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第54話:偽装の抱擁

Author: fuu
last update Last Updated: 2025-10-27 23:00:48

樹海の根が組んだ天蓋の下、湿った香りがしていた。苔と焼いた香辛料、遠くの香炉の白い線香の匂い。森の縁に口を開けた地下街は、昼でも薄暗い。大聖堂の巡礼と、納骨堂の灰衣の司祭と、商人たちが同じ石畳を踏む。表向きは平穏、足元は黒い糸だらけだ。

王子は手袋の下で指を握り、癖のある銀の指輪をひねった。魔紋が呼吸に合わせて微かに熱を返す。条約婚の印。公開儀礼で交わした誓いは魔紋で刻印され、二人の皮膚に薄い模様を流していた。視線を上げる。皇子がこちらを見て、短く頷いた。今日の段取りは決めてある。敵の前で親密を演じ、動揺と反応を見る。内通者の糸を引っ張る。

「確認、する?」皇子の声はいつもより硬かった。王子は低く返す。

「可は抱擁・口づけ・耳元での指示。不可は首筋への歯、腕を背へ固定。合図は手首に二度のタップ。セーフワードは“蒼薔薇”。アフターは温茶と呼吸合わせ」

皇子は自分の胸元を整えながら、唇の端だけを上げた。「うん。今日は君が支え、私が前に出る。公の顔は私の役目だ」

それが二人の二重統治。人前で先に立つのは皇子。私室で支えるのは王子。週に一度のスイッチ・デーは別に設ける。ちなみに手帳では明日だ。たぶん。

案内人を装った若い男が、地下街の中央広場へと二人を導いた。頭上の根から吊るされた灯が揺れるたび、魔紋の光も静かに脈打つ。王子は前を行く灰衣の司祭たちと、横目でこちらを見張る大聖堂の書記たちの肩線を測った。ひそひそ声、乾いた紙の擦れる音。潮目はここだ。

「殿下、見物が多い」王子はわざと声を外へ散らした。皇子は一歩前に出て、王子の手を取った。指先が冷えている。緊張は熱を奪う。王子は自分の熱を返すように、手を包む。

「君は、私の后だ」皇子はわざと通る声で言った。地下街のざわめきが一拍だけ止まる。誰もが、この森を越えて結ばれた条約婚の顔を求めている。

王子は膝を折るように身を寄せ、皇子の腰に腕を回した。抱擁
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