何故だろうか──宿の中の温度が、一気に氷点下まで下がったような気がした。 場に立ち込める空気を察したのか、メイドたちが一斉にセラフィナたちから距離を取った。 レヴィは端正な顔に笑みを貼り付けたまま、まるで獲物を前にした捕食者のように、セラフィナたちの周囲をぐるぐると回り始める。 異教徒であるセラフィナたちに対する、差別意識や敵意といったものは微塵も感じられない。ただ、口元はにこやかに笑っているのに目が全く笑っておらず、無音で周囲を歩き回りながらも、視線は常にシェイドへと向けられている。それが兎に角不気味だった。「……教官、殿……」 顔を引き攣らせるシェイドと、口だけはにこにこと楽しげに笑っているレヴィ。両者は実に対照的だった。「──シェイド。三年前のあの日、君が犯したのは紛れもなく敵前逃亡だ」 透き通るような、綺麗なソプラノヴォイス。小鳥のさえずりを彷彿とさせる、誰もが思わず聞き惚れてしまうような美しい声で、レヴィはシェイドに優しく語り掛ける。「何故、敵前逃亡が軍という組織の定める法に於いて重罪とされているのか。分かるかな、シェイド?」「……じ、自軍の規律や秩序が乱れ、戦線が総崩れとなる恐れがあるから……です、教官殿」「そうだね、シェイド。戦闘の継続が可能な状態で、防人としての責務を放棄して逃げ出せば、それは軍全体の士気に関わる。我も我もと、追随して逃げ出す者も現れるだろうからね。その上で尋ねよう。何故、君は上官である私に連絡の一つも寄越さず、無音で行方を眩ませたのかな?」「そ、それは……」 恐怖のあまり、まるで生まれたての仔鹿のように、小刻みに身を震わせるシェイド。こんなにも怯える彼の姿を見るのは、初めてのことである。 それほどまでに、今も尚周囲を歩き回るレヴィという麗人は、彼にとって恐ろしい存在なのだろうか。見ている限りでは、とてもそうは思えない。
シェヘラザードの案内で大広間へと足を踏み入れると同時、最奥に座す妖艶なる乙女と目が合った。 フェイスベールで口元を覆い隠しており、どのような表情を浮かべているかまでは、遠目からではよく分からない。しかしながら切れ長の両目には光がなく濁っており、まるで底なし沼のようであった。 恐らく……否、間違いなく彼女こそが、精霊教会の最高指導者たる、巫女長ラマシュトゥその人。周囲に侍る巫女たちの佇まいや乙女に対する態度などから、セラフィナはそのように見当をつける。 「──ラマシュトゥ様。ハルモニアより、死天衆アモン様がお見えになりました」 「ご苦労、シェヘラザード」 極力ラマシュトゥと目を合わせないようにしつつ、セラフィナはその場に片膝を付き、胸に手を当てながら深々と頭を下げた。 表向き、セラフィナたちは来賓たるアモンの従者という立場にある。公の場では、アモンに恥をかかせないよう振る舞わなければならない。 隣で牙を剥き出しにしつつ、大きな唸り声を発するマルコシアスを宥めつつ、セラフィナは許しが得られるまでハルモニア式の敬礼のまま待機する。 暫し静寂に包まれる大広間。静寂を破り先に口を開いたのは、巫女長ラマシュトゥであった。 「──久しぶりよのぅ、アモン? 最後に其方に会うたのは、今から何年前のことであったか」 「最後に顔を合わせたのは、今から二十年前。聖教会の保有する超要塞ジュダにて休戦協定が結ばれた時であるな、ラマシュトゥよ」 まるで昔を懐かしむかのように、両者は淡々と言葉を交わす。 「先の大戦を受け、アッカドも変わった。妾たち精霊教会としては、ハルモニアとはこれからも、良き関係を築いていきたいと思うておる」 「ふむ……願っても無いこと。我らハルモニアとしても、未だ聖教会と敵対関係にある。若し、万が一聖教会と事を構える事態へと発展した場合に備え、予めアッカドを含む砂漠地帯の諸国家と親密なる関係を構築しておきたいと、常々思っていたところよ」 「それは、ハルモニア皇帝ゼノンの意思ということかの?」 「うむ──他ならぬ、ハルモニア皇帝ゼノンの意思である」 「それは、それは……実に、喜ばしきことよ」 上品ではあるものの、何処か悍ましさを感じさせるラマシュトゥの笑い声が、アモンの左斜め後ろで跪き深々と頭を下げているセラフ
都市国家アッカド中心部、精霊教会本部──「巫女長ラマシュトゥ様──聖教会より大天使ガブリエル様。並びに、聖教騎士団長レヴィ様がお見えになりました」「…………」 大天使ガブリエルと共に大広間へと通された聖教騎士団長レヴィは、最奥に座す女の顔を不快感も露わに睨み付ける。 妙齢の妖艶なるその女は、女性としては長身の部類に入るレヴィよりも更に背が高く、フェイスベールに覆われた口元に不敵な笑みを湛えながら、何処か蔑んだような目でレヴィたちを見下ろしていた。「──よく来たのぅ、大天使ガブリエル。そして聖教騎士団長レヴィよ」 腰まで届く、黒蝶真珠の如き艶やかな長髪──その毛先を細い指先で弄りながら、女は小馬鹿にした調子で言葉を発する。「──とてもではないが、客人に対する態度とは思えんな。巫女長ラマシュトゥ──どうやら、噂に聞く以上に野蛮で礼儀を知らんらしい」「ほぅ……?」「──レヴィ、控えなさい。ここは公の場です」 ガブリエルが努めて穏やかな態度で、それでいて有無を言わせぬ口調でレヴィを窘める。 聖教会に往時の勢いなし。侮られても致し方ない。ガブリエルの態度からは、そのような意図が見て取れた。「……御意」 不服そうに、それでも律儀に引き下がったレヴィを見て、女──巫女長ラマシュトゥは、心底愉快そうに声を上げて笑う。「流石は、"簒奪者"に過ぎたる者ガブリエル。飼い犬の躾をしっかりとしておるわ。妾も少しばかり、其方の姿勢を見習わねばなるまいのぅ」「──口に気を付けることです、ラマシュトゥ。天に坐す主を"簒奪者"などと口にすることは、たとえ主が許そうとも私は決して許しませんよ?」 にこりと笑いながら圧を放つガブリエル──その場にいる精霊教会の巫女たちが気圧され怯む中、ラマシュトゥだけは独り平然としていた。
それから数日が経過した、ある日の夕暮れのこと。 アッカドまでの旅路、その最後の中継地点とも言える、少し前までオアシス都市だった場所。死の街と化したその都市の中心部、広場となっている場所にセラフィナたちは立っていた。 煌々と燃え盛る家々、飛び交う羽虫、鼻の曲がるような強烈な異臭、街の至る所で血を流して倒れている変わり果てた姿の人々。 そしてセラフィナたちの視線の先では、堕罪者のものと思われる複数の血塗られた生首が、無惨にも幾重もの槍の穂先に突き刺された状態で晒し者となっていた。「……この街で、一体何が起こったというの?」 その場に腰を下ろし、目を見開いたまま事切れている幼い少女の瞼をそっと閉じてやりながら、セラフィナはポツリとそう呟く。血で赤黒く染まった少女の身体には何箇所も銃創がある他、槍によるものと思われる深い刺し傷が胸部に刻まれていた。「……こんな、小さな子まで。可哀想に……」 セラフィナの隣に腰を下ろし、涙の痕が残る少女の頬を憐れむように指先で撫でながら、キリエが沈痛な面持ちで目を閉じる。「……まだ、生前の温もりが残っています。恐らく、何者かに襲われてからまだ、それほど時間が経っていないのでしょう」「だろうね。問題は"誰が何の目的で、この惨劇を引き起こしたのか"だけど。堕罪者だけならば兎も角、無辜の民まで容赦なく手に掛けるのは、とても正気の沙汰とは思えないね」「そう、だな……堕罪者を割とあっさりと殺していることを考えると、自警団か若しくは国の正規軍か。何にせよその辺の馬賊程度に、こんな大規模な殺戮は不可能だ」 シェイドの言葉に小さく頷きつつ、セラフィナはゆっくりと立ち上がる。澄んだ青い瞳の奥に、仄暗い怒りの焔が宿っているのが見えた。「──気になることは色々あるけど、取り敢えずは生存者がいないか、手分けして探そうか」 反対する者は、一人もいなかった。セラフィナ主導でそれぞ
道中何度か戦闘を挟んだことで予定よりも時間が掛かってしまったため、最寄りのオアシス都市に辿り着いたのは翌日の正午前のことであった。 広場の片隅に腰を下ろしたアモンの身体を、シェイドは黙々と洗い続けていた。パピルサグの返り血に塗れ、青く染まっていた彼の身体は、シェイドが時間を掛けて丁寧に洗った結果、殆ど元通りの状態にまで戻っていた。 セラフィナとキリエの二人は、汗をかいた身体を清めるべく着替え片手に水場へと向かい、シェヘラザードはパピルサグの犠牲となった駱駝の代わりを買いに厩舎へと足を運んでいるため、今この場にいるのはシェイドとアモン、マルコシアス、そして現地の子供たちや人の良さそうな行商人といった面々である。 特に現地の子供たちは、異形の大男であるアモンを見ても臆することなく、そればかりか返り血に塗れた彼の身体を一緒になって洗ってくれるなど、非常に献身的かつ親切であった。 小さな共同体だからこそ、助け合いの重要性をよく理解しているのだろうか。一緒にアモンを洗ってくれる子供たちに感謝の意を述べつつ、シェイドはそのようなことを考えた。 「……こんなところ、かな」 見違えるほど綺麗になったアモンの身体を見て、シェイドは額の汗を拭いつつほっと溜め息を吐く。臭いがまだ少し残っているが、気にするほどではない。 子供たちはどうやらアモンと遊びたかったらしく、口々にアモンに高い高いをして欲しいとせがむ。アモンも満更ではないらしく、心做しか嬉しそうである。 シェイドはマルコシアスと共に少し距離を取り、日陰からその様子を見ることにした。黄色い声を上げて喜ぶ子供たちと、保護者かと見紛うような優しい笑みを湛えているアモン。何とも微笑ましい光景だった。 マルコシアスの毛繕いをしてやりながら、ぼうっとその光景を眺めていると、人の良さそうな行商人が食べやすくカットした西瓜をそれぞれ両手に持ち、片方をシェイドに差し出しな
翌日── シェヘラザードに先導されつつ、セラフィナたちは駱駝の背に乗り、都市国家アッカドへと続く道なき道を進み続けていた。「…………」 水筒の水をほんの少し口に含みながら、セラフィナはそれとなく周囲の顔色や様子を窺う。 先導するシェヘラザードは、些細な変化も見逃すまいと集中力を高めているのか、セラフィナの視線に気が付く様子はない。 キリエは環境の変化に戸惑っているのか、忙しなく顔を動かしており、殿のアモンはそんなキリエを安心させようと数分に一度、彼女の隣に自らの乗る駱駝を寄せて肩を軽く叩いている。 そしてセラフィナの直ぐ隣にいるシェイドは、やや警戒した様子でシェヘラザードの小さな背中を睨み付けていた。懐に忍ばせている暗器を何時でも投げられるように体勢を維持しており、彼女が少しでも怪しい動きを見せたならば、恐らくは躊躇することなく暗器を投擲するのではないだろうか。 誰も一言も発することなく、ただ前へ前へと進むその様はさながら夢遊病患者か、死者の行軍のようであった。「…………」 ほんの少し息苦しさや、居心地の悪さを感じる。慣れない環境に置かれてストレスを感じているのは勿論のこと、若干ではあるが不和が生じているのもまた息苦しさを感じさせる要因となっているのは否めない。 セラフィナたちが宿を発ち、数多の危険が待ち受ける広大なる砂漠へと足を踏み入れたのは、夜明け前のことだった。 宿を発って間もない内は、セラフィナやアモンが先導するシェヘラザードに声を掛け、何気ない世間話をしていた。 が、さして親しい間柄もないために話すことは直ぐになくなり、日が昇った頃には誰もがすっかり口を閉ざしてしまったのである。 ふと、先導していたシェヘラザードが手綱を引いて駱駝の動きを止め、右手をすっと軽く挙げる。"要警戒"を示すハンドサインである。 キリエやシェイドの顔に緊張が走る。シェヘラザードは続けて"その場から動くな"とハンドサインを出すと、駱駝の背から舞うようにひらりと飛び降りる。 何かを見