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人は死に直面すると、生前の記憶がまるで走馬灯のように目の前を駆け巡り、過去の一瞬一瞬が鮮明に浮かび上がると言われている。しかし今、私の脳裏を占めているのは、確かに私の記憶ではない。まるで別人の記憶が無理矢理押し寄せてきているかのようだ。
そう、私は死んだのだ。ほんの少し前、目の前に現れたのは、まるで地獄の番人を彷彿とさせる真っ赤な肌を持ち、ギョロリとした目が不気味に光り、鋭い牙を覗かせる異形の大男――閻魔大王だ。彼は私の生前の悪事を裁き、『無限ギロチンの刑』と冷徹に告げ、深いため息をついた。ため息は、まるで私を極邢の運命に突き落とすように、重く、冷たかった。その瞬間、私の意識は闇に呑み込まれた――地獄に送られるはずだったのに、何故か今、私はここにいる。
私の脳裏で展開する走馬灯の物語は、公爵令嬢イザベラ・ルードイッヒの幼少期から始まった。柔らかな陽光に包まれて育ち、贅沢な衣装と優雅な食卓に囲まれて――美しく、わがままに、そして少しだけ頑固に育てられた彼女の姿が映し出される。次に訪れるのは、あの王子との婚約の知らせ。王子ヘインズ・クラネルはまさに王子様そのもの、豪華な外見と高貴な血筋を持ちながら、イザベラの心を魅了していった。イザベラは過酷な王妃教育を受けながら未来の良き女王を目指して寸暇を惜しんで努力する。だが、彼女の未来は、あっけなく崩れ去る。王妃教育で時間に余裕のないイザベラにヘインズ王子の不満は高まり、王子は公然と浮気するようになったのだ。そして卒業パーティーで婚約解消を発表する。王子に抗議したイザベラは王子に殴り飛ばされ、仰向けに倒れる……その瞬間で走馬灯は途切れた。
これはイザベラの記憶だ。私はそう理解してイザベラという人間を考察した。
この子、美しいけれど、ちょっと負けん気が強すぎるわね。でも、頑張り屋さんで、素直に言うと、本当は良い子なんだ。王妃教育も真面目に受けていて、時間がない中でも一生懸命やっていた。でも、王子は……あんな公然と浮気をして、挙げ句の果てに婚約を破棄だなんて……。もしこの子が、黙って耐えていたら――泣き寝入りしていたら、こんなことにはならなかったのに。死ぬこともなかったのに……こんなに騒ぎを大きくしてしまったから、きっとこの後は処刑台に送られる運命だったはず。でも、あの一撃で――もう後頭部を強打して死んじゃったのね。可哀想だけど、もしかしたら、この後、牢に繋がれ、拷問を受け続けるよりは、きっと幸せな終わりだったのかもしれない。……それに、この子にも悪いところはあったのよ。
私ーー石黒麗子は、イザベラ・ルードイッヒの人生を、まるで他人のように寸評する。転生前、腹黒人生を送り、閻魔に捌かれ、地獄送りを言い渡された私が言えたことじゃあないけど。
そう。私は石黒麗子――誰もが憧れ、羨むような美貌を持ちながら、他人のものを奪い続けた女。彼氏を奪い、そして奪われ、どれだけの男を手に入れ、どれだけの女性の涙を引き出したことだろう。
だって、素敵な殿方たちは、いつだって邪魔な女に囲まれていたんだもの。それに私は、本気で取ろうとしたわけじゃないのよ。ただ、少し気を引くような素振りを見せただけで、彼らが向こうから寄ってきただけなの――仕方ないじゃない。だって、私があまりにも美しすぎたから。
それに、二股男たち――男なんて、どいつもこいつも二股してきたし。でも、私はほとんどの男を、最終的には私のものにしたわ。勝った後は、その男を振ってやった。手も握らせやしなかったし。
……そして、面と向かって元の女に言ってやったの、 「あの男は、私のことが好きなのよ」 って。 それだけのことなのに、なぜか私が非難される……それだけで、あのクソ閻魔に捌かれるなんて、どうしても納得がいかない。『無限ギロチンの刑』って、一体何よ?気付けば身体強化の魔法まで使ったヘインズ王子に思いっきり殴られた左頬が痛む。ズキズキとしたその痛みが、まるで私を罰するかのように響いている。後頭部には大きなたんこぶが出来ていて、殴られた感触が脳裏に鮮明に焼きついている。それは、私の体が痛むことで、何か大きな真実を知らせているようだった――あれ? でも、どうして私の頬が痛いんだろう? 殴られたのはイザベラのはず。
初めて目を開けると、目の前に広がったのは、眩い光に包まれた、見知らぬ天井だった。その天井は、まるで素敵な芸術作品のように、繊細で優美な模様が描かれている。天井には、いくつもの大きなシャンデリアが煌めき、柔らかな光を部屋いっぱいに散りばめている。私は仰向けに倒れている。まるで中世ヨーロッパの貴族たちが集う豪華なパーティー会場にでも迷い込んだかのような、重厚で優雅な空間が広がっている。――この場所は、どこかで見たことがある。確か、走馬灯に映った学院の卒業パーティーだ。
私は地獄に送られるはずだった。なのに、今、ここにいるのはなぜだろう? それとも――これが夢なのか? いや、そんなはずはない。死んだはずなのに、私はここにいる。
「ここは……どこ?」
息を呑んだ。声が出たのか出ていないのか分からなかったが、確かに私はここにいる。異世界のような空間に。
何が起こったのか分からない。死後、すぐに閻魔大王に裁かれるはずだった。『無限ギロチンの刑』――その言葉が脳裏に響く。あの瞬間の冷徹な声、ため息をついたあの顔を、私は決して忘れないだろう。あの後、何も感じず、ただ闇に呑み込まれたと思っていたのに……。
しかし、今、私はここにいる。息をしている。頬と頭以外に身体の痛みもない。でも、どうして私はこんな場所にいるのか?
目の前にぼんやりと浮かぶ記憶。それは私のものではない。イザベラ・ルードイッヒ――その名前が頭に浮かぶ。彼女の記憶が、私の中でざわざわと動き出す。
公爵令嬢イザベラ。優雅な衣装に囲まれ、広い屋敷で過ごす日々。あの王子との婚約――でも、何かが違う。何かが、違う。私の中にあの王子への執着が感じられない。王子ヘインズ・クラネルという名前に反応しようとしたけれど、それは私のものではない感情だ。
「私は……一体、誰?」
深いため息をつく。これは一体、どういうことだろう。私は石黒麗子。そう、確かに私が麗子だ。死ぬほどの美貌と魅力で、他人のものを奪い取ってきた。男たちを振り回し、女性たちを泣かせてきた。そのことに後悔はなかった。ただ、私が欲しいものを手に入れる。それだけだった。
しかし今、私の体は――イザベラのものになっている。
「イザベラ……?」
声に出してその名前を繰り返してみる。しっくりこない。自分が誰なのかがわからなくなり、ただその名前が耳に響く。私の記憶には、イザベラの記憶がどんどん流れ込んでくる。イザベラの過去、家族、王子との関係、そして――あの時のこと。
「いや、私は――」
イザベラは、確かにあの王子に裏切られた。でも、何かが違う。私の中でその感情が湧いてこない。あの王子に対する憤りや怒りが、どこかしら空虚で冷たい。それは私が経験したことではないような、他人の感情のようだ。
私――石黒麗子の記憶の中では、私は決してそんな風に扱われることを許さなかった。あの王子を奪われるなんて、絶対に許せなかった。だが、ここで感じるのは、イザベラとしての無力感、ただの空しさ――そう、まるで私が他人の記憶に操られているような気がしてならない。
その瞬間、ふと気づく。私の体が、まるでイザベラのものになったように感じる。その感覚がじわじわと迫ってくる。私の手はイザベラの手、私の目は彼女の目――それに、私が感じるのは、この身体が完全にイザベラだという事実だ。
「どうして……?」
心の中で叫ぶ。しかし、体が応えてくれない。どうして私の記憶がこんなにも混乱しているのだろう? 麗子としての自分と、イザベラとしての自分――その二つの自我が、どんどん交錯していく。
私は、イザベラの人生を引き継いだのか? それとも――
「いや、私がイザベラであってもいいのか?」
「私は誰だ?」
その問いが繰り返し私の中で響く。だが、答えはまだ見つからない。ただ、目の前に広がる豪華な空間に身を任せるしかないのだろうか。死んだはずの私が、異世界で再び目を覚まし、そして――イザベラ・ルードイッヒという人物として生きることになったのだろうか?
それでも、この体はまだ私のものとは思えない。何もかもが不確かで、混乱している。けれど、私は――どうしても、この新たな人生を受け入れなければならないのだろうか。
痛む左頬を抑えると、口の中に固い物が当たった。意識がそちらの方を向く。何だろう、これは…小さな奥歯が抜けている?
慌てて手を口に突っ込んで、抜けた歯を元の穴にねじ込んだ。確か、抜けたばかりの歯は再びくっつくことがあるって、昔誰かが言っていた気がする。 そのまましばらく固唾を呑んでいると、聴覚が戻ったのか、周囲の声や音が少しずつはっきり聞こえ始めた。一際大きく響く声。多分私を叱責するあの王子の声だ。
「死刑にしても飽き足らぬが、元婚約者だったことに免じて国外追放に処す! いや、その反抗的な目つき…やっぱり死刑だ! イザベラ、お前は死刑だ!死刑にしても飽き足らぬ!」
頭を持ち上げて視線を向けると、目に入ったのは王子、ヘインズ・クラネル。走馬灯の記憶の、あの卒業パーティーで二度と見たくないと思った顔だ。今、まさにイザベラに死刑を宣告し、怒りをぶつけている。
もしかして……私は…イザベラ?
ああ、まさか、転生しちゃったの? 私が死んだはずの体に、あの公爵令嬢イザベラ・ルードイッヒとして生き返ったっていうの? もしかしてここが生き地獄?「……ちょっと待って、これってまさか地獄?」
私は思わず口に出してしまった。『無限ギロチンの刑』って、もしかして死ぬたびに転生して、また死刑になる無限ループのことだったりするの?
そんなの嫌だ。死ぬのも怖いけど、もっと怖いのは、何度も死んで同じ痛みを繰り返すことだ。多分これから断頭台にかけられる。騒ぐ王子に現状を再確認しようとする。…………王子さま! あなた、すでにこの子殴り殺しちゃってるんじゃないの! 死刑にしても飽き足らないって、もうすでにやることやってるんだわ。
私はブレスレットや服が最後の記憶のイザベラのそれと一致するのを確かめて、やはり公爵令嬢イザベラ・ルードイッヒになっている今の自分に絶望した。そう、やっぱり走馬灯で流れた記憶の持ち主の子だ。
さらに周囲の状況がはっきりしてきた。王子の背後に隠れる様にしてこちらを見て嘲笑う女、イザベラがかつていじめていた女―― 男爵令嬢カトリーヌが立っているのが見えた。そう、あの泥棒猫。王子を奪った張本人だ。
それが原因でいじめられていたのだから、悪いのはあんたの方でしょ! 私はイザベラに少しだけ、いやかなり同情している。
その時、私の脳裏に閻魔大王の冷たい声が響いた。「お前もだろう」という言葉が、耳の中でしつこく繰り返される。その瞬間、思わず顔をしかめた。私はあの男を取ろうとしたわけじゃないし、男たちが勝手に私に寄ってきただけ。それを少し、教えてあげただけなのに――。今度は取られる立場を味わえってこと?
閻魔大王が裁きの場で、私の行動をいちいち取り上げて溜息をついていたのはさっきのことだ。
でも私だって、私だって酷いいじめにあっていたよ。倍返ししてやっただけじゃない。倍返しして何が悪いのさ!
泣き寝入りしてればよかったわけ? そうすれば死なずに済んだのかしら? え……そのせいで死んだの? そりゃ揉み合いになって車に轢かれちゃったわけだけど。
再び現実に戻ると、王子の声が更に響く。彼が私を死刑にする理由を延々と叫び続けている。どうしてこんな目に遭わなきゃならないのか。悪いのはあの女。愚かな王子は騙されて、有る事無い事イザベラの悪口を聞かされ続けたのだろう。イザベラを信じず、婚約を解消して、今もイザベラを責め続けている。こんなことになるとは思わなかった。だけど、今ここにいるのは――イザベラとしての私。
私はこの現実を受け入れるしかないのか?
立ち上がりかけたものの、すぐに再び膝が崩れた。土下座して謝る? それが最良の方法だろうか? でもどうしても、それができない。だって、あのカトリーヌが許せない。あの女が王子を奪ったのが、すべての始まりだ。そうじゃないか。私だけが悪いわけじゃない。
冷静になるとこのままではまずいのは分かる。ここはなんとか断頭台だけでも回避しなければ。
だがーー。
私はくびれた腰に手を当て、ふんすと胸を張る。そして右手を挙げて「ビシ!」という効果音が響くようにカトリーヌを指差す。
「悪いのはあんたでしょう!」
……言ってしまった。我慢できずに言ってしまった。なんてはしたない言葉使い。貞淑な公爵令嬢にはあるまじき大胆極まりない行ない。
殴り飛ばされた私に集まっていた視線が一気に指さされたカトリーヌに集まる。
それに気付かぬカトリーヌがヘインズ王子の背中でペロリと舌を出して挑発する。おのれー、男の前だけで潮らしくしおってー! 思わず拳を力強く握ってしまう私。完全にカトリーヌが生前の恋敵とシンクロする。イザベラの無念を晴らしてあげたいというよりもう自分はイザベラになっている。そう、今の私はイザベラだ。彼女の記憶、人生を引き継いでいる。
「イザベラ! まだ改心できないようだな。その反抗的は目つき、もう一発殴られたいか?」いや王子、あんたが殴りたいだけでしょう! 一度殴り殺しておいて、まだ足りんのかーい。
ここに至っては、王子の心はカトリーヌのもの。もう二度と戻ってくることはない。私という婚約者がありながら王子も王子だ。一夫多妻だからって結婚前からそれはないでしょう! しかも学園内でおおっぴらに……イザベラが不憫でならないわ。私はこのヘインズ王子が大嫌いになった。
元をただせばあんたが悪い! ……と言いたかったが、殴られた顎が腫れて言葉が出ないし、王子にそんなことを言ったら不敬罪で罰せられる。死刑が確定するようなことをするのは大馬鹿である。……もうすでに確定(閻魔談)だって?
グランクラネル王国第一王子ヘインズ・クラネルは、金髪碧眼整った顔立ちで、見た目だけは王太子として十分であるが中身は平凡以下の下衆野郎だ。コロッとカトリーヌに騙されているところがその証拠である。
言い返せない私に向かって馬鹿王子が偉そうに告げる。
「この女を牢につなげ! 追って沙汰を言い渡す!」
王子の顔に死刑と書いてある。
こりゃあ、死刑の無限ループいきだとあきらめる。顎が痛くて口もきけなければ、兵士に掴まれて抵抗もできない。観念して兵士に連れられ地下の牢にぶち込まれる。兵士さんったら、公爵令嬢の私に容赦ないんですけど。少しは優しく扱ってよ。
悪役令嬢に転生したのは間違いないが、もう少し前から転生できれば、死刑は避けられたのにと閻魔の顔を思い出して唇を噛んだ。『無限ギロチンの刑』だからしょうがないか…………。
牢に入れられ少し冷静になって、ここからできることは無いかしらと考えた。勿論脱獄する方法だ。
夜の帳が静かに降りる頃、冷たい風が窓辺をかすめた。城の中庭は深い闇に沈み、遠くで梟が低く鳴き、それもすぐに静寂へと溶けていく。揺らめく蝋燭の炎が壁に影を落とし、部屋の中はぼんやりとした橙色に染まっていた。イザベラは深く椅子にもたれ、指先でグラスの縁をなぞりながら静かに思索に耽っていた。ワインが僅かに揺れ、今にも溢れそうになる。その瞬間、扉がそっと叩かれた。「お嬢様。ベルシオン軍が、カーネシアン王国を無事征服いたしました」 低く、けれどどこか柔らかい声が響く。黒髪をきちんと撫でつけた執事、セバスの姿をした男――だが、その瞳に宿る鋭さは紛れもなく、小太郎のものだった。彼の歩みは音もなく、まるで影が滑るように忍び寄る。黒衣は微動だにせず、まるで夜の闇に溶け込んでいるかのようだった。「本当なの、セバス?」「はい。間違いございません。この目で見てまいりましたので」 小太郎は感情を一切交えず、まるで夜露が落ちるように淡々と戦況を語った。それはまさに、イザベラがルークに示した助言の成果でもあり、彼がその知恵をいかに活かし、あるいは逸したのかを如実に物語っていた。「ふーん……思ったより早く決着がついたわね」 イザベラは唇を尖らせ、小さく息を吐いた。戦争に勝利したことは喜ばしい。多くの血が流れず、ベルシオン軍の損害も最小限に抑えられたのは、まさに理想的な結果だ。だが、その理想の実現が、かえって彼女の胸に重苦しい影を落とした。 これでは……またルークに結婚を迫られるじゃない 心の奥底にじわりと広がる憂鬱。カーネシアン王国征服を結婚の条件に掲げたのは自分だ。だが、これほど早く達成されるとは思ってもみなかった。予想以上の迅速な決着に、まるで自身の逃げ道が狭まったような心地がする。「どうかされましたか? お嬢様」 セバスの姿をした小太郎が、僅かに口角を上げる。「結婚の条件だったのよ……カーネシアン王国の征服が」「それはそれは。おめでとうございます、お嬢様」 小太郎の声には、どこか含みのある響きが混じる。その口元には、まるでいたずらを仕掛ける子供のような
その夜、カッパー侯爵のもとに密書が届けられた。 静まり返った陣営の中、揺らめく燭台の光の下、机の上に一通の封書が置かれていた。誰が運んだのか、どのようにして届いたのか、誰一人として気づいていなかった。ただ、そこには確かにベルシオン軍の印が刻まれていた。 震える指先で封を切ると、そこには短く冷酷な言葉が並んでいた。『汝の妻子は我が軍が保護している。彼らの命運は汝の選択に委ねられている。投降し、オリバー王を討ち取れ。さすれば、全てを返還する』 カッパー侯爵は密書を握りしめ、ふっと息を吐いた。目を閉じ、一瞬の沈黙の後、脳裏に数々の記憶が蘇る。 戦場での最初の戦い。剣を振るう己の手は震え、血に濡れた土の臭いが鼻を突いた。「恐れるな、カッパー!」かつての上官がそう叫び、自ら敵陣へ突っ込んでいった。彼はその背を追い、命を賭して戦った。 次に浮かぶのは、妻との結婚の日。彼女の白いドレスが風に揺れ、はにかんだ笑顔を見せた。誓いの言葉を交わし、小さな手を握りしめた瞬間、彼は初めて剣を持たぬ人生を夢見た。 そして、最後に思い出したのは幼い息子の姿。草原で駆け回る小さな足、無邪気な笑い声。「父上、見て!」と誇らしげに木の剣を振るう姿を見て、彼は誓った。「お前に剣を持たせるような世にはせぬ」と。 だが、今――その家族が奪われようとしている。 カッパー侯爵はゆっくりと目を開ける。手の中の密書を握る指が震えていた。「……許せ、オリバー王」 彼は迷いを断ち切るように、蝋燭の炎に手紙を投じる。燃え盛る炎の中で、彼の迷いもまた焼き尽くされた。 左翼に陣取っていたカッパー侯爵軍が中央のオリバー王軍に突っ込んだのは、それから間もなくのことだった。 夜風が草を揺らし、闇の中をカッパー軍が静かに進む。遠くで犬が吠え、ふとした物音に兵たちが一斉に息を殺す。突如として火矢が放たれると、陣幕が燃え上がり、敵陣が地獄と化した。多くの者が眠りについていたオリバー王軍が、一気に無警戒の左翼から、自軍であるはずのカッパー軍1000に突き崩された。「敵襲だー!」 「火をか
ケインズ隊千は、闇に紛れて間道を進んでいた。湿った土の感触が靴底から伝わり、冷たい夜気が頬を撫でる。遠くの森では、獣の遠吠えがかすかに響いた。トリオラ城の裏門が見え始めると、漆黒の城壁が夜空に沈み込むようにそびえ立っていた。石造りの壁には冷たい露が張り付き、月明かりを受けてわずかに光っている。一方、ルーク率いる本隊は、血の匂いを孕んだ風を受けながら、カッパー軍が陣を敷く戦場へと進軍していた。 ルークの眼前には、無数の戦旗が翻るカッパー軍が整然と並んでいた。旗の布が烈風にはためき、槍を握る兵士たちの指は白く強張っていた。鎧の擦れる音が、張り詰めた静寂を切り裂く。弓兵たちは矢を番え、鋭い眼差しを敵に注いでいる。指揮官たちは未だ動かぬベルシオン軍に警戒を強め、戦場には、嵐の前の静寂と鋭い殺気が漂っていた。獣が獲物を睨み据えるような、張り詰めた空気が支配している。 カードス川を越えようとすれば、無数の矢が降り注ぎ、盾で防ぎながら渡ったとしても甚大な損害は避けられない。加えて、橋頭堡を築く前に敵の猛攻を受ければ壊滅は必至。戦力が拮抗する状況では、先に動いた方が不利になるのは明白だった。 無策に突撃すれば、川を渡る前に敗れる。ならば、どう敵を動かすか――それこそが勝敗の鍵だった。ルークは指を組み、静かに敵陣を見据えながら、最も効果的な揺さぶりを考えていた。その瞳には、冷徹な計算と、兵士たちの命を背負う決意が宿っている。 両軍は静かに対峙し、機を見極めていた。 一方、ケインズ率いる別働隊は、トリオラ城の裏門へと忍び寄る。「城門を開けろ!」 夜露に濡れた草が、兵の足元で微かに擦れる。ケインズは手を挙げ、全軍に静止の合図を送る。遠く、夜警の兵が灯りをかざしながら巡回していた。あと数歩進めば、発見される恐れがある。息を殺し、一歩ずつ慎重に前進する。 軋む音とともに、鍵のかかっていない裏門が静かに開かれる。小太郎の暗躍により、城門の鍵は事前に破壊されていたのだ。守備兵の数はわずか数名。奇襲に驚いた彼らは、ほとんど抵抗することなく制圧された。「突入せよ! 城を落とす!」 『敵襲だ!』 甲高い叫び
「報告! オリバー王の軍2200とウイリアム侯爵軍1000、カッパー軍1000がカードス川の対岸に陣を敷く模様!」 斥候からの報告が入り、ベルシオン軍は川を挟んでの対峙を強いられることが確定した。 ケインズがメガネを押し上げ、口の端をゆるく吊り上げる。「川を挟んで陣を敷き対峙するとして、先に渡った方が負けますね」「そうだな……こちらは5300、敵は4200か。何か良い作戦はあるか?」「そうですね…………カードス川の上流にあるカッパーのトリオラ城を別働隊で攻めると見せかけます。敵が軍を分けて城の救援に向かうなら、その隙に川を渡ってオリバー軍を攻めるというのはどうでしょうか?」「カッパー軍1000が城の救援に向かえば、残りは3200。別働隊が1000だとすると、こちらは4300。それほど状況は変わらないのではないか?」 ルークがケインズの作戦に難色を示すと、ケインズは次の策を提案する。「なら、本当にトリオラ城を攻め落としてから、カッパー侯爵に調略をかけるというのは? トリオラ城の主兵はせいぜい200、今すぐ間道をぬけて隠密裏に別働隊1000で急襲すれば、落とすのは簡単かと」「なるほど、川で対峙する兵力は4300対4200。敵が渡河してくるようなら、こちらの勝ちだな。良い策だ。ケインズ、兵士1000を率いてトリオラ城に向かえ」「は!」 出陣を命じたルークの頭上から、一枚の紙が風に乗って舞い落ちた。それをルークが素早く掴み、不審な顔で辺りを見回す。誰もいない。静寂の中、彼は慎重に紙を広げる。「見ろ」「これは!」 降ってきた紙をルークから受け取ったケインズが目を見張る。そこには、トリオラ城内の見取り図が描かれ、裏門の位置に丸く印がされていた。さらに、そこには短く書かれている。『この門を開けておく。イザベラ配下 小太郎』「イザベラの忍び——小太郎か」「信じてよろしいのですか?」「いずれにせよ、隠密裏に急襲するのだ。裏門を狙うのが常道だろう」 ルークの言葉には、運
ケルシャ城でマルク軍と合流したルークたちは、一路カーネシアン領へと侵攻し、コンラット城を目指していた。この三年間、毎年のようにこの城を拠点としてベルシオン領内への侵攻が行われてきた。しかし、先の戦いでコンラット城を治めるユーロ公爵は大きな損害を被り、現在、城を守る兵はわずか五百。疲弊しきった城に、ベルシオン軍の影が迫る。「くそっ……ベルシオンの奴らめ……!」 ユーロ公爵は拳を握りしめ、深く息を吐いた。砦の上から見下ろせば、遠くの地平線に黒々と連なるベルシオン軍の陣。槍が林立し、漆黒の甲冑が鈍い光を弾いている。その威容に、兵たちは次第に言葉を失っていた。「この兵力では長くは保たぬ……援軍を求めねば。しかし……」 オリボ伯爵の軍は先の戦いで壊滅状態。とても助力を期待できる状況ではない。王都に援軍を求めたとしても、間に合うはずがない。ユーロは焦燥に駆られながら、唇を噛み締めた。 沈黙を切り裂くように、敵陣から高らかに響く声。「二時間だけ待つ。それまでに降伏しない場合、総攻撃を開始する。降伏するなら命は取らぬ。ベルシオン王国に服属し、ルーク・ベルシオンに忠誠を誓うなら、所領も安堵とする。城兵の命を無駄にしないよう、賢明な判断を求む!」 整然と響く声が、冷たい刃のようにユーロ公爵の胸を貫いた。刻々と迫る死の宣告。城内に漂うのは、血の匂いと恐怖の気配。 秘密裏に裏門へと回り込むガリオン将軍の兵たちが、息を潜めて攻撃の時を待っていた。「二時間……それまでに決断せねば……」 ユーロ公爵の額にはじっとりと汗が滲む。喉が渇く。手にした剣の重みが、これほどまでに堪えるものだとは思わなかった。脳裏に浮かぶのは、先の戦いの光景。倒れていく味方、染み渡る鮮血、響き渡る断末魔の叫び。 兵士たちもまた、動揺を隠せずにいた。剣を握る手が震える者、息を呑む者、ただ目を閉じる者……。「公爵様……」 進言を求める部下の声が震えている。視線を向ければ、どの顔も蒼白だった。このまま戦えば、間違いなく皆が死ぬ。 城門の外では、すでに戦の準備が整えられつつある。黒い波のよ
冷たい夜風が頬を切るように吹き抜ける王城の外回廊、月明かりが二人を青白く照らし、静寂の中に微かな足音が響いた。あやめは足を止め、目を細める。背後に漂う、かすかな殺気――鳥肌が立つほどの冷ややかな感覚が背筋を這い上がった。「……イザベラ様、つけられています」 イザベラはあやめの言葉に心臓が一拍、強く脈打つ。呼吸を整え、何気ない仕草を装いながら、周囲の影をちらりと確認する。誰もいない。 一瞬の静寂。次の瞬間―― ギィィッ! 鈍い音を立て、背後の扉が軋んだ。あやめは反射的に身を翻し、腰の短剣を抜く。刹那、黒い影が闇から飛び出した。刃が月光を反射し、銀の閃光が目の前を掠める。「ちっ……!」 あやめは刃を受け流し、イザベラを護るために立ちはだかる。 黒装束。敵の動きは素早く、無駄がない。鍛えられた刺客――それも、並の相手ではない。「……どこの手の者?」 問いかけるも、男は無言のまま二撃目を繰り出してきた。刃と刃が火花を散らし、金属の冷たい音が夜気を震わせる。 ――ガキン! 次の瞬間、何かが横から飛び込んできた。敵の短剣が弾かれ、空中で鋭く回転する。「二人とも、油断しすぎだ」 聞き慣れた飄々とした声。「小太郎!」 闇の中から忍びの衣をまとった影がふわりと着地、その動きは獣のようにしなやかだった。オッドアイに月明かりが反射する。 小太郎はくるりと短刀を回し、敵に向けて構える。その眼差しが、いつになく鋭い。 敵は一瞬だけ逡巡した後、素早く後退した。「逃がすか」 小太郎が指を弾くと、何かが敵の足元へと飛んだ。小さな爆ぜる音と共に、白煙が一気に広がる。「ぐっ……!」 敵が一瞬怯んだ隙に、小太郎は矢のように飛び込む。 ザシュッ! 一閃。銀の刃が、月光の下を駆け抜けた。敵の体がぐらりと揺らぎ、地に膝をつく。「……さて、誰の差し金か吐いてもらおうか」 小太郎が密偵の襟