屋を出ていったのか。問いは山ほどあるのに、どれも言葉にならなかった。喉元まで上がってきても、舌に乗せた瞬間、崩れてしまう。河内はベッドの端に腰を掛けたまま、ゆっくりと息を吐いた。ふたりの間に、確かに交わされた行為があった。肌が触れ合い、深く満たし、快楽が頂点まで達したはずだった。それでも、あの夜のすべてが“虚”だったような感覚だけが、今も胸の奥に残っている。小阪は、身体を差し出した。それだけだった。言葉も、感情も、微笑みさえもなかった。まるで何かを差し出すことで、自分の存在を消そうとしていたかのように、沈黙のまま差し出してきた。それを受け取った自分は、いったい何をしていたのか。慰めたかったのか、支配したかったのか、それともただ…愛された
朝の気配は、カーテンの隙間からわずかに漏れる白みに変わっていた。夜が終わったことを、部屋の温度が静かに知らせてくる。けれど、そこには眠気も、安堵も、残されてはいなかった。河内はベッドの端に横たわり、隣に背を向けて眠る小阪の肩越しに、明け方の空を見つめていた。まだ薄暗さの残る室内で、小阪の背中だけが妙に輪郭を持って浮かんでいる。肌に残る薄い汗の痕、乱れた髪、ベッドにくっきりとついた身体の形。何も言わず、何も聞かずに交わされた時間の余韻が、肌にまとわりつくように漂っていた。河内は、何度か目を閉じようとした。けれど、眠ることはできなかった。体内のどこかが冷えたままで、指先に残る小阪の感触だけが、じわじわと熱を持ち続けている。抱いたはずなのに、近づいたはずなのに、届かなかったという実感だけが、時間と共に重くのしかかってくる。そのとき、小阪がゆっくりと身を起こした。河内は反射的に目を閉じるふりをしたが、わずかに開いた瞼の隙間から、彼の動きを追ってしまう。小阪は無言のままベッドを離れ、椅子の背にかけてあったシャツを手に取った。皺だらけの布を一切気にせず、淡々と腕を通す。鏡の前には立つが、視線は合わせない。髪を直すことも、肌の状態を確かめることもない。ただ、着るべきものを着て、立ち去る準備をしている。パンツを穿き、ベルトを締める小阪の指は、やけに落ち着いていた。昨夜、シーツを握りしめたあの指先と、まったく同じものとは思えないほど冷静で、無感情だった。彼の背中には、もう河内の存在は映っていないようだった。河内は言葉を探した。なにか、なにかひとことでも。けれど、昨夜の涙の理由を聞く勇気も、別れの言葉を受け入れる覚悟も、どちらも持ち合わせていなかった。声にならない声が、喉の奥でくぐもったまま消えていく。小阪は、振り返らなかった。扉へ向かうその背中は、まるで最初からここに来る予定などなかったかのように、確固たる足取りで進んでいく。河内が見ているのを知っていて、なおも背を向けたまま。ドアの前に立ち、ノブに手をかける。その一瞬、時間が引き延ばされたように感じた。開け放たれるまでの数秒が、何かを期待させ、同時に絶望させる。河内の口元が、ようやくわずかに開いた。「