LOGIN夕刻──
帰還したシェイドが寝室の扉を開くと、膝を抱えて座り込んでいるセラフィナと、彼女に寄り添うマルコシアスの姿が視界に飛び込んできた。 白磁を思わせる頬は赤く腫れ上がっており、口の中が切れているのか、薄桃色の唇の端には血が滲んでいる。誰かに暴力を振るわれたのは、一目瞭然だった。 「……セラフィナ」 「おかえり、シェイド。無事で良かったよ」 「……誰にやられた?」 沸々と湧き上がる怒りを堪えつつ、努めて穏やかな声音でセラフィナに尋ねる。少し待ってみたが、彼女が問いに答える様子はない。 「もう一度、聞くぞ──誰にやられた?」 「それを知って、どうするつもり?」 「…………」 自分が不在の間に何が起こったのかは、既に村人たちから聞かされている。村人の一人が堕罪者へと変貌し、数名を殺害したこと。それを、駆け付けたセラフィナが討ったこと。 セラフィナが止めていなければ、堕罪者が更なる凶行に及んでいたであろうことは、想像に難くない。最悪、村人が全滅していたかもしれないことを考えると、それを防いだ彼女は本来、感謝されて然るべきだ。 だからこそ、恩を仇で返すような真似をした村人たちに対し、シェイドは激しい怒りと嫌悪感を覚えていた。長らく自分が守り続けていたのは、相手への感謝すら知らぬような下衆ばかりだったのかと、反吐が出るような想いであった。 「……仕方ないよ、シェイド。私はハルモニア国教徒。聖教徒から見れば、紛れもなく異教徒だから。聖教徒は異教徒のことを、人間とは認めていない。獣畜生と同じ存在だと考えている。人間は、獣畜生とは言葉を交わさない。彼らからしたら、至極当然のことなんだよ」 「しかし……!」 「もっと言えば、私とまともに会話をしている君やシスターの方が異質なんだよ、シェイド。聖教会の教義に反する行為を、平然としているわけだから」 「…………」 ──"聖教徒にあらずんば、人にあらず"。 セラフィナの言う通り、村人たちのセラフィナに対する態度こそ、本来あるべき聖教徒の姿だ。ハルモニア国教を始めとする異教徒は人ではなく、家畜や野獣と同様の扱いを受ける。 セラフィナの言うことは正しかった。それでも──村人たちのセラフィナに対する仕打ちには、どうしても納得がいかなかった。 「……助けてもらっておいて、何だよ。巫山戯《ふざけ》やがって」 「助からなかった命もある。私が駆け付けた時には既に、何人か殺されていた」 「それは、セラフィナの所為じゃないだろ!?」 「……果たしてそうかな? ある村人は"お前があいつを堕罪者にしたのだ"と言って私を殴り、またある村人は"お前がもっと早く来ていれば、誰も死なずに済んだ"と言って、私を蹴り飛ばした」 「……無茶苦茶だ!!」 怒りに身を震わせるシェイドとは逆に、セラフィナは何処か諦めた様子で溜め息を吐きながら、 「──そうだね。言ってることは理不尽極まりないし、無茶苦茶だと思う。でも、彼ら聖教徒からしたら、それが至って普通なんだよ」 「普通……? 何処が普通だ!!」 「──先の大戦で、聖教会は私の祖国ハルモニアに敗北した。その時に聖教徒たちは、どうしたと思う?」 「──っ!?」 セラフィナの言葉に、シェイドはハッとした。 崩壊の砂時計が出現して間もなく勃発した、聖教会と異教徒勢力との世界大戦"最終戦争《ハルマゲドン》"。剣聖アレスが死天衆に敗れたことで聖教会側は総崩れとなり、異教徒勢力に対して大敗北を喫した。 民衆の怒りの矛先は、死天衆に敗れたアレスへと向き、彼らは毎日のようにアレスに心ない言葉を浴びせ、中には暴力を振るう者もいたとされる。 「それと、同じだよ。シェイド──君からしたら、村人たちの考えや行動は下らないし、まるで理解出来ないかもしれない。でも村人たちからしたら?」 「……暴力を振るうに足る動機があり、君に暴力を振るう正当性を有するってことか?」 「そういうことだよ」 「何故、それを知って尚、落ち着いていられるんだ!?」 激昂するシェイドをじっと見据えながら、セラフィナは淡々と言葉を紡いだ。 「……例えば君の目の前で、崖から飛び降りて死のうとしている人間がいたとして、君なら何て声を掛ける?」 「い、いきなり何を……」 「良いから。答えて」 シェイドは言葉に詰まる。彼がそのような反応をすることを見越していたのか、セラフィナは特にこれといった反応も見せずに続けて、 「……良識があったら、まず答えられないでしょ? 相手の立場になってよく考えると"生きろ"だなんて、無責任な言葉は掛けられない。だからと言って"さっさと死ねよ"だなんて、無慈悲な言葉を掛けるのは、倫理的に何か憚られる」 「あ、あぁ……」 「それと同じこと。若し自分が彼らと同じく、聖教徒の立場にあったならと仮定する。果たして自分に、彼らの行いを責める権利はあるだろうか? 彼らと同じ行動を取らないと、胸を張って言えるだろうか?」 セラフィナは一旦そこで言葉を区切ると、ぼんやりとした様子で壁を見つめながら、 「……私は、胸を張って言えない。きっと、彼らと同じことをするだろうから。彼らの行いを責めたい気持ちは、当然持っているよ? でも、責められない。私には彼らを責める権利がないんだよ。根本はきっと、同じだから」 「セラ、フィナ……」 「…………」 これ以上、空気が重々しくなることを恐れたのだろう。セラフィナはわずかに表情を和らげると、 「まぁ……全て涙の王国── 意図せず敵本拠地が巨大要塞パルマノーヴァであることを突き止める快挙を成し遂げた堕天使バルマー指揮下の帝国第二軍であるが、その代償は余りにも重いものであった。 第二軍を目の上の瘤と危惧する敵幹部、優美なる黒豹オセが主君アザゼルの許可を得て強襲部隊を編成。第二軍はこれまで以上の猛攻に晒されることとなったのだ。 神出鬼没の敵軍を相手に第二軍は奮闘しているが、状況は芳しくない。毎日のように死傷者が出るのだから。将兵たちは少しずつ疲弊し、精神に異常を来たしつつあった。「──失礼します、閣下」 まだ年若い参謀が、司令部で独り煙草を吸っているバルマーの元へと歩み寄ってくる。ハルモニア軍では、参謀も最前線で臨機応変に立ち回ることが奨励されているため、司令部にて偉そうにふんぞり返って胡座《あぐら》をかく者など滅多にいない。 そのため、司令部が参謀や各部隊の指揮官で埋め尽くされるのは総指揮官の召集がかかった時と、定期的に行われる作戦方針を定める会議の時くらいである。「──貴官は確か、この度第二軍に配属されたばかりの新人であったな」「はっ──閣下の下で働けること、光栄に思います」 キレのある動きで敬礼する参謀を見て、バルマーは煙草の煙を吹かしながら顔を少しだけ綻ばせた。まるで、息子でも見ているかのように。 実際、バルマーに限らずハルモニアの将軍は、自らの指揮下にある将兵たちを我が子のように大事にしている。大勢の命を預かっている身なので、一人一人の命を軽々しく扱うことなどまずしない。将が兵たちに対し死ねと命令することなど、ハルモニアの歴史的に見ても稀である。「──閣下。恐れながら、閣下に進言したきことがあり参りました。今一度、私の話をお聞き願えますか?」「許可する。遠慮なく話し給え」 煙草の火を消すと、バルマーは身を乗り出して話を聞く体勢に入る。若干表情を強ばらせつつも、参謀は意を決したように口を開く。「連日のように死傷者を出し、将兵たちの士気が少しずつではありますが下がって
穏やかなある日の午後……"同族殺し"の異名を持つ天使ラグエルは、ハルモニア国境を突破してグノーシス辺境伯領へと侵入していた。 天空の神ソルに見切りをつけ、天界から離反した嘗ての同胞──死の天使サリエルを討つために。「…………」 領主の館──その庭に植えられている木の枝に、小鳥に扮して留まる。視線の先には、サリエルにサポートして貰いながら歩行訓練に勤しむセラフィナの姿があった。「ふふっ……その調子ですよ、セラフィナさん」 おっかなびっくりといった様子で、それでも一歩一歩着実に踏み締めながら歩みを進めるセラフィナ。そんなセラフィナを微笑ましく思っているのか、サリエルは満開の花を思わせる眩しい笑顔を見せていた。「……サリエル。お前、そんな顔も出来たのか……」 初めて見る、嘗ての同胞の眩しい笑顔。全てのしがらみから解き放たれ、自由の身となったからだろうか。 天界にいた頃のサリエルは、何時も決まって悲しそうな顔をしていた。死の天使という役割に重責を感じていたのもあるだろうが、何より主君たる天空の神ソルの示す方針が心優しいサリエルには合わなかったのだろう。「おっと──」 躓いて転びそうになるセラフィナを、サリエルは真正面からぎゅっと抱き留める。「もう……足元ばかり見ていても駄目ですけど、だからと言って前ばかり見ているのも駄目ですよ?」「ごめん──正直、歩行訓練が必要になるほどの重篤な傷を負ったのって、これが初めてだからさ……あれ、歩くのってこんなに難しかったっけ──って、私自身困惑しているんだよね……」「ふふっ……なら、仕方ないですね。慣れて良いものでもありませんし、次は斯様な事態に陥らぬよう……もっと上手く立ち回らないと、ですよ?」 セラフィナの額にそっとキスをすると、サリエルは小首を傾げながらにこっと笑う。その様はまるで、我が子を慈しむ母のようだった。「…………」 殺すなら、今だ──ラグエルの脳が、素早く指示を出す。
グノーシス辺境伯領、領主の館── その日のリハビリを恙無く終えたセラフィナが眠りについたことを確認すると、シェイドは寝る前に少し酒でも飲もうかと考え、階下へと向かう。 この時間帯なら、侍女のラミアとエコーは既に自室で寝る準備に入っているが、執事のナベリウスはまだ起きているだろう。彼との他愛ない世間話は、酒の肴に丁度良い。 階段を降りて食堂へと向かうと、意外にもそこには先客がいた。「──あら、君は確かシェイド君……だったかしら?」 すっかり酔い潰れた様子でテーブルの上に突っ伏し、すやすやと静かな寝息を立てているサリエル……そんな彼女を介抱していたアスタロトが、シェイドを見つめて柔和な笑みを湛える。 肝心のナベリウスの姿が見当たらないことに疑問を覚えたシェイドが彼の居場所を尋ねると、アスタロトはワインが注がれたグラスを優雅に揺らしながら答えた。「ナベリウスなら、夜風を浴びてくると言って先刻、屋敷の外へと出て行ったわよ。偶に堕天使の姿に戻って、辺境伯領の空を飛び回ってるみたい。幾ら今の生活が充実していても、ストレスは溜まるものだから」「そりゃあ、残念。酒でも飲みながら世間話でもと、思ったんだが……」 シェイドが溜め息混じりにそう言うと、アスタロトはまるで悪戯っ子のようにくすっと笑う。「──あら? 私が相手ではご不満かしら?」「いや、別に構わないが……これまで、御伽噺の中でしか語られてこなかった伝説の魔女さまと、酒の席でご一緒するのは些か緊張するけども……」「なら、決まりね……ほら、こっちに来て」 対面の席を指差し、座るように促すと、アスタロトは厨房へと小走りで向かい、シェイド用のワイングラスを拝借して再び戻ってくる。「サリエルが、天界以外のワインを飲んだことがないって言うから、試しに飲ませてみたのだけれど……この子、予想以上にお酒に弱かったみたいで……匂いを嗅いだだけで、ご覧の通り。酔い潰れて、寝てしまったのよ」 シェイドのワイングラスに、エリゴールが
「──死天衆が一柱アモン、サンタンジェロ城下の聖教騎士団司令部より只今帰還致しました」 玉座の間に姿を現したアモンを見つめると、ベリアルは穏やかな声音で成果の可否を問うた。「ご苦労さまです。それで──如何でしたか?」「聖教騎士たちの反発により、交渉は難航するかと当初は思われたが……聖教騎士団長レヴィの一声で、どうやら彼らも納得してくれたらしい」 枢機卿《カルディナル》たちは兎も角、少なくともレヴィと聖教騎士団は、巨大要塞パルマノーヴァの攻略とアザゼル征討に力を貸してくれることを約束してくれた。 ダマーヴァンドの悲劇にハルモニアが関与しておらず、アザゼルの指示を受けて遊撃隊として独自に動く死の天使アズラエルの仕業であることも疑うことなく信用し、皇帝ゼノンがしたためた書状も嫌な顔一つせず受け取ってくれたので、一応は一定の成果があったと見て良い。 聖教騎士団長レヴィとしても、正に渡りに船と言った状況。巨大要塞パルマノーヴァ攻略とアザゼル征討を断る理由など、なかったのではないかと推察される。 アモンの報告を、ハルモニア皇帝ゼノンは無表情のまま黙って聞いている。その胸中には、一体如何なる感情が渦を巻いているのだろうか。「それと、陛下──聖教騎士団長レヴィより、陛下に渡して欲しいと託されたものが御座います」「……ほぅ? して、それは何だ?」「聖女シオンのしたためた、陛下宛の訴状とのこと」 アモンがシオンの訴状を見せると、ゼノンは煩わしそうに手で払いながら、訴状の受け取りを拒絶する。「其方が読め──今、この場で」「……御意。陛下がそうお望みと仰るのであれば」 アモンはゼノンの反応に困惑しつつも、聖女シオンの訴状の内容を詩でも諳んじるかのように読み上げる。 ──ハルモニア皇帝ゼノン様、風雲急を告げております。長きに渡り互いを憎悪し、血を流し続けてきた我ら聖教会と貴国ハルモニア……両勢力の在り方が、今こそ変わる時ではないでしょうか。 ──ゼノン様
聖マタイ王国、サンタンジェロ城下── 聖教騎士団の司令部……その目の前に、巨大なドラゴンに跨った梟頭の大男が現れたのは、夜明け前のことであった。 死天衆が一柱、堕天使アモン──何の前触れもなく、転移魔法で突如として出現した彼を見た聖教騎士たちは、聖教騎士団長レヴィの命を狙った奇襲と判断。瞬く間に、アモンと彼が騎乗せしドラゴンは、武器を手にした誇り高き若獅子たちに取り囲まれた。「──我は誇り高き死天衆が末席、堕天使アモン。聖教騎士団長レヴィ殿にお目通り願いたい。ハルモニア皇帝ゼノンより、レヴィ殿宛の書状を預かっている」 聖教騎士たちに取り囲まれても何ら動じることなく、アモンは威厳に満ち満ちた声でそう告げた。「異教徒の守護者たる死天衆が、聖教会の神聖なる土地に足を踏み入れるとは言語道断。この地より疾く去れ。我らが騎士団長はご多忙、貴様如きに割く時間などない!」 レヴィの副官に相当すると思しき若き青年将校が、聖教騎士たちを代表して答える。才気と忠義心、そして若さ故の野心に溢れた好青年であった。「聞こえなかったか? 疾く去れ、敵国ハルモニアの守護者たる死天衆が、神聖なる聖教会の土地に足を踏み入れることは決して許されぬ」「──そこまでだ、アントニウス。それに皆も」 白を基調とした将官服を纏いし麗人が、数名の参謀を引き連れて司令部の中から姿を現し、アモンや彼を取り囲む聖教騎士たちの元へと歩み寄ってくる。 聖教騎士団長レヴィ──聖教騎士団創設以来の傑物と称される才女にして、聖アポロニウスの血を引く最後の一人。「騎士団長殿……しかし……!」 アントニウスが反論しようとすると、レヴィは諭すような口調で淡々と、「アモン卿がその気になれば、この場にいる聖教騎士たち全員を瞬時に皆殺しにするなど造作もないこと。それをしないということは、端から襲撃の意図はない」 レヴィは続けてアモンを見やると、「アモン卿もアモン卿です──要らぬ誤解を招くような真似は、控えて頂きたい。休戦協
──"敵軍、帝国第二軍が涙の王国にて発見す。敵拠点は巨大要塞パルマノーヴァ。繰り返す。敵拠点は巨大要塞パルマノーヴァ"。 エリゴール指揮下の第三軍に代わり、涙の王国に進駐した堕天使バルマー指揮下の帝国第二軍。そしてベリアルの指示の下、行方を眩ませたアザゼルたちを見つけ出すべく"涙の王国"に地域を絞り込み捜索に当たっていた竜の王アポカリプシスの眷属たち。 彼らが命懸けで入手したその情報は瞬く間に、ハルモニア皇帝ゼノンと死天衆たちの知るところとなった。 帝都アルカディア大神殿、玉座の間──「──お呼びに御座いますか、陛下?」 ベリアルとバアルが転移魔法で姿を現すと、ハルモニア皇帝ゼノンは能面を思わせる無表情のまま頷く。「其方らならば、既に周知のことと思うが──アザゼルたちの行方が、漸く判明した。尊い犠牲を払って」「はい、陛下。本土決戦用の星形要塞……巨大要塞パルマノーヴァ。アザゼルたちはそこを拠点とし、日々兵力の増強に勤しんでいる。兵糧要らずの強力な軍隊を、今こうしている間にも作り続けています」 兵糧要らずの軍隊とは、厄介だ──ゼノンは軽く舌打ちをする。戦が長引けば長引く程、アザゼルたち"獣の教団"が当然のことながら有利になろう。「──報道機関の連中は今頃、大喜びだろうな。"若者たちよ、戦場に行け"──などと無責任な言葉で、国民の……特に戦争を知らぬ若者たちの戦意高揚を煽るだろう」「その辺りはご心配なく、陛下。既に、国内全ての報道機関に対し、此方から圧力をかけておきました。少しでもアザゼルたちや要塞パルマノーヴァの件を報じたら、死天衆の名のもとに粛清する。報じたが最後、明日の朝日を拝むことはないと知れと伝えてあります」「ほぅ……見事だ、我が友」 流石はベリアルだ。仕事が早い。報道機関なるものが如何に無責任で愚かなのか……それを良く理解している。 自分たち報道機関が、無知蒙昧なる民衆を導いてやっているのだ──彼らはそう信じて疑わない。上から目線で虚実入り混じった情報を垂れ流し、誤った情報を報じ







