LOGINアデーレがバルダート別邸に到着した時、使用人たちの間では既に怪鳥の話題で持ちきりだった。
使用人たちが集まる、屋敷一階の使用人控室。
主人らが使う部屋とは違い、シックな家具でまとめられた
しかしそこは名だたる名家、天下のバルダート家だ。
たとえ使用人が使う家具だろうとも、庶民が一年休まず働いても買うことのできないものばかりである。
「アデーレ、本当に何ともないの?」
「はい、大丈夫です」
エプロン姿にすまし顔のアデーレを前に、メリナは困惑の表情を浮かべる。
騒動を受けてもなお屋敷にやってきたアデーレには、彼女だけではなく他の使用人たちも驚いていた。
「さすがにあんなことがあったら休んでも大丈夫なのに。真面目だねぇ」
話を聞いていた先輩の使用人も、真面目なアデーレを前に苦笑を浮かべている。
「でもねアデーレ、私はあなたの身に何かあったら嫌だから。こういう時は真っ先に自分の身を守らないとダメだよ」
使用人になるのを提案したこともあってか、特にメリナはアデーレの身を案じているようだ。
こうなると、自分が騒動の渦中で、しかもそれを解決したなどとは口が裂けても言えないだろう。
少年にも秘密にするよう言った手前、このことは隠し続けなければならない。
「はい……」
メリナに返事をするも、ポケットの中の錠前に意識が向いてしまう。
現在ヴェスタは沈黙しているが、突然喋りだしたりしないだろうかと不安になる。
その時、ドアの開く音が部屋に響く。
直後に入室してきたのは、モスグリーンのドレスを身にまとった壮年の女性だ。
「皆さん、集まっていますね」
中央で分けた前髪が特徴的な、ブラウンのショートヘアー。
穏やかな目つきながらも、聡明さを感じさせるその容姿は、使用人たちとは明らかに違う風貌を見せている。
「おはようございます、スィニョーラ・チェルティ」
皆からスィニョーラ(婦人)と呼ばれる女性。名前はアメリア・チェルティ。
アデーレも既に挨拶を済ませているが、外見同様カミソリのような鋭い雰囲気には今でも畏怖の念を抱く。
アメリアはバルダート家の女性使用人を束ねる家政婦であり、この場の仕事の一切は彼女の仕切りで進められている。
故に仕事内容も事務が多く、多忙なためか使用人たちの前に姿を現すことは少ない。
そんな彼女がわざわざ使用人控室を訪れるということは、まず間違いなく重要な知らせがあるということだ。
とはいえ、現状話題に上がるものといえば一つしかないだろう。
「皆さん既にご存じのことでしょうが、先ほど大通りにて大きな事件がありました」
アデーレの推測通り、話題は怪鳥のことだ。
「現在は事態が収束したと伺いましたが、安全が確保されたとは断言できません」
怪鳥は既に爆発四散している。
なので間違いなく安全ではあるのだが、ここでヴェスタの言葉を思い出す。
あの怪物は、暗黒大陸の住人が召喚した化け物だ。
つまり、あの時姿を見せなかった黒幕が、追加で怪物を召喚する可能性がある。
今後も同じことが続くのかと思うと、アデーレの心は暗くなってしまう。
穏やかだった自分の故郷が、何者かも分からぬ存在によって平和を脅かされることになってしまったのだから。
だがそんなアデーレの思いとは裏腹に、使用人たちの前に立つアメリアは淡々と言葉を続ける。
「ということで本日、お嬢様には終日屋敷で過ごしていただくことになります。皆さんは現状にうろたえず、くれぐれも粗相のないようお願いします」
アメリアの言葉に、使用人たちが返事をする。
だが、そんな中メリナは、心配そうにアデーレの方を横目で見つめている。
これはつまり、アデーレがお嬢様……エスティラと遭遇する可能性が高まったということだ。
基本的に午前中は部屋で過ごし、午後は外出していたエスティラ。
そのため、使用人たちが仕事をしている最中に出会うことは稀なことだった。
しかし終日屋敷にいるとなると、そうもいかない。
「……参ったな」
小声でつぶやくアデーレ。
故郷のことに続き新たな問題が浮上したことで、その脳内は混乱をきたしつつある。
エスティラがアデーレのことを覚えていないということもあり得るが、そうでなかった場合は厄介だ。
最悪過去のことが原因で、使用人をクビになることも考えられる。
余裕のない家計、そして仕事の少ない現状。
たとえ重労働でも仕事があることはありがたいものだ。
それをまた一から職探しとなると、さすがのアデーレも骨が折れる。
(どうか、鉢合わせしませんように。あとできれば忘れていますように)
怪鳥の出現によって訪れた、小さな危機。
果たしてアデーレは、これを乗り切ることができるのだろうか。
数々の懸念が頭をよぎり、アデーレの意識がやや散漫になってしまう。
そこに、アメリアの切り裂くような鋭い視線がアデーレの方へと向けられる。
視線に気づいたアデーレはすぐさま背筋を伸ばすも、彼女に向けアメリアが注意を促す様子はない。
「メリナさんはこの後私の部屋に来るように。今後のことでお話したいことがあります」
「かしこまりました、スィニョーラ」
アメリアの視線は、アデーレではなく隣に立つメリナに向けられていたものらしい。
うろたえるアデーレに反し、メリナは彼女に見られようとも冷静で、深々と頭を下げた後にアメリアの方へと静かに歩み寄る。
その後アメリアは彼女を従えて控室を後にし、静かにドアが閉められた瞬間、残された使用人たちが緊張の糸が緩んだ様子で嘆息を漏らす。
そんな中、アデーレは二人が出て行ったドアの方を横目で
「さすがだなぁ」
脳裏に浮かぶのは、突然声を掛けられても驚く仕草一つ見せなかったメリナの姿。
ベテランらしい毅然とした彼女の姿に、アデーレはただただ感銘を受けるばかりだった。
◇
しばらくして、アデーレは戻ってきたメリナと共に午前の仕事場へと向かっていた。
この日も午前中はメリナに付き添う形で、ここでの仕事を覚えるのがアデーレの務めだ。
空の真上へと太陽が辿り着きそうな時間帯。
廊下の窓から差し込む光は少なく、静寂に包まれる廊下からは暑気を忘れさせる涼やかな空気をアデーレに感じさせる。
「メリナさん」
「アデーレ、お仕事の時は私語を慎むように」
アデーレの前を歩くメリナが歩みを止めずに振り返り、口元に人差し指を添える。
屋敷の中での使用人は極力気配を消すことが義務付けられており、勝手な私語によって主人からの叱責を受けることも珍しくはない。
自らが職務の最中であることを思い出したアデーレは、肩をすくめた後メリナに向け頭を下げる。
しかしメリナは歩きながらも周囲の様子を確認した後に立ち止まると、アデーレに向け振り返り手招きをする。
手招きに従いアデーレがメリナの傍に歩み寄ると、メリナは再び周囲を見渡してからアデーレの耳へと自身の口元を寄せる。
「どうしたの? 仕事のことで質問でもあったかな?」
先程の注意とは裏腹に、アデーレに対しては多少甘いところもあるのだろうか。
耳打ちで語り掛けてくるメリナの吐息にくすぐったさを覚え、アデーレの耳がわずかに紅潮する。
「仕事というか、スィニョーラの前でもメリナさんは落ち着いててすごいなと」
「あー、慣れないとあの雰囲気には緊張しちゃうよね」
「でも理不尽な方じゃないし、本当にすごい人なんだよ。私が今の仕事をやってるのもスィニョーラのおかげなんだから」
「え?」
「色々あってね。そういうわけで、今の私はスィニョーラのような立派な淑女を目指し奮闘中なの」
そう言って彼女ははにかみ、少し頬を赤くしながらアデーレへと背を向ける。
だが照れ隠しを見せるメリナの姿とは裏腹に、彼女が内に秘めているだろう強い決意のようなものをアデーレは感じていた。
自身の目標と明るく言ってみせたメリナの表情はどこか誇らしげで、それが
(誰かを目標に、か)
再び歩き出したメリナの背に、かつて夢の為に努力していた
遠い過去に思いをはせる彼女の様子を知ってか知らずか、廊下を進むメリナの進みは先程よりもどこか足早だ。
だがそんなメリナが急に立ち止まり、再びアデーレの方へと顔を向けてくる。
彼女からの言葉はない。
ただアデーレに向けて微笑みかけるその様子は、早く仕事場へ向かおうとこちらへ訴えかけているようにもみえた。
だからアデーレはメリナに向け頷き、足早に彼女の後へと続く。
歩き出したアデーレを確認したメリナは再び前を向き直り、整然とした足取りで歩き出す。
静寂に包まれた廊下に、二つの小さな足音が響いていた。
上空で、二匹の怪物が爆散する。 アデーレは爆炎の中から飛び出し、そのまま埠頭近くの倉庫の屋根に着地した。 埠頭の方を見ると、怪物達に囲まれた兵隊たちが苦戦を強いられているようだ。「数が、増えてる?」 最初は二十匹ほどだったはずの怪物は、四十近くまでに増加している。 一体どこから現れたのか。アデーレが港の周囲を見渡す。「アデーレ、海だ!」 アンロックンの言葉に促され、アデーレが埠頭から沖の方へと視線を向ける。 港から百メートルほど離れた位置にある深場だろうか。 青黒い海面を更に黒く染める、長く巨大な影が海中を潜行しているようだ。 茂る海藻を見間違えたかとアデーレが目を凝らすが、それは間違いなく港に向けて少しずつ移動している。「あれは……」 影の正体を見極めようとアデーレが目を細める。 その瞬間、影の上部から水柱が立ち、空中に巻貝らしきものが射出される。 数は五つ。殻は放物線を描きながら、港の方へと飛んでくる。「まずいっ」 屋根を蹴り、飛来する殻めがけて再び跳躍するアデーレ。 構えた大剣の刃が、赤く燃え盛る炎を纏う。 炎の光は軌跡となり、アデーレと貝殻の距離が一気に縮まっていく。 その瞬
主人の外出に際し、初めての付き添いを務めることとなったアデーレ。 エスティラの指示に従い辿り着いたのは、ロントゥーサ島にある最も大きな港の埠頭だ。 漁船以外にも客船や輸送船が停泊することを目的としたこの島唯一の港で、国外からの貨物船も寄港する貿易の中継地点として機能している。 しかし、今日はそんな港に、島民には馴染みのない大型軍艦が停泊していた。 船体は鉄製の装甲艦となっており、帆柱はなく煙突を有することから蒸気船だろう。 エスティラ曰く、島に常駐するわずかな衛兵では怪物に対する備えが不十分であることが判明した。 そのため、シシリューア島から共和国軍の一部が派兵されることとなり、この艦はその第一陣である。 そんな兵士たちを、現在島で最も位の高いエスティラが直々に出迎えることとなったのだ。 ちなみに、その提案をしたのは当のエスティラである。 『私の身の安全を任せるのだから、挨拶くらいはしておかないと』 というのが、エスティラの弁だ。 島全体の守備増強が目的だろうという疑問もあったが、アデーレはあえてそれを口にしなかった。 「これはこれは、バルダート家のご令嬢が直々に出迎えてくださるとはっ」 部下達を連れて颯爽と埠頭に降り立ったのは、三角帽がトレードマークの青い軍服姿の男。 彼は埠頭で待っていたエスティラに対し、帽子を脱いで仰々しくお辞儀をする。 その態度から、アデーレの目にも彼がこの船の艦長か、部隊の指揮官だろうと察することが出来た
夜のあぜ道を、私服姿のアデーレがとぼとぼと歩く。 空には三日月。 見慣れた故郷の夜空は、日本では見ることも難しくなった満天の星空だ。 ぼんやりと空を眺めていると、ポケットの中から何かが飛び出す。「お疲れ様だね、アデーレ」 目の前に現れたのは錠前……ヴェスタだ。 結局仕事中に喋ることはなく、アデーレも忙しさからその存在を忘れつつあった。「うん……ヴェスタ様はずっとポケットの中で窮屈じゃなかったの?」「はは。別にこれが僕の本体って訳じゃないから」 それもそうだとうなずくアデーレ。 だが、錠前越しにこちらを眺めているヴェスタの姿を思うと、のん気な神様だと呆れてしまう。「あ、今僕が神の世でのんびり観客決め込んでるって考えたね」「カンガエテマセン。ヴェスタサマ」「神に嘘吐きとは感心できないね。まぁいいけど」 人の考えることなどお見通しとは、さすが神様といったところか。 しかし、これではうかつなことは考えられない。 仕事と錠前によってプライベートが奪われていくことに、ため息を漏らす。 それもお見通しなのだろう。 錠前は笑っているかのようにカチャカチャと音を立て揺れる。「
食堂の隣には、客人との談話のために用意された応接室がある。 食堂に比べると狭い部屋だが、それでも一般的な家屋の一室に比べれば広い。 内装は食堂よりも豪華で、壁には蔓を模したかのような金の模様が張り巡らされ、室内に置かれたあらゆるものが、高級品で揃えられている。(どうしてこうなった……) そんな落ち着かない部屋の端で、アデーレは口を閉ざし自問していた。 中央のテーブルにはティーセットや軽食で彩られたケーキスタンドが置かれている。 傍に設けられた豪華なソファには、綺麗な姿勢で座るエスティラの姿が。 そんな彼女の隣には、黒のモーニングコートにアスコットタイという、誰が見ても執事と分かる壮年の男性が立っていた。 白髪交じりの黒髪に、しわが深く刻まれた穏やかさを感じる顔が印象深い。 女性の下級使用人が男性執事と関わることは少なく、当然新人のアデーレは初対面だ。 故にどうすればいいのか分からない彼女は、閉めた扉の前から動けずにいた。「何突っ立ってるのよ。これ以上待たせないで」 変わらず不機嫌そうなエスティラが、鋭い横目でアデーレを見る。 そこに割って入るように、執事がそっと口を開く。「お嬢様、彼女も初対面の者ばかりの場所で緊張しているのでしょう」 年齢を重ねた男性らしい、低く重みを感じさせる落ち着いた声で語り掛ける執事。 その後彼はアデーレの方に向き直り
午後の仕事は、主人たちの生活スペースで行われる雑務が多い。 これは主人の目につく場所での仕事になるし、来客と対面することも頻繁にある。 そのため、午後は身だしなみも整えるため、午前の服とは別に主人が用意した制服を着用することが義務付けられている。 黒い長袖ドレスに、フリル付きの白いキャップとエプロン。 これが、バルダート家の使用人に用意された基本的な制服である。 前日は主に階下の仕事が中心だったため、アデーレはここで初めて制服に袖を通すこととなった。 「なるほど……」 いわゆるメイド服というものに初めて袖を通したアデーレ。 その完成度の高さに、思わず感嘆の声を上げた。 デザインだけ見れば、煌びやかさは微塵も存在しない地味な衣装だ。 しかし自前で用意した仕事着よりも、生地の材質や縫製の精度が優れたドレス。 ロングスカートながらも動きやすく、なおかつ形が崩れない工夫が随所に施されている。 何より、控えめだからこそ醸し出される気品を受け、アデーレの背筋は自然と伸びる。 国の執政にも関わる貴族の家ならば、使用人の制服にも相応の金と手間が掛けられているということだろう。 今さらながら、アデーレは自分が高位の家に務めているということを実感していた。 「それでは、本日はこちらで調度品の手入れをして頂きます」 先導するアメリアによって、数名のメイドと共に案内されてきたのは二階にある広い食堂だ。 中央には
アデーレがバルダート別邸に到着した時、使用人たちの間では既に怪鳥の話題で持ちきりだった。 使用人たちが集まる、屋敷一階の使用人控室。 主人らが使う部屋とは違い、シックな家具でまとめられた絢爛から程遠い部屋である。 しかしそこは名だたる名家、天下のバルダート家だ。 たとえ使用人が使う家具だろうとも、庶民が一年休まず働いても買うことのできないものばかりである。「アデーレ、本当に何ともないの?」「はい、大丈夫です」 エプロン姿にすまし顔のアデーレを前に、メリナは困惑の表情を浮かべる。 騒動を受けてもなお屋敷にやってきたアデーレには、彼女だけではなく他の使用人たちも驚いていた。 「さすがにあんなことがあったら休んでも大丈夫なのに。真面目だねぇ」 話を聞いていた先輩の使用人も、真面目なアデーレを前に苦笑を浮かべている。 「でもねアデーレ、私はあなたの身に何かあったら嫌だから。こういう時は真っ先に自分の身を守らないとダメだよ」 使用人になるのを提案したこともあってか、特にメリナはアデーレの身を案じているようだ。 こうなると、自分が騒動の渦中で、しかもそれを解決したなどとは口が裂けても言えないだろう。 少年にも秘密にするよう言った手前、このことは隠し続けなければならない。







