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第9話

Auteur: 鬼火
10億円を手にした私は、仕事を辞めた。

それからの1年は、旅をして過ごした。オーロラを見たり、スカイダイビングをしたり、ダイビングに挑戦したり。

ありとあらゆるスポーツも体験して、命が燃える感覚を味わった。

心が躍るたびに、かつて過ごしていたあの死んだような日々が脳裏をよぎり、私はより一層、貪るように自由な空気を吸い込んだ。

旅の途中で、私は小川充(おがわ みつる)と出会った。

彼は傲慢な御曹司でも、執着心の強い男でもない。笑顔が優しくて、綺麗な手をした、どこにでもいる風景写真家だった。

オーロラを見たときのこと。充は私に温かいココアを差し出しながら、笑顔でこう聞いてきた。「寒いですか?」

任務に縛られていた時のように機械的な返事をするのはやめ、私は肩をすくめて笑った。「ええ、ものすごく。温めてもらえますか?」

それから私たちは自然と愛し合うようになった。

充は私の過去を何も知らなかったが、時折、私がどこか遠くを見つめてぼーっとしているのには気づいていたようだ。

そんな時、彼は理由を聞いてきたりはせずに、ただそっと歩み寄って手をつないでくれ、温かいハグで包み込んでく
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  • あなたの世界は、私の生きる場所ではない   第9話

    10億円を手にした私は、仕事を辞めた。それからの1年は、旅をして過ごした。オーロラを見たり、スカイダイビングをしたり、ダイビングに挑戦したり。ありとあらゆるスポーツも体験して、命が燃える感覚を味わった。心が躍るたびに、かつて過ごしていたあの死んだような日々が脳裏をよぎり、私はより一層、貪るように自由な空気を吸い込んだ。旅の途中で、私は小川充(おがわ みつる)と出会った。彼は傲慢な御曹司でも、執着心の強い男でもない。笑顔が優しくて、綺麗な手をした、どこにでもいる風景写真家だった。オーロラを見たときのこと。充は私に温かいココアを差し出しながら、笑顔でこう聞いてきた。「寒いですか?」任務に縛られていた時のように機械的な返事をするのはやめ、私は肩をすくめて笑った。「ええ、ものすごく。温めてもらえますか?」それから私たちは自然と愛し合うようになった。充は私の過去を何も知らなかったが、時折、私がどこか遠くを見つめてぼーっとしているのには気づいていたようだ。そんな時、彼は理由を聞いてきたりはせずに、ただそっと歩み寄って手をつないでくれ、温かいハグで包み込んでくれた。「今夜は唐揚げにしようか?」と充が聞いた。一瞬驚いたが、私はすぐに笑って首を振った。「唐揚げは脂っこすぎるから、いや。しゃぶしゃぶが食べたいな。シャキシャキの野菜と一緒に食べる、あのさっぱりしたやつ!」「分かった。君の好きなものを食べよう」そこには変な駆け引きもなければ、顔色を窺う必要も、息の詰まるような束縛もない。ただ、ありのままの自分でいられる生活がそこにはあった。2年後、私たちは結婚した。親しい人だけを招いた、ささやかな式を挙げる。指輪を交換する瞬間、突然脳内にノイズが走り、あのシステムの声が聞こえた。「幸福指数が最高値に達しました。おめでとうございます。これで過去の闇からは完全に解放されるでしょう」目の前には誠実な瞳で見つめる充に、掌には確かな温もり。私は心の中で小さく呟いた。「じゃあね、システム。もう一生会うことはないから」「さようなら。あなたの幸せを祈っていますよ」その言葉を最後に、システムの気配は完全に消え去った。指輪をはめた充が、そっと額にキスをして微笑む。「何を考えてるの?そんなに幸せそうに笑って」私は

  • あなたの世界は、私の生きる場所ではない   第8話

    画面の中で泣き崩れている颯太を見て、私はシステムに尋ねる。「彼がこんな状態でも、この世界はまだ救えるの?」システムは溜息をついた。「こうなってしまった以上、もう無理ですね。岩崎さんは精神的に崩壊しきっていて、世界に対する認識も薄れてきています。何しろ、この世界の核である彼が死を望んでいる以上、この世界はもう終わりです」やっぱり。颯太は泣き止むと、ゆっくりと立ち上がった。彼は引き出しから、かつて宝物のように大事にしていたライターを取り出した。「お前がこの世界にいたくないのなら、俺が世界ごと壊してやる。天国に行くまでの道のりはきっと寒いだろうから、俺もお前と一緒に行くからな」そう言って、颯太はカーテンに火をつけた。炎はまたたく間に燃え広がり、高価な家具も、数々の思い出が詰まったあのベッドも、そして私と彼も、すべてを赤く飲み込んでいく。燃え盛る炎の中で、颯太は私の亡骸を抱きしめ、なぜか晴れやかな笑みを浮かべていた。「柚。もし来世があるのならば、その時は絶対に俺とは出会うなよ」邸宅が崩れ落ちると同時に、この世界そのものが音を立てて裂け始めた。鏡が砕けるように空にヒビが入り、その向こうには、荒れ狂う無機質なコードが見えている。大地は沈み、山も川もただのデータとなって霧散していく。颯太、澪、そしてこの世界に生きていたすべての人々が、光の粒子となって虚空に消えた。世界が崩壊したのだ。「千葉さん、大変申し訳ありませんでした。お約束通り、報酬はしっかりと支払わせていただきます」その瞬間、私は猛烈な浮遊感に襲われた。再び目を開けると、そこは見慣れた寝室で、自分のふかふかのベッドの上に寝転がっていた。窓の外には都会のネオンが輝き、下からは車の行き交う喧騒が聞こえてくる。システムも、攻略も、狂った颯太もここにはいない。脳内でシステムが、ほっとしたような声を響かせた。「約束通り、10億円を入金しておきました。それでは最後のオペレーション、感情の還元を開始します」言葉が終わるのと同時に、頭の奥で何かが弾ける感覚がした。温かい流れが全身を巡り、心臓が力強く脈打ち始める。喜び、悲しみ、怒り、恐怖、愛、憎しみ……失われていたはずの感情が、堰を切ったようにあふれ出す。私は跳ね起きると、肩で息をしなが

  • あなたの世界は、私の生きる場所ではない   第7話

    颯太は私の唇に切なげなキスを落とすと、地下室へと向かった。そこには、澪たちが椅子に縛り付けられていた。その後の光景は、あまりにも悲惨で、システムが閲覧制限をかけたほどだった。颯太が拷問するまでもなく、男たちは生き残るために、澪とどう連絡を取ったのか、どんな薬を使ったのか、どんな酷い方法で私を傷つけたか……動画の指示まで包み隠さず話した。澪の冷酷な言葉ひとつ残すことなく、忠実に再現してみせたのだった。証拠は揃った。澪は泣き叫んでいた。「颯太!全部あなたのためにやったの!あの女は、あなたのことなんて微塵も愛してなかった!まるで石像みたいに冷え切ってたんだから!あんな女は追い詰めて当然でしょ?それに、あなただって計画を黙認してた!彼女が苦しむ姿が見たかったんじゃないの?」この言葉が、颯太にとどめを刺した。そう、彼も同罪なのだ。私を救い出したかったのも、澪の誘拐計画を黙認したのも……すべては彼自身なのだ。颯太があんなことを考えなければ、私が死ぬことなんてなかったのだから。彼こそが澪に刃物を握らせ、私を地獄へ突き落とした元凶なのだ。颯太が笑い出した。それは掠れたひどい声で、瞳からは涙がこぼれ落ちている。「そうだな。死ぬべきなのは俺なのかもしれない」と呟きながら、彼は手術用ナイフを握りしめ、澪に近づいていく。「だがその前に、柚に詫びろ」澪は恐怖に目を見開いた。「嫌っ!やめて、颯太!お願い!いやあああああああ!!!」この世界で、颯太はついに本性をむき出しにした。ただし今回その狂気が向けられているのは私ではなく、私の命を奪った張本人だった。颯太は澪を簡単には死なせなかった。粘着質なやり方で、私よりもずっと苦しい時間を彼女に味あわせた。まるまる3日間だった。地下室からの悲鳴は、3日目の夜更けにようやく途絶えた。事後処理を終えた颯太は、寝室へと戻った。季節は真夏だったが、部屋はきんきんに冷やされていたため、私の死体は腐敗することなく、青白く固まっていた。ベッドサイドに座った颯太は髭も伸び、頬もこけて、まるで亡霊のようだった。彼は冷たくなった私の手を握りしめ、自分の頬に押し当てる。「柚、あいつらは全員消してやったからな」そう言う颯太は、まるで親に褒められるのを待っている子供のようだった。「

  • あなたの世界は、私の生きる場所ではない   第6話

    颯太は無言で私の亡き骸を抱きかかえると、ゆっくりと立ち上がった。それまでの荒々しさは消え去り、彼からは鳥肌が立つほどの冷静さが漂っている。背後にいるボディーガードにちらりと視線を送ると、まるで今日の夕飯でも話すような淡々とした口調で命じた。「こいつらと澪、全員連れて行け。一人残らずな」「颯太!何するつもりなの?私たちは友達でしょ!」澪は恐怖で叫び、必死に抵抗したが、ボディーガードたちに無情にも地面へねじ伏せられた。「ここを封鎖しろ。埃一粒見逃すな。全部調べ上げるんだ」颯太は私を抱えたまま歩き出した。そして、澪のそばを通る際、ふと立ち止まって彼女を見下ろした。その瞳には、死にゆくものを見るような虚無感だけが宿っていた。……岩崎家の掛かり付け医が到着し私の検死が行われ、検査結果を待っている間も颯太は頑として私を離そうとしなかった。邸宅に戻ると、彼は私をかつて二人で愛し合ったあのキングサイズのベッドへと寝かせると、ぬるま湯を汲んできて、それはとても丁寧に、私の身体の汚れと血を拭い始めた。たとえ私が、もう命を終えた亡き殻であったとしても、颯太は私が一番お気に入りだった白いドレスを着せてくれた。そしてこれは、告白された時、私が着ていたものだった。結果が出るまでの間、颯太はベッドの横に正座して、温かいタオルで冷え切った私の指先をずっと拭っていた。まるで稀少な宝物でも扱うかのように、それはあまりにも丁寧で心のこもったものだった。「柚。見てみて。もうすっかり綺麗になったぞ」颯太は冷たくなった私の手のひらに自分の頬を寄せ、しわがれた声でこうつぶやいた。「まだ怒っているのか?もしかして、俺が遅かったから?でも、わざとじゃないんだ。ただ、お前が俺を心配して慌てる姿が、どうしても見たくて……」過ちを犯した子供のように、彼は亡き骸に対して許しを乞い続けている。「澪に言われたんだ。お前を絶望の淵に追いつめ、恐怖に震えさせれば、前みたいに俺を頼ってくれるって。俺は、ただお前のその冷たい殻を破って、もう一度俺を愛してほしかっただけなんだよ……俺がお前を本当に傷つけようなんて、思うはずがないだろ?柚、愛してる。お前を誰よりも愛しているのは俺なのに……」私はモニタールームから、その様子を冷ややかに見下ろしていた。愛して

  • あなたの世界は、私の生きる場所ではない   第5話

    扉は凄まじい衝撃で蹴り開けられ、砂埃が舞った。逆光の中に浮かぶ颯太の姿は、映画のワンシーンのように力強く、まるで姫を救いに来た騎士のようで、ひどく切迫していた。「柚!」颯太が叫んだその声には、まるでリハーサルを重ねたかのような切実さと深い愛情がこもっている。彼の頭の中では、今ごろ私は隅で怯えているはずなのだろう。泣きじゃくる私が颯太に抱きつき、それを彼が優しく抱きしめて、「遅くなってごめん」と詫びる。そうすれば、すべてが元通りだった。しかし、そこにあったのは、すでに生気を失った一つの屍。冷たいコンクリートの上に倒れている私の体は衣服が引き裂かれ、露出した肌はアザやひっかき傷だらけだった。青白い顔には何の手応えもなく、閉じられた目や唇には乾いた血痕が残っている。男たちも皆、死人よりも真っ青な顔で立ち尽くしていた。「一体、どういうことだ……」颯太の表情が凍りつく。ふらつきながら私の死体に近付くその一歩一歩は、まるで刃物の上を歩いているようだった。「柚?冗談はよせよ。助けに来たんだ……柚?」颯太は死体の横に膝をつき、震える手で私の頬に触れた。冷たい。骨まで凍るような冷たさが、彼の幻想を一瞬で砕く。「岩崎さん……この女……急に動かなくなって……それで……」主犯格の男が声を震わせながら言った。「ま、まだ、始めたばかりで、大したことはしてないんです!なのに、突然動かなくなっちまって……」「黙れ!」颯太は振り返った。その両目は赤く充血し、獲物を狙う獣のような鋭い光を放っていた。彼は懸命に心肺蘇生を繰り返す。一回、二回……それは永遠に繰り返された。「目を覚ませ、柚!お願いだから、目を覚ましてくれ……死ぬなよ。聞こえてるか?死ぬなんて、絶対に許さないからな。もしかして、俺への罰なのか?分かったぞ……芝居でもしているだろ?なあ、分かったからって……頼むよ、起きてくれ……」時の経過とともに、颯太の動きは必死の救急から絶望の揺さぶりに変わり、最後には虚無的な抱擁へと変わった。魂の消えた身体に顔を埋め、彼は獣のようにむせび泣いた。颯太の後ろで、ずっと様子を見ていた澪も、ようやく近づいてくる。彼女はここで、高みの見物を決め込むつもりでいた。私が全てを失い、颯太から蔑まれる姿を見たかっ

  • あなたの世界は、私の生きる場所ではない   第4話

    ある日、颯太が隣の街にあるシュークリームが食べたいと言い出した。そして、そのシュークリームは2年前、私が一番大好きだったお菓子でもあった。私は車で出かけたのだが、海沿いの人気のない道に入ったところで、突然エンジンが動かなくなった。外に出て様子を確認しようとした瞬間、鼻をつくような臭いのするハンカチで口を塞がれた。意識が遠のく中、唯一頭に浮かんだのは、「ベタな展開だな」ということだけだった。目が覚めると、廃工場の柱に縛り付けられていた。周りには何人かの男がいて、カメラを片手にニヤつきながら私を見ている。すると工場のスピーカーから、澪の得意げな声が流れてきた。「千葉、起きた?気分はどう?」「澪。これは犯罪だよ」私は事実だけを告げる。「そんなこと言っていられるのも今のうち。これ、誰が仕組んだと思う?」澪の声が鋭く響いた。「颯太も一緒に計画したんだから」しかし、私の心臓は落ち着いたままで、特に何も感じなかった。「颯太の計画じゃ、あなたを誘拐して怖がらせてから、あなたが泣いて助けを求めた時に、彼が英雄みたいに現れて助け出すって予定だったの。極限状態になればあなたも颯太に助けを求めるだろうし、吊り橋効果ってやつで彼に惚れ直すって思ったんだろうね。最低で情けない男だと思わない?」なるほど。颯太は私の心を取り戻そうと、こんな芝居を計画したのか。「でも……」澪の声が急に低くなる。「シナリオ通りにはさせないから。ここで、あなたを終わらせてあげる。男たちに滅茶苦茶にされているところを、写真と動画に収めて、颯太が来る頃には、汚れたクズ女が誕生ってわけ。そうなった時、颯太はまだあなたのことを好きでいられるかしら?」合図を受けた男たちが、私の方へ近づいてくる。一人が中に濁った液体が入っている注射器を取り出した。「怖がらなくたって大丈夫だ。そんな悪いもんじゃねえ。ちくっとした後には……すぐお楽しみが待ってるからよ」必死に抵抗したが、男たちの力には敵わない。針が首筋に刺さり、冷たい液体が血管を伝っていくのがわかる。私の心に嫌な予感がよぎる。「システム」私は頭の中でシステムを起動させる。「体の状態を調べて」すると、システムの慌てた声が返ってきた。「千葉さん、大変です!高濃度の幻覚剤と催淫剤が検知されました!」

  • あなたの世界は、私の生きる場所ではない   第2話

    颯太は私を家に連れ戻すと、まるですぐに壊れてしまうシャボン玉であるかのように扱った。極端に過敏になった彼は、邸宅の周囲にボディーガードを配置し、家の中も監視カメラだらけにした。颯太自身も、目を離した隙に私がまた消えてしまうのではないかと心配し、片時もそばを離れようとしない。「柚。お前の大好きな唐揚げ、作ってみたんだ」そう言いながら颯太は、期待に満ちた目で私を見つめ、唐揚げを私の皿に載せる。彼が私のためにキッチンに立つなんて、前ではありえなかったのに。私が颯太のために雨の中必死に書類を届けて高熱を出した時だって、彼は出前で済ませたのだ。私がいなくなった後、彼はかなり変

  • あなたの世界は、私の生きる場所ではない   第1話

    「千葉さん。お願いします。この世界を救えるのはあなただけなんです」システムの焦ったような声が、私・千葉柚(ちば ゆず)の脳内に響く。「岩崎さんの精神がおかしくなってしまいまして、あなたに会えなければ、世界の核心を爆破して、全員道連れにすると言っているんです」私はモニタールームに座り、崩壊寸前のデータを眺めた。2年前、攻略に失敗した私は、全ての感情を代償にすることで、任務を脱出し元の世界へ戻る切符を手に入れた。だから今の私には、喜びも怒りも哀しみも楽しみも一切ない。つまりは、愛憎も執着も消え失せているのだ。私の心は底のない器のようなもので、何が入ってこようとも、何一つ留め

  • あなたの世界は、私の生きる場所ではない   第3話

    颯太は焦り始めた。私が見せる、何をされても無関心な態度が許せなかったのだろう。彼は私を刺激しようと、わざと澪を甘やかした。澪も颯太の書斎に夜遅くまで居座るようになり、私が牛乳を届けに行った時なんかは、颯太のシャツ一枚で彼の膝の上に座っていた。颯太は私が入ってきたのを見ても、わざと澪を突き飛ばさず、挑戦的な目で私を見つめる。私はドアのそばに立ち、その光景を眺めていたが、心は空っぽのままだった。2年前の私なら、泣き叫び、罵倒していたことだろう。しかし今となっては、彼らの姿勢が窮屈そうだなとか、牛乳が冷めてしまうなといったことしか考えられなかった。「あ、邪魔しちゃった

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