人は皆、罪の子なれば── "崩壊の砂時計"──突如としてそれが出現したことにより、世界は一変した。遥かなる天空より来たる、翼持つ者たち──"天使"の暗躍。地の底より這い出てくる異形──"魔族"の活発化。そして、嘗て人間だった者たちの成れの果て──"堕罪者"の出現。 それらの脅威が跋扈し、終末までの残り時間が可視化された世界を、相棒の黒狼マルコシアスと共に旅する黒衣の少女──その名はセラフィナ。 彼女の歩む旅路の果てに、待ち受けているものとは──
View More──世界は、歪んでいた。
生命は皆、生まれながらにして罪をその身に宿していた。 他の生命を奪わねば、生きてゆくことが出来ぬ……"生きる"とは即ち罪を重ねてゆく行為に他ならない。日々、生命のやり取りが世界中の至る所で繰り広げられていた。 中でも特に罪深い存在とされたのが、人間であった。彼らは、自分たちこそが生命の頂点であると驕り高ぶり、不必要な殺戮を楽しんだ。自分勝手に善悪の概念を定義し、同族同士で殺し合うなどは日常茶飯事であった。 何より、彼らは他の生命と比べても欲望が極めて深かった。決して満たされることを知らぬその様はさながら、底なし沼のようでさえあった。 専横を極める、醜悪なる存在──ある意味で、彼らは歪んだ世界そのものを体現していると言えた。 だが──そんな世界を創造したと自ら称する自警団組合アルカディア本部に併設されている酒場に黒衣の吟遊詩人が姿を現したのは、絶え間なく雷鳴が轟き渡る夜のことであった。 外は激しい雨だというのに、男の衣服は全くと言って良いほど濡れておらず、薄らと笑みを浮かべているのも相まって何処か不気味だった。 彼はカウンターに腰を下ろすと、注文も程々に、その日たまたま酒場の接客業を任されていた受付嬢のルビィに声を掛ける。 余談であるが、人口が百万を超す大都市である帝都アルカディア。そこで働く自警団員は凡そ二千人ほど。商隊護衛などで不在の者もいるので、実際はもっと少ない人数でアルカディア周辺の治安維持を担っていることになる。 近郊の巡回、魔物の討伐、都市内の夜警……猫の手も借りたいほどに、人手が足りていない。 上記の通り深刻な人材不足のため、ルビィのように現場に赴かない者は決まって、書類仕事と酒場の接客業とを兼任していた。 殉職率の高いことで知られる自警団。給料は非常に良いが命は鳥の羽根の如く軽い。そのため、なり手が中々居ないのが実情であった。 「──君。そこの君だよ、可愛らしいお嬢さん」 「えっ……わ、私ですか……?」 人見知りなのだろうか。或いは、まだ酒場での接客業に慣れていないのだろうか。突然甘い顔立ちの優男に声を掛けられ、ルビィは困惑しながらトレイで顔を隠し、頬を赤らめる。 初心な様子の彼女を見つめると、吟遊詩人は何処か微笑ましそうに目を細めながら、
涙の王国方面にて勃発したハルモニアと聖教会諸勢力の争いは、早くも最終局面を迎えていた。 初戦を快勝した"軍神"エリゴール率いる帝国第三軍は、勢いそのままに各国の軍勢を次々に撃破。複数の国軍で構成された連合軍故、統率が乱れている聖教会勢力は苦戦を強いられていた。 連合軍の主戦力たる聖教騎士団は、第五騎士団・第六騎士団ともに涙の王国の国境付近に布陣して以降、頑なに動こうとはしない。彼らは上官たる騎士団長レヴィの命により、エリゴールとの交戦を避け、睨み合いに徹する考えだった。 ──"彼の軍神と尋常なる戦をしていては、命が幾つあっても足りぬというもの" 。 レヴィの判断は、ことエリゴールを相手にする場合に於いては最良のものであると言えた。聖教会の土地を守るだけならば、国境に兵を配置して睨みを利かせ、帝国第三軍を涙の王国に釘付けにしておけば良いのだから。下手に相手と交戦するだけ、兵や物資の無駄というものである。 果たして、他国の軍勢が軒並み、帝国第三軍の攻撃を受けて補給線を断たれ、前線で孤立してゆく中、聖教騎士団だけは全くの無傷であった。 一方、補給線を断たれた各国の軍中では餓死者が相次ぎ、士気は底をついていた。死んだ仲間の肉を貪り、僅かに残された食糧を巡り、身内同士で不毛な争いを繰り広げる。この世の地獄の全てが、そこにはあった。 後方に控える聖教騎士団に何度も救援を要請するも、未だ援軍の影一つない。余りにも距離が離れ過ぎており、使者の殆どが道中で力尽きて落命、或いは逃亡していたからだ。 補給線は断たれ、前線にて孤立し、周辺には魔族や堕罪者が跋扈。これだけでも十二分に絶望的な状況だと言うのに、それに追い討ちをかけるように、前方にはエリゴール率いる帝国第三軍の主力部隊が布陣し、威風堂々たる陣容をこれでもかと見せ付けてくる。
その日の夜遅く── ハルモニア皇帝ゼノンとの謁見を終えたセラフィナは黙々と、自らに宛てがわれている客室へと続く回廊を、マルコシアスと共に歩んでいた。 静寂が支配する回廊にコツコツと、セラフィナの履いているパンプスの踵の音のみが響く。シンプルなデザインの黒いドレスに身を包んだ彼女の腕には、少女の華奢な見た目には似合わぬ無骨な大口径の小銃が抱かれていた。 それは、ゼノンから褒美として下賜された世に二つとない逸品だった。装備した者の魔力を吸い取り、それを一点に収束させてライフル弾として撃ち出す。理論上、弾切れを起こす心配がないという優れものである。 何か一つ問題があるとするならば、セラフィナには銃の心得がないことくらいだろうか。尤も今のセラフィナには、シェイドという頼もしい銃の名手がいるので、彼に持たせれば何ら問題はないだろう。 ふと、セラフィナはその場に立ち止まると、無表情のまま腕に抱きかかえた小銃を見つめてホッと一つ溜め息を吐いた。 「──随分あっさりと、あの人を捜す了承を貰えたね、マルコシアス。些か話が出来すぎていて、正直なところ少し不安だけれど」 セラフィナは自らの足に頭を擦り寄せるマルコシアスを優しく撫でながら、ポツリとそう呟く。 スラリと伸びた彼女の細い両脚を覆う、シルク製の黒いストッキングはすっかり相棒の毛だらけになってしまっていた。私生活ではまだ使えるかもしれないが、もう公の場では履けそうもない。 尤も、セラフィナは先程までの謁見の内容へと思いを馳せており、両足が毛まみれになっていることなど気にも留めていなかったが。 養父たる剣聖アレスの行方を捜すため、暫くの間アルカディアを離れ、自由に行動したい──そのように申し出たセラフィナに対し、ゼノンは嫌な顔一つすることなく、やりたいようにやれば良いと承諾してくれた。そればかりか、アレス捜索の一助となるような、ちょっとした助言までしてくれた。 普通なら、喜ぶべきことなのだろう。けれどもセラフィナは、それを素直に喜ぶことが出来なかった。一つ、大きな懸念すべきことがあったからだ。 「……"何時もなら陛下の傍に侍っている筈の性悪堕天使(ベリアル)が、今日に限っては玉座の間に居なかったことが妙に気になる"? うん──確かに、君の言う通りだね。私も、それが一番気になってる」
その怪物の噂が、まことしやかに囁かれるようになったのは、剣聖アレスの捜索打ち切りが公表されて間もなくのことであった。 血塗られた黒鉄の鎧を身に纏った痩身の大男。身の丈ほどもある巨大な剣を手足の如く自在に操り、自らの前に立った者を容赦なく斬り捨てるという。 まるで、この世の全てを憎んでいるかのように。たとえ眼前に立つ相手が女子供であっても、怪物は躊躇うことなく剣を振り下ろしたと、辛うじて難を逃れた者たちは語る。 ──"目が合ったら、急いで武器を捨てろ"。 ──"そして、祈れ。相手が気まぐれな親切心から、こちらを見逃してくれることを"。 黒き騎士の姿をしたその怪物を、人々は畏怖の念を込めてこう呼んだ。 ──"黒鉄の幽鬼"ラルヴァ、と。 大神殿の敷地内に併設されている練兵場……ハルモニアの誇る精兵たちの中に混じり、シェイドは鈍った身体を鍛え、戦闘勘を取り戻すべく日々鍛錬に勤しんでいた。 この日も練兵場にて、同年代のまだ若い新兵たちを相手に、名うての暗殺者かと見紛うような動きを披露していたのだが、そこに純白の巫女装束に身を包んだ、まだ幼さの残る少女が恐る恐るといった様子で足を踏み入れてきたかと思うと、シェイドに声を掛けてきた。「あ、あの……シェイドさん、で宜しいでしょうか」「うん……? 確かに、俺がシェイドだけど。何か用でも?」「は、はい……その、グノーシス辺境伯アレス様の御息女、セラフィナ様から言伝を預かっておりまして……」 巫女になってまだ間もないのか、周囲の環境に慣れていない様子のその少女は、緊張した面持ちでもじもじしながら言伝の内容をシェイドに伝えた。
聖教会自治領、聖地カナン── 教皇執務室の扉がゆっくりと開かれたかと思うと、豪奢な法衣を身に纏った初老の男が入室してくる。 「──お呼びですかな、教皇聖下?」 深刻そうな表情を浮かべ、眉間に皺を寄せている教皇グレゴリオを見つめると、枢機卿クロウリーは白い歯を見せて不敵に笑う。 「……おお、クロウリー卿。其方を呼び寄せたのは他でもない。各地で相次いでおる要人暗殺の件について、其方の見解を聞きたいのだ」 精霊教会の崩壊以後、聖教会勢力の要人が各地で暗殺されている。現場には必ず犠牲者の血で、何やら意味深な文章が残されていた。 ──"女神シェオルは既に亡く、ソルの威信は地に墜ちた"。 「ふむ──」 グレゴリオの言葉を受け、クロウリーは顎に手を当てる。ハルモニアの仕業、という訳ではどうやらなさそうだ。 ここ数日の、各地に展開している異端審問官たちからの報告と照らし合わせながら、クロウリーは現況の整理を試みる。 「──関係があるか否かは、現段階では測りかねておりますが。近頃、各地で自殺者が急増しておるようですな。同時に、堕罪者の数も急増していると」 「うむ……」 実に痛ましいことだ。沈痛そうな面持ちのグレゴリオとは対照的に、クロウリーは如何にも他者の生き死にに興味がなさそうである。 「これらを踏まえて、僭越ながら私見を述べさせて頂きますが……最も可能性が高いのは、
某所── 教会の薄暗い告解室に、一人の若い修道女(シスター)が姿を現した。外は激しい雷雨なのか、落雷の轟音が断続的に聞こえてくる。 「うっ……うっ……」 両膝を付くと、シスターは啜り泣きながら胸の前で手を組み、祈りを捧げる。啜り泣く声は少しずつ、少しずつ大きくなってゆく。 「うっ……ううっ……!」 悲しみ、怒り、憎しみ……それは、あらゆる負の感情が綯い交ぜとなったかの如き、深く昏い泣き声であった。 やがて── 仕切りの向こう側に、人の形をした何者かが悠然と姿を現す。ゆったりとした赤い衣を身に纏い、フードを目深に被ってその素顔を覆い隠した、男とも女ともつかぬ何者か。 仕切り越しにぼんやりと映る影には大きな翼のようなものが生えており、禍々しいほどの負のオーラが滲み出ている。けれども、シスターの目には、その者の姿は酷く神々しく映っていた。 「……あぁ、神よ。私の罪をお聴き下さい」 そう言って、シスターは涙ながらに自らのことを語り始めた。 彼女は農村部で敬虔な聖教徒の家に生まれた。生活は貧しかったが父も母も優しく、彼女は沢山の愛情を注がれて育った。 だが、"最終戦争(ハルマゲドン)"の勃発が全てを変えた。ハルモニアが死天衆の助力を得て逆襲に転じ、聖教会は不足した兵力を一般から補充する方針を執った。 彼女の父も聖教会によって徴兵され、まともな訓練も受けさせて貰えぬまま戦地へと送り込まれた挙句──上空から飛来したドラゴンの奇襲によって帰らぬ人となった。 労働力の不足により、彼女の暮らしていた農村部の人々は生活が困窮した。戦後、食い扶持を得るために、彼らはハルモニアに内通した"魔女"を枢機卿クロウリー率いる異端審問会に告発した。 その多くは、戦で配偶者を亡くした未亡人や、身寄りのない子供であった。彼女の家もまた例外ではなく、母は村の年寄衆によって激しい性的暴行を受けた後、異端審問官たちに連行され──数日後に火炙りとなった。 異端審問会から多額の褒賞を与えられ、狂ったように喜ぶ村人たちの姿は、愚かしく醜い獣そのものだった。 身寄りを失くした彼女は孤児院に引き取られ、やがて聖教会の修道女となる。笑顔を決して絶やさず、如何なる時も希望は必ずあると、敬虔なる聖教徒たちに説く日々。 けれども、彼女はもう限界だった。生き
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