午後六時四十分、この日、母に同僚で恋人でもある颯(はやて)を紹介するため、待ち合わせ場所の店の前で彼の到着をずっと待っていた。
約束の時間まであと二十分。時間に遅れたことがない颯のことだから、もうそろそろ着くはずだ―――――
しかし、颯はなかなか姿を見せず、電話をしても繋がらない。メッセージも既読にならないことに胸に嫌な予感が広がる。
「佐奈のこと、人生を掛けて幸せにする。だから結婚してください」、あの時くれた誓いの言葉が、心の中でざらついて消えた。そして、待ち合わせに十分過ぎてからようやく颯から電話がかかってきた。
「颯、今どこにいる?心配したんだよ。何かあった?」
「ごめん。行けなくなった。」
「どうしたの。具合でも悪い?」
「そうじゃないんだ。佐奈、俺たち今日で終わりにしよう。今までありがとう」
「え?颯?どういうこと?ちゃんと説明して………」
ツーツーツーツー
颯は、私の話を遮って電話を切った。すぐに掛けなおしたが電話には出ない。電話が切れて数秒後の着信に気がつかないわけがない。その後も颯から折り返しがくることはなかった。
(なんで?急に別れるなんてどういうこと?昨日の夜までいつも通りだったじゃない。どういうこと?)
母には、急な打ち合わせが入ったと説明して二人だけで食事をした。頭の中では、颯のプロポーズや先ほどの電話の言葉が交互に繰り返されていた。
翌日、一睡もできずに頭がボーとする中、会社に行くと辺りが騒々しい。
みんな周りを気にしながらひそひそと話をしている。同期に「おはよう」と声をかけると、彼女はすぐに私のところに来て腕を掴み、人がほとんど来ることの無い非常口前の部屋へと直行した。「佐奈、大変なことになったよ。聞いて。総務の七條さんいるでしょ。彼女、実は社長の実の孫娘だったんだって。それを隠して入社してたらしいんだけど、婚約者ともうすぐ結婚するからって、昨夜、残業中に総務部の取締役がうちの部門長に話をしにきたの。」
「七條さんが―――?」
七條璃子。直接話したことはなかったが、艶々の黒髪で凛とした佇まいが美しく、女優にもなれそうな容姿で有名な人だ。まさかそんな美人が社長の孫娘だったなんて驚いた。しかし、それ以上に驚いたのはこの後だった。
「それで婚約者と言うのがね……松田さんなの。二人、社内恋愛していたみたい」
(嘘でしょ。松田って颯のこと?だって颯は、私にプロポーズしてくれて昨日も母に紹介する約束をしていたのに……)
昨日、待ち合わせ場所に訪れず別れを告げた理由も分かったが、頭の理解が追いつかない。颯がそんなことするはずがない、何かの間違いだと思ったが、そんな思いはすぐに打ちのめされた。
遠くからエレベーターが到着した音が聞こえると、辺りが先ほどよりも、より一層ザワザワとしたどよめきに溢れていた。視線を移すと、そこには颯と七條璃子が仲睦まじく並んで歩いている。
璃子は、颯の腕に軽く手を絡ませて微笑んでいる。颯は、佐奈と付き合っていた頃には見せなかった、どこか緊張した笑顔を浮かべていた。
(噂は本当だと言うの?社内恋愛っていつから?だって私たちは四年も付き合っていたのに。その期間も颯は七條さんと付き合っていたの?)
昼休みに差し掛かる前、颯の周りに人がいないことを確認してからそっと近寄り話しかける。
「松田さん、話があるんですけれど今いいですか?」
「忙しいから無理だ。それと今後は璃子以外の女性とは仕事以外の話はしないことにしたから話しかけないでくれ。業務で用があっても話しかけずに社内メールにするように。」
(仕事以外の話はしないって、それなら昨日の話はいつならいいの?それとも社内恋愛で社内の出来事だから社内メールでも送っていいわけ?)
「それでしたら、社内メールにて昨夜の件と今までの経緯を時系列で記載してお送りしますね。なんなら、七條さんと総務部長や関係各所も宛先に入れて送付した方がいいですか?」
私が笑顔で言うと、颯は殺気に満ちた目で私を睨みつけてきた。
「そんなことしたらどうなっているか、分かっているだろうな。この会社にいられなくなるようにすることも出来るんだぞ」
「それは自分の実力ではなく、周りの力を借りて、でしょ?どういうことか分かるように説明してくれない?」
颯は手元の時計を確認すると時刻は十二時一分を指していた。
「これから璃子と約束しているんだ。変な誤解を与えるようなことはしないでもらえるか?」
颯は私との会話を切り上げてその場を去って行った。
土曜日。社長に命じられたパーティーに璃子と参加した。会場である都内の高級ホテルの大宴会場はシャンデリアの光に満たされ、男性陣はみな仕立ての良いスーツで、女性はドレスや着物、フォーマルなワンピースなどで普段よりも遥かに着飾り、誰も彼もが眩しいほどに綺麗な格好をしている。初めて足を踏み入れた雰囲気に、俺は心臓の鼓動が早くなるのを感じ、緊張しきっていた。「颯、大丈夫?私が側にいるから安心して」璃子はそう言うと、俺の腕にそっと手を添えて微笑んでくる。璃子が隣にいてくれることが、今は頼もしかった。「あー松田君、璃子。もう来ていたんだね」会場に入り、社長に挨拶しに行くとにこやかに手を挙げて微笑んでいる。いつもより少しカジュアルなスーツで、胸元の桜色の淡いネクタイと胸元にブランドのロゴがデザインされたピンをさりげなくつけており、その装いは洗練されている。「今日は場の雰囲気に慣れるだけでいいから。楽しみなさい」社長はそう言って去って行ったが、その言葉は俺に対する配慮なのか、それともまだ璃子の婚約者として紹介するほどではないと釘を刺しているのか分からなかった。社長から与えられた立場は脆い。婚約してから今になっても、状況によってはすぐに切られる可能性もあることを俺は常に警戒をしていた。パ
颯side「松田君、璃子と参加して欲しいパーティーがある。璃子は何度か出席しているから詳細は璃子に聞いてくれ」「はい、承知しました」木曜日、社長室で仕事の資料の説明をした後に社長にそう言われた。璃子と婚約してから、仕事の合間に俺と二人きりになると璃子のことを聞いてきて、祖父の一面も見せるようになってきて、少しやりづらくなっていた。(璃子とパーティーか、この前の玲央のこともあって気乗りしないけれど仕方がない。仕事だ……)そう言い聞かせてから、目の前にある仕事に集中することにした。「ただいま―――」「おかえりなさい」璃子は、俺が帰ってくると必ず玄関まで迎えに来て抱き着いてくる。最初は戸惑っていたが、俺のことを大事にしてくれているのだと思う。リビングに入り、ネクタイを緩めながら璃子にパーティーの件を聞いた。「そう言えば、社長から璃子とパーティーに出席するように言われたんだけれど。詳細は璃子が知っているからって聞いていないんだ」璃子は、少し肩をビクンとさせたが、何事もなかったかのように微笑んだ。
佐奈side「佐奈、今度の土曜日は空けておきなさい。連れていきたいところがある。」「分かりました。準備しておきます」夕食後、リビングでくつろいでいた私に父が静かに言ってきた。私は嫌な予感がしたが。静かに返事をする。時代は令和だというのに、我が家では父の言うことは絶対だ。本当は一人暮らしも許されなかったけれど、大学の就活を頑張って名の知れた大手商社に採用されたことを理由に、父は渋々承諾をしてくれた。そして今、その大手商社を退職して実家に戻ったということは、再び父が絶対の世界になるということである。父のことは尊敬しているし、いずれは父のようになりたいと思っているので嫌いではない。だが、家に戻るのなら今回のような理由ではなく、歓迎されて戻ってきたかったというのが本音だった。(父が連れていきたいところなんて、どうせ決まっている。)気分転換にリビングの隅にあるグランドピアノに向かう。母はピアノの講師をしていて、小さい頃は、長い椅子に二人で座って連弾をしたものだ。大人になった今では一番端まで指が届くようになり、鍵盤が少し小さく感じながら、ショパンの幻想即興曲を奏でた。激しく、そして情熱的に鍵盤を叩くことで、心に溜まった鬱憤を吐き出す。新しい職場にはまだ
颯side「そうか、それならこれは何なんだ。」俺は、玲央から見せられた三か月前の写真を璃子に突きつけた。「俺たちが婚約している時期だよな?なんで二人のツーショット写真を本郷さんが持っているんだ?今年撮ったものだと分かるように、免許証まで証拠として見せられたよ。」玲央は名刺を渡してきた後に自分のスマホを操作して俺に見せてきた。画面を覗くと、玲央と璃子がケーキを二人で持って笑う写真だった。二人はとても幸せそうに微笑んでいて、ケーキの載ったお皿にはチョコペンで『Reo 27th Happy Birthday!』と描かれていた。璃子との婚約が公になったのは半年前だ。三か月前といえば、俺たちが一緒に暮らし始める直前の時期になる。「それは……。颯との婚約を伝えるために会った時のものよ」璃子は即座にそう答えたが、その声には以前のような自信に満ちた張りはなかった。「婚約を伝えるために会った?誕生日の日に?こんな笑顔でツーショット写真を撮って?もしそれが本当だったら、君はすごく残酷な女性なんだな。彼に同情するよ」俺の言葉に璃子の表情が一瞬で硬直する。しかし、すぐに璃子は開き直るように顔を真っ赤にして俺に言い返してきた。
颯side「お帰りなさい」家に入り玄関で靴を脱いでいると、既に風呂に入った璃子が少し濡れた髪のまま俺のところに来て抱き着いてきた。「今日は遅かったわね。帰ってくるの待っていたんだよ。」俺が何も知らないと思っているのか、上目づかいで見てくる璃子が今日、玲央と会ったことで妙に白々しく感じた。俺は何も言わずに身体を引き離し、リビングへと入っていった。「颯、どうしたの?何か会社で嫌なことでもあった?」璃子は、めげることなく俺の後ろから抱き着いてくる。その温かい熱が、かえって俺の心を冷やしていった。俺は大きくため息をつくと、先ほど玲央から貰った名刺をテーブルに静かに置いた。「俺のところに、本郷 玲央さんが俺と璃子の関係を知りたいと言って尋ねてきた。もちろん、何の事だか分かるよな?説明してくれ」玲央の名刺と俺の言葉を聞くと、璃子は俺から身を離し少しだけ後ずさりをした。その顔には、なんて答えるべきか迷っている動揺の色が濃くしっかりと見てとれる。「玲央が?それで颯はなんて答えたの?」「俺は何も言っていない。俺の口から話せることはないと言った。だけど彼は、『自分は璃子の婚約者』だと俺に言ってき
颯side「璃子、七條璃子の件です。あなたたちが結婚するのは本当ですか?あなたは璃子の婚約者なんですか?」(璃子?本郷の執行役員が璃子になんの用だ?それに何故、彼が俺たちの婚約を知っている。まだ社外には公表していない内容なのに……。)璃子との関係が公になってから周囲からの探りも増えた。しかし、あくまでも主導権は社長や璃子にあって、俺の口から言えることはなかった。社長から秘密にするよう厳命されていて、名刺を渡されたとはいえ初対面の相手には尚更、話せることなんてない。「……申し訳ないですが、初めてお会いしたあなたに私の口からは何も言えません。失礼ですが七條璃子さんとはどのようなご関係でしょうか?」玲央は俯いて小さく息を吐くと、意を決したように力強く宣言するように声を張って言った。その声には、個人的な感情の強さが滲んでいた。「私は、璃子さんの婚約者です―――――」あまりにも明確にハッキリという玲央の言葉を聞き間違えるはずがない。しかし、頭は混乱して彼の言っている意味が理解できずにいた。(璃子の婚約者?璃子は俺と交際する前に誰かと婚約していた?それとも、現在進行形で話は進んでいるのか?まさか、俺の知らないところで璃子は二股をかけていたのか)