Masuk◇ それから、数日後。 会社に出勤する前にお父様から一緒に出社しないか、と誘われた。 「こうしてお父様と一緒に出社するのは久しぶりですね」 「ああ。たまにはいいだろう?」 車に乗りこみ、走り出して少し。 お互い、朝の経済ニュースのチェックが終わり、少しだけ空いた時間。 お父様に話しかけると、タブレットから目を上げたお父様が笑って答えてくれる。 そして、タブレットの電源を完全に切ったお父様は、私にある提案を口にした。 「昨夜、琥虎と話していたんだがな」 「虎おじ様と!?おじ様はお元気でしたか?」 「ああ。茉莉花の事も心配していた。仕事に没頭して、体調を崩したりはしていないか、と」 「まぁ。虎おじ様は私の事をまだまだ幼い子供だと思っていらっしゃるから」 私がくすくすと声を漏らして笑っていると、お父様も私の言葉に同意する。 「ああ。あいつの中では茉莉花はまだまだ子供なんだろうな」 「ふふ、もうしっかり成人して数年経っているのに……早く頼れる大人にならないとですね」 「琥虎も茉莉花を頼りにはしているさ。だが、可愛い姪っ子のような存在だからな……いつまででも心配なんだよ」 「ふふふっ、早く虎おじ様にお会いしたいです」 私がそう告げると、お父様が私をちらり、と見て口を開いた。 「──ああ。私も久しぶりに会いたくなってな。パーティーまではまだ1ヶ月以上あるだろう?だから、1度私の家で慰労会をしようかと思っている」 「慰労会!?いいですね、お会いしたいです!」 「そうかそうか。それなら良かった。今回、カフェオープンの記念パーティーに先駆けて、茉莉花のチームと……取引先──苓くんや琥虎も呼んで、慰労会をしようと思っているんだ。……日にちは、今月末に連休があるだろう?連休前の夜だったらゆっくりできるし、酒に酔ったらそのまま家に泊まればいいし、茉莉花のチームにも話しておいてもらえないか?」 お父様の言葉に、私は一瞬だけ言葉に詰まってしまった。 だけど、慰労会には私のチームの皆も呼ぶし、虎おじ様も招待する。 その流れで、苓さんを呼ばないのは確かにおかしい、し……。 私は無理やり笑みを作るとお父様に頷いて返事をした。 「とっても良いと思います。チームの皆に伝えておきますね」 「──ああ、そうしてもらえると助かる。もちろん、ご家庭がある
◇ 「茉莉花、これが今茉莉花に届いているお見合いの釣書だ」 「──ありがとうございます、お父様」 ある日の夜。 私はお父様の書斎に呼び出され、お見合い予定の方達の釣書を受け取った。 私が釣書を受け取るのを、何とも言えない表情で見つめていたお父様が迷うように口をもにょり、と動かしたのが見えた。 「茉莉花、本当に──本当にお見合いを進めてもいいのか?」 「ええ。もう決めましたから」 「……茉莉花が見合いをした後、万が一苓くんの記憶が戻ったら……?そうしたら、どうするつもりだ?もしかしたら今日──、明日にでも苓くんの記憶が戻るかもしれない。記憶を取り戻した苓くんが、茉莉花がお見合いをしたと知ったら……ショックを受けるかもしれない」 お父様はそこで1度言葉を切ると、真っ直ぐ私を見返して続けた。 「だから、もう少し待ってみてはどうだ……?せめて、琥虎が企画してくれているオープン記念のパーティーが無事に終わるまで……」 「……確かに、今はまだカフェオープン前で仕事がバタついていますね。パーティーが終わり、少し仕事が落ち着いてからお見合いを進めます」 「──!ああ、その方が良いだろう。今お見合いをしても、茉莉花は忙しいだろう?体調だって崩してしまう可能性だってある。全部落ち着いてからにした方がいい」 「分かりました、お父様。それでは、先方にはそのようにお伝えいただいてもよろしいですか?」 「ああ。そこは私が責任を持って伝えておこう」 お父様がほっと、安堵したように表情を緩める。 何だか、苓さんとの事でお父様にも心配をかけてしまって申し訳ない。 私はお父様に頭を下げてから書斎を後にした。 ◇ 茉莉花が去った書斎の中。 馨熾は慌てたようにスマホを取り出し、急いで文章を打ち込む。 「不味い……、このままだと本当に茉莉花が他の男と結婚してしまう……!」 馨熾のメールの送り先は、谷島だ。 谷島は苓と友人だけあって仲は良い。 記憶を失っている苓は、今回の事件についてもうろ覚えだった。 だが、担当刑事が谷島と聞いて、それ以降は密に連絡を取り合っているらしい。 馨熾が谷島に連絡を入れると、すぐに谷島から返信が返ってきた。 苓にそれとなく話をしてみると返信が来て、馨熾はほっとした。 「記憶を取り戻さなくてもいい……。どうにか苓くんが茉莉花
「──っ」 まさか、お母様にそこまで聞かれていたとは、と私は驚いてしまった。 お母様の質問にすぐに答えられなかった。 それがもう、答えのような物だ。 その証拠に、お母様はとても悲しげに目を伏せた。 「どうして小鳥遊さんを諦める事になったのか、聞いてもいい?」 「……お母様も、苓さんの記憶がなくなってしまったのは……」 「ええ、聞いているわ。だけど、彼の記憶がもうすぐ戻るかもしれないでしょう?私も、長年目覚める事ができなかった。だけど、今は目が覚めて……そして家に帰ってくる事ができたわ。希望を捨てたら駄目よ、茉莉花」 「──ありがとうございます、お母様。お母様のお気持ちは嬉しいです。……だけど、虎おじさまが襲われた事は聞いていますか?」 「田村さんが──?」 お母様は、私の言葉に驚き目を見開いた。 虎おじさまが危ない目に遭った事は知らず、初耳のようだった。 だから、私はずっと考えて、そしてお父様と相談していた事をお母様にも伝える。 「……私が大切に思う人達が、次々と事故に遭っています。……例え苓さんの記憶が戻らなくても、私にとって苓さんはかけがえのない人です。これ以上、危険な目に遭って欲しくない……」 「だからと言って──!」 「ええ、だからと言って。私と苓さんが恋人じゃなくなったからと言って、苓さんに危険が及ばないとは確証が持てません。……だけど、私と恋人でいる方が確実に危険な目に遭います」 私の決意が固い事を、お母様は悟ったのだろう。 私は、頑固な所がお祖父様にとてもそっくりだ、と言われているから──。 1度、自分の中で「こうする」と決めた事は、曲げない。 私の目を見返していたお母様の目が、悲しそうに歪んだ。 「私は、苓さんが幸せでいてくれればいいんです。私の知らない所でもいい。危ない目に遭わずに、誰かと一緒になって……幸せになってくれればいいです」 「茉莉花……だからと言って……」 お母様は一旦言葉を切ると、苦しそうに俯いた。 そして、言葉を続ける。 「だからといって……、他の方とのお見合いをするなんて……!」 お母様の言葉に、私は苦笑いを浮かべて答える。 「……藤堂には、跡継ぎが必要ですから」 そうだ。 藤堂は、私が継いで行く。 以前は養子を取る可能性があったけど、今は私が家に帰ってきているから。
お母様の言葉に、私は何て言葉を返せば良いのか分からなくなった。 確かに、無理をして仕事に没頭している部分はある。 そうしないと、ふとした時に苓さんの事を考えてしまうから。 「そう、ですかね……?」 だから私は、お母様に対して曖昧に笑って言葉を返して見せた。 だけど、お母様の表情は芳しくない。 私が無理をしている事がお母様にバレてしまっているのだろう。 お母様は、私の手から紅茶の入ったカップを優しく取ると傍にあるテーブルに置いた。 「ねえ、茉莉花。私と一緒にお庭の散歩でもしない……?暫くあそこの庭園を歩いていないから……久しぶりに歩きたいの」 「庭園、ですか?」 お母様の言葉に、私は一瞬だけ迷ったけれどすぐに頷いた。 ◇ 庭園。 私はお母様と一緒に懐かしい思い出のある庭園にやって来ていた。 1番新しい思い出は、ここで苓さんと一緒に歩いた事。 1番古い思い出は、お母様と一緒に縁側から庭園を眺めた思い出。 「茉莉花、縁側で座ってお話をしましょうか?」 「──はい、お母様」 お母様もその頃の事を思い出していたのか、私に顔を向けるとにこりと微笑みを浮かべてそんな提案をしてくれた。 お母様の足は、まだ筋力が戻っていなくて覚束無い。 私はお母様を支えつつ日本家屋に向かい、玄関を開けて中に入る。 「お母様、私に掴まってください」 「ありがとう。ふふ、嫌ね……娘の手を借りないと少しの段差も上がれないなんて……」 「事故に遭ってからずっと寝たきりだったのですもの。しょうがないですよ、お母様。お医者様もおっしゃっておりましたが、お母様の回復はとても早いと。驚いておりましたよ?」 「あらあら、本当?それは嬉しいわ」 ふふふ、と上品に笑うお母様。 私はお母様の手を取って、一緒に縁側に向かった。 縁側に座り、他愛ない話をお母様として。 少し肌寒くなって来た頃。 これでは、お母様のお体が冷えてしまう。 体調を崩されたら大変。 だから、私はそろそろ中に戻りましょう、とお母様に提案するつもりでお母様に顔を向けた。 そうしたら、お母様も私を見ていて。 お母様の真っ直ぐ、芯の通った瞳が私を見つめていた。 「──お母様?」 お母様は私の手をそっと握ると、話そうか話さまいか一瞬悩んだ素振りを見せた。 だけど、覚悟を決めたようにお母様
「──ここ、歩いた気がする……」 日本庭園。 初めて見たはずなのに、ちっともそんな気がしない。 足元が暗くなる、夕方頃。 足元に気をつけて、と言いながら一緒に歩いた人は誰だったか、と思い出そうとする。 だけど、隣を歩いていた人の顔を思い出そうとすればするほど、頭の痛みが増してきて。 「──痛っ」 ガンガン、とまるで頭を殴られているような感覚。 だけど、この痛みを耐えて思い出そうとすれば、失った記憶を思い出せそうな気がした。 「何で俺は藤堂さんの事を忘れた……?」 痛む頭を片手で抑えつつ、俺は日本庭園を見つめ続ける。 「なんて、喋っていた……?何を、言っていた……?」 悲しそうな表情で語ってくれたのは、間違いなく藤堂さんだ。 その時の藤堂さんは、俺に何を話してくれた? 悲しそうなその顔だって、霞みがかっていてはっきりと思い出せない。 「──くそっ」 これ以上は、頭痛が酷くなるばかりで思い出せそうにない。 俺はハンドルに額を擦り付けて歯を食いしばった。 それ以降、俺は藤堂さんと仕事で会う機会がほとんどなくなり、彼女とのやり取りも全てメール対応で済むようになってしまった。 まさか、あの日を最後に1ヶ月以上もの間、藤堂さんと会えなくなるなんて思いもよらなかったんだ。 ◇ 苓さんに車で送ってもらってから、ひと月が過ぎた。 このひと月の間は、目が回る程の忙しさだった。 お母様の退院。 庭園カフェのオープンに向けて大詰め。 そして、虎おじさまが開催してくれるオープン記念のパーティー。 それに加えて、通常業務。 いったい、何度「自分がもう1人居たら良かったのに」と思ったか分からない。 だけど、その間に涼子から何かを仕掛けられる事も全く無かった。 谷島さんからの捜査状況に関しても、お祖父様を轢いた犯人は未だ捜索中の連絡があるだけ。 涼子に関しても、まだ行方不明。 涼子が何かを仕掛けてくるなら、きっと虎おじさまが開催してくれるオープン記念のパーティーだろう。 何となく、私はそう思った。 「茉莉花、最近働き過ぎじゃない?大丈夫なの?」 私が家に帰ってきてから自分の部屋で仕事をしていると、扉をノックした後、お母様が紅茶を手にやって来た。 「──お母様!」 私は椅子から立ち上がり、急いでお母様の元へ駆け寄ると、お母様
車内には、妙な緊張感が流れていた。 時折苓さんから気遣わしげな視線を感じる事があったけど、私はそれに気づかない振りをして前を見続けた。 今までだったら、私から苓さんに仕事の話を振ったりしていた。 何とか苓さんと会話をしたくて。 私の事を思い出して欲しくて、苓さんとの会話を試みた。 だけど、苓さんが私の事を思い出すような気配は一切ない。 こうして、今回谷島さんから連絡を受けて私の所に来てくれたのも、苓さんの優しさゆえだろう。 元々、苓さんは凄く優しい人だ。 仕事仲間である私が危険な目に遭ったと知り、心配して来てくれただけに違いない。 (勘違いしたら駄目、苓さんは元々優しいから) 私は苓さんを見てしまわないよう、家に着くまでただひたすらにずっと前を向き続けた。 「──着きました」 苓さんの車が、滑らかに私の家の門前に停まる。 周囲には御影さんの車も見当たらず、私はほっとした。 「ありがとうございます、小鳥遊さん」 「いえ、大丈夫です。中までお送りします」 「いいえ、大丈夫です小鳥遊さん。小鳥遊さんもお仕事でお疲れでしょう?ここまでありがとうございました、戻って下さって大丈夫ですよ」 私は、柔らかく微笑みながら苓さんにそう告げると、ドアを開けて外に出る。 外は、さっきまでは降っていなかったのに、今はしとしとと小雨が降り始めていた。 「藤堂さ──」 「小鳥遊さん、ありがとうございました!雨が降っているので、ここで失礼しますね」 私は雨が降っている事を言い訳にして、足早に苓さんの車から離れる。 私が門に向かい、指紋認証をすると門は重たい音を響かせ、ゆっくりと開いた。 車の窓を開け、顔を出して私に何かを言おうとしている苓さん。 そんな苓さんを振り切るように、私はバッグを頭上に掲げて小走りで家の玄関に向かう。 屋根の下に到着した私は、門の方向に振り返った。 もう、苓さんの車はきっとそこにいないだろうと思って。 だけど。 「──えっ、まだ居てくれたの……?」 苓さんの車は、ここに着いた時と変わらずそこに停まったまま。 「もしかしたら苓さんは心配して、私が家に入るまで見てくれているのかもしれないわね……早く帰ってもらわないと……」 そう考えた私は、苓さんに向かって軽く頭を下げるとそのまま玄関扉を開けて中に入った。 私
ほんのりと照明の明かりに照らされ、寂しくも綺麗な庭園を眺めていると、不意に風が吹いた。 夜に差し掛かり、気温も下がってきている。 秋から冬に差し掛かる今の季節、昼間は暖かくても日が落ちてしまえば肌寒く感じる事が多くなってきた。 私がふるり、と体を震わせたのに気づいたのだろう。 小鳥遊さんが自分が着ていたスーツを脱ぎ、私にかけてくれた。 「小鳥遊さん、大丈夫です。小鳥遊さんが風邪をひいてしまいます!」 「俺は
◇ 温かくて、柔らかくて、ふわふわする──。 微睡みの中で、俺は目の前の柔らかな物に擦り寄った。 いつまでも触っていたくなるような、そんな感触。 何かが邪魔をしていて、俺は無意識のうちに手を動かした。 手のひらに吸い付くようなしっとりとした手触りが気持ちよくて、力を込めてしまう。 瞬間。 「──んぅ」 「……っ!?」 頭上
私が声を漏らしてしまった瞬間、靴を脱がしてくれていた小鳥遊さんの動きがぴたり、と止まった。 「す、すみません…っ、こそばゆくて……」 「いえ……俺こそ、すみません……」 「た、小鳥遊さん…?えっと、下ろしてください……?」 「すみません、ちょっと……少し待っててください」 ぎゅうーっ、と小鳥遊さんに抱き込まれてしまう。 何かを耐えるような小鳥遊さんの表情に、私は首を傾げてしまう。 苦しそうに歯を食いしばる様子が見えて、彼に何があったのか──。 確認したいけど、彼の膝に乗ったまま、ぎゅうぎゅうと抱きしめられている今、確かめる事も出来ない。 何度か深呼吸をし
とろり、と甘さを含んだ瞳を向けられ、私は自分の胸がどきり、と脈打つのを感じる。 じり、と小鳥遊さんの瞳に確かな熱が灯ったのを感じて、私は咄嗟にその場に立ち上がった。 「そうだ!小鳥遊さん、別邸の中もご案内いたします!和風庭園も素敵ですが、中も素敵なんです!」 ぱっと小鳥遊さんを振り返り、そう告げた私に、小鳥遊さんはぽかんとしていたけれど、すぐに苦笑いを浮かべて「お願いします」と答えた。 小鳥遊さんの瞳に浮かんでいた熱が、今は消えていてほっとする。 あの目に見つめられてしまうと、どうしたらいいのか分からなくなってしまう。 戸惑うけど、決して小鳥遊さんの気持ちが迷惑じゃ







