LOGIN早瀬淳弥(はやせ じゅんや)と付き合い始めて八年目、私たちはついに婚約を交わした。 その夜、彼は会社に泊まり、酔いつぶれて帰ってこなかった。 真夜中、私は、彼の酔いが少しでも冷めるようにと、温かい飲み物の入ったポットを手に会社を訪れた。 ――けれど、そこで耳にしたのは、彼が隣に座る美しい女性部下に向けて放った、あまりにも冷たい言葉だった。 「あいつは、お前みたいに向上心があるわけじゃない……一生、あんなもんだろうよ。 でもまあ、八年も一緒にいたからね。プロポーズなんて、正直、成り行きみたいなものさ」 長い時間を経て、ようやく結ばれたのだと信じていた。 けれどそれは、彼の情けによる「施し」でしかなかった。 私は手にしていたポットを静かに床へ捨て、その場で婚約を破棄した。 それからしばらくして―― 雪が降りしきる中、玄関先に立ち尽くす淳弥は、荒れた声でこう言った。 「夏希(なつき)……俺が間違っていた、後悔している」
View More最近、会社から業界でも屈指のトップ企業との提携交渉という任務を任された。当然、競合も数え切れないほどいる。私は寝る間も惜しんで奔走し、ようやくすべてを軌道に乗せることができた。だが、仕事帰りにまたしても、雪にまみれた淳弥と出くわした。私を見るなり、淳弥はその場に力なく膝をつき、土下座をした。「夏希……俺はもう、名声もキャリアも全部失った。何も残っていない。全部、自業自得だ。罰なんだと思ってる。ただ……お前を失うことだけは、どうしても耐えられない。戻ってきてくれるなら、どんな罰だって受けるから……」かつてプロポーズの時でさえ、片膝をつくことすら渋った彼が、今、私の足元でこれほどまでに敬虔で卑屈に許しを乞うている。なんて、皮肉な光景なのだろう。私は彼を一瞥もせず、背を向けて立ち去った。淳弥の瞳には激しい後悔の念が渦巻いていたが、彼はもう、一歩も近づいてはこなかった。その夜、業界のレセプション・パーティーが開かれた。私は瞳の少し後ろに立ち、会話に耳を傾けていた。誰かが私のことに触れるたび、瞳は誇らしげな口調で私を紹介してくれた。「成瀬社長、さすが目利きですね!彼女、デザインから企画の折衝までこなすオールラウンダーだそうですね」「まさに『後進が先輩を追い越す』ですね」「ああ、思い出しました!数年前の大徳市の案件、あの独創的な設計図で一位を取ったのは……あれも浅沼さんの手によるものでしたよね?」私は微笑んで頷いた。それは入社して間もない頃に描いた図面だ。だが、淳弥が地位を上げるにつれ、私は彼を立てるために、自らその道を封印してしまっていた。「あなたが浅沼さんですね」恰幅のいい中年男性が、満面の笑みで近づいてきた。「おや、株式会社彙成の朱雀社長ではありませんか」瞳が一歩前に出て、愛想笑いを浮かべた。「成瀬社長、どうも!浅沼さんの才能には惚れ込んでおりましてね。来週の火曜あたり、お二人で食事でもいかがかな……」断りの言葉を口にしようとしたその時、不意に、怨念に満ちた声が響き渡った。「浅沼夏希……!この泥棒猫!あんたのせいよ!」顔色の悪い、身なりもボロボロの莉奈が、憎悪を剥き出しにしてこちらを睨んでいた。「この女が私をこんな目に遭わせたのよ!どうしてこんな女と組もうとするの!?」周囲が呆気に
結局、私は119番に通報した。手続きを済ませ、支払いをしようとしたその時、廊下の角で対峙している淳弥と莉奈の姿が目に入った。「なんだ、今度は『従兄』じゃなくて『従弟』か?」淳弥の声は掠れていたが、その響きには激しい嘲弄が混じっていた。「おい、あんたが莉奈を無理やり誘惑したクズか?そのせいで彼女は中傷されて、解雇までされたんだぞ……」莉奈が口を開くより先に、隣にいた若い男が一歩前に出て、彼女を庇うように立ちはだかった。「僕は莉奈の恋人だ。付き合ってもう一年以上になる!」「……は?莉奈。俺がお前を無理やりだと?」「あんたが権力を振りかざして脅したから、莉奈みたいな清純な子が汚されたんだろ!彼女をこんな目に遭わせて、よくもそんな顔ができるな。婚約者にも逃げられたらしいじゃないか。自業自得だよ、ざまあみろ!」まだ若いその男は、食ってかかるような勢いで淳弥を罵倒した。淳弥は一言も言い返せないまま立ち尽くしている。莉奈は目を赤く腫らし、すすり泣きながら男の袖を弱々しく引いた。男は慌てて彼女を抱き寄せ、優しい声で宥める。淳弥の横を通り過ぎる際、男はわざと強く彼の肩をぶつけていった。突き飛ばされた淳弥は壁に当たり、そのまま力なく床に崩れ落ちた。「淳弥」私は彼の前に立ち、声をかけた。「夏希……やっぱり、お前が俺を見捨てるはずなんてないって。俺には、お前しかいないんだ……」「33484円。払って」私は無表情のまま、スマホの決済用QRコードを突きつけた。淳弥は呆然と私を見上げたまま固まり、やがて両手で顔を覆った。嗚咽が漏れ聞こえる。それが泣いているのか、自嘲して笑っているのか、私には判別できなかった。……夏希が去った後、淳弥はスマホの画面に表示された一円単位まで正確な振込額を、ただじっと見つめていた。胸の奥が、抉られるように痛む。――本当は、分かっていたはずだった。夏希は、一度決めたら絶対に揺らがない人間だと。これまでの道のりだって、どれほど辛くても、彼女は一度も手を離さなかった。そして今――手を離すと決めたなら。そこには、一切の迷いも余地もない。どうしてあんな女に惑わされ、自分をこれほど愛してくれた夏希を傷つけてしまったのか。衝動に突き動かされるまま、淳弥は立ち上がり、莉奈たちの
彼女の言葉は、暗に私が「枕営業」で今の地位を築いたと言わんばかりだった。周囲にさざ波のような私語が広がる。言い返そうとしたその時、瞳がこちらへ歩いてきた。その場は一瞬にして静まり返り、誰もが借りてきた猫のように縮こまった。「夏希さん、午後は私と一緒に東峰市の案件の打ち合わせに行くわよ」「成瀬社長、どうしてですか?前に決まっていたのは私のはずでは……」さっきまで私を皮肉っていたリーダー格の女が、信じられないといった様子で瞳を見上げた。「夏希さんは美人で、その上、有能だからよ」瞳は彼女を冷ややかに一瞥し、射抜くような視線を向けた。女の顔から、みるみる血の気が引いていく。同時に、あちこちでLINEの通知音が鳴り響いた。無意識に画面を開くと、それは社員全員が入っているグループチャットだった。目に飛び込んできたのは、私の詳細な経歴書と、これまで受賞してきた数々の表彰状をまとめたPDFファイル。余計な言葉は一切ない。これほど直接的で強引なやり方は、瞳にしかできない。すぐさま、グループチャットに「いいね」のスタンプが一つ飛んだ。送り主は――この会社の「ボス」それを皮切りに、チャット画面は私を称賛する言葉で埋め尽くされていった。瞳は私の肩を軽く叩くと、颯爽と立ち去った。私は込み上げる複雑な感情を抑えられなかった。かつて同じように疑いの目を向けられた時、淳弥は一度も助け舟を出してくれなかった。『俺が庇えば、余計に怪しまれるから』それが彼の言い分だった。けれど、味方であるはずの彼が隣に立ってくれないのに、一体誰が私を信じてくれるというのか。午後になる前に、社内で流れていた噂の出どころが暴かれた。――犯人は莉奈だ。身内に甘く敵には容赦ない瞳は、不倫と誹謗中傷の事実を盾に徹底的に追い込み、淳弥の会社に莉奈を解雇させた。生活がようやく軌道に乗り始めた頃、唯一の懸念は淳弥だった。ホテルを引き払い、新居に引っ越して一息つく間もなく、彼は私の前に現れた。ひどく痩せこけ、無精髭を生やしたその姿に、私は溜息を禁じ得なかった。「一体どうしたいの?」「夏希、別れないでくれ。お願いだ」淳弥の瞳には、哀願の色が浮かんでいた。「俺が間違っていた。名声や利益に目が眩んで、お前を傷つけてしまったんだ。本当に、すまない
淳弥は私の行く手を遮った。その声は乾ききって掠れていたが、必死に言葉を紡ぎ、言い訳を並べ立てた。「夏希、莉奈のことが嫌いなんだろ?分かった、これからは彼女と距離を置く。だから、お願いだ。一緒に家に帰ろう?」私が家を出てからかなりの時間が経っている。彼はそれを知っていたはずだ。それに、私がいなくなった翌日には、彼は莉奈をあの家に連れ込んでいた。莉奈は、わざわざ何枚もの写真を私に送りつけてきたのだ。「無理……汚くて嫌」私は首を振った。「置いてきた荷物も、もういらない」「夏希、説明させてくれ!あの日は泥酔していたから、莉奈が家まで送ってくれただけなんだ。彼女はすぐ帰った。本当に、何の関係も……」淳弥は顔を真っ青に染め、さらに必死さを増して縋りついてくる。「説明なんていらないわ、淳弥」私は一歩後ずさり、静かに彼を見つめた。「私たちは、もう別れたのよ」淳弥の瞳に、はっきりとした恐怖が浮かんだ。「嫌だ……別れるなんて認めない。俺が悪かった。部外者のためにお前を傷つけ、追い出すような真似をして……本当にすまなかった。ごめん、ごめんよ、夏希……俺を見捨てないでくれ……」次第に声は嗚咽に変わっていったが、私の心には何のさざ波も立たなかった。「淳弥。世の中にはね、手遅れなものが三つあるの。真夏に届く厚手のコート、冬の風鈴、そして――相手の冷めきった心に向ける後悔よ」私はまるで、見ず知らずの他人に向けるような冷ややかな声で告げた。淳弥は絶望に目元を赤く腫らし、私の手を掴もうとした指先を空中に止めたまま、その場に凍りついた。胸の中にあった執着を根こそぎ引き抜いた後、心は驚くほど軽くなった。仕事も以前よりずっと順調だ。淳弥の担当していたプロジェクトを私が勝ち取った後、元同僚たちから多くの噂話が届くようになった。そのほとんどが淳弥に関するものだ。聞けば、彼は社内の全体会議で強く非難されたようだ。個人の素行不良によって多くの案件を流出させ、さらに莉奈との不適切な関係が会社のイメージを著しく損なった、と。証拠となる写真や動画はスライド十枚分にも及び、私の退職という事実も重なって、淳弥は会議中一言も返せなかったという。元同僚が送ってくれたその資料に目を通すと、それらは莉奈が入社した直後から、誰かが着々と準備し