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#49:エレンの杞憂

Author: 渡瀬藍兵
last update Petsa ng paglalathala: 2025-08-05 11:30:00

 エレナがシイナたちの部屋を訪れると、そこには普段と違う光景が広がっていた。

 白衣を纏ったシイナと、同じく白衣姿のミスト。普段の服装から一転、二人とも本業の研究者の顔に切り替わっている。机の上には、沸騰する液体を湛えたフラスコ。その下では青い炎が揺らぎ、ガラスの内側を淡い光がせわしなく駆け回っていた。

 空気に、薬品特有のぴりりとした匂いが漂っている。

「じゅ、準備はいいかミスト……!」

「は、は、は、は、はいっ!! このミスト、いつでも行けますッ!!」

 二人とも、声が上擦っていた。

 ゴーグルを額から下ろし、呼吸を整える仕草まで揃っている。いつもの研究者らしい余裕はどこへ行ったのか。シイナの指先はかすかに震え、ミストに至っては白衣の裾を握りしめて小刻みに揺れていた。

「リ・ポーションは超高価な薬だ……!下手したら、一生拝めない可能性だってある……!!」

「そ、そうですね……! でも、だからこそ……!ここで量産できたら……!!」

 興奮と緊張がないまぜになった声。二人の視線は、フラスコの中で踊る一滴の液体に釘付けになっていた。

 昨夜、彼らがあれほど執着して受け取ったリ・ポーション。それを――増やそうとしている。

「よ、よし……! 行け、ミスト!」

 シイナがフラスコの台座をぐっと押さえる。ミストがもう一本のリ・ポーションを傾け、ピペットの先から一滴、赤い雫を落とした。

 液面が、震える。

 その直後――

 ぽんっ、と間の抜けた破裂音が上がり、フラスコから白い煙が勢いよく噴き出した。部屋全体がたちまち乳白色の霧に包まれ、机の上の書類が風圧でぱたぱたと舞い上がる。

「けほ……こほっ……! シイナさん! これは一体……?」

「エレナ様、少々お待ちくださいね。前が見えなくなってしまって……」

 煙の向こうから、シイナの声だけが妙に平坦に返ってきた。つい数秒前まで爆発の中心にいた人間とは思えない、切り替えの早さである。

 ミストが咳き込みながら窓辺に駆け寄り、勢いよく窓を開け放った。朝の風が流れ込み、白煙を少しずつ外へ押し出していく。

 やがて視界が晴れると、煤けた顔の二人が、ゴーグルを額に押し上げて姿を現した。ゴーグルの下だけきれいな丸い肌色が残り、その周囲が黒く縁取られている。

「……これはですね、リ・ポーションをどうにか増やせないか、試していたんです」

「リ・ポーションって、確かに非常にお高いですからね……」

「はい。増やせたら、旅も今後、ずいぶん快適になるでしょう? とはいえ……」

 シイナが言葉尻を濁し、机の上に残された黒ずんだフラスコにちらりと目をやる。

「結果は、やはり失敗ですねぇ……。今回はスライムの細胞を採取して、混ぜてみたんですけど」

「スライムの……?」

 エレナが、ぱちりと目を瞬かせた。

「スライムって、増殖するでしょう? その特性を使って、頂いたリ・ポーションの増量を試みたんです。――ですが、ご覧の通り」

 シイナは肩をすくめてみせた。煤で汚れた頬のままその仕草をやるものだから、いつもの研究者らしい知的な雰囲気が、どこか抜けて見える。

 「そ、そうみたいですね……」

 エレナは、まだ少し煙の匂いが残る部屋を見回しながら、曖昧に頷いた。

 机の上では、実験に使われたフラスコが沈黙している。淡く光っていた液体はすっかり濁り、もはや薬というより、少し危険な何かに近い色をしていた。

「はぁ……。ですが幸い、あと一本、ミストの分があります」

 シイナは額にずらしたゴーグルへ手を添え、深く息を吐いた。

「ご自分では使わないんですか……?」

「我々はあくまで科学者ですからね! 確かに飲んでみたいという好奇心はありますけど、それ以上に、科学者として増やせるかどうかを試したいですっ!」

 ミストが両手を握りしめる。煤で少し黒くなった白衣の袖が、その動きに合わせて揺れた。

 普通なら、貴重な薬を飲むこと自体が目的になる。

 けれど、目の前の二人は違う。

 飲むより先に調べる。使うより先に増やそうとする。そこに一切の迷いがないあたり、やはりこの二人は研究者なのだろう。

 エレナは、そっと視線を落とした。

(私には、別に必要ないし……。確かに緊急時には必要な時もあるかもだけど……二人に比べたら、無くても問題は……ないよね)

 エレナには、聖属性がある。

 傷を癒やす力。体内に入り込んだ異物を浄化する力。完全ではなくとも、少なくともこの旅の中で、誰よりも回復手段に近い場所へ立っているのは彼女だった。

 ならば。

「シイナさん、これを」

 エレナはハコベールへ手を伸ばした。

 四角い透明な箱のようなそれは、空間を利用して荷物を収納する最新鋭の道具である。外見からは想像もつかない容量を持つその内側へ指を差し入れ、エレナは一本の小瓶を取り出した。

 澄んだ液体が、朝の光を受けてほのかに揺れる。

 リ・ポーションだった。

 シイナの視線が、瓶に吸い寄せられる。

「ですが、これは研究に使わず、緊急事態に備えて飲めるようにしてください」

 エレナはそう言って、まっすぐに小瓶を差し出した。

「しかし……! これはとても貴重な回復薬ですよ? エレナ様にも、必要な時が……」

 シイナの手はすぐには伸びない。

 受け取るべきではない。だが、受け取らないわけにもいかない。その二つの判断が、指先のわずかな揺れに現れていた。

 エレナは静かに首を横へ振る。

「そうですね。ですが、私には自分で回復することができますので、シイナさんほど絶対に必要な物ではないのです」

「そうか……。エレナ様は、聖属性……」

 シイナが低く呟いた。

 その横で、ミストの瞳がきらりと光る。

「数ある属性の中でも、謎が多い属性ですからね。なぜ治癒を施すことができるのか……そこも未知ゆえ、研究したいところです」

(あはは……)

 エレナは、少しだけ困ったように眉を下げた。

「もちろん、私にできる実験ならいくらでも協力しますよ」

「……ありがとうございます」

 シイナは短く礼を言った。

 それでも、伸ばした手は途中で一度止まる。透明な小瓶とエレナの顔を交互に見て、それからようやく、申し訳なさそうにリ・ポーションを受け取った。

シイナは受け取ったリ・ポーションを丁寧にハコベールへ仕舞い込み――そこで、何か思い出したように、ふと顔を上げた。

「あっ」

「どうされました?」

「事後報告になってしまって、申し訳ありません。例の貴族の件ですが――今朝、騎士団が到着しまして、無事に送還しました。明日にはベルノ王国へ到着し、その後本格的な調査が行われる、とのことです」

「そうですか。情報共有、ありがとうございます」

 エレナが穏やかに頷いた、その時だった。

 『………』

 エレナの内側で、エレンが黙り込んでいる。普段の沈黙とは、温度が違う。考え事の沈黙ではなく、何かに引っかかっている沈黙だった。

 『どうしたの?』

 『いや、あの女――没落貴族の口を封じようとした、あの女のことだ。もし、奴がまだ生きていると知ったら……どう動く?』

 念話越しに、エレンの声が低い。

 『大丈夫でしょ? 何かあっても、騎士団が護衛しているんだし』

 『エレナ。認識を、変えた方がいい』

 言葉のひとつひとつが、釘を打つように届く。

 『奴らは「組織」だと言っていた。つまり、複数人で動いている。情報がどこから漏れているのかも、考えなければならない。諜報員、分析員、買収された衛兵――挙げればキリがないが、どれも可能性が無いとは言い切れない』

 『こ、こわいことを言わないでよ……』

 エレナの背筋に、薄い冷たさが走る。

 『それに、あの女。私と実力差は確かにあったが――刃を交わすことができる程度には強かった。あの水準が組織の標準だとすれば、並の騎士では歯が立たんぞ』

 『……だが』

 エレンは一拍置き、自ら声音を緩めた。

 『神経質に過ぎるのも事実だ。私の考え過ぎ、という線もある』

 エレナは無言でその言葉を受け止める。考えすぎ、と言われても、一度耳に入った可能性は、そう簡単には消えてくれない。

 (なんらかの組織が、裏で動いてる……? なら、それこそ、また口封じに……)

「エレナ様?」

 シイナの声に、エレナの視線が戻る。眉根を寄せたまま黙り込んでいたらしい。

「す、すみません。シイナさん、一つ質問が」

「なんでしょう?」

「――護送に来ていた騎士は、何人ほどでしたか?」

 声音は穏やかなままだったが、問いの中身が、それまでの会話と少しだけ毛色が違っていた。シイナは、ほんの一瞬、目を細める。だが余計な詮索はせず、淡々と答えを返した。

「八人、ですね」

「八人、ですか……」

 その数字を、エレナは口の中で繰り返す。

 ベルノ王国の騎士団は、大陸でも屈指の精鋭で知られている。その彼らが八人付いているという事実は、襲撃側にとって決して軽い数字ではない。即座に手を出せる規模ではない――少なくとも、表向きの戦力比較では。

 エレナの肩から、わずかに力が抜けた。

 『ほう。ならば、ひとまずは大丈夫か』

 エレンの声音にも、薄く安堵の色が混ざっていた。

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