浅葱萌香と久我翔平は幼馴染で将来を誓い合ったが、萌香の父が翔平の母と無理心中を図り、両家は崩壊。翔平は萌香を憎み、復讐として結婚を強いる。冷酷な新婚生活の中、萌香は父の事件の真相と陰謀を知る。翔平の復讐心の裏に愛が隠れ、二人は誤解を解き真実を追うが、新たな危機が迫る。愛と憎しみが交錯する恋愛ミステリー。
View More久我 萌香は三十五階建のマンションを振り仰いだ。風が彼女の長い髪を捲き上げる。それはまるで自分を拒絶するかのような冷たい箱、ここが萌香の自宅だ。今日も彼女は昏睡状態の母親を見舞い、エレベーターのボタンを押す。疲れ切った顔がガラス窓に映る。エレベーターの機械音、上昇する箱。それはいつもと同じはずなのにどこか違和感を感じる。
(なに、この匂い・・)
エレベーターの中は白檀の香水の香りが充満していた。身体にまとわりつく淫靡な匂いに、萌香は思わず息を止めた。
(臭い・・・)
三十五階でエレベーターの扉が開く。するとその香りは萌香の家へと誘うように続いていた。彼女は嫌な予感に、ショルダーバックの肩紐をギュッと握りしめた。不安げな萌香の靴音がエレベーターホールに響く。それが苦しみの扉を叩くとも知らずに。
(やっぱりそうだ)
白檀の香りはやはり家の扉の前で途切れていた。萌香は息を呑み、シリンダーキーを鍵穴に挿した。それは空回りし、施錠されていなかったことを表した。
(鍵が、開いている?)
マンションの駐車場には、夫、翔平の黒のBMWが止まっていた。今夜は家に帰る。とも言っていた。いつも慎重な彼が鍵をかけ忘れるなど有り得なかった。萌香はただならぬ雰囲気を感じ、そっとドアノブを下ろした。部屋の中は暗く、ベッドルームから仄かな明かりが漏れている。萌香はゴクリと唾を飲み込むと、音を立てないようにゆっくりと足を進めた。その時、ベッドが激しく軋む音が聞こえた。
「あ、あ・・翔平、ああ」
萌香は後頭部を殴られたような衝撃を感じた。自分が眠るベッドの上で、翔平が見知らぬ女性を抱いていた。
「もっと声を出せ、もっとだ!」
「ああっ!」
彼は鋭い目で女性を見下ろし、額に汗を滲ませている。
「聞こえない!もっと、ほら!」
「ああっ!翔平!いい!いい!」
「もっとでかい声で!」
それは、まるで萌香に見せつけるような強い口調だった。扉の隙間からその痴態を伺い見た萌香は、目の前の光景に言葉を失う。口の中が渇き、指先が震えた。思わず後ずさった彼女は壁の額縁にぶつかった。
ガタン
その物音に翔平は、驚くこともなくゆっくりと振り返った。シェードランプに浮かび上がった目は厳しく萌香を突き刺し、顔は嫌らしく歪んでいた。彼は腰を激しく前後させながら「おかえり、奥さん」と乾いた声色で吐き捨てた。
「・・・・!」
翔平に組み敷かれ、喘ぎ声をあげている女性も萌香を一瞥するとニヤリと笑い、翔平の背中に妖しく爪を立てた。その真っ赤なネイルが萌香の日常を切り裂いたようで、彼女は呆然と立ち尽くした。
翔平は大きな溜め息をつくとグラスをゆっくりとテーブルに置いた。「おまえに答える価値はない」「そんな言い方」翔平の突き放した物言いに、萌香は顔色を変える。彼はいきなりソアから立ち上がるとバスローブを脱いだ。次にウォークインクローゼットのダウンライトが灯り、翔平はダンガリーのシャツを羽織った。そして踵を返すと玄関へと向かう。「翔平さん!こんな時間にどこに行くの!?」「俺の勝手だ!」萌香はソファから身を起こし振り返ったが、玄関の扉が閉まる音が響いた。廊下を歩いて行く革靴の音は苛立ちを隠せず、部屋に取り残された萌香は呆然と立ち尽くした。エアコンの風が観葉植物を揺らす。どれくらい時が過ぎただろう。彼女は感情を無くした人形のように手足を動かし、無表情なままベッドルームのドアを閉めた。(もう、もう終わりにしよう)萌香はスーツケースを取り出すと、身の回りの必要なものを詰め始める。数着の衣類と化粧品、離婚を
「萌香、今、なんて言った?」翔平は明らかに動揺していた。視線をテーブルに落としたまま身動きが取れずにいた。「私たち、離婚しましょう」グラスを持つ翔平の手が小刻みに震えている。水滴がポタリと落ちた。萌香の目には迷いがなく、スカートの上で握り拳を作り彼の顔を凝視していた。(まさか、萌香がこんなことを言い出すなんて!)萌香の弱点は、昏睡状態の彼女の母親だ。翔平は、自分と萌香を繋ぐのはその存在だけだと信じていた。萌香には到底支払えない高額な治療費。その事実がある限り、彼女は自分の側から離れることはないはずだった。だが、翔平の心には不安が芽生えていた。もし治療費が支払われたら、萌香は自由になり、自分を必要としなくなるのではないか。そんな疑念が、彼の胸を締め付けた。萌香の母親の命は、翔平にとって愛の絆か、それとも呪いか。どちらともつかないその思いは、彼を静かに追い詰めていた。「脅かしか?離婚だと?おまえにそんな勇気があるのか?母親の治療費はどうするんだ」
それでも萌香は父親が犯した罪を償うため、翔平の暴挙に耐え続けた。それは自分の家というテリトリーがあればこそ許せる行為だった。それが今夜、翔平は萌香のボーダーラインを超えて自宅マンションに愛人の一人を連れ込み、行為に耽った。(もう駄目、耐えられない)萌香が両耳を押さえてソファに蹲っていると、身支度を整えたその女と、バスローブを羽織った翔平がベッドルームから出て来た。ダウンライトに照らされた女はまだ若く、清純派として有名な新人女優だった。萌香は心の中でほくそ笑んだ。(清純派が呆れるわ、ここで写真を撮ったらどんな顔をするのかしら)床に投げ出したショルダーバッグに目をやった。中にはスマートフォンが入っている。けれど萌香はそれに手を伸ばさなかった。もし、彼女の不倫現場写真が流出すれば、久我製薬株式会社CEOの翔平の地位も足元から脆くも崩れ去るだろう。萌香はそれを望んではいなかった。父親の罪を償う、ただそれだけで萌香はここにいる。「じゃあね、またね翔平」「ああ、またな」女は大胆不敵にも萌香を一瞥し、奥さん、意外と可愛いじゃん。と笑いながら手を振った。別れ際の熱い抱擁でもしているのだろう、玄関先から舌を絡ませあう音が聞こえて来た。(もう、どうでもいい)鍵がかかる音がすると、白檀の香を身に纏った翔平が隣のソファに腰掛けた。まだ身体の芯が火照っているのか、額の汗を拭っている。萌香はキッチンに立つと冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターの瓶を取り出した。指先から伝わる冷たさが、身体中に染み渡っていくようだ。(もう、耐えられない)彼女は意を決したように、翔平へと向き直った。「翔平くん」「なんだ、文句でもあるのか」萌香の唇は震え、両手はスカートを握り、足裏に力を込めた。大きく息を吸って、深く吐いた。「離婚しましょう」萌香の声が部屋に響いた。翔平は一瞬動きを止め、彼女をじっと見つめた。白檀の香りが漂う部屋に、重い沈黙が落ちた。
翌日、翔平から萌香直通で内線電話が入り、来客だ紅茶を持って来てくれ。と指示があった。秘書室のスケジュールに、CEOの来客予定はなかった。(プライベートなお客様なのかな)萌香は普段より丁寧に茶葉を蒸らし、翔平が好む伊万里焼のティーカップに紅茶を注いでCEO室へと向かった。萌香は茶盆を握りながら、父親の顔を思い出した。あの事件さえなければ、こんな屈辱を味わうことはなかったのに。彼女は唇を噛み、扉をノックした。商談にしては人の気配が荒々しかった。萌香の胸はざわついた。「入れ」「お邪魔します、お待たせいたしました」萌香がお辞儀をして顔を上げると、目を覆いたくなるような光景が広がっていた。女性が翔平に絡みつき、革の椅子が軋む音が響く。彼女は視線を逸らしたかったが、身体が動かなかった。(まさか、会社で)萌香は茶盆を落としそうになった。「萌香、落とすなよ。それ、気に入っているんだからな」「は、はい」「ここに置け」翔平は、今、まさに他の女を抱いているマホガニーの机の上まで紅茶を運んで来いと言った。「ああ、ん」女性の艶かしい喘ぎ声が部屋に反響する。「ここまで来いと言っているんだ!」「は・・・はい」萌香は震える手で茶盆を握り直し、テーブルへと向かった。脚がもつれて転びそうだ。今すぐ、この場所から飛び出してしまいたい。「どうぞ」指先が小刻みに震え、紅茶にさざなみが立った。その様子を満足げに見た翔平はこう言った。「辛いか?これがおまえの父親が俺に残した傷の代償だ」「・・・・・・!」翔平の声には怒りと共にどこか苦しげな響きがあった。女性は激しく腰を振って悶え続ける。萌香はその場所に凍りついた。それでも萌香は父親が犯した罪を償うため、翔平の暴挙に耐え続けた。それは自分の家というテリトリーがあればこそ許せる行為だった。
萌香は秘書として、久我製薬株式会社に勤務することとなった。会社で萌香と翔平が夫婦であることは公にはしていなかった。そこで、久我翔平CEOの推薦で入社した女性のことを快く思わない社員は多かった。特に秘書室はその話題で持ち切りで、萌香がCEOの愛人ではないかとも噂された。「あら、ごめんなさい」萌香が重役に提出する資料を運んでいると、茶盆を持った女性が肩をぶつけて来た。ハラハラと舞い散る紙。資料には緑茶のシミが出来、使い物にはならなかった。萌香は(・・・またか)と溜め息をつき床に屈み込んだ。コピー用紙に手を伸ばすと、それを黒いハイヒールが踏みつけた。栗毛の巻き髪、ゴージャスな美女、名前を佐々木京子といった。「せっかく作ったのにねぇ、会議に間に合うかしら?」佐々木京子は、翔平の第一秘書だ。今回の人事には不満がある。これまで尽くして来たCEOの隣に寄り添うように立つ萌香が気に入らなかった。けれど、翔平はそれが狙いだった。秘書たちを煽り、萌香が秘書室で虐められることを見越して採用した。「あんた、久我さんの親戚かなにか知らないけど生意気なのよ!」「きゃっ!」案の定、彼女たちは萌香を虐めの対象として日頃の鬱憤を晴らし始めた。その背後には必ず佐々木京子がいた。自分では手を下さずに、壁に寄りかかって腕を組み、人ごとのように傍観していた。「もう、やめて下さい!」萌香のリボンタイは解け、ブラウスはシワだらけ、タイトスカートは埃だらけになった。そこで佐々木京子は髪を掻き上げた。「もうやめてあげなさいよ」佐々木京子が声をかけると、秘書たちはその手を止めた。そして萌香から手を離し、彼女のために道をあけた。ロッカールームの端からコツコツと黒いハイヒールの音が響いて来る。萌香は身体の痛みと、緊張に震えた。佐々木京子は腕を組み、萌香を睨んだ。これまで翔平の信頼を一身に受けてきた彼女にとって、突然現れたこの新入りが我慢ならなかった。「ねぇ、久我さん」彼女は萌香の鼻先をピンクベージュのネイルで指さし、口角を片方上げた。「な・・・んでしょうか?」彼女は屈み込むと嫌らしく笑った。「わんって言ってみて?」「え?」「うちのパグちゃんでも出来るわよ?三回まわって、わん!簡単でしょ?」萌香は悔しさで下を向いた。握り拳を作り、涙が出そうになるのをグッと堪えた。「ほら、言ってご
一年後の春、桜霞に街は烟った。白い薔薇のフラワーシャワーが、深紅のバージンロードに舞い散る。「おめでとう!」「おめでとう萌香ちゃん!」「翔平、この幸せ者!」どこまでも高い青空の下、白い教会に幸せの鐘が鳴り響いた。色とりどりのステンドグラスから差し込む眩い光の中で、萌香と翔平は永遠の愛を誓い合った。ウェディングベールをあげた翔平は、萌香の唇にそっとキスをする。左手の薬指には揃いのプラチナの指輪が輝いた。萌香の目尻には、幸せの涙が滲んだ。新婚旅行は翔平の仕事がひと段落ついてからフィジーに行くことが決まっていた。結婚式を終えた二人は高級レストランでディナーを楽しんだ。磨き上げられたクラスに注がれる深紅のワイン、頬を赤らめる萌香を一瞥した翔平の口元は醜く歪んだ。「さあ、奥様。ここが俺たちの新居だ」「わぁ!素敵!翔平さん、スカイツリーが見える!」「そんなにはしゃぐことでもないだろう」ガラス張りのリビングからは東京の夜景が一望出来た。煌めく星空に浮かぶような感覚に、萌香の心は雲の上を歩いているようだった。人生最良の日。萌香は、父親が犯した罪と翔平の怒りを、忘れていた。「萌香」リビングのライトが急に消され、闇が萌香に覆い被さった。翔平の声色が萌香の背中に突き刺さった。萌香は鋭い痛みを感じた。「なに、どうしたの?」「・・・・・」翔平の心の中にはドス黒い感情が渦を巻いていた。優しかった母親の心を奪った萌香の父親への恨み。未だのうのうと生きている萌香の母親への憎しみ。罪の意識が乏しい能天気な萌香の笑顔に怒りを感じていた。「翔平くん?どうしたの?」暗がりでも分かる。翔平の目の色が変わっていることが。それは彼の母親の葬儀で見た、あの目だった。萌香の背筋に冷たいものが流れた。「萌香、なにを怖がっているんだ」「だって、なんだか」翔平の手が伸び、萌香の白いワンピースのボタンを丁寧に外していった。萌香は思わず目を逸らし、煌めく夜景に恥ずかしさを誤魔化した。衣擦れの音が床に落ち、目をギュッと瞑る。キャミソールの紐がするりと腕を伝い落ち、その部分が熱を持った。心臓の鼓動が速まり、夜の静寂に響く。「・・・・・!」首筋に点々と散る赤い花びら。萌香が快感に身を任せた瞬間、それは鋭い痛みに変わった。翔平が、獲物を仕留めた獣のように、彼女の首筋に歯形を刻んだ。その痛
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