佐野の指が、次のカードへと伸びた。畳の上に広がる十枚のケルト十字。その中央に重ね置かれた「剣の9」は、すでに尾崎の内側に静かな余韻を残していた。まるで、過去から流れ込んだ痛みの記憶を、視覚と共に胸の奥に刻みつけたような感覚。けれど、ここから先は、さらに深く、それでも静かに、自分というものの底に触れてくることになると尾崎はどこかで理解していた。
佐野は何も言わず、三枚目のカードをめくった。横に並べられた一枚。過去を示す位置に、それは置かれた。
「……“塔”やな」
声が、畳に吸い込まれるように低く落ちた。その言葉に尾崎は無意識に眉を動かした。塔のカード。タロットに詳しくなくとも、その図柄は印象的だった。稲妻が走り、燃え落ちる石造りの塔。崩れ落ちる人々。絵柄は明確な破壊と衝撃を物語っていた。
「こないなカードはな、普通、あんまり嬉しないもんやけどな」
佐野の指が、塔の上部をなぞる。そこには真っ二つに割れた屋根と、そこから投げ出される人影。
「でも、壊れたいうことは、それまでずっと無理して積み上げとったっちゅうことや。積んだもんがあかんかったんやない。ただ、あんさんがそのままやったら潰れてまうほど…ぎりぎりまで背負ろてたんやろな」
尾崎の胸がきゅう、と締めつけられる。呼吸が少しだけ浅くなる。だが、それは不快なものではなかった。痛みそのものに対する抵抗ではなく、それを認めることへの戸惑いだった。
「……そうかもしれません」
絞るような声で、尾崎はそう言った。それは同意ではなく、確認のようだった。自分に、あるいは過去の自分に。
佐野は頷き、次のカードに目を落とした。それは十字の左下、無意識の位置に置かれた一枚だった。
「……“吊るされた男”や」
尾崎の視線が自然とそこへ移る。逆さ吊りにされた男が、木の枝に両足を括り付けられたまま、微笑んでいる。その表情には、苦痛よりもどこか諦観と、静かな受容が感じられた。
「無意識の底にこれがあるっちゅうことはな&h
深夜のオフィスの記憶は、まるで冷え切ったフィルムのようだった。色彩はほとんど抜け落ち、蛍光灯の淡い光だけが机の上の書類を照らしていた。回想の中の尾崎は、無人のフロアにただ一人立っていた。いつも聞こえていたコピー機の音も、電話のベルも、誰かが椅子を引く音さえもしない。無音の中で、時計の針が小さく動く音だけが時の流れを主張していた。尾崎の目の前にあったのは、一枚のメモ。印刷された文字ではなく、鉛筆で走り書きされた短い文だった。「尾崎さんが言った通りにしました」差出人の名前は記されていなかった。だが、その筆跡を尾崎は知っていた。鈴木慶吾。かつて、隣の席で笑っていた男。尾崎が信頼し、仕事を託していた相手だった。尾崎の右手は、そのメモの端を指先でなぞっていた。力はこもっていなかった。握りつぶすでもなく、破るでもなく、ただ、触れていた。まるでそれが、自分の一部になってしまったかのように。その日、社内のプロジェクトが一つ決定した。尾崎が三ヶ月かけて練り上げた企画が、ついに承認されたのだと知らされたのは、会議の数時間後だった。だが、それが自分の名前ではなく、鈴木の手柄として通っていたことを、尾崎はこの深夜のオフィスで初めて知った。鈴木からのメモが、すべてを物語っていた。「言った通りにしました」。それは、忠実な実行の報告ではなかった。あのとき尾崎が鈴木に見せた資料、説明したコンセプト、懸念点までも含めて、すべてを「自分の言葉」として上に提出したという意味だった。驚きは、最初の一瞬だけだった。そのあとに来たのは、冷たい理解だった。尾崎はゆっくりと椅子に腰を下ろした。背もたれにもたれることなく、背筋をまっすぐに保ったまま、空の書類トレーを見つめていた。目の奥がじんと熱を帯びる感覚はあった。だが、それは涙ではなかった。怒りでもなかった。ただ、内側から何かが削り取られていくような感覚だった。自分がここで過ごしてきた時間、そのすべてが、他人の言葉で塗り替えられた現実に変わってしまった。尾崎の記憶の中で、鈴木の声が蘇る。あの柔らかい口調。何気ない会話の合間に交わした約束や、仕事の相談。裏切るような素振りは、一度も見せなかった。むしろ、信頼に応えよう
カーテンを閉めきった部屋の中は、午後の光をすっかり遮って、夜のような静けさを宿していた。点けられた天井灯は弱く、机の端に置かれたスマートフォンのバックライトだけが、画面に浮かぶ文字と、それを見つめる尾崎の顔を青白く照らしていた。息は浅く、ほとんど無意識のうちに繰り返されているだけだった。目は画面を見ているようで、どこも見ていない。ただ、そこに在る言葉の重さだけを、ぼんやりと心の奥で受け止めていた。「君のせいじゃないと思いたい。でも、たぶん無理だった」下書きフォルダに保存されたまま、送信されることのない短い一文。送信ボタンには一度も指がかかったことがない。宛名には「鈴木慶吾」の文字。何度も消しては打ち直し、結局、何も変わらなかった文面が、ただそこに残っていた。指先がスマホの端にかすかに触れた。熱も冷たさも感じない。ただ、自分の身体とこの世界を結ぶ、唯一の接点のように思えた。椅子に沈むように背を預けたまま、尾崎は動かずにいた。時間だけが、音もなく通り過ぎていく。「裏切られた」と、明確に言葉にしたことはなかった。口にすれば、それが事実になってしまうから。けれど、あの時感じた喉の奥の乾いた痛みや、胸に沈んでいくような冷えは、今でもたしかに残っている。会議室の静寂。白い壁。無言の時間。そのあとで届いた、短く平坦なメール。「尾崎くんの案、採用されたよ。上には僕からってことで通してある」。その文面を見た瞬間、どこかで、心の中の何かが音を立てて崩れた。「俺の、せいだったのか」そう思ったのは、自分だったか、鈴木だったか。今ではもう、わからない。だがあの瞬間、自分が何を信じていたのか、何のために働いていたのか、そのすべてが空になったような気がした。飲みかけのコーヒーに手を伸ばす。白いマグカップの表面にうっすらと水滴がにじんでいる。口をつけようとしたその瞬間、わずかに指が震えた。まるで、何かに拒まれるような感覚。唇に触れた液体は、すでにぬるく、苦味だけが残っていた。喉を通ることなく、舌の奥で引っかかっていた。スマートフォンの光が、まだその一文を映し出している。尾崎は目を細め、画面を見つめた。そこに何かを探して
菓子皿の上に置かれた練り切りは、薄い柚子色をまとい、小さな銀の葉を一枚、あしらっていた。見ただけで季節を思わせる控えめな華やかさ。尾崎は茶碗の縁からそちらに目を移し、箸も使わずに、ただしばらくその造形を見つめていた。「秋の間だけの菓子なんですわ」佐野の声が、ふいに耳に触れた。尾崎は返事をせず、かすかに頷いただけだったが、その首の動きにはわずかな柔らかさがあった。言葉の代わりに、練り切りに楊枝(ようじ)を伸ばす。表面は思ったよりもしっとりとしていて、切った瞬間に甘い柚子の香りがふわりと立ちのぼった。口に含むと、優しい甘さが舌の奥まで染みこんだ。思ったよりもあたたかい。甘味というものは、糖分の塊だとどこかで思っていたのに、これは違った。寒さをやわらげるような、温度のある味がした。尾崎の呼吸がひとつだけ浅くほどける。それは無意識の動作だった。見た目の美しさに手を止めたとき、ふと思った。この一皿を出すために、どれだけの手間がかかっているのか。練り切りを作る人、届ける人、それを選ぶ人、そして佐野がその一皿を添えるタイミング。いくつもの手が重なって、今、目の前に在る。こんなふうに考えるようになったのは、たぶん、ここに通い始めてからだ。尾崎の視線が、自然と菓子皿から店内へと移っていく。光の差し込まない午後、障子越しの外光が柔らかく室内を包んでいた。畳に射す光の加減すらも、心にやさしく触れる。なぜこの場所に何度も足が向くのか、まだ明確な言葉にはできなかった。けれど、わかっているのは、ここでは呼吸をしてもいいと思えることだった。誰とも深く関わりたくない。あのとき、自分のすべてを否定されるような感覚があったから。東京で、あのオフィスで、鈴木と向かい合った会議室で、自分の言葉がすべて無力に思えたあの日から、他人と視線を交わすことが恐ろしくなった。それは、まだ尾崎の中に根を張っている。そう簡単に剥がれ落ちるものではない。笑って返す癖も、壁を作る仕草も、日々の防御の結果として生まれたものだった。けれど。それはもう、「誰にも触れてほしくない」という気持ちと、完全には重なっていなかった。触れてほしいわけではない。ただ
戸棚の奥から新しい茶葉を取り出すと、佐野は静かに缶の蓋を開けた。古い町家の木材が吸い込んだ湿気と、かすかに香る煎茶の青さが、室内の空気に混ざって漂う。指先で茶さじをすべらせながら、ふと手が止まった。そのまま、静寂の中で動かなくなった自分の手元を見つめる。指先に触れた茶葉の感触が、何かの記憶を引きずり出すように、ゆっくりと心の奥を揺らしていった。数年前のことだった。まだ今ほど落ち着いた自分ではなかった頃。タロットを「人のために使える」と、信じて疑わなかった頃。彼は、最初の客ではなかった。でも、特別だった。占い師としての自分を信じて、未来を見ようとする瞳に何度も心を動かされた。恋人になるのは、自然な流れだった。関係が近づくごとに、彼は未来を訊いてくるようになった。「この先、俺たちはうまくいく?」最初は迷いながらカードを切った。結果が良くても悪くても、言葉を慎重に選んだ。それでも、彼は求めた。もっと知りたいと、もっと“確信”が欲しいと、問い続けた。ある日、佐野は見てもいないカードの結果を語ってしまった。願いを叶えるために。信頼を守るために。だがそれは、自分にしか見えないものを、誰かの「確証」に仕立て上げた瞬間だった。その後、関係は崩れた。ひとつの嘘が波紋のように広がり、彼は佐野の目を見ることをやめた。「占いは信じるもんやけど、信じさせすぎたら、あかんのやな」そう思った。そうして、自分にひとつの線を引いた。「誰とも、深く関わらんこと」客とは占い師と依頼者。信じすぎさせず、求められすぎず、距離を保つ。自分の感情を混ぜない。仮に特別な想いが芽生えても、それは沈める。そうやって生きると決めた。けれど、尾崎は。佐野の指先が、茶葉をつまんだまま止まる。尾崎は、なぜかその決まりごとをすり抜けてしまう。あの静かな目。どこにも行き場のないものを抱えたようなまなざし。その奥にあるのは、声に出されない叫びなのか、それとも…諦めたような静けさなのか。関わってはいけない。それはわかっている。けれど、目を
茶碗の中で茶が静かに揺れていた。先ほどよりも湯気の量は少し減り、ほんのりと残る香りが、尾崎の鼻先をくすぐる。熱はもうほとんど指先に伝わらず、それでも手を離さずに器を包み込むようにしていた。「今日は、占いは…」尾崎が口を開いたのは、不意にではなく、むしろ慎重に言葉を撰びながらだった。言いたくないわけではなかった。ただ、言葉にすることで何かが変わってしまうような、そんな予感が喉元に引っかかっていた。その言葉の終わりを引き取るように、佐野はいつもの調子で笑った。「見んとこか」それは、柔らかくて軽い、けれど決して突き放さない応えだった。佐野の京言葉の響きには、どこか間を見守る余裕がある。尾崎の言葉の奥にあるものを、無理に手繰り寄せようとはしない。けれど、決して遠ざけるでもない。尾崎はうっすらと息を吐きながら、視線を茶の表面に戻した。器の中の濃い緑が、ほんの少しだけ揺れている。まばたきがひとつ、またひとつ。先ほどまでよりも、わずかに速度が緩やかになっていることに、自分でも気づいていた。その静けさのなかで、ふと、口元がかすかに動いた。微笑みとは言えない、ほんのわずかな弛緩。けれど、それは確かに「ゆるみ」だった。佐野の言葉が、自分に触れなかったことに対して、尾崎はありがたいと思っていた。誰かが踏み込んでくるたびに、傷は思い出される。問いかけられるたびに、応えられない自分を突きつけられる。それを避けるために、ずっと一歩引いて生きてきた。けれど。何も言わず、ただ「そばにいる」ように見守られる感覚は、これまでに知らなかった距離感だった。拒絶でも肯定でもなく、ただそこにいてくれる存在。佐野は、まるで音のしない椅子に座るように、自分の隣に気配だけを残していた。それが、ありがたくもあり、同時に少しだけ、物足りなかった。思わず、尾崎は器を持ち上げて口元に寄せる。ひとくち分だけ、冷めかけた茶を啜る。味がどうだったかは覚えていない。ただ、その動作を通して、気持ちを整えたかった。「…ここ、いつもこんなに静かなんですね」佐野は手元の湯飲みを拭いてい
小さな釜から立ちのぼる湯気が、静かな店内に淡く満ちていた。湯を注ぐときの音は、わずかに低く、柔らかな弧を描いて器へ落ちていく。佐野は茶筅を取り上げると、自然と右手が動き出す。動作は迷いなく、無駄がない。回数も、力も、決まりきったように身体に刻み込まれていた。抹茶の泡が細やかに立ち始める頃、ふと、佐野は意識の端にひとつの気配を捉えていた。入口近く、決まった席。尾崎が、今日も変わらずそこに座っている。静かに湯呑に手を添えて、何ひとつ語らず、ただ茶の熱を受け取っている。あの人が最初にこの店に来た日のことを、佐野はよく覚えていた。季節は違ったが、今日と同じように雨が上がったばかりで、空気には水気が残っていた。あのときの尾崎の表情は、誰にも触れさせない硬さがあった。それでも、店の中の何かにほっと息をついたような気配を見せていた。それを見逃さなかった自分を、佐野は一度も後悔していない。静かな水面のような人。そう思ったことがある。目の奥にまで張られた薄い皮膜が、どんな言葉も届かせないような気配を醸しているのに、同時に見てはいけない深さを予感させた。なぜ、気になるのだろう。佐野は自分に問いかけるたび、答えを拒むように目を逸らしてしまう。特別な意味を込めるには、まだ知らなすぎる。けれど、誰よりも静かにこの店の空気に馴染んでいくその姿が、佐野の中に揺らぎを生んでいるのは確かだった。茶筅を抜き取る。白磁の中には、滑らかに泡立った抹茶が、きれいにまとまっている。それを見つめたまま、佐野は少しのあいだ呼吸を止めた。音を立てないように膝をすすめ、湯呑を尾崎の前に置く。所作を乱さないように気をつけながら、指先がわずかに器の縁を撫でるように滑った。「ようお越しやす。寒かったやろ」その声は、ほかの客に向けるものよりもほんの少し低く、ゆるやかに落ち着いた響きを持っていた。意識していたわけではない。けれど、自分でもその変化に気づいたとき、佐野はほんの一瞬だけ唇を噛んだ。尾崎は顔を上げない。いつものように、目元に影を落とし、茶の湯気だけを見つめている。その姿に、佐野はなぜか胸の奥に熱を感じる。感情というにはあまりに曖昧で、曖昧すぎて厄介だと思った。