男は、すぐそっとしゃがんだ。
そして、まるで王子が姫君にするように地面に片膝を付き跪き、ベンチに座る理久の両手を握った。
男の手は、大きく、温かい。
まだ涙の止まらない理久の目の前に男の顔が来て、見上げてくる。
やはり、深青の瞳がクロに似てる…
だが、理久がそう思ったのも束の間、男の逞しい腕の右手首に視線が行った。
そこには、理久がお小遣いでクロに買ってやったブルーの合皮の首輪に似た物が、まるで長さを加工されたようになって巻かれていた。
「理久…」
男は、甘く囁くように呼びかけてきたが、理久は男の瞳を再び見て戸惑う。
(だから…何で俺の名前、知ってるんだよ?)
理久は、そう聞きたいのに、声が出ない。
まるで、深青の瞳に魅入られてしまったかのように。
ただ、ドキドキドキドキと心臓の動きが激しい。
「この、首輪、理久が自分の少ないお小遣いで俺に買ってくれたんだよな…俺の青い目と同じ色だと。俺、凄く…うれしかったよ」
男が、自分の右手首を見て微笑んだ。
「え?!」
理久は、男が何を言ってるのかが分からない。
そのまま固まっていると、男のその右手が、理久の左頬に触れた。
そして、そのまま男はあろう事か、理久の左頬に流れる涙をペロペロペロと舐めだした。
驚きの余り、声も出せす固まる理久をよそに、次は、右頬の涙を舐める。
そして、理久は思い出す。
クロは、理久が家でドラマや映画を見て泣いていたら、こんな風によく顔を舐めてくれた。
男は、クロと舐め方がよく似ていた。
折角涙を取り去ったのに、その思い出に又、理久の両目から涙が溢れ流れ落ちる。
「理久…もう…泣くな…俺はクロだ。お前の所に帰って来たから…」
男は、次に理久の唇に、男の唇をそっと重ねた。
クロの興奮してギラギラ金色に光る瞳も、理久の瞳から視線を外さない。 それでもやはり、理久は、クロが怖くない。 理久は、椅子に座ったまま、ただただ、目の前で跪くクロの髪を優しく撫で続けた。 犬のクロに、いつもしていたように… かなり長い時間をかけて。 やがて… 激しかったクロの唸りが、徐々に徐々に小さくなり、収まった。 鋭利な爪の方も、元の人型のように戻った。 クロに、やっと落ち着きが見えた。「り……理久……理久……すまない…」 クロが、王国の支配者らしからぬ弱々しい声を出し、両膝立ちになり、椅子に座る理久の胸下辺りに抱きついた。「いいよ……クロ……いいんだ…」 理久にはよく分かっていた。 クロは、最終的には理久を絶対に傷つけたりしない… そして、クロがまだあの犬のクロにしか思えなくて、思わずその自分より大きな体を頭から抱き締めてやった。 どれだけの時間だろうか… 又長い時間、理久とクロは抱き締め合い合った。 言葉なんて無くても、こうやって抱き合っていると、理久の心はポカポカ温かくなる。 と同時に、何処か体の奥の方が…なんと言うか、ムズムズしてキュッとなる。 やがて…「それに、俺達、二度と会えない訳じゃ無いだろう?クロのおじいちゃんの呪術があれば、いつでもずっと、ずっと会えるだろう?」 理久がクロの頭を抱いたままそう言うと、クロが急に一瞬固まった。 だが、クロは、ゆっくり理久を見上げた。「ああ……そうだな…」 クロは、理久を思いやる余りに、誤魔化している事がある事を隠してゆっくり微笑んだ。「理久……確か、明日向こうの世界は、祝日だな?」 真顔に戻ったクロが跪いたまま、椅子に座る理久に尋ねた。「クロ……あんな短い間しか向こうにいなかったのに良く覚えてるな」 理久は感心した後、「うん」と頷いた。「実は……今日理久を迎えに行く前に、俺はすでに一回向こうへ行ってた…」 実はクロは、自分の両親に理久の事を相談し向こうの世界の服を作らせた後だったが… 理久を迎えに来るまでに、どうしても調整したい事があった。 だが、その以外な言葉に、理久の心臓が跳ねた。「じゃぁ、その時、俺の事、見に来なかったのか?俺の事!」 理久が叫び、今度は興奮したようにクロの両手を自分のそれで握った。「理久!見に行った……当たり前だ
「えっ?えええっ?!」 驚きの余り、理久の瞳孔が開く。 「けけけけっ…結婚って!俺達男同士だし!」 「何を言う。理久の世界も、同性で愛し合うって、テレビで言ってたよな。それに、この世界でも同性で愛し合うし結婚もする」 クロは、更に理久の手を握る両手に力を込めた。 「でっ…で、でも…クロには、跡継ぎがいるだろう?俺…産んで上げられないし…」 「大丈夫だ」 「なっ、何が大丈夫なんだよ!」 「この世界には、男でも子供を産める魔法がある。それに、もしダメでも、俺には沢山兄弟がいるから大丈夫だ!」 クロは、全く意に返さず微笑む。 「そっ、そんなご都合設定の魔法ある?それに、俺、根っからの一般人だから、王家の暮らしとかしきたりなんて無理無理無理無理!絶対無理!」 「理久、俺は、お前に妃として多くは望まない。お前は、俺の傍にいてくれさえすればいい…俺を、俺だけを愛してくれ…俺だけ愛してくれさえすればいい…」 一段と低く甘くなったクロの声に、理久はドキッとした。 クロは、それを見透かしたように、理久の左手の甲をクロの口元に持って行き、優しいキスをした。 「理久、左手にキスは、この世界の正式なプロポーズだ。頼む。俺と、結婚してくれ…」 理久は、クロの美声と上目遣いの男の色気に、同性なのに思わずクラッとなった。 「クロ…ありがとう…」 理久は、跪いたままのクロの長い黒髪を撫でた。 クロはその理久の反応にいい予感を感じて、尻尾をブンブン振った。 理久には、そんな大の年上の男がとても可愛く映る。 しかし… 「クロ…ごめん…俺、クロと結婚は出来ない…」 そう答えた理久を見上げていたクロは唖然と瞠目して、立派な耳と尾が又しなだれた。 「何故?俺が…俺が…獣人だからか?やっぱり…俺が怖いか?」 「違う…それは、違うよ…」 理久の首が横に2度振られた。 「俺…まだ高校生になったばかりで、これからもっと勉強して大学も行きたいし、自分の世界に戻って暮らさなきゃ…」 理久にしたら、結婚なんてまだまだあまりにも遠い遠い何年も先の将来の話しにしか思えない。 それに、あくまで理久が生きていける世界は、理久の生まれた人間の世界としか思え無い。 「理久…」 クロの青い瞳が、苦し気に細められる。
突然いなくなった国王のクロだったが…クロの国は、至って普通の暮らしが続いていた。すでにクロに譲位して引退していたクロの父で前国王は、以前自分が幼い頃、自分の父も何日か姿を消して無事帰って来た事を覚えていた。そして、その姿を消していた事のあるクロの祖父は、戻って何十年後のその死の直前クロの父だけに…「何日か姿を消していた時、違う世界に行って、本当に愛した人と暮らしていた」と、涙ながらに告白した。クロの父は驚きはしたが、自分の父が自分の母以外を愛した事には何の批判も無かった。国王とは、決して愛した者と結婚できるとは限らない。むしろ、愛した者と出来る方が稀だ。それは、国と国の戦略的友好の為、国王と臣下の相互利益関係を深める為…国王は、愛の無い政略結婚は普通で当たり前だからだ。クロの祖父も祖母も、結婚式の当日お互いの顔を初めて見た政略結婚だった。クロももしかしたらすぐ帰るかもと、クロの父は無論捜索もしていたが、クロの失踪を隠して、病気療養にして待っていた。そして…クロは自分の世界に帰ったが、クロは、理久を忘れられなかった。忘れられなくて…どうしても、どうしても忘れられなくて…とうとう、狂いそうになって…父と母に相談の上…理久に、化け物だと拒絶されるかもしれないのを覚悟し、それでも堂々とプロポーズする決心をした。そして、出来れば、クロの国に来て、一緒に暮らして欲しかった。あんな危険な呪術は、魔術師に頼んで消さなければならないのは分かっていたが…理久の世界の服に似た物を至急作らせ、それを着て…又、祖父の部屋に行き、古の文字を唱えた。クロは職務の間に、理久に遂に会いに来てしまった。魔術の穴を出てすぐ、何故かすぐに公園内に理久のいい匂いがして、クロは歓喜し体が熱くなった。そしてその匂いを辿ると、理久が暗がりのベンチにいた。今すぐに駆け出して、理久を思い切り抱きしめ、キスして、有無を言わず自分の国に攫いたい!そんな野獣そのものの激しい衝動を感じて体中が更に燃え上がるように熱くなり、クロは自分を諌めた時…理久は、座って泣いていた。そして、「クロ…俺の側に帰って来てくれ!帰って来てくれたら、ご飯でもおやつでも何でも、お前の好きな物食べさせて上げるから…なぁ…クロ…」と、一人ごちていた。ひとしきり話し終え、理久とクロの間に沈
理久は、秒でクロを引き取る事を決めた。 そして、クロは、理久を一目見て恋し、更に感覚ですぐ分かった。 とても優しい人間だと。 すぐ立ち上がり、しなだれていた尻尾を珍しく振り、膝立ちしていた理久の太ももに顔を擦り寄せた。 すると、理久は、子犬がいいと言う理久の母の文句を一蹴して、クロを抱き締めた。 それからクロは、楽しかった。 ケガもみるみる完治した。 クロは、凄く幸せだった。 理久が学校へ行っている以外は、ほぼ一緒。 食事も、 勉強中も、 理久一人でゲーム中も、 テレビを見ていても、 家族旅行も、ベッドの中も、時には風呂でさえも… もう、何年も前からそうだったと思いたくなるほど… 違和感も無く自然で心地良く… ずーとずーと、ずーと一緒。 そして、本当に理久は、クロの面倒をよく見てくれた。 しかし、そんなある日、クロの脳裏に突然、獣人である記憶が戻ってしまった。 どうすればいいのか? 理久に本当の事を打ち明けるべきなのか? しかし、人間からしたら獣人など、化け物だと受け入れてもらえないかもしれない。 そして何より、理久が妖怪や幽霊、UMAなどが大の苦手で恐れているのを知っていた。 記憶が戻ってもまだ犬の姿のまま、クロは数日悩んだ。 しかし、満月の夜。 クロは、理久の風呂上がりの匂いに、発情してしまった。 我慢しなければ… 我慢しなければ…と、すでに滾っている下半身を一生懸命耐えようとしたが… クロはついに人型になって、口から鋭い双牙を出し、ベッドで眠る理久を襲いそうになった。 その性欲は凄まじかった。 クロは、こんなに誰かを欲しいと思った事が無かった。 それでも、必死でなんとか耐えた。 だが… クロは、遂にたまらなくなって、人型のまま理久の家を出た。 そして、自分が初めてこの世界に出た、あの公園へ行ってみる事にした。 僅かな外灯の灯りとあの時の虚ろな記憶で、どの辺りの木から自分が出たか探す… すると、沢山の木に囲まれて、それらしいものがあった。 クロの抜群な視力で、少し遠くから眺めていると、突然… その木の根本近くに、白い大きな月の模様が浮かんできた。 まるで、これから満ちていく三日月の形。 それは… 実は
クロが、話し出した。真っ直ぐに、理久の瞳を見上げながら。理久は、その射るような強い視線に、まるで直接握られたように心臓を収縮させた。クロは、この様々な獣人の世界の王国の王様だった。本当は名前もクロでなく、アレクサンドルと言う。そして、少し前から亡くなった祖父で、前前国王のそのままになっていた珍しい品々を集めた部屋がやたら気になっていた。そこは、巨大な城の誰一人として今や入らない、すでに忘れられた空間。それに、クロは、王になってから毎日毎日、お妃を決めろ!早く決めろ!と周囲からヤイヤイ言われていた。そして、毎日毎日、断ろうが何人もの何処かの姫や令嬢と勝手に見合いを組まれ、いかにもと分かる欲に塗れた色目を使われて媚を売られ、もうほとほとうんざり辟易していた。だがある日、クロはどうしてもそう言うストレスもあり気晴らしに、なおかつその部屋が気になって、誰にも告げぬまま、こっそり鍵を持ち出して一人入った。側近や付き人に言えば、埃に塗れるやらなんやらと必ず反対されたからだ。それに、何故だろう…普段、こんな馬鹿げた事はしないタイプなのに…国王になってからは、増々、行動には慎重だったのに…どうしても、部屋の中に入りたかった。まるで、部屋に呼ばれているかのように…それに、少し中を見て、すぐ職務に戻るつもりだった。そこは…やはり埃に塗れ、蜘蛛の巣が張り放題。どこから手に入れたのか、変わった動物のミイラや骨や、壺や仮面や不気味な人形が、元王の部屋にしては小さな空間に溢れていた。すると突然、部屋の中央に鎮座している大きな陳列台と床との僅かな隙間から、ネズミが2匹出てきた。古い部屋だし仕方が無いなと思いながら、掃除はしなければなと、何気にその隙間を覗くと…陳列台に隠れるように、床に何かが描かれていた。一体何かと…普通ではなかなか動かせないその台を、クロは持ち前の怪力で一人で軽く動かしてみた。すると、そこに、呪術なのか?…その部分だけ埃が無くキレイなまま…紅い何かで描かれた大きな円陣が幾つか重なったり組合って、訳の分からない記号も幾つかあった。だが、クロには唯一、その円や記号の横に書いてあった文字だけが読めた。いにしえの今はもう、王族にしか伝わらない、市井の人々には忘れられた古代文字。そこには…「神聖なる血を受け継ぐ一族の者よ…我、
理久は、まるでフランスの太陽王の宮殿の中のような、内装も調度品も華美で煌びやかな広い部屋にいた。だが、どこから見てもThe日本人の理久には馴染まないと言うか、浮いてしまうと言うか…その雰囲気に、思わず小さくなってしまい全く落ち着かない。そして、よく読む、異世界転移の小説の主人公の気持ちが痛いほど理解出来た。今はこの異世界も夜のようで、大きな沢山の窓は高価そうなレースのカーテンが締め切られていた。しかし、この世界には、暗がりになると光る石があるらしく、天井のゴージャスなシャンデリアはそれで出来ていて、煌々と広い部屋を照らしていた。そして、理久は椅子に座り、沢山の獣人の召使いが目の前のテーブルに、理久とクロの食事を用意しているのをただ眺める。獣人は、色々な種類がいる。クロと同じ犬もいれば、猫や馬、熊もいる。けれど特に目立っていたのが、仲の良さそうな、黒のスーツに身を包む2人のどちらもかわいいウサギの獣人の男子だ。人間で言うなら、20歳前後位に見える。彼等は、一人がかわいくて凛とした爽やかイケメンで、もう一人は、笑顔が甘過ぎる、ウサ耳の良く似合うめっちゃくちゃかわいい系だった。どちらかと言えば、爽やか男子が2人の仲をリードしているのかとおもいきや、主導権を握っているのは、以外や以外、かわいい方のようだった。クロは、理久の向いに座り、召使い達に色々指示を出す。ただ…クロの顔つきや喋り方が、理久と一緒にいたさっきまでと違う。理久と一緒だった時は、柔らかくて、時に甘えるような表情や言葉遣いが、今は支配者然として居高くまるで別人のようだ。(クロ…やっぱり…本当に…王様、なんだ…)理久は、クロの顔をまじまじと見た。さっきまで優し気だった野生味のある男らしい顔が強く引き締まり、更に男前度合いが増していた。途端に、理久の胸の奥がなんだかザワザワとする。やがてすぐに食事の用意は完了し、召使い達は全て退室した。理久は、目の前のテーブルに並べられたステーキや焼きたてのパンやデザートなどの、これまた豪華さに目を丸くした。「沢山、いくらでも食べろ…理久」クロが、理久の向かいから右腕で頰杖をついて言った。そして、クロの表情と喋り方が、又柔らかくなっている。それでも、理久が無言で不安そうにクロを見た。「どうした?冷めるし、腹へってるだろ?」結