小林みゆき(こばやし みゆき)は朝倉研人(あさくら けんと)が好きだ。 それは、絶対に言ってはいけない秘密。 なぜなら、彼は彼女の「家族」だから。 彼女は彼が丁寧に育てたバラで、彼は彼女の誰にも言えない最愛だった。
Lihat lebih banyak「その人、研人さんにどんなこと言ったの?私にも教えてよ」みゆきが好奇心いっぱいの瞳で尋ねると、研人は微笑みながら彼女の額にそっと口づけ、五十年前に起きた出会いの話を語った。すべてを語り終えたあと、研人はふっとため息をついてつぶやいた。「あれからもう五十年か。あの若者、ちゃんとお隣のお姉さんを振り向かせることができたんだろうか」その瞬間、休憩室のドアが「カチャン」と音を立てて開いた。数名の研究員に付き添われて、中へと入ってきたのは白髪の老紳士だった。手には杖を持ち、年齢を感じさせる見た目ながらも、その瞳は若者のように輝いていた。「朝倉さん、こちらは当研究所の総責任者、守谷輝彦(もりや てるひこ)さんです」研究員が紹介した。「あなたと小林さんを解凍したレーザー・スチーム共振法は、実は守谷さんが四十年前に発案したものなんですよ」「そうでしたか」研人は一歩前へ出て、深く礼をしながら握手を交わす。「おかげで、俺たちは一緒に目を覚ますことができました。心から感謝します」すると輝彦は柔らかく微笑んだ。「お礼を言いたいのは、むしろ私の方ですよ、朝倉さん」「……え?」研人が眉をひそめると、輝彦は懐かしそうに古びた革製のブリーフケースを開け、中から一冊のボロボロになった寄せ書き帳を取り出した。「これを覚えていませんか?」と、そっと差し出す。研人がその表紙を見た瞬間――「……あっ!あのときの!」「ええ、あの時の若造が私なんです」輝彦は微笑みながら言った。「世界は狭いものですね。私は大学を卒業して、最初に配属されたのが朝倉さんの資金でつくられた国際冷凍研究所でした」輝彦はこう語った。彼のお姉さんが研人の残してくれたメッセージを読んで、心から感銘を受けた。それがきっかけで、心の壁を乗り越え、輝彦の想いを受け入れてくれたと。感謝を伝えるために二人はあの小さな公園へ何度も足を運んだが、再び研人に出会うことはなかった。もう二度と会えないと諦めかけていた矢先、輝彦は星月湾冷凍研究所へ赴任することになり、そこで、氷の棺に眠る研人の姿を見つけたのだ。当時の研究所責任者から研人とみゆきの物語を聞かされた輝彦は強く胸を打たれ、これはきっと、運命が導いた再会に違いないと思った。あの時から彼は誓った。必ず人体解凍
みゆきの身体は弱っていたため、解凍後の不調が消えるまでにはかなりの時間を要した。その間、研人は彼女が冷凍されたあとに起きたすべての出来事を、一つひとつ丁寧に話して聞かせた。「じゃあ……全部、嘘だったの?」みゆきは潤んだ大きな瞳を見開いて尋ねた。「かれんさんって、あなたの恋人じゃなくて、私を騙すために雇った人だったの?」そのまっすぐで濡れたような目に見つめられて、研人はなんだか視線をそらしそうになった。「みゆき」彼は真顔になり、わざとらしく重々しい声で言い訳を始めた。「その話はもう五十年前のことだ。今さら蒸し返す気か?」「五十年前?こっちは昨日のことなんだけど?」みゆきがぷりぷり怒ると、研人は横にあるカレンダーを手に取り、日付を指差しながら涼しい顔で言った。「ほら、今年は西暦2075年。かれんなんて、今ごろとっくにおばあちゃんになってるさ。もう許してやれよ」「はい?」みゆきは呆れた。そもそも、かれんを雇ったのは研人であって、悪いのは研人のほうだ。確かに、かれんは自分の家族を侮辱したり、自分と研人の仲を引き裂こうとしたけど、一番悪いのは、どう考えても研人だ。怒りの矛先がしっかり研人に向けられ、みゆきはふくれっ面で彼をにらみつけた。「研人さんの、大!バ!カ!」その可愛らしい怒り方に、研人は思わず吹き出してしまう。そして彼女のふわふわした頭を優しく撫でながら、笑って言った。「はいはい、俺は大バカで、みゆきは可愛くて優しい子だな」怒ってはいるが、みゆきはすぐ機嫌を直した。だって相手は研人――彼女にとって一番大切で、好きな人だから。「研人さんは大バカだけど、私がいなくなったときに探してくれたし、自分を冷凍して、一緒にいてくれた」みゆきは彼の引き締まった腰に腕を回して、ぎゅっと抱きしめた。そして、彼の胸に顔を寄せ、鼓動の音を聞きながらそっと目を閉じる。「研人さんはすべてを諦め、私を選んでくれた」みゆきにはもう、親も家族も、ほとんど友だちもいなかった。この世界でたった一つのつながりが研人だった。けれど研人には家族がいた。両親も、弟も、会社も、未来もあった。それでも、彼はすべてを捨てて、みゆきを選んだ。冷凍される前、みゆきはずっと思っていた。自分は、一度も誰かに迷わず選ばれたことがなかった
「解凍カウントダウンを開始します」無機質な女性の機械音声が響き渡った瞬間、実験室にいた全員が一斉に息をのんだ。「聞いた?今回解凍されるのって、うちの冷凍研究所の筆頭株主なんだって。うちの保管室と研究所って、ほとんどがその人の資金で作られたらしいよ」「そうそう、元々は大富豪だったのに、恋人が難病になったからって、彼女と一緒に冷凍されたんだって」「お金持ちで一途……まさに理想の男性ってやつだね。恋人さん、本当に幸せな人だよ」……研究所に配属されたばかりの若手スタッフたちは、声をひそめて話していた。研究所の筆頭株主である研人。彼とみゆきの「愛の伝説」は、五十年間も語り継がれてきた。語られるたびに細部は変わっていったが、その深く強い愛情だけは、いつも人々の心を打った。「5、4、3、2……1!」「解凍を開始します!」カウントダウンが終わると同時に、機械が動作音を立て、白く濃い気体がふたりの棺に吹きかけられた。続いて青白い光が灯り、棺の中の氷が一瞬で溶けた。そして、研人とみゆきが五十年の眠りからゆっくりと目を開けた――目覚めた直後、みゆきの瞳はぼんやりと虚ろだった。どういうこと?自分は冷凍されたはずじゃ……冷凍された瞬間、意識が完全に失われたため、彼女の記憶は冷凍直前に止まっていた。だから彼女にとっては、ついさっき眠りについたばかりのはずだった。「小林さん、目覚められましたか?ご気分はいかがですか?」そばにいたスタッフがすぐに駆け寄り、声をかける。「頭が重くて、吐き気がするかもしれませんが、それは解凍直後の正常な反応です。無理せず、気分が悪ければすぐおっしゃってください。こちらが嘔吐袋と水、タオルです」みゆきはまだ混乱していた。「……か、解凍……?私……もう解凍しないでって言ったのに」困惑する彼女に、突然、懐かしい声が背後から届いた。「みゆき」その声は、どれだけ時間が経とうと、絶対に忘れることなどない。……けん、研人さん!?みゆきは勢いよく振り返った。そこには、優しい瞳で自分を見つめる研人が立っていた。彼もまた氷棺から出たばかりで、髪は濡れ、体からはまだ冷気が漂っている。けれどそれを気にする様子もなく、彼はすぐにみゆきの元へ駆け寄ると、躊躇なく彼女を抱きしめた。「
研人に冷凍を諦めて欲しいと思い、責任者は誠意を込めて事情を説明した。しかし、何を言っても研人の答えは変わらなかった。「解凍できるかどうかに関係なく、俺は決心を変えない」彼の目は揺るがず、迷いの影もなかった。「一度彼女を失った俺が、二度目を見逃すわけにはいかない」もし未来で無事解凍できれば、彼女と再会できる。できなければ、共にあの世に渡るだけのことだ。深海は暗くて寒い。自分がそばにいなければ、怖がりで寒がりのみゆきはかわいそうだろ?言うべきことはすべて言っても研人の決意は変わらなかった。仕方なく、責任者は冷凍同意書を彼に差し出した。署名、健康診断、棺選び……研人はそれらをわずか一日で完了させた。ただ、冷凍の前に、彼はいくつかの遺言めいた指示を残した。まず、手元にある全財産を冷凍研究所の責任者に託し、星月湾(せいげつわん)に新たな棺保管室の建設を依頼した。みゆきは星が大好きだった。星月湾は美しい星空と、月のように輝く湖で知られている。深海は暗く冷たすぎる。みゆきを深海に沈めるのはあまりにも可哀想だ。星月湾の棺保管室が完成したら、二人はそこへ引っ越し、ロマンチックな星空の下で千年もの眠りにつこう。その間、みゆきに贈った星々が二人を守ってくれるだろう。星月湾の保管室建設のほかにも、研人は複数の場所に保管室や冷凍研究所を設ける計画を立てた。すべての計画を終えた後、研人は棺の中に横たわった。耳元に冷凍カウントダウンの音が響き、研人は目を閉じる。彼の心には恐れなど微塵もなく、ただみゆきへの思いだけが満ちていた。「みゆき、もう大丈夫、俺がそばにいくよ」「冷凍開始!」責任者の合図とともに、底知れぬ寒気が襲いかかる。研人はみゆきへの愛に包まれながら、意識を失った。冷凍は完了し、研人とみゆきの命は氷の中で止まった。だが、ほかの者たちの時間は止まらず流れ続けている。時は流れ、光陰は矢のように過ぎ去り、気づけば五十年が経過していた。かつて偉人は言った。人類の科学技術は均一な速度で進むのではなく、ビッグバンのように爆発的な飛躍と停滞を繰り返すのだと。人類は古代から現代へ数千年かけて歩んできたが、現代の高度な技術は何千年ものの積み重ねではなく、数十年の間に爆発的に発展を遂げたものだった
「朝倉さん、冗談ですよね?」冷凍研究所の責任者が驚きの声を上げた。「ご自身の冷凍を希望されるのですか?」研人は静かにうなずき、落ち着いた口調で言った。「そうだ。今日から俺はこの研究所の筆頭株主だ。これから朝倉グループの年間収益の10%を冷凍研究所に投入して、解凍技術の開発を支援する」10%というと大したことないように聞こえるが、朝倉グループの毎月の純利益は数千億にも上るのだ。「朝倉さん、ご支援に感謝します。しかし冷凍技術は、ほとんど余命わずかな患者に提供されるものです」責任者は丁寧に説明を続けた。「筋萎縮性側索硬化症、がん、多臓器不全……現在の医療では、これらの病気に対して根治は絶望的です。そういった病気を患った患者の多くはまだ若い。ただ死を待つよりも、家族と別れを告げた後、病魔と時間を凍らせ、医療技術が進歩して、病気を治せるようになってから解凍されたいと望んでいます」責任者は少し言葉を切り、困ったように続けた。「しかし、朝倉さんの体は非常に健康で、病気は何もありません。なぜご自身を冷凍しようとするのか、理解できません」研人は振り返り、みゆきの棺が置かれた部屋を見つめた。その視線には優しさがあふれていた。「もし彼女が目覚めた時、俺がそばにいなければ、きっとすごく孤独を感じるだろう。俺は……もう彼女に寂しい思いをさせたくない」その言葉を聞いた責任者は一瞬言葉を失い、やがて大きくため息をついた。「朝倉さんの深い愛情はよくわかりますが、愛だけが人生のすべてではありません。冷凍されれば、あなたの時間は止まりますが、あなたの家族や友人たちの時間は流れ続けます。何百年、何千年と経ち、あなたが目覚めた時には、家族や友人はもうこの世にはいないかもしれません。末期患者は選択の余地がないから、生きたい一心で冷凍技術に頼るのです。ですが、あなたは違う。健康な体で、慣れ親しんだ世界で、家族や友人たちと健康で幸せな人生を送ることができます。本当に愛のために、家族や友情、そして今持っているすべてを捨てて、氷の棺の中で小林さんと一緒に眠りたいと望んでいますか?」責任者の真剣な問いかけに、研人は迷わずうなずいた。「ああ。俺はもう心を決めている」未来の世界はまったく知らない場所なんだろう。だからこそ、研人は自分を
三日後、研人はついにみゆきに会うことができた。氷の棺の中で横たわっていたみゆきは目を閉じていて、まるで眠っているかのようにおとなしく穏やかな表情を浮かべている。氷の棺の中で眠る彼の小さなバラを見つめながら、研人はかつて数えきれないほど彼女を寝かしつけた夜を思い出した。あの時のみゆきも、今のように目を閉じて、大人しく彼の腕の中に横たわっていた。長いまつげはわずかに反り上がり、まるで人形のように美しかった。ただひとつ違うのは、今のみゆきのまつげには霜がついていることだ。彼女の顔色はとても青白く、棺の中はきっと冷え切っているのだろう。みゆき、怖がらないで。俺はすぐにそばに行くから。「みゆき、ごめん。俺は嘘をついてたんだ」研人は手を伸ばし、みゆきの青白い横顔に触れようとした。しかし彼の手が触れたのは、冷たく硬い氷の棺の蓋だった。彼は、彼女に触れることができなかった。まるで、かつての彼女が何度も何度も、彼の心に手を伸ばしていたのに、そのたびに拒まれていたように……「かれんは俺の恋人じゃない。俺は彼女を愛してなんていない。俺がずっと愛してきたのは……お前だけだ、みゆき。でも……怖かったんだ。もし自分の気持ちを認めてしまったら、それは裏切りになる気がして……お前の両親を裏切ることになると、そう思った。俺はお前の父親の親友で、お前の母さんも、俺のことを実の弟のように大事にしてくれていた。そんな人たちの娘に、俺が恋心を抱くなんて……許されることじゃないと、何度も自分に言い聞かせた。だから俺は、現実から逃げた。お前の気持ちも、俺自身の気持ちも見ないようにして、自分に言い聞かせたんだ。お前はまだ若くて、きっと恋がまだわからないから、俺が養父としてちゃんと導かなくちゃいけない、間違った方向に進ませちゃいけないって。それで……かれんを雇った。俺の恋人のフリをさせれば、お前も諦めてくれるかもしれないって思った。全部、嘘だった。彼女はメイクアップアーティストで、あの時彼女の体にあった痕は、全部作り物だった。俺は彼女と関係を持ったことは一度もない。結婚式だって茶番だった。俺は金を出しただけで、式の段取りには一切関わっていない。かれんの好きなようにすればいいと思っていた。盛大に見えた式だったが、俺は最初から最後までつまらないと思った
Komen