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もし最初の出逢いのままだったら

もし最初の出逢いのままだったら

作家:  ぴったり完了
言語: Japanese
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概要

妻を取り戻す修羅場

スカッと

契約結婚

御曹司

逆転

高嶺の花

結婚式は、指輪の交換の場面を迎えた。 けれど、私の婚約者・芹沢湊(せりざわ みなと)は、どうしても「誓います」と言おうとしなかった。 理由は明白だった。一時間前、かつて彼が想いを寄せていた女・北川望結(きたかわ みゆ)が、突然SNSで破局報告を投稿したから。 添えられたのは、都城行きの航空券の画像。到着まであと一時間。 沈黙を破って、兄の東雲悠真(しののめ ゆうま)が突然壇上に立ち、「結婚式を延期します」と出席者に告げた。 その直後、悠真と湊は何の言葉も交わさず、まるで示し合わせたかのように、私をその場に残して去っていった。 私は淡々と後処理を進めた。そしてスマホを開くと、彼女のSNSには一枚の写真。 悠真と湊が、望結を囲むように立ち、すべてを彼女に捧げる姿が映っていた。 私は苦笑しながら、実の両親に電話をかけた。 「……お父さん、お母さん。政略結婚を引き受けるよ。五條家のために」

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第1話

第1話

結婚式は、指輪の交換の場面を迎えた。

けれど、私の名ばかりの婚約者・芹沢湊(せりざわ みなと)は、どうしても「誓います」と言おうとしなかった。

理由は明白だった。一時間前、かつて彼が想いを寄せていた女・北川望結(きたかわ みゆ)が、突然SNSで破局報告を投稿したから。

添えられたのは、都城行きの航空券の画像。到着まであと一時間。

沈黙を破って、兄の東雲悠真(しののめ ゆうま)が突然壇上に立ち、「結婚式を延期します」と出席者に告げた。

その直後、悠真と湊は何の言葉も交わさず、まるで示し合わせたかのように、私をその場に残して去っていった。

私は淡々と後処理を進めた。そしてスマホを開くと、彼女のSNSには一枚の写真。

悠真と湊が、望結を囲むように立ち、すべてを彼女に捧げる姿が映っていた。

私は苦笑しながら、実の両親に電話をかけた。

「……お父さん、お母さん。政略結婚を引き受けるよ。五條家のために」

電話を切ったあと、私は式場のお祝いの飾りを見つめ、目の奥に皮肉めいた光が滲んだ。

出席者はすでに全員帰っていた。だが、悠真も湊も、まだ戻ってくる気配すらなかった。

思い返せば五年前、私は実の両親に見つかった。DNA鑑定の結果、私は都城に本家を構える五條家の娘だった。

「ごめんね……こんなに長い間に、ひとりにしてしまって」

五條夫人は、優しげな眼差しで私を見つめながら、静かに言った。

「あなたを立派な後継者として育てたい。そして、明るい未来を築くよ。一緒に帰ってこない?五條家に」

目の前の夫婦を見つめながら、複雑な思いを胸に沈めた。

これまでの私は、ずっと施設で育ってきた。けれど、決して愛に飢えていたわけではない。

そばには、いつも湊と悠真がいたからだ。

だから三年前の私は、「帰りません」と迷いなく、家に戻る誘いを断った。

名家の世界では、自分の意思なんて通じない。それに、人を出し抜いてまで何かを手に入れる「後継者」なんて、なりたくなかった。

ましてや、政略結婚の駒になるなんてごめんだった。

「……つらいよね」

「私たちはあなたの決断を尊重するわ。そして、幸せに生きてほしい」

「本当はね、あなたのお祖父さまと綾小路家のお祖父さまが決めた許嫁の話があって……五條家の娘として果たすべき務めだった。でも、こういう形になったのも、それもいいかもしれないわ」

「もちろん。いつでも帰ってきていいのよ。あなたが私たちと家族となり、責任を共に担いたいと思ったときに」

私は同じ施設にいる悠真を兄のように、家族のように思っていた。そんな彼を、私がひとりで置いていくなんて、できなかった。

五條夫婦は残念そうに帰っていった。何しろ実の子なのだから、簡単には諦められなかったのだろう。

その後、東雲グループがここまで大きくなったのは、陰で五條家が多くの支援をしていたことを、私は知っている。

けれど、私が自分の手で選び取った家族と恋人は、人生でいちばん大切な日に、私を裏切った。

時間だけが静かに過ぎていく。さまざまな視線が突き刺さった。

それでもなお、二人は帰ってこなかった。

私は何度も、何度も、彼らに電話をかけた。

やっと繋がったそのとき、電話越しに聞こえたのは、湊の怒りに満ちた声だった。

「心音、結婚式なんていつだってできるだろ!

望結の体調が悪いのは知ってるだろ?今回の海外行きでさらに悪化したんだ。譲ってやれよ」

私が何か言おうとすると、今度は悠真が電話を取った。

「心音、お願いだからやめてくれ!

望結は君とは違う。彼女にはもう、誰も残ってない。たった一人の家族も亡くなって、この世界でたった一人なんだ!

今は彼女に家族が必要なんだよ!

今回の結婚式は中止だ。後日、改めて行おう」

私は何も言わず、無数の視線にさらされながら、後始末をすべてひとりで済ませた。

しばらくして、望結がSNSを更新した。

【いつだって、どんなに遠くても、あなたたちは私のもとに来てくれる。私はずっと、あなたたちに大切にされるお姫さまなの】

私の婚約指輪と、入籍のために用意したオーダーメイドの振袖は、悠真と湊によって、北川望結を出迎えるプレゼントにすり替えられ、彼女の手に渡されていた。

その瞬間、私はもう、自分を誤魔化すことができなかった。

すべてが、終わったのだ。
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第1話
結婚式は、指輪の交換の場面を迎えた。けれど、私の名ばかりの婚約者・芹沢湊(せりざわ みなと)は、どうしても「誓います」と言おうとしなかった。理由は明白だった。一時間前、かつて彼が想いを寄せていた女・北川望結(きたかわ みゆ)が、突然SNSで破局報告を投稿したから。添えられたのは、都城行きの航空券の画像。到着まであと一時間。沈黙を破って、兄の東雲悠真(しののめ ゆうま)が突然壇上に立ち、「結婚式を延期します」と出席者に告げた。その直後、悠真と湊は何の言葉も交わさず、まるで示し合わせたかのように、私をその場に残して去っていった。私は淡々と後処理を進めた。そしてスマホを開くと、彼女のSNSには一枚の写真。悠真と湊が、望結を囲むように立ち、すべてを彼女に捧げる姿が映っていた。私は苦笑しながら、実の両親に電話をかけた。「……お父さん、お母さん。政略結婚を引き受けるよ。五條家のために」電話を切ったあと、私は式場のお祝いの飾りを見つめ、目の奥に皮肉めいた光が滲んだ。出席者はすでに全員帰っていた。だが、悠真も湊も、まだ戻ってくる気配すらなかった。思い返せば五年前、私は実の両親に見つかった。DNA鑑定の結果、私は都城に本家を構える五條家の娘だった。「ごめんね……こんなに長い間に、ひとりにしてしまって」五條夫人は、優しげな眼差しで私を見つめながら、静かに言った。「あなたを立派な後継者として育てたい。そして、明るい未来を築くよ。一緒に帰ってこない?五條家に」目の前の夫婦を見つめながら、複雑な思いを胸に沈めた。これまでの私は、ずっと施設で育ってきた。けれど、決して愛に飢えていたわけではない。そばには、いつも湊と悠真がいたからだ。だから三年前の私は、「帰りません」と迷いなく、家に戻る誘いを断った。名家の世界では、自分の意思なんて通じない。それに、人を出し抜いてまで何かを手に入れる「後継者」なんて、なりたくなかった。ましてや、政略結婚の駒になるなんてごめんだった。「……つらいよね」「私たちはあなたの決断を尊重するわ。そして、幸せに生きてほしい」「本当はね、あなたのお祖父さまと綾小路家のお祖父さまが決めた許嫁の話があって……五條家の娘として果たすべき務めだった。でも、こういう形になったのも、それもいい
続きを読む
第2話
「……本当に、それでいいのね?」電話の向こうで、五條夫婦の声は未だに信じられない様子だった。三年前、私は彼らにきっぱりと言ったのだ。――私は、愛のない結婚なんて望まない。五條家に戻るということは、自分自身の幸福を切り捨てること。家同士が選んだ政略結婚は、たしかに双方にとっては最適な選択かもしれない。五條夫人がため息をついたあと、静かに、けれど重みのある口調で続けた。「安心して。たとえ政略結婚でも、あなたは私たちの大切な娘よ」私は窓の外に目をやって、そっと涙を拭った。夜の帳が、静かに町を包み始めていた。「……お父さん、お母さん。こっちの後始末に、あと一週間ほどください」「分かったわ。お兄さんたちとも、きちんとお別れしておきなさい。結婚式の準備は私たちに任せて。どんな時も、五條家はあなたの味方よ」瞳が熱を帯びる。あのときと同じように、悠真と湊も、こう言ってくれた。「心音、怖がらなくていい。これからは、僕たちが家族だ」「何があっても、ずっと君のそばにいるよ」あの時、施設の管理人・林さんも彼らを笑顔で見ながら、こう言ったものだった。「お兄ちゃんたち、妹ちゃんを守ってあげなきゃだめよ?男の子の約束は、絶対なんだから」そのとき、湊は頬を赤く染めて私を見て言った。「僕、お兄ちゃんなんかやだ!大きくなったら心音をお嫁さんにするんだ!」――その一言が、私の心を動かした。それからはずっと、悠真は本当の兄のように私を気遣い、一方、湊は、何かいいことがあるたびに一番に私を思い浮かべ、喜んで差し出してくれた。彼らは、私の家族であり、恋人だった。だからこそ、実の両親が現れても、私は彼らに何も伝えなかった。名家には、誠実な愛は望めない。そこにあるのは、争いと計算ばかり。それに比べて、私たちのささやかで温かい日常は、なによりも手放しがたい幸せだった。――けれど。北川望結が現れたとき、私はやっと、自分がいかに思い違いをしていたかを思い知った。彼女は、家で働いていた北川さんの娘だった。幼くして父を亡くした。その北川さんも、一昨年、病でこの世を去った。その年の正月、私たちは彼女の身を案じ、家に招いて一緒に年を越した。……それ以来、彼女はいつのまにか我が家に居着くようになり、それどころか悠真と湊と、
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第3話
後始末をすべて終えたあと、私は湊との新居に戻った。扉を開けた瞬間、思わず足を止めた。……部屋の中に、誰かがいた。「心音姉ちゃん、久しぶりだね」そこにいたのは、北川望結だった。軽やかなルームウェアをまとい、曲線を強調するその姿は、まるで見せつけるかのようだった。望結は私と湊の寝室から出てきて、挑発的な笑みとともに、申し訳なさそうな顔を作った。「悠真兄さんと湊が心配して、ここに住んでもいいって言ってくれたの」私が丹精込めて整えた新居は、知らぬ間に望結の住むところへと変えられていた。すべてのペアの物件は書斎に押し込まれ、その代わりに、望結の私物が無遠慮に置かれていた。「湊が言ってたの。『この部屋は日当たりがよくて、術後の療養にぴったりだ』って」望結が今いるこの部屋は、まさに私と湊の部屋だった。私の瞳の奥に、一抹の暗い影がよぎった。そのとき、扉がもう一度開いた。悠真と湊が、ケーキと花束を手に入ってきた。私を見るなり、二人の目に不満の色が浮かんだ。「……また何するつもりだ?望結は一度追い出されたんだ。これ以上いじめる気?」湊が睨みながら言った。「今は、望結も家族なんだ。ここは望結の家でもある」悠真の視線も冷たかった。この小さなヴィラは、もともと悠真が私にくれた贈り物だった。「いつでも帰ってこられるように」「俺がいる限り、お前の帰る場所はここにある」そう言ってくれた家。けれど、望結が住みついた。亡き北川さんへの義理もあって、私は一時的に滞在を許した。望結が新たな部屋を見つけ次第、出ていくという約束で。しかし彼女はどんどん図に乗り、私の化粧品やアクセサリーを勝手に使い、さらには酔った湊と同じベッドで眠っていたことさえあった。我慢の限界だった私は、彼女を平手打ちしてしまった。しかし、湊は私を床に突き飛ばした。「望結にはもう家族がいない。俺たちを兄だと思って頼ってるだけだ!お前はずっと、俺たちに守られてきた。だけど望結は違う。いろんな苦しみを味わってきたんだ!お前の方が年上だろ。少しは妹を思いやってやれよ!」砕けたガラスの破片で、手のひらに切り傷ができた。そのとき、私は湊の顔から、はじめて「よそ者」のような冷たさを感じた。――そして今日。望結は再び戻ってきて、ま
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第4話
別れの前に、私が会っておきたい人は、たったひとりだけだった。その人にきちんと挨拶ができれば、もう未練はない。「お嬢さん、また林さんのお墓参りかい?」霊園の管理人が私に気づき、笑顔で声をかけてきた。毎年この季節になると、私は決まってここを訪れていた。私は一束の白菊を林さんの墓前にそっと供えた。「林さん……私、もう行くね」風がやさしく吹き抜け、写真の中の林さんは変わらぬ微笑みをたたえていた。霊園を出たあと、私はしばらく当てもなく街を歩いた。ケーキショップの前を通りかかったとき、甘くて懐かしい匂いが鼻をくすぐった。ふと、思い出した。昔、悠真と湊が買ってくれたバースデーケーキ。安いホイップクリームだったけれど、あれほど甘く感じたものはなかった。そのとき、スマホが震えた。【誕生日おめでとう】それは五條家からのメッセージだった。同時に、大きな額の送金通知が届いていた。私が帰りたがらなくても、毎年こうして節目のタイミングには必ず連絡をくれる――それが五條家だった。その数時間前、望結がSNSに投稿していたのは、新作映画のチケットの写真。三枚。気がつけば、私はかつての児童養護施設の前に来ていた。そこはもう取り壊され、いまは小さな遊園地に変わっていた。夜になっても、子どもたちの笑い声が響き、にぎやかさは尽きない。「心音姉ちゃん!」あの声が聞こえた瞬間、私は立ち止まった。望結が笑顔でこちらに駆け寄ってくる。「こんなところで会うなんて!今日ちょっと気分が沈んでたんだけど、悠真兄さんと湊がどうしてもって言って、遊びに来たの」望結が急に近づいてきたとき、私はなぜか本能的な違和感を覚えた。その刹那、望結の表情に、一瞬だけ奇妙な笑みが走った。そして突然、私の手をつかんで、勢いよく後ろに倒れ込んだ――直後、バイクが猛スピードで突っ込み、私たちを巻き込んだ。悠真と湊の目には、私が望結を突き飛ばしたようにしか見えなかったはずだった。彼らの顔色は、見る間に険しく変わっていった。望結の額と膝からは血が流れていた。私のほうはというと、地面にうつ伏せに倒れ、右手が完全に感覚を失っていた。バイクのタイヤが直撃したその手は、もう自分の一部ではないようだった。病院に着いたとき、看護師がこう言った。「今日
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第5話
言葉にならないほどの痛みのなか、私はただ、二人を見つめていた。その瞳に浮かぶものは、かすかな絶望だった。――私の人生や未来は、望結のかすり傷ひとつにも劣るのか。「すぐに手術の準備を!」幸いにも、病院長が駆けつけたおかげで、彼らはもう選ばずに済んだ。「心音……すまない」悠真が言ったが、私は返事をしなかった。その一発の平手打ちは、彼らに対する感謝の清算として受け取った。手術室のドアが閉じるその瞬間、私と彼らとの縁も、音もなく断ち切られた。――これでもう、お互いに何も残らない。目を覚ましたとき、病室のベッドの脇には湊がいた。その目は冷たく、無表情だった。「目、覚めたか?望結の額、十数針も縫うことになった。お前のせいで、こんな騒ぎになったんだぞ。彼女の病室は上の階だ。元気になったら、ちゃんと謝りに行けよ」私はそんな彼を見つめながら、知らない人を見るような気持ちになっていた。「私は、間違ってない」そう呟いた声は、あまりにも静かで――けれど、揺るぎない。「謝らないなら、もう家には戻らなくていい!結婚も、なかったことにする!」吐き捨てるようにそう言い、湊は背を向けて病室を出て行った。私は、もうその背中を追いかけようとは思わなかった。彼らとの関係を、ここで終わらせると決めたのだから。幸い、手術は無事に済み、ギプスで固定されたあとは動けるようになった。けれどその後、悠真と湊は一度も病室を訪れなかった。さらには看護師の人員まで引き上げさせ、私の「降伏」を待っていた。私は苦笑を浮かべ、帰国の便を翌日の昼に変更した。ギプスで覆われた手を気にすることもなく、私は病院を後にし、一度も振り返ることなく飛行機に乗った。翌日、ニュースアプリのトレンドには、ある話題が躍っていた。【五條家と綾小路家、名家同士の電撃婚約】【世紀の結婚式、来月挙行へ】記事の見出しが大きく踊っていた。実の両親は、私の手を見て目を潤ませた。隣には、私の実兄――五條行雄(ごじょう ゆきお)。彼の視線は、まるで私の右手に穴を開けるほどの鋭さだった。「こんな怪我……痛かっただろう」「もう平気です。ただ、式で見た目がちょっと悪くなるかもしれなくて……」私は小さく笑いながら言った。名家同士の婚儀において、見た目
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第6話
「たぶん、同名だろうな」悠真は少し驚いた表情を見せながらも、すぐに自分を納得させるように言った。「五條家の令嬢はずっと海外に留学してたって話だし、それに今のうちの会社はもう名前も通ってる。もし本当に心音がその娘だったら、親が真っ先に名乗り出てるはずだろ」湊も頷いたが、なぜか胸の奥に小さなざわつきが残った。まるで何か大切なものを、取り返しのつかない形で失ってしまったかのように。一方、五條家では私は新しい家族との生活に少しずつ慣れ始めていた。「五條……お母さん、本当にそこまでしなくても……」山のように盛られた料理を前に、私は苦笑いを浮かべる。「心音ちゃん、あんた、痩せすぎよ。たくさん食べなさい」五條夫人はにこやかに言いながら、はっと何かを思い出したように、私の器を手に取った。「さあ、あーんして」耳の先が熱くなった。幼い頃から自分で食事をしてきた私には、あまりにも照れくさい光景だった。無言だった行雄は、私の好きなボイルエビを静かに殻を剥いて、皿にそっと置いた。「心音、スプーンを使うよ」お父さんの指示で、使用人がスプーンを持ってきてくれた。私は頭を下げて、小さく笑みを返す。私はてっきり、悠真や湊のもとを離れたら、やはり耐えられないのではと思っていた。この名門一族の家には、どうせ馴染めないと決めつけていた。しかし――現実は、まったく違っていた。行雄が私を部屋に案内してくれたとき、私は思わず足を止めた。部屋の中はピンクを基調にしたインテリアと、たくさんのぬいぐるみ。あまりにも少女趣味で、私はまたも苦笑いをこぼした。「……気に入ったか?」普段は無表情な兄の顔に、わずかな緊張の色が浮かんでいた。「ありがとう……お兄さん」目の奥が少し潤んだ。私は、彼に微笑んだ。その瞬間、彼の瞳にもかすかな安堵の光が宿った。この家に来てから、私は「家族の温かさ」というものを改めて知った。名家の世界が、あれほどまでに冷たいものだと決めつけていた自分が、少し恥ずかしかった。婚約が正式に決まってから、私はますます忙しくなった。その間、あの無口な兄がこっそりいくつもの病院を回って、何人もの医者を探してくれていた。家の献立も変わって、毎日、骨付き肉のスープや栄養のある料理が並ぶようになった。
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第7話
ウエディングドレスを選ぶとき、私の右手はまだ医療用のサポーターで固定されていた。五條夫人と綾小路夫人は、次々とドレスを試着させてくれた。どれを着ても、二人とも惜しみない賛辞を送ってくれる。「弦のヤツ、本当に幸運な子ね」「うちの心音は本当に天性のハンガーね。何を着ても絵になるわ」私は思わず目を細めて笑ったが――ショールームの一番奥にかかっていたドレスを見たとき、笑みがぴたりと止まった。目の奥に浮かんだのは、驚き。それは、三年前のデザインコンテストで私が優勝した作品だった。当時の賞金は、すべて悠真と湊の起業資金にあてた。あのドレスは、正体不明の買い手に落札されたはず――このドレスショップは綾小路家の系列と聞く。まさか、あの時の「彼」が――。私は無意識にそのドレスに手を伸ばしていた。「これ……試してみてもいいですか?」けれど右手はまだ思うように動かせず、背中のファスナーを上げきれない。無理に動こうとしたそのとき――「動かないで。僕がやるから」男の声だ。春風のように優しく、そして温かかった。彼はそっと私のヴェールを整え、ゆっくりと頭にかぶせた。振り向いた私の目に映ったのは、優しげな眼差しと整った横顔。その瞳には、やわらかな光が宿っていた。「……とても綺麗だよ」彼は微笑みながらそう言った。「初めまして。君の婚約者、綾小路弦(あやのこうじ げん)だ」私は口ごもった。そしてようやく気がついた――五條夫人と綾小路夫人の姿がどこにも見当たらない。いつの間にか、二人で買い物に出てしまったようだ。……本当に頼りにならないお母さんたち。弦は、レースでできた白いバラのコサージュを取り出し、私の右手にそっと結びつけた。その位置はちょうど、傷跡を覆い隠すように。彼の真剣な表情を見つめながら、私はふと気づいた。両親がなぜあのような決断をしたのか――なるほど、愛する人のために「最善」を選び抜くことも、ひとつの愛のかたちなのだ。その日以来、私と弦は結婚式の準備で忙しい日々を送った。彼はすべてに丁寧に、まるでかつての私のように、一つひとつに心を込めて選んでいた。――「真剣な人」は、決して裏切ってはいけない。そして、ついに結婚式当日。兄の行雄が、私をバージンロードへ送り出してくれるこ
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第8話
「今の……やっぱり心音だったんじゃないか?」湊の顔から血の気が引いた。「バカ言うな。あれは五條家の令嬢だぞ……五條家の……」悠真の声が、途中で止まった。「そんなはずはない……心音には俺しか身内がいないんだぞ……」そして、式場で席に着いた瞬間――行雄が私の腕を取り、弦のもとへと私を連れて行く姿を目にした。私の顔に浮かぶ穏やかな笑みが、まるで鋭い刃のように、彼らの心を切り裂いた。「新婦のあなたは、新郎と結婚することを誓いますか?」「彼女は同意していません!」「俺が反対だ!」司会者の言葉を遮るように、二つの場違いな声が会場に響いた。私がちらりと彼らの方を見ると、お父さんとお母さんの顔が怒りに染まっていた。このところの私の様子に気づいていた両親が、調査を始めたのだ。そしてやっと知った――この数年、娘がどれほどの理不尽を耐えてきたのか。彼らの顔はさらに曇った。五條家がこれまで東雲グループに投資してきたのは、心音を託した恩返しのつもりだった。だが、まさか、結婚式という場で騒動を起こすとは。「この二人を今すぐつまみ出せ!」お父さんが怒鳴り、警備員に指示を出す。私はただ微笑むだけ。こんなくだらない妨害、私にはもうどうでもよかった。式は続けられ、司会者が改めて問いかける。「新婦のあなたは――」「はい、誓います」私は弦をまっすぐに見つめ、はっきりとうなずいた。弦は微笑みながら、私の指に指輪を通した。それは、彼が自ら落札した「ヴィーナスの涙」と呼ばれるダイヤモンド。彼が手がけた特注の婚約指輪であり、永遠の忠誠を誓う証だった。式が終わった後、式場の外に悠真と湊が立っていた。湊が駆け寄ってきた。「心音、どうしてあんな男と結婚するんだよ!君は俺と結婚すると言ったじゃないか!三人でずっと一緒にやってきたのに!そんなふうに感情で動いて、大事な結婚を台無しにするな!」悠真も行雄に睨みを向けた。「俺は心音の兄だ!保護者なんだぞ!」行雄は氷のような目で二人を見た。「お前こそ、妹をどう守ってきたって言うんだ?彼女の右手が、もう少しで一生使えなくなるところだったんだぞ!それにな――お前らが頼ってきたハァートってデザイナー、実は心音だったんだ。お前たちは、彼女の未
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第9話
五條夫人と綾小路夫人は、私を見つめていた。その目には、心配と哀れみが浮かんでいた。私は微笑んで、二人を安心させた。「すべて……もう終わったから」行雄が二人に渡した書類の中には、望結が留学先でいん乱の末に病を得た証拠が、はっきりと残されていた。その事実を目にした湊は、これまで愛でていた清らかな「ユリ」が、実は「人を喰らう花」だったことに、嫌悪と後悔の念に苛まれた。しかも、望結は密かに、東雲グループの商業機密をライバル企業へと売り渡していた。そんな彼女のために、誠司は、幼い頃から慈しみ、大切に育ててきた「バラ」を手放してしまったのだ。悠真は、望結を即座に東雲家から追放した。それからというもの、悠真と湊は私に謝罪と償いの意を伝えようとした。けれど、五條家と綾小路家の庇護のもとにある私は、彼らに近づくことすら許さなかった。……だが私たちは、望結の毒を見誤っていた。彼女はすべてを失い、二人の男に見限られ、追い詰められ――ついに、絶望の淵へと至った。そしてある日。彼女は私と弦の新居のそばに突然姿を現した。自分の腕をナイフで切りつけ、血を撒き散らしながら、そのまま私たちに襲いかかってきた。「どうして……どうしてあんたばっかり、そんなに恵まれてるのよ!どうしてあんたには、愛してくれる人が現れるの?どこに行っても、大事にされるの?私は……私はあんたみたいな何もしてないのに得してるやつが大嫌いなの!私の人生はもう終わった!あんたが私を追い出したせいよ!あんたさえいなければ、私は留学先であんな男に出会わず、病気にもならなかった!今さら悠真も湊も、私のすべてを晒し出して……私の人生を壊したのは……あんたなのよ!」彼女の狂気に満ちた瞳を見ながら、私は静かに、冷たく言い放った。「望結――あのとき、『海外に行きたい』って金をせびったのは、あなたでしょ?人生は、全部自分で選んだんじゃないの?悠真も湊も……選んだのは、あなたよ。この結果は、全部あなたの責任よ」しかし望結には、もはや理性など残っていなかった。目を血走らせながら、私に向かって突進してきた。「私の人生が終わったんだから――あんたたちの人生だって、終わらせてやる!一緒に地獄へ堕ちましょうよ!!」彼女の手にあって血がついたナイフを見ると
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第10話
望結の後見人として、悠真は警察署に呼び出された。彼の視線が私に向けられたとき、そこには明らかな罪悪感が滲んでいた。五條家はすでに東雲グループとの協力をすべて打ち切っていた。いまや東雲は、ただの中小企業に過ぎない。かつての栄華は跡形もなかった。湊もまた、その忠誠のなさに見合う代償を支払うことになった。彼は……本当に、望結に手を出していたのだ。今の湊は、かつてのような意気揚々とした姿ではなく、昼夜を問わず酒に溺れる廃人になっていた。私は、弦に支えられながら歩いた。弦の眼差しは、悠真に向けられると一瞬にして冷え切った。そして悠真は、私のやや膨らんだ腹部に目をやった。その目が、はっきりと震えた。「心音、君は……」私は静かに頷き、口を開いた。「東雲さん」――その一言が、私と悠真とのすべての距離を切り裂いた。彼は苦笑しながら、ゆっくりと頭を振った。きっと、彼も分かっていたのだ。私たちが、もう二度とあの頃に戻れないことを。やがて、湊は命を落とした。彼の墓は、林さんの眠る墓地のそばに建てられた。林さんに墓参りに行った日、私は再び悠真と出会った。七年ぶりだった。彼は、見違えるほど変わっていた。まだ四十にも満たないはずなのに、髪には白いものが混じっていた。身体は痩せ細り、背中も小さくなっていた。その背中は、かつての彼を知る私にとっては、あまりにも孤独に見えた。私と弦が並んで立っているのを見て、彼はひときわ深いため息をついた。「湊は……君に償えなかったことを、ずっと悔いていた。酒に溺れて、病も悪化して……早くに逝ってしまったよ」――彼は、言わなかった。湊が最期に、三人で写った写真と指輪を抱きしめながら、酒瓶を砕いてその破片で自らの手首を切ったことなど。弦を見ると、悠真の顔には複雑な表情が浮かんでいた。「ママーッ!」遠くから、直と咲良が駆け寄ってきた。「咲良、気をつけて、転んだら大変だよ……」と、弦は優しく咲良を庇う。悠真の目が、その兄妹の姿を捉えていた。その目に浮かんでいたのは、私と彼の「かつて」だった。……でも、もう戻れない。彼は私を見つめ、何かを言おうとして――しかし、言葉を一つに凝縮させた。「さようなら、心音……幸せになって」私は微笑んで、軽く頷いた。そして、
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