結婚式は、指輪の交換の場面を迎えた。 けれど、私の婚約者・芹沢湊(せりざわ みなと)は、どうしても「誓います」と言おうとしなかった。 理由は明白だった。一時間前、かつて彼が想いを寄せていた女・北川望結(きたかわ みゆ)が、突然SNSで破局報告を投稿したから。 添えられたのは、都城行きの航空券の画像。到着まであと一時間。 沈黙を破って、兄の東雲悠真(しののめ ゆうま)が突然壇上に立ち、「結婚式を延期します」と出席者に告げた。 その直後、悠真と湊は何の言葉も交わさず、まるで示し合わせたかのように、私をその場に残して去っていった。 私は淡々と後処理を進めた。そしてスマホを開くと、彼女のSNSには一枚の写真。 悠真と湊が、望結を囲むように立ち、すべてを彼女に捧げる姿が映っていた。 私は苦笑しながら、実の両親に電話をかけた。 「……お父さん、お母さん。政略結婚を引き受けるよ。五條家のために」
もっと見る望結の後見人として、悠真は警察署に呼び出された。彼の視線が私に向けられたとき、そこには明らかな罪悪感が滲んでいた。五條家はすでに東雲グループとの協力をすべて打ち切っていた。いまや東雲は、ただの中小企業に過ぎない。かつての栄華は跡形もなかった。湊もまた、その忠誠のなさに見合う代償を支払うことになった。彼は……本当に、望結に手を出していたのだ。今の湊は、かつてのような意気揚々とした姿ではなく、昼夜を問わず酒に溺れる廃人になっていた。私は、弦に支えられながら歩いた。弦の眼差しは、悠真に向けられると一瞬にして冷え切った。そして悠真は、私のやや膨らんだ腹部に目をやった。その目が、はっきりと震えた。「心音、君は……」私は静かに頷き、口を開いた。「東雲さん」――その一言が、私と悠真とのすべての距離を切り裂いた。彼は苦笑しながら、ゆっくりと頭を振った。きっと、彼も分かっていたのだ。私たちが、もう二度とあの頃に戻れないことを。やがて、湊は命を落とした。彼の墓は、林さんの眠る墓地のそばに建てられた。林さんに墓参りに行った日、私は再び悠真と出会った。七年ぶりだった。彼は、見違えるほど変わっていた。まだ四十にも満たないはずなのに、髪には白いものが混じっていた。身体は痩せ細り、背中も小さくなっていた。その背中は、かつての彼を知る私にとっては、あまりにも孤独に見えた。私と弦が並んで立っているのを見て、彼はひときわ深いため息をついた。「湊は……君に償えなかったことを、ずっと悔いていた。酒に溺れて、病も悪化して……早くに逝ってしまったよ」――彼は、言わなかった。湊が最期に、三人で写った写真と指輪を抱きしめながら、酒瓶を砕いてその破片で自らの手首を切ったことなど。弦を見ると、悠真の顔には複雑な表情が浮かんでいた。「ママーッ!」遠くから、直と咲良が駆け寄ってきた。「咲良、気をつけて、転んだら大変だよ……」と、弦は優しく咲良を庇う。悠真の目が、その兄妹の姿を捉えていた。その目に浮かんでいたのは、私と彼の「かつて」だった。……でも、もう戻れない。彼は私を見つめ、何かを言おうとして――しかし、言葉を一つに凝縮させた。「さようなら、心音……幸せになって」私は微笑んで、軽く頷いた。そして、
五條夫人と綾小路夫人は、私を見つめていた。その目には、心配と哀れみが浮かんでいた。私は微笑んで、二人を安心させた。「すべて……もう終わったから」行雄が二人に渡した書類の中には、望結が留学先でいん乱の末に病を得た証拠が、はっきりと残されていた。その事実を目にした湊は、これまで愛でていた清らかな「ユリ」が、実は「人を喰らう花」だったことに、嫌悪と後悔の念に苛まれた。しかも、望結は密かに、東雲グループの商業機密をライバル企業へと売り渡していた。そんな彼女のために、誠司は、幼い頃から慈しみ、大切に育ててきた「バラ」を手放してしまったのだ。悠真は、望結を即座に東雲家から追放した。それからというもの、悠真と湊は私に謝罪と償いの意を伝えようとした。けれど、五條家と綾小路家の庇護のもとにある私は、彼らに近づくことすら許さなかった。……だが私たちは、望結の毒を見誤っていた。彼女はすべてを失い、二人の男に見限られ、追い詰められ――ついに、絶望の淵へと至った。そしてある日。彼女は私と弦の新居のそばに突然姿を現した。自分の腕をナイフで切りつけ、血を撒き散らしながら、そのまま私たちに襲いかかってきた。「どうして……どうしてあんたばっかり、そんなに恵まれてるのよ!どうしてあんたには、愛してくれる人が現れるの?どこに行っても、大事にされるの?私は……私はあんたみたいな何もしてないのに得してるやつが大嫌いなの!私の人生はもう終わった!あんたが私を追い出したせいよ!あんたさえいなければ、私は留学先であんな男に出会わず、病気にもならなかった!今さら悠真も湊も、私のすべてを晒し出して……私の人生を壊したのは……あんたなのよ!」彼女の狂気に満ちた瞳を見ながら、私は静かに、冷たく言い放った。「望結――あのとき、『海外に行きたい』って金をせびったのは、あなたでしょ?人生は、全部自分で選んだんじゃないの?悠真も湊も……選んだのは、あなたよ。この結果は、全部あなたの責任よ」しかし望結には、もはや理性など残っていなかった。目を血走らせながら、私に向かって突進してきた。「私の人生が終わったんだから――あんたたちの人生だって、終わらせてやる!一緒に地獄へ堕ちましょうよ!!」彼女の手にあって血がついたナイフを見ると
「今の……やっぱり心音だったんじゃないか?」湊の顔から血の気が引いた。「バカ言うな。あれは五條家の令嬢だぞ……五條家の……」悠真の声が、途中で止まった。「そんなはずはない……心音には俺しか身内がいないんだぞ……」そして、式場で席に着いた瞬間――行雄が私の腕を取り、弦のもとへと私を連れて行く姿を目にした。私の顔に浮かぶ穏やかな笑みが、まるで鋭い刃のように、彼らの心を切り裂いた。「新婦のあなたは、新郎と結婚することを誓いますか?」「彼女は同意していません!」「俺が反対だ!」司会者の言葉を遮るように、二つの場違いな声が会場に響いた。私がちらりと彼らの方を見ると、お父さんとお母さんの顔が怒りに染まっていた。このところの私の様子に気づいていた両親が、調査を始めたのだ。そしてやっと知った――この数年、娘がどれほどの理不尽を耐えてきたのか。彼らの顔はさらに曇った。五條家がこれまで東雲グループに投資してきたのは、心音を託した恩返しのつもりだった。だが、まさか、結婚式という場で騒動を起こすとは。「この二人を今すぐつまみ出せ!」お父さんが怒鳴り、警備員に指示を出す。私はただ微笑むだけ。こんなくだらない妨害、私にはもうどうでもよかった。式は続けられ、司会者が改めて問いかける。「新婦のあなたは――」「はい、誓います」私は弦をまっすぐに見つめ、はっきりとうなずいた。弦は微笑みながら、私の指に指輪を通した。それは、彼が自ら落札した「ヴィーナスの涙」と呼ばれるダイヤモンド。彼が手がけた特注の婚約指輪であり、永遠の忠誠を誓う証だった。式が終わった後、式場の外に悠真と湊が立っていた。湊が駆け寄ってきた。「心音、どうしてあんな男と結婚するんだよ!君は俺と結婚すると言ったじゃないか!三人でずっと一緒にやってきたのに!そんなふうに感情で動いて、大事な結婚を台無しにするな!」悠真も行雄に睨みを向けた。「俺は心音の兄だ!保護者なんだぞ!」行雄は氷のような目で二人を見た。「お前こそ、妹をどう守ってきたって言うんだ?彼女の右手が、もう少しで一生使えなくなるところだったんだぞ!それにな――お前らが頼ってきたハァートってデザイナー、実は心音だったんだ。お前たちは、彼女の未
ウエディングドレスを選ぶとき、私の右手はまだ医療用のサポーターで固定されていた。五條夫人と綾小路夫人は、次々とドレスを試着させてくれた。どれを着ても、二人とも惜しみない賛辞を送ってくれる。「弦のヤツ、本当に幸運な子ね」「うちの心音は本当に天性のハンガーね。何を着ても絵になるわ」私は思わず目を細めて笑ったが――ショールームの一番奥にかかっていたドレスを見たとき、笑みがぴたりと止まった。目の奥に浮かんだのは、驚き。それは、三年前のデザインコンテストで私が優勝した作品だった。当時の賞金は、すべて悠真と湊の起業資金にあてた。あのドレスは、正体不明の買い手に落札されたはず――このドレスショップは綾小路家の系列と聞く。まさか、あの時の「彼」が――。私は無意識にそのドレスに手を伸ばしていた。「これ……試してみてもいいですか?」けれど右手はまだ思うように動かせず、背中のファスナーを上げきれない。無理に動こうとしたそのとき――「動かないで。僕がやるから」男の声だ。春風のように優しく、そして温かかった。彼はそっと私のヴェールを整え、ゆっくりと頭にかぶせた。振り向いた私の目に映ったのは、優しげな眼差しと整った横顔。その瞳には、やわらかな光が宿っていた。「……とても綺麗だよ」彼は微笑みながらそう言った。「初めまして。君の婚約者、綾小路弦(あやのこうじ げん)だ」私は口ごもった。そしてようやく気がついた――五條夫人と綾小路夫人の姿がどこにも見当たらない。いつの間にか、二人で買い物に出てしまったようだ。……本当に頼りにならないお母さんたち。弦は、レースでできた白いバラのコサージュを取り出し、私の右手にそっと結びつけた。その位置はちょうど、傷跡を覆い隠すように。彼の真剣な表情を見つめながら、私はふと気づいた。両親がなぜあのような決断をしたのか――なるほど、愛する人のために「最善」を選び抜くことも、ひとつの愛のかたちなのだ。その日以来、私と弦は結婚式の準備で忙しい日々を送った。彼はすべてに丁寧に、まるでかつての私のように、一つひとつに心を込めて選んでいた。――「真剣な人」は、決して裏切ってはいけない。そして、ついに結婚式当日。兄の行雄が、私をバージンロードへ送り出してくれるこ
「たぶん、同名だろうな」悠真は少し驚いた表情を見せながらも、すぐに自分を納得させるように言った。「五條家の令嬢はずっと海外に留学してたって話だし、それに今のうちの会社はもう名前も通ってる。もし本当に心音がその娘だったら、親が真っ先に名乗り出てるはずだろ」湊も頷いたが、なぜか胸の奥に小さなざわつきが残った。まるで何か大切なものを、取り返しのつかない形で失ってしまったかのように。一方、五條家では私は新しい家族との生活に少しずつ慣れ始めていた。「五條……お母さん、本当にそこまでしなくても……」山のように盛られた料理を前に、私は苦笑いを浮かべる。「心音ちゃん、あんた、痩せすぎよ。たくさん食べなさい」五條夫人はにこやかに言いながら、はっと何かを思い出したように、私の器を手に取った。「さあ、あーんして」耳の先が熱くなった。幼い頃から自分で食事をしてきた私には、あまりにも照れくさい光景だった。無言だった行雄は、私の好きなボイルエビを静かに殻を剥いて、皿にそっと置いた。「心音、スプーンを使うよ」お父さんの指示で、使用人がスプーンを持ってきてくれた。私は頭を下げて、小さく笑みを返す。私はてっきり、悠真や湊のもとを離れたら、やはり耐えられないのではと思っていた。この名門一族の家には、どうせ馴染めないと決めつけていた。しかし――現実は、まったく違っていた。行雄が私を部屋に案内してくれたとき、私は思わず足を止めた。部屋の中はピンクを基調にしたインテリアと、たくさんのぬいぐるみ。あまりにも少女趣味で、私はまたも苦笑いをこぼした。「……気に入ったか?」普段は無表情な兄の顔に、わずかな緊張の色が浮かんでいた。「ありがとう……お兄さん」目の奥が少し潤んだ。私は、彼に微笑んだ。その瞬間、彼の瞳にもかすかな安堵の光が宿った。この家に来てから、私は「家族の温かさ」というものを改めて知った。名家の世界が、あれほどまでに冷たいものだと決めつけていた自分が、少し恥ずかしかった。婚約が正式に決まってから、私はますます忙しくなった。その間、あの無口な兄がこっそりいくつもの病院を回って、何人もの医者を探してくれていた。家の献立も変わって、毎日、骨付き肉のスープや栄養のある料理が並ぶようになった。
言葉にならないほどの痛みのなか、私はただ、二人を見つめていた。その瞳に浮かぶものは、かすかな絶望だった。――私の人生や未来は、望結のかすり傷ひとつにも劣るのか。「すぐに手術の準備を!」幸いにも、病院長が駆けつけたおかげで、彼らはもう選ばずに済んだ。「心音……すまない」悠真が言ったが、私は返事をしなかった。その一発の平手打ちは、彼らに対する感謝の清算として受け取った。手術室のドアが閉じるその瞬間、私と彼らとの縁も、音もなく断ち切られた。――これでもう、お互いに何も残らない。目を覚ましたとき、病室のベッドの脇には湊がいた。その目は冷たく、無表情だった。「目、覚めたか?望結の額、十数針も縫うことになった。お前のせいで、こんな騒ぎになったんだぞ。彼女の病室は上の階だ。元気になったら、ちゃんと謝りに行けよ」私はそんな彼を見つめながら、知らない人を見るような気持ちになっていた。「私は、間違ってない」そう呟いた声は、あまりにも静かで――けれど、揺るぎない。「謝らないなら、もう家には戻らなくていい!結婚も、なかったことにする!」吐き捨てるようにそう言い、湊は背を向けて病室を出て行った。私は、もうその背中を追いかけようとは思わなかった。彼らとの関係を、ここで終わらせると決めたのだから。幸い、手術は無事に済み、ギプスで固定されたあとは動けるようになった。けれどその後、悠真と湊は一度も病室を訪れなかった。さらには看護師の人員まで引き上げさせ、私の「降伏」を待っていた。私は苦笑を浮かべ、帰国の便を翌日の昼に変更した。ギプスで覆われた手を気にすることもなく、私は病院を後にし、一度も振り返ることなく飛行機に乗った。翌日、ニュースアプリのトレンドには、ある話題が躍っていた。【五條家と綾小路家、名家同士の電撃婚約】【世紀の結婚式、来月挙行へ】記事の見出しが大きく踊っていた。実の両親は、私の手を見て目を潤ませた。隣には、私の実兄――五條行雄(ごじょう ゆきお)。彼の視線は、まるで私の右手に穴を開けるほどの鋭さだった。「こんな怪我……痛かっただろう」「もう平気です。ただ、式で見た目がちょっと悪くなるかもしれなくて……」私は小さく笑いながら言った。名家同士の婚儀において、見た目
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