LOGINアンロックンとひとしきり言い争いをしていたアデーレは、埠頭へ続く道を急いでいた。
長い髪を振り乱し、ロングスカートをなびかせながら。
目指す先は当然、雇い主であるエスティラの元だ。
(そういえば、キャップが戻ってない……)
変身解除と同時に服装が元に戻ると思っていたアデーレ。
しかし、キャップは瓦礫を避けた際に脱げてしまい、今頃は残骸の下敷きだろう。
変身を解いて戻るのはアデーレの直前の姿ということのようだ。
変身した際に被る帽子は、キャップが変化したものではなかったのか。
そんなどうでもいいことを考えながら、波音が強くなる方に向けて走る。
そして、目の前の角を右に曲がったところで、視界が一気に開ける。
「おおっとっ。大丈夫かい、メイドさん?」
出会い頭に、一人の兵士とぶつかりそうになる。
これをアデーレは、体をひねって器用に回避する。
転ぶような
そんな兵士と向き合うと、アデーレは謝罪のために深々と頭を下げた。
「申し訳ございません。エスティラお嬢様はどちらにいらっしゃいますか?」
「いやいや、そんなかしこまらないで。お嬢様だったらほら、あそこだよ」
顔を上げるアデーレに愛想のいい笑みを見せる兵士。兵士の示す方に目を向けると、先ほど屋根で遭遇した時と変わらぬ場所で、エスティラは立ち尽くしていた。
その表情は恍惚とでもいうのだろうか。そんな感じだった。
「ありがとうございます」
改めて頭を下げ、エスティラの元へ駆け出すアデーレ。
アデーレといえばひいき目に見ても男性の目を引く容姿だ。
目の前を駆けてゆく使用人を、兵士たちは目で追う。
周囲の視線を集めながらも、アデーレはそれを気にすることなくエスティラの傍に駆け寄る。
「お、お嬢様、ロベルトさん、ご無事ですか?」
とは言うものの、既にエスティラ達が無事なのは確認済みである。
そんな社交辞令を交えつつ、アデーレはエスティラの様子を改めて確認する。
「おお、あなたこそ。よくぞご無事で」
アデーレの声に気付いたロベルトが、彼女の無事に胸を撫で下ろす。
「はぁ……素敵」
対するエスティラ。
アデーレの言葉をこれっぽっちも聞いていないようで、相変わらず上の空だ。
その視線は、先ほどまでアデーレがヴェスティリアとして立っていた場所に向けられている。
あの時の様子を思い出す。
まさかエスティラは、変身したアデーレの姿に魅了されてしまったのか。
そんなことを考えていると、傍にいたロベルトがエスティラに耳打ちをする。
その言葉ではっとしたエスティラが、わずかに頬を赤く染めながら勢いよくアデーレの方を向く。
「ちょっとあなた、どこ行ってたのよ! 心配かけないでよね!」
五体満足のアデーレを前にして、エスティラは子供のように怒りだす。
本心を隠しきれていないその様子からも、彼女が真剣にアデーレを心配していたことが
「申し訳ございません。あの後別の怪物に追いかけられて、お嬢様達とは別方向に逃げ出したもので」
「そ、そう。まあいいわ」
冷静さを装うアデーレを前にして、エスティラは咳ばらいをしながら落ち着きを取り戻す。
そんな彼女の視線が、今度はアデーレのつま先から頭の先端へと向けられる。
「……逃げていた割には、綺麗なモンね。というか」
エスティラが、アデーレの頭を注視する。
その眼差しは先ほどの心配した様子から、疑惑に満ちたものへと変貌している。
「キャップ脱いだ姿は初めて見たけど…………」
何かを考えこむエスティラ。
今のアデーレは、母親お墨付きの長い黒髪をそのまま下ろした状態だ。
使用人としては少々だらしない格好と思われかねないが、状況が状況だったために致し方ない。
だが、エスティラはそういうことを注意しようという様子ではない。
むしろ、今のアデーレの姿を見て、何かを思い出そうとしているようだった。
その時、アデーレの顔が青ざめる。
今、自分は大失態を犯してしまったのではないだろうか、と。
髪を下ろしている今の自分には、六年前の面影が多少なりとも残されているのではないか……。
「……思い出したわ」
アデーレの懸念は、間違いのないものだった。
見開かれるエスティラの目。
そこに浮かぶ驚愕と、沸々と湧き上がる怒りの表情。
いよいよ、アデーレは確信してしまった。
今の自分の容姿は、エスティラにとって忌まわしい過去を振り返るのに十分な情報を与えているのだ、と。
「あなた、昔気安く口を挟んできた小娘じゃないっ!!」
アデーレを指差し、高らかに叫ぶエスティラ。
雷に打たれたような衝撃が、アデーレの身体を襲う。
「お、お嬢様。急に大声を出されては……」
「ロベルトは黙って!」
今までにない鬼気迫る様子に、ロベルトも口をつぐむ。
アデーレの方と言えば、今すぐこの場から逃げ出したい気分だった。
エスティラが過去の因縁を思い出すという恐れていた事態が、とうとう現実のものになってしまったのだから。
――これは間違いなく使用人をクビになる。
確信を得たアデーレは、ただただ無表情で空を仰ぐ。
「まったく、どうして気付かなかったのかしら……というか、よくも私の前に姿を現せたものねっ!」
「いや、それは……その……」
「黙りなさいっ! アンタに弁明の余地があると思ってるの!?」
今にも噛みつかんという勢いでアデーレを睨むエスティラ。
そもそも、あの時の出来事に関してはエスティラの方に非がある。
何を弁明しろというのか聞き返したいところだったが、今のエスティラには何を言っても無駄だろう。
アデーレは口をつぐみ、ただこの嵐が過ぎるのを耐えるだけだ。
しかし嵐のようなエスティラの怒号が止み、二人の間に沈黙が流れる。
周囲の兵隊も、エスティラの怒鳴り声で閉口してしまっている。
今アデーレの耳に入るのは、凪を取り戻した波の音だけだ。
「あ、あの……」
意を決して、アデーレが口を開く。
「昔のことは、今ここで謝罪するので」
「やめなさいよ! 今更あの時の謝罪なんてさせたら、それこそ私が惨めじゃないっ!」
「え? ああ、それでは、えっと……」
エスティラの怒りに対し要領を得ることが出来ないアデーレ。
果たして自身に何をさせたいのか、エスティラの考えが読めないでいる。
謝罪させるつもりがないということは、彼女が過去の行いを恥じているということだろうか。
困惑の色を隠せず、言葉の浮かばないアデーレは冷や汗を垂らしつつ息を呑む。
やはりメリナの言う通り、エスティラは人間的に成長しているのかもしれない。
だが、現状をこのまま放置していても事態は悪化の一途を辿るばかりだ。
アデーレは短く深呼吸をすると、改めてエスティラに向け頭を下げ言葉を続ける。
「で、出来れば屋敷を追い出すのだけは、ご勘弁願えませんか?」
それは、
過去の因縁を覚えていたエスティラが、アデーレを傍に置こうなどとは考えないだろう。
しかしあの屋敷は今でも人手不足。
今後お付きの使用人になることはなくとも、雑務のための人手として置いてもらえるかもしれない。
使用人としてキャリアを積みたいわけではない。
不作の時期を過ぎれば、今までのように家業を手伝いながら暮らせばいい。
仕事のないこの期間だけでも、使用人を続けていられればそれでよかったのだ。
「はぁ?」
そんな言葉に対するエスティラの反応は、明らかに不機嫌なものだった。
アデーレが上目遣いで確認するエスティラは腕を組み、自分より身長が高いアデーレのことを見下ろすかのように睨んでいる。
「バカ言ってるんじゃないわよ」
やはりだめなのかと、アデーレは諦めを覚えてまぶたを閉じる。
「追い出す? この私が今更アンタを逃がすとでも思ってるわけ?」
一瞬の沈黙。
「……はい?」
顔を上げ、首をかしげるアデーレ。
エスティラが何を言っているのか、アデーレには理解できなかった。
屋敷を追い出されると考えていたのに、返ってきた言葉はそれとは真逆の内容だ。
恐る恐る頭を上げつつ、エスティラの方へと視線を送る。
そこにあったのは笑顔だ。
悪魔も閉口するような、邪悪な笑みだ。
しかしこれこそが、これまでアデーレがイメージしていたエスティラの姿である。
「まさかあの時の小生意気な町民が、うちのメイドに志願するなんてねぇ。フフフ……」
腕組みをしながら、値踏みをするようにエスティラがアデーレを見つめる。
(この人、猫被ってたんだ……ッ)
町の被害に対し真摯に向き合っていたのも、使用人に対し厳しくも理不尽を剥き出しにしていなかったのも、あくまでエスティラの外面だった。
その内には確かに、理不尽なお嬢様としてのエスティラ・エレ・バルダートが潜んでいたのだ。
多少でも油断していた自分を情けなく思いつつ、アデーレの口元が苦笑を浮かべる。
しかし目を合わせたエスティラが放つ威圧感に
そんなアデーレに対し、エスティラの方が二歩三歩と距離を詰めてくる。
ついには胸ぐらを捕まれ、アデーレの視界がエスティラの顔で遮られてしまう。
恐ろしい形相を浮かべていても容姿自体は端麗で、男なら魅了される者も多いだろう。
元男性であるアデーレも、そんな美しい顔が目の前に迫ってきたことで、ほんの少しだけ胸が高鳴ってしまうのだった。
「アンタ、名前は?」
「は……はい?」
「間抜けな顔してんじゃないわよ。名乗りなさいって言ってるの」
胸ぐらから手が離れたかと思うと、今度はアデーレの顎先にエスティラの右手人差し指が触れる。
ほんの僅かに、アデーレの肩が震える。
「あ、アデーレ……です」
「フルネーム」
「……アデーレ・サウダーテ、です」
名前を聞いて満足したのか、エスティラが背を向け離れていく。
ほっと胸を撫で下ろすアデーレ。
だが気を緩めたところに、エスティラがつま先を使い華麗に振り返る。
「アデーレ。今日からは私直々に、メイドの何たるかをアンタに仕込んであげるわっ」
アデーレを仰々しく指差しながら、高らかに宣言する。
「えっ?」
「二度とこの私に逆らえないよう、徹っっっっっ底的に躾けてやるんだから!」
白い歯を見せながら、エスティラがにやりと笑う。
だがその目は笑っていない。過去の因縁を内に秘めた、怒りが満ちる瞳だとアデーレは直感する。
「泣いても笑っても逃がさないわ。覚悟なさい!!」
今日一番の笑い声が、高らかに響き渡る。
周囲の人々は唖然とし、誰も口出しをすることは出来ない。
ただ一人、アデーレは目の前が真っ暗になるような感覚に襲われていた。
てっきりクビにされると思っていた彼女にとって、この展開は全く予想していなかったのだ。
むしろ、発言からしてクビになるよりも恐ろしい事になったとしか思えない。
ただでさえ過酷だった使用人の仕事が、文字通りの地獄に変わった瞬間だった。
アデーレは思う。勝ち誇るエスティラに言ってやりたいと。
ヴェスティリアの正体は、この私だと。
そしてもう一つ。逆らう気なんて元々ないことも……。
アデーレはただ、心の中で涙を流すことしかできなかった。
エヴァと共に階段を下った先には、遺跡とも廃墟とも取れる建物群が建ち並んでいた。 岩を削って作られた大通りを挟むようにして、かつては店が並んでいたのだと想像を掻き立てる軒先が並ぶ。 元々屋根だったのだろう、朽ちた木片が所々に落ちているが、長い時を経てその原型はほぼ失われている。 灯火を頼りに、アデーレはエヴァと並んで地下都市を進む。 所々で作業員が話し合い、建物の中へと慎重に足を踏み入れる様子も見受けられる。「これで宝物とかあったら大変そうですね」 冗談交じりにエヴァがつぶやく。 だが真顔で言われると、アデーレにはそれがジョークなのかどうなのか判断に悩むところだ。 こういった場所での宝の奪い合いは、少なくともこの世界でも一般的な話らしい。 だが見る限り、外見からしてこの辺りは一般人の居住区であったことは明白だ。 こんな場所に宝物を守るためのトラップがあるとは、アデーレは一切考えていなかった。 こうなると、素人目で見ると遺跡と言ってもただの残骸だ。 決して面白いものではなく、退屈なものである。(気を緩めるわけにはいかないけど……) そう。あくまでアデーレがここにいるのは、人々を魔獣の被害から守るためだ。 万が一この場所を破壊しようと生物型の魔獣が現れた場合、安全と言える場所は多くない。 地下都市自体は広くとも、廃墟というのは意外に脆く、身を守るには不適当だ。 何より、出入口が先ほど降りてきた階段ただ一つである。 魔獣もまたそこから現れることを考えれば、今ここにいる人々は袋のネズミにならざるを得ない。 自らもそういった危機的状況に身を置いていることを考え、改めて胸を張り、気を引き締めるアデーレ。 軽く深呼吸をすると、古いほこりが舞う空気でむせ返りそうになる。 それを誤魔化すよう軽く咳払いし、念のためにと後ろを振り返り階段の安全を確認する。 そこでアデーレは、先ほど階段で起きた出来事を思い出す。「そういえば、階段降りてる最中の気配ってどう思います?」「作業員の方が気にしていたものですね。私は暗闇の中で感じた幻覚だと考えますが」 その問いに対し、エヴァの声は特段興味があるわけでもなさそうな様子だ。 アデーレ自身も気のせいだろうという気持ちが強く、何よりろくに食料もないこの場所で動き回るものがいるとは考えられなかった。
延々と地下へと続く長い階段を、人間の集団が降りていく。 ランタンの灯りは彼らの周辺しか照らすことができず、進む先には光の届かない暗闇が広がる。 先を見通すことができない彼らには、この階段が地の底まで続いているのではないかと不安を抱くことだろう。 ただ一人、異なる世界の前世を記憶するアデーレは違った。 踏み入れた地下遺跡の階段を一歩ずつ踏みしめる度、前世で見た洋画のワンシーンを思い出す。 どこかに感圧式のトラップスイッチがあり、踏み込んだ瞬間壁や天井から槍が飛び出すような。 そんなシチュエーションを思い浮かべつつ、彼女は足元を警戒しながら階段を下りていく。 とはいえアデーレは集団の中ほどを歩いているため、真っ先にトラップを踏むことになるのは最前列を進む作業員だ。 トラップは考えすぎかもしれないが、万が一の事故は起こり得る。 今この瞬間は、全員の無事を祈るばかりだ。「だいぶ進みましたね。十分ほど下っているでしょうか」「分からん。だが私はひしひしと感じているぞ。この先に偉大なる先人の造り上げた地下都市が存在すると」 何だその感覚は、と呆れつつ、エヴァとダニエレの会話に耳を傾けるアデーレ。 ほとんどの者が恐怖の表情を浮かべているというのに、随分と余裕があるようだ。 そんなことを考えていた次の瞬間、前を歩く作業員が突然その場で立ち止まる。 慌てて足を止めたアデーレだったが、間に合わず前の人の背中と接触してし
相談を受けたロベルトの手引きにより、アデーレはエスティラから数日の休みを与えられた。 外出制限がかかっていたこともあり、休養の許可は比較的簡単に取れたという。 これを好機と見たアデーレは実家に帰宅し、両親と軽く顔を合わせた後に目的地の発掘現場へと単身赴いたのだった。 アデーレの来訪を知ったダニエレは、特に何の警戒を見せることなく自身専用のテントへと彼女を招いた。「ほぉほぉ、個人的に興味があって現場を見てみたいと」「はい。故郷に関わる知識を学ぶことで、お嬢様の助力になると思いまして」 彫刻を施された柱で建てられたテントは、さながら絢爛たる高級ホテルの一室を思わせるものだった。 チェストや執務用の机と椅子、ソファやベッドは重量感のある木材が用いられ、地面には目が回るほどに細やかな模様の絨毯が敷かれている。 ちなみに内部は土足厳禁であり、ダニエレもテント内では靴を脱ぎ、執務用の机で報告書を読みながらアデーレを出迎えた。 本来ならば、ダニエレほどの貴族がアデーレのような一般人を自らのプライベート空間に招くようなことはしない。 それが常識なのだが、結局のところ予想通りダニエレは性欲の方を優先したと見ていいだろう。 その証拠に、先程からダニエレは書類に目を通す仕草をしているだけで、実際の目線はアデーレの体に向いているのが一目瞭然だ。 あのような接触を受けてもなお自らに接触してきたアデーレを、ダニエレはどう思うだろうか。 少なくとも、都合のいい女などと思われているとみて間違いないか。「まずは座りたまえよ。私が発掘状況について詳しく教えてあげるからね」 そう言ってダニエレが指差したのは、ソファではなくベッド。 卸したてのシーツが掛けられた天蓋付きのダブルベッドは、明らかに【そういう目的】を考えて置かれたものだろう。 覚悟をもってこの場に赴いたとはいえ、アデーレがダニエレに体を許そうなどという考えは微塵もない。 だがここで下手な抵抗を見せれば、作業現場に送られた島民や本島などから来た作業員を守ることができない。 さすがに戸惑い隠すことができず、愛嬌のつもりでアデーレは首をかしげる。 そんな彼女の様子が逆に扇情的に思えたのか、下劣な笑みを浮かべたダニエレが席を立つ。「緊張しているのかな? なぁに、私は紳士だからね、安心しなさい」 どの口で
悪意ある来訪を乗り越え、一応の解散を迎えた会合。 だがダニエレの言葉に対する懸念をぬぐい切ることはできず、アデーレは不安を抱えながら日々を過ごす。 そして、大きな動きもないまま五日の月日が経った頃……。 エスティラの使いで町に出ていたアデーレ。 用件を終え大通りを歩いていると、目の前に馴染み深い後ろ姿があることに気づく。 ちょうどその人物も背後を振り返り、互いに顔を合わせたところでアデーレに対し笑顔を見せる。 それは彼女の父、ヴェネリオだった。 実に二週間ぶりに顔を合わせたこともあってか、彼は嬉々とした様子でアデーレの方へ駆け寄る。「やあ、アデーレ。お嬢様の使いかい?」「うん。お父さんは買い物?」 「そうだよ」と言いながら、小脇に抱えた紙袋をアデーレに見せるヴェネリオ。 中には日用雑貨が入っており、母にお使いを頼まれたのだろうとアデーレは察する。「しかし元気そうでよかったよ。お嬢様も事件に巻き込まれたりと色々大変なんだろう?」「まあ、うん。あまり大きな声で言わないでね」「ああごめんごめん。でも正直父さん心配だよ」 ヴェネリオは子煩悩を絵に描いたような父親だ。 がっくりとうなだれるその様子からも、聞き知ったあらゆる噂話に胸を痛めてきたであろうことが伝わってくる。 たとえアデーレが一言大丈夫と告げたとしても、この不安を解消することはできないだろう。 だが、それでもヴェネリオは仕事を辞めるようアデーレに言いつけることはしなかった。 サウダーテ家の家計もあるし、彼女が今の仕事に対し真剣に向き合っていることを、言葉を交わさなくても理解しているからだろう。 とはいえ露骨に落ち込まれると、人々の往来がある中ではどうしても目立ってしまう。「お父さん、とりあえず顔上げて。ね?」 アデーレに慰められ、ようやく顔を上げるヴェネリオ。 まるでお預けを食らった子犬のような顔をした父親に対し、アデーレはただただ苦笑を返す。 それよりも、二週間ぶりになる親子の再会だ。 もっと場を和ませる明るい話題はないかと、アデーレは思案を巡らせる。 母のことや家のこと。畑の様子や友人の話題。いくらでも語り合うことができる。「そういえば、最近何か変わったこととかあった?」 アデーレに問われたヴェネリオが、首をかしげながら考え込む。 うんうんとしばらく
「ほほ、随分と微笑ましいことですなぁ」 前触れもなく向けられた言葉を聞き、立ち上がったエスティラが声の主の方を見る。 彼女の動きに合わせ、アデーレを含めた周囲の人々もそちらを振り向いた。 そこに立っていたのは、従者を従えて微笑みを浮かべるダニエレだった。 突如現れた見知らぬ老人を目の当たりにし、少女は再び母親の後ろに隠れてしまう。 対するエスティラは、気品あるお辞儀で彼を迎える。「ごきげんよう、ダニエレ教授。本日は突然どのようなご用件で?」「はは。少々急ぎの用事がありましてなぁ。門前の者に無理を言って通してもらったよ」 『突然』と付け加えたのは、エスティラなりの嫌味だろう。 なぜなら今回の会合にダニエレは招かれていない。 外部の人間かつ上流階級がこの場に現れれば、この場に集まっている者全員が委縮してしまい彼女の目的が意味を成さない。 しかしダニエレがそのようなことを気にする人物でないことくらい、アデーレでも察しがついている。 更に言えば、このような現れ方をしたのもダニエレなりの嫌がらせという可能性がある。 どちらにせよ、この場において彼はお呼びでない相手だ。 それでもこうして屋敷に入ってこれたのも、上流階級であり厚顔無恥な老人ゆえか。 こうなると、周囲の人々も彼に対しては怪訝そうに眉をひそめるばかりだ。「さてさて、どうやら島の有力者の方々が集まっているようで。これは逆に都合がいい」 周りの冷ややかな視線など気にすることなく、ダニエレは笑顔のまま辺りを見渡す。 それに反し、無表情を貫くエヴァを含む従者の面々とのギャップに、アデーレは背筋に冷たいものを感じてしまう。 考えが顔に出ると小言を言われるアデーレとしては、従者たちの態度は使用人として見習うべきところかもしれない。 しかしこんな無礼な男に仕えて、普通の人間なら反感を抱くものだ。 極めて優秀な使用人ならば、主人がこれほどまで礼儀を欠いた行為を見せようとも、嫌悪を抱かないものなのか。 これがプロフェッショナルというのならば、アデーレには一生辿り着けない境地だろう。「ふむ。我々に対し何か提案があるということですか?」「その通り。さすが若い者は話が早いねぇ」 ダニエレが先程エスティラと話していた若い跡取りに近寄り、彼の肩を軽く叩く。 そのまま跡取りの横を通り過ぎていく
手紙の一件から二日後。 久々の晴天に恵まれたこの日、屋敷前庭の一角に人だかりができていた。 その人だかりに囲まれるようにして、装飾の施された一本足が特徴の白い金属製丸テーブルがいくつか並べられている。 テーブルの上には、手に取って食べることのできる軽食が何品か用意されている。 前庭に集まった人々はこの島で有力者に位置する者やその家族。 他にも教会関係者が数名混じっており、全員が雑談に花を咲かせているところだった。「あーっ、アデーレ姉ちゃんだ!」「お姉ちゃんのお洋服、きれいだねーっ」 来客に飲み物を運ぶアデーレの周りで、小さな子供たちがせわしなく駆け回る。 島民同士が大体顔見知りであるロントゥーサ島において、アデーレは若い女性というだけで否応なく子供たちの注目を集めてしまうものだ。 しかし今は仕事の真っ最中。 基本的に雑談を許されない使用人という立場上、アデーレは子供たちに対し苦笑を向けることしかできなかった。 それでも構ってほしい子供たちは彼女の周囲を離れず、スカートに触れたり足元で飛び回ったりとやりたい放題だ。 当然このような状況では仕事も捗らない。 代わりに同僚がそつなく仕事をこなせていることを考えれば、子供たちの相手をすることがアデーレの仕事といえなくもない。 さて、このような状況下で苦言を呈することもあるエスティラだが、彼女は来客者との応対に勤しんでいる最中だった。「本日はお招きいただき、誠にありがとうございます」 彼女に頭を下げる優男。彼はこの島で海運業を営む家の跡取りだ。 アデーレにとっては二つ年上の顔見知りであり、若い者同士ということでそれなりの付き合いはある。 農家の娘と運送屋の息子。身分の違いはあれども狭い島。 立場による隔たりなど、ほとんど存在しないのが実情なのだ。 そんな友人も、今では跡取りとしての所作が身についているらしい。 幼少の頃よりも礼節をわきまえるようになった友人を、エスティラは温和な笑顔で応対する。「こちらこそ、本来は招かれた立場なのにこのような形になってしまって」「いえ、現状を鑑みればそれも致し方ないことです」 そう。この会合は先日の話題にあった、教会での集まりの代わりである。 本来は教会側がエスティラを招いて懇親会を開く予定だったのだが、魔獣の一件が災いしたことで予定は取り







