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第101話:外征の収束

Author: fuu
last update Last Updated: 2025-12-12 23:00:09

鐘が三度鳴った。大聖堂の床は磨かれ、乳香の煙が光を白く曇らせていた。皇子は祭壇の前で足裏の重心を探した。森の境で出会った道案内の言葉を思い出す。立つなら踵ではなく拇指球、と。隣に立つ王子は指の背で皇子の小指に触れ、合図の一撫で。前へ出ろ、の合図だ。

「停戦を宣する」

皇子の声が天蓋に跳ね、光の粒が震えた。列席の商人たちが息を吐く音、鎧の擦れる微かな音。王子は一歩さがり、影の位置から視線だけで支えた。公では皇子が前、私室では王子が支える。その取り決めは今日から国のかたちにもなる。

《『合意は言葉で、身体は合図で』》

条約婚の公開儀礼は、政と契の二重奏で進んだ。司祭の朗唱のあと、術師がふたりの手首内側に金粉の魔紋を描く。環は交わされず、帯が結ばれた。盟約の帯は絹。結び目は左に。解くのはふたりだけ。

「可否の明文化を」と王子が短く告げ、書記官が羊皮紙を広げた。皇子は頷き、項を伸ばす。

「可は、束。絹のみ。不可は、痛みが残るもの。可は、命令。不可は、嘲り。合図は、二度の指叩きで減圧、三度で即時中止」

王子が続ける。「セーフワードは灰百合。使えば何であれ止める」

司祭の眉がぴくりと動いた。祭の言葉に葬の花。誤解が走る前に、王子は肩をすくめた。

「私室の話だ。神前では使わない」

場に小さな笑いが生まれ、緊張が薄まった。皇子も口元をゆるめる。甘いほころびを見つけた王子が、ほんの一拍まつ。それが彼らのやり方だった。

続いて停戦条約の宣示。国境の見張台は共同で運営、隊商路は三日後に再開。関所の徴は統一し、徴収は透明化、納骨堂の維持費へと一定割合を回す。皇子が読み上げる間、王子の視線は祭壇奥の扉に向いていた。地下への石段。大聖堂、地下街、納骨堂。権力の継ぎ目はあの暗がりにある。

儀礼の最後、予定にない音が割り込んだ。地下街の親方が樽を抱えて入ってきたのだ。泡が蓋を押しのけ、床に白い川が走る。司祭の顔が固まった。

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    大聖堂の香の煙は甘く、喉の奥で細くほどけた。皇子は肩甲骨を寄せ、下腹に重心を落とした。彼に教わった通りだ。胸の前で指を一つ、二つ。合図の練習。指の節が小さく鳴り、天蓋から吊るされた鐘のひびきが返ってくる気がした。「前へ」王子の囁きは髪に触れるほど近くて、しかし誰にも聞こえない浅さだった。「顎を上げて。今日は君が先に名乗る」皇子は頷いた。金糸で縁取られたマントの重みが背に集まり、魔紋の冷たさが手首を舐めた。右手の甲に描かれた共治紋は二重の輪、その内側に鍵と蔦。薄金色に脈打つたび、脈拍と同じリズムで落ち着いた。大司教が杖を鳴らす。石床の微震。列柱に反響し、地下街のざわめきまで揺らした。外には民衆。地下には商人と顔役たち。納骨堂の管理者も袖口の黒を整えてこちらを窺う。すべてがこの一つの宣言に絡んでいる。「外征終結の宣言を」大司教が促す。王子が半歩退いた。公では皇子が前に、という約束。その背に、彼の視線がしっかりと立っているのを感じた。「我らは遠征を終えた。最後の反乱州を自治として認める」声は喉の底で太く鳴った。胸骨が振動し、空気が確かに割れた。「軍備は、治安へ転ずる。諸都市の巡防に、辺境の灯火に。剣は鞘に、槍は行灯に」広場の縁がざわりと揺れる。地下街の顔役が肩をすくめ、納骨堂の管理者が灰白色のまなざしを細めた。大司教は杖を静かに打ち鳴らし、祝詞に入る前に王子へ目をやる。王子は短く頷いた。段取り通り。——のはずだった。若い書記が羊皮紙を取り違えたらしい。拡声の魔石に乗った声が、大聖堂に気持ちよく響く。「条約婚の付帯合意について、読み上げます。可は、手首保持、拘束は儀礼用限定、合図は二度の指鳴らし……不可は、打擲、露出、屈辱的呼称、……セ、セーフワードは『芥子』」大司教の杖が止まり、観衆が一拍の間を置いて爆笑しかけて飲み込む。王子が苦笑を浮かべて一歩進み、手を挙げた。「誤配布だ。公に開示するのは簡略版だよ。君、裏の綴じ直しを」書記は耳まで真っ赤にして頭をさげ、わたわたと羊皮紙を抱えて走った。皇子は肩の力を抜かないように、けれど唇の端だ

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    鐘が三度鳴った。大聖堂の柱は蜜蝋の匂いで、床に撒かれた花粉が微かに甘い。皇子は掌を袖に隠したまま、王子の指先が手首の脈をなぞるのを感じていた。落ち着け、という合図だった。彼は頷いた。公では自分が前に立つ。私室では彼が支える。それが契約だ。広場はぎっしりだった。書記が巻物を掲げる。白布に走る黒い文字は、婚姻と条約を一本に結ぶための文言だ。可、不可、合図、そしてアフターケアまで明文化されている。寝台一式の手入れ表みたいだな、と皇子は小さく笑った。笑えるくらいには今、呼吸が整っている。「公の寝台について話そう」王子が先に口を開いた。声は低く、広場を撫でるように広がる。「国は寝台に似ている。誰を招くか、どこまで触れるか、合図は何か。合意がなければ上がらない。上がらせない。終われば水を用意し、痛みを数え、眠りを守る。私たちはそれを文にした」書記が続ける。「可」として掲げられたのは、透明な会計、公開の評議、住民の同意を条件とした徴税。「不可」は徴発の恣意、礼拝の妨害、亡骸の商い。合図は鐘と色旗、言葉の合図は「灯」。この言葉が出たら、すべてをいったん止め、確認とケアに入る。アフターケアは、施策ごとに具体的な点検日と補償を記すこと。寝台のあとの水と軟膏と同じだ。地下街の入口に続く階段の上から、顔役がひょいと手を振った。「寝具税は上がるのかい?」ざわ、と笑いが起きる。王子が肩で受け止め、皇子に視線を送る。いけるか。皇子は一歩出た。「寝具税は上げない。今日は祭りだから取らない」「おお、助かる!」笑いがひとしきり弾けて、空気が柔らかくなる。いい、今だ、と王子は視線で押す。皇子は巻物の末尾を摘まみ、指輪を陽にかざして言った。「週に一度、私たちは席を入れ替える。スイッチ・デーだ。政の机も寝台も、合意のもとに交代する。公では私が前に立つ。私室では彼が支える。その逆の日もある。型に縛られないためだ」司祭長が咳払いをした。祭壇前での条約婚は例がない。だが大聖堂は民の祈りの場所で、条約も祈りの延長でなければ長持ちしない。王子は司祭長に一礼し、納骨堂の方角へ手を差し向けた。

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    鐘が鳴り止んだとき、香は白い花と冷えた石に滲んでいた。大聖堂の床に走る魔紋が微かに青く呼吸し、祭壇前の二人の影を結んでいた。ローランは息を整えた。手綱は柔らかな声で締めるのが良い。今日だけは、公で彼を前に立たせると決めている。私室での支えは、夜に回す。「合意条項、最終確認だ」「はい」羊皮紙二枚。片方は条約婚の条文。もう片方は二人だけの契約書。乾いたインクの匂い。書き手の指先には微かな黒。ローランは指で示す。「可。口頭命令。手首の誘導。首輪は儀礼用のみ」「不可。拘束時間は一刻まで。痣を残す行為。公務直前の跪礼」「合図。三回の軽いタップ」「セーフワードは……」「星砂」声が揺れたのを、ローランだけが拾う。彼は頷いた。「運用。発声があれば即時停止。遮蔽、給水、体温管理。理由は問わない。あとで話す」皇子の睫毛が震え、肩の力がすっと抜ける。そこまで書いて、二人は同時に署名した。魔紋に羊皮紙をかざすと、契約紋が淡く光って吸い込まれる。戒壇から聖職者が進み出て、条約文のほうに祝詞を重ねた。「諸国の平穏のため、この婚姻を公にする」群衆のざわめきは、雨が城壁を撫でるように広がっていく。大聖堂の外で旗が揺れ、地下街の商人が耳をそばだて、納骨堂の奥で黒衣の司祭が数珠を指に転がした。「手を」皇子の掌は冷たく、指の腹は細く固い。ローランは軽く握り、視線で合図を送って一歩下がる。公では皇子が前に。約束だ。皇子は頷いて、祭壇の階段を下りた。声は小さくない。震えはあるが、言葉は真っ直ぐだ。「本日より、両国の近衛を再編し、共治の護衛とする。大聖堂、地下街、納骨堂、それぞれに混成の隊を置く」「反対の声もあるだろう」とローランは用心深く続ける。「だから鍵は二つだ。命令は双方の印を要する。片方だけでは動かない。裏路地にも、記録を置く」老執政が頷き、ローラン・ダールが静かに目を細める。地下街の顔役は腕を組み、「記録を写しは俺の字のほうが読みやすい

  • domの王子はsubの皇子を雄にしたい   第106話:祭司の新約

    鐘が七つ鳴り終わる前に、王子は大聖堂の身廊を一度だけ振り返った。石床は磨かれ、香が薄い蜜の匂いを残す。祭壇の前には帝国議会の印璽、教会の紋章、そして条約文の羊皮紙。皇子は一歩前、王子は半歩後ろ。公では皇子が前に、私室では王子が支える。その二重の約束を、ふたりは身体で覚えてきた。大祭司が銀の籠から細い指輪を取り上げた。指輪の内側には細い魔紋が刻まれており、合図語に反応して温度がわずかに変わる。祭司は聖油を落とし、ひと呼吸置いてから言った。「条約婚は、帝国と王国の共治の契り。可と不可、合図と後始末、これを明文化し、民の前に示す」侍従が羊皮紙を広げ、条項が読み上げられる。「不可の例」として書かれた文言に小さなどよめきが起き、皇子は顎を引き、胸を張った。彼の喉仏が小さく上下するのを、王子は視界の端で見た。緊張は熱に似ていた。「セーフワードは——」司会の若い司祭が思い切りの良い声で読み上げようとして、王子と目が合った。王子は穏やかに手を挙げ、短く首を振る。紙から顔を上げた司祭が一瞬固まり、小声で続けた。「セーフワードは、当事者のみに伝え、運用と記録は『ケア修士』が担う……で、ございます」緩んだ空気に笑いが混じる。地下街から来た商人たちも肩の力を抜いた。王子は内心で安堵しつつ、同時に覚悟も固めた。公の場で笑わせ、私室で支える。どちらも仕事だ。指輪の交換は短かった。皇子の指に冷たい銀が触れる。王子の指先が相手の脈に触れた瞬間、魔紋が淡く熱を帯びる。皇子の視線が一瞬だけ揺れて、それから定まる。合図を受け取った、と王子は理解した。ふたりの間だけの了解だ。儀礼が終わると、合唱の響きが蔵骨堂へと吸い込まれていく。次は地下だ。大聖堂の脇扉から石段を降りると、地下街の組合頭と納骨堂の守り手が待っていた。双方の背後に立つ人影は多い。権利の話は誰もが聞きたがる。「地下の通路を夜市に——という要望は把握している。しかし、骨に眠る者の静けさを侵すことはできない」守り手の声は低い。組合頭は肩をすくめ、油の染みた手袋を脱いだ。「だから

  • domの王子はsubの皇子を雄にしたい   第105話:国庫と快楽

    昼の光が大聖堂の高窓で屈折し、床に敷かれた白石に魔紋の輪を描いた。皇子は一歩前に立ち、王子は半歩後ろで肩の線を揃えた。公では皇子が前、私室では王子が支える――二人で決めた二重統治の姿勢だった。「条約婚を、ここに」声は短く澄み、鐘をひとつ鳴らしたように空間を震わせた。大司祭が羊皮紙を掲げ、条項が読み上げられる。帝国と王国の通商再開、関所の関税率、移民の相互保護――政治の骨組みに続いて、二人だけの契約が添えられた。「私約。可は、跪礼、拘束は軽度まで。不可は、刻印、公衆での羞恥。合図は、指二度の触れ。セーフワードは『灯』。週一回のスイッチ・デーを設ける。アフターケアは、温茶、軟膏、抱擁と確認の言葉」読み上げられるたび、指輪の魔紋が青白く光り、同意の紋が重なっていった。王子が微かに頷き、皇子の肩甲骨に視線を置く。その熱は見えない綱となって、皇子の背をほどよく正した。礼が終わると、鐘楼の影が伸びる。今度は国庫の話だ。大聖堂の脇室に会計官と都市の代官、地下街の組合頭が集まった。納骨堂の管理司祭も頑なな目で腕を組んでいる。「嗜好税を再設計したい」と皇子が切り出した。「香、酒、遊興の許認可料に上乗せを」組合頭が肩を竦めた。「地下の暮らしに、また縄を掛ける気かい」王子は紙片を広げ、小さな印を机に並べる。銀の粒のような税目が、静かに彼の指で位置を変えられていく。「自由は必要だ」と王子。「規律もいる。贅沢の等級で線を引く。日々の杯一杯は非課税。高価な香と長椅子付きの私室を持つ店は登録し、嗜好税を納める。代わりに、依存症の治療院と識字学校に還付する。地下街は恩赦付きで登録期間を設ける。納骨堂への供え香は聖の列に置いて免除」司祭が眉を上げた。「供え物に税はかけさせぬ。だが治療院への寄進に大聖堂の名を刻むならば、関与を約する」「名は刻むが、手は出さない」と皇子が即答した。「使い道は監査で明らかにする」議論は熱を帯び、語が重なり、机の上の印がカタカタ鳴る。組合頭が立ち上がりかけて、皇子の視線とぶつかった。その瞳に、森で会った日の影がよぎる。弱さを示すまいという決意。王子はその決意に短く力を貸す。

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