恋人の浦上創太(うらがみ そうた)の命を救うため、黒石寧々(くろいし ねね)は、彼を刑務所へと送り込み、その上、寧々自身が、創太が最も憎む兄浦上拓巳(うらがみ たくみ)に身を委ねた。 その裏切りを、創太は決して許せない。 三年後、出所して権力を掌握した創太が最初に手をかけたのは、寧々への復讐だった。 創太は寧々の義妹黒石遥(くろいし はるか)と関係を持ち、寧々に土下座を強要し、二人が情事を終えた部屋の後片付けを命じた。そうして、寧々の誇りを徹底的に踏み砕いたのだ。 しかし、創太は知らなかった。寧々が胃がんに侵され、余命幾ばくもないことを。 彼女はとっくに自分の墓地を手配済みで、死ぬ覚悟を決めていたのだが……
View Moreその隙に、遥が気を緩めたのを見て、寧々は縄を振りほどくと、傍らにあった花瓶を掴み、遥めがけて投げつけた。創太は、自身の胸の傷の痛みをものともせず、一歩大きく踏み出して寧々をかばい、彼女の手を掴んだ。火勢はますます強まり、煙はたちまちビル全体に広がった。鼻を刺すような煙が、部屋の隅々に充満した。創太は、あらかじめ用意しておいた濡れタオルで寧々の口と鼻を覆い、彼女の手を引いて外へと駆け出した。寧々の足取りがふらついた。創太は傷を顧みず、彼女を背中に背負った。二人が外へ飛び出した時には、寧々の服までが創太の血で染まっていた。創太は全身の力を振り絞って寧々を安全な場所へと送り出すと、そのまま玄関先で倒れた。病院で、創太がかすかに目を覚ました。寧々は安堵の息をついた。遥の行方を尋ねると、寧々の表情は暗くなった。「発見された時には……もう炭のようになっていたって聞いたわ」創太は寧々を慰めた。「あれは彼女の自業自得だ。たとえ運よく生き延びたとしても、牢獄は免れなかった。自分を責めることはない。むしろ……彼女にとっては、これが楽だったかもしれない。安心してくれ、彼女の両親のことは、俺がしっかり面倒を見る」寧々はうなずいたが、唇を強く噛みしめ、くるりと背を向けると、差し込むような胃の痛みを必死に押さえ込んだ。苦しそうな表情を創太に見せて、心配をかけたくなかったのだ。創太は寧々の体調不良を察知した。彼はよろめきながら起き上がり、腕の点滴の針を引き抜いた。その動作で、数滴の血が手の甲を伝って落ちた。「何をするの?」彼の口調は断固としていた。「退院する。家に帰ろう」寧々も、この生気のない病院に長く拘束され、普通の生活からは遠ざかっていた。家に帰りたい気持ちはあったが、創太の傷は致命傷ではないにせよ、まだしばらく病院で静養する必要があった。創太は首を振った。「大丈夫だ。かかりつけの医者がいるから」彼の強い意志を前に、寧々は逆らえず、彼に付き添って家路についた。車は郊外の一軒の別荘に停まった。寧々はこの別荘を見たことがなかった。庭へ足を踏み入れると、小道の両脇には彼女の好きなジャスミンの花とひまわりが植えられ、お気に入りのブランコも置かれていた。ドアを押し開けて、さらに驚いた。シンプルモダンな家具、そしてテーブルの上には真
秘書が遥の妊娠していないという診断書を寧々に見せた。彼女はその時、自分が遥に騙されていたことを悟った。少し気まずそうに創太の方を見た。創太は寧々を抱き寄せた。彼にとっては、誤解されようが、無視されようが、彼女が生きていることこそが何よりも大切だったのだ。寧々が彼の手首を見ると、傷は完全には癒えておらず、深紅の傷が痛々しかった。「創太……私、ちゃんと治療を受けるから。お願い、もう馬鹿なことしないで」創太はうなずき、彼女の額にそっと口づけをした。いつの間にか、創太はあの金の指輪を取り出していた。かつて創太がプロポーズした時のも、寧々が長年大切にしまっていたあの指輪だ。創太は片膝をついた。一瞬、寧々の目の前には、かつてのあの若々しく凛々しい創太の姿が重なった。「寧々、俺と結婚してくれますか?」全く同じ言葉が、年月を貫き、彼女の心の最後の壁をも打ち破った。寧々の目は次第に涙で霞んでいった。「寧々。お前がどれだけ生きられるかは関係ない。俺はずっとお前と一緒にいる。だから……もう俺を拒まないで、遠ざけないでくれ。お前なしでは、俺も生きていけないんだ」寧々はうなずいた。創太の目尻もわずかに赤くなっていた。彼はその金の指輪を、今度は慎重に寧々の指にはめた。この瞬間、二人の間にあったわだかまりは消え、過去の誤解やもがきは霧散した。生死を除けば、二人を引き裂くものはもう何もなかった。創太は結婚式の日を翌月に決めた。寧々はからかった。「あなたほどせっかちな人、見たことないよ」創太は彼女をぎゅっと抱きしめた。「今すぐにでも、お前を俺の妻にしたいくらいだ」「じゃあ、今すぐ役所に行って入籍すればいいじゃない」寧々にとって、結婚式はあくまで儀式に過ぎなかった。しかし創太は首を振った。彼はまだ寧々との約束を果たせずにいた。花をテーマにした結婚式という約束を。かつて約束したことだ。今、その一つ一つを果たしたいと思っていた。寧々の体調を考慮し、式は大げさにはせず、親しい友人だけを招いた。二人は参列者の見守る中、指輪を交換し、誓いの言葉を交わした。愛する人たちの前で、思い切り愛を語り合った。寧々は体調を慮り、先に控えのホテルルームで休むことになった。創太だけが友人たちに引き止められ、杯を重ねていた。皆
秘書は慌てふためき、まずタオルで彼の手首の止血をすると、すぐに電話を取って119番にかけた。手を伸ばして創太の様子を探ると、かすかな息遣いしかなかった。創太の容態は緊迫していた。ICUでは、血液バンクから輸血用の血液が緊急で手配されている。秘書は外で、やきもきしながら行ったり来たりしていた。外の騒がしい物音が、同じくICUにいた寧々の注意を引いた。ここは創太が手配した私立病院だ。本来なら他の患者がいるはずはない。こんな夜遅くに外の音が絶えないのは、明らかに何かあったのだ。彼女は患者服を着て、部屋から出て行った。そして顔を上げると、創太の秘書の服が、全身血まみれになっているのが見えた。強烈な不安が、彼女の胸をよぎった。近づいて尋ねた。「どうしたの……?」その時、医師がマスクを外し、ICUから出てきた。「今、非常に危険な状態です。我々は全力で救命処置を行っていますが、浦上様の生存意志が非常に微弱です。つまり、ご本人が生きようとされていない。このままでは、医師の手にも負えません」秘書は傍らにいる寧々を見ると、まるで命綱をつかんだかのようだった。「黒石さん、浦上社長が……手首を切って自殺を図ったんです。私が気づいた時には、かすかな呼吸しかありませんでした。ナイフで手首を3センチ以上も深く切り裂いて、浴槽は血の海でした……社長は確かにたくさん間違ったことをしました。でも……黒石さんだって、社長が本当に死んでほしいとは思っていませんよね?今、社長の生存意志を呼び戻せるのは、黒石さんだけなんです……」秘書の言葉はたくさんあったが、寧々の耳に届いたのは、彼が手首を切って自殺を図り、生きる意志がない、ということだけだった。そして、以前、彼が言った言葉を思い出した。「二度とお前の前に現れないようにもできる。ただ一つ、お前に治療を続けてほしい。自分を諦めないでほしい。それさえ叶うなら……俺は何だってする」彼女が「憎い」と言ったからだろうか?だから彼は、こんな方法で去ろうとしたのか?寧々は無菌服を着て、病室に入った。消毒液の匂いが、これほどまでに鼻を刺すように感じられたことはなかった。彼は目を閉じ、眉をひそめ、輸血の管が体中に繋がれている。彼の名前を呼びたい。だが、喉が詰まって、声が出せなかった。彼女の頬は、とっくに涙
彼女はそれ以上何も言わず、くるりと背を向けて立ち去った。もうあの二人の間に楔を打ち込むことは成功したと分かっていたからだ。夜も更けた頃、用事を片付けた創太が病室にやって来た。ベッドで眠る寧々の顔を見つめながら、彼は心の中で願った。寧々の病気が順調に回復し、一日中この病室に閉じ込められる日々が早く終わりますように、と。ふと、手のひらに温かい液体が落ちる感覚を覚え、寧々はゆっくりと目を開けた。枕元に創太の姿があった。彼がかつてしたこと、遥のお腹にいる子供のことを思い出し、寧々はそっと自分の手を彼の手から離した。「創太、そんなことしなくていいわ。あなたの傷がもう大丈夫なら、私が負っていた責任は、もう果たしたの。銃弾を身代わりになってくれて……ありがとう。それだけよ」そう言うと、自分に刺さっている点滴の管を外そうと、起き上がろうとした。創太は寧々をベッドに押し戻した。「誰が大丈夫だって言った?」そう言いながら、自分の服を引き裂いて寧々に傷跡を見せようとした。寧々は拒むように背を向けた。「俺が責められているのは分かっている。お前をこれほど傷つけるようなことをして……お前の許しを請うつもりはない。ただ、お前に生きてほしいんだ。たとえ俺を許さなくても構わない。俺が犯した過ちは、俺が代償を払う。でも、その前に……治療を受けてくれ」寧々は虚ろな目で周囲を見回した。東町に戻れば、創太や遥がもたらした苦しい記憶が蘇る。割れた鏡は、もう元には戻らない。ましてや二人の間には子供までできてしまった。医者である寧々は、誰よりも自分の病状を理解していた。たとえ今、がんが広がっていなくても、病状が好転しているわけではない。いつ死が訪れてもおかしくないのに、どうしてこれ以上誰かに迷惑をかけられよう。自分がいなくても、遥がいなくても、今の創太の立場なら、彼を愛する人、あるいは彼が愛する人を見つけて、結婚し、子供をもうけ、幸せな後半生を送れるはずだ。どうして自分に足を引っ張られなければならないのか。寧々は目を閉じた。長いまつ毛が微かに震え、苦しみと決意の表情が浮かぶ。断固として、自分の点滴の管をぐいっと引き抜いた。「創太、もう私にかまわないで。あなたと遥がしたあの汚らわしいこと……あなたの顔を見るだけで胸がむかむかするの」まるで寧々の心の内を
手術を終えたその夜、創太は突如として高熱を発症し、危篤状態に陥った。やむを得ず、彼らはその夜のうちに帰国した。見送りに来た小山が寧々を名残惜しそうに見つめる中、寧々は彼に別れを告げ、帰国の途についた。飛行機の中、創太の熱は下がらず、彼はうわごとを言い続けた。空港に到着するとすぐに、創太の秘書が慌てた様子で寧々を見つけ出した。「黒石様、今すぐ入院なさってください」寧々は驚いた。「取り違えてるわ。入院すべきは創太よ。彼は今も危険な状態なの、まだ高熱が続いている」「間違いありません。社長は飛行機の中でお気づきになり、あなたのことを手配してくださいました。どうか私と一緒に来てください」寧々はその時初めて知った。飛行機の中で創太が一時的に意識を取り戻し、処理していたのは、自分のための手配だったのだと。病室で寧々は全身検査を受けた。がん細胞はまだ存在していたが、拡散の速度は加速していなかった。その知らせに創太は胸を撫で下ろした。海外で長く過ごしたことで、彼女の体の他の部分にも問題が生じていないかと心配した創太は、胃の状態が確認されると、寧々にさらに全身の精密検査を手配した。寧々はそれが自分のためだと理解し、全て素直に従った。夜、創太自身の傷の処置を終え、まだ熱が完全には下がっていないにもかかわらず、彼は寧々がいるICU病室へと足を運んだ。彼女の様子を確かめるためだ。深い眠りについた彼女の顔を見て、初めて創太の心は落ち着いた。海外に長くいて、さぞかし疲れているに違いない。創太は寧々の手を握り、自分がかつて彼女に与えた傷を悔いた。あの四年間、刑務所の中で彼は、彼女の非情さと残酷さを憎み続け、復讐こそが出所後の最終目標だと思い定めていた。しかし彼女は、最初から最後まで彼への想いを変えることなく、誤解されることを厭わず、彼のためにしていたのだ。しかも、病に苦しみながらそんなにも長い日々を過ごしていたのに、自分は彼女をこれほどまでに傷つけることをしてしまった。もし可能なら、癌にかかったのは自分でありたかった。自分の命と引き換えにでも、寧々の命を助けたかった。寧々は創太が自分のそばに座っていることを感じていたが、目は開けなかった。創太もまた、彼女が気づいていることを知っていた。二人はそのことを互いに理解し合い、ただ静かに、
兵士の指が引き金にかかった。ほんの少し力を込めれば、寧々の命は消えてしまう。その刹那、創太の目尻にその光景が飛び込んだ。考える間もなく、彼は体を盾にして寧々の前に飛び込んだ。銃口を真正面から受け止めるように。兵士が引き金を引く音と同時に、創太の体が地面に倒れた。身を挺して庇ってくれた創太が崩れ落ちるのを見て、寧々の瞳に恐怖が走る。その直後、小山が駆けつけ兵士たちを制圧した。創太の傷口から絶え間なく血が滲むのを見て、寧々が叫んだ。「急いで!衛生兵を呼んで!手当てよ!」担架で運ばれる創太を見つめながら、寧々の頬は涙でぐしゃぐしゃだった。震えが止まらなかった。小山が詫びた。「黒石先生……すみません。テントに人員を残すべきでした。こんな事態を招いて」寧々には小山を慰める余裕などなかった。脳裏に焼き付いているのは、銃弾を遮ろうと躊躇いなく飛び込んだ創太の背中。それと、辺りに飛び散った血の匂い。医師として幾多の負傷者を見てきたが、弾丸が肉体を貫く恐怖を味わったのは初めてだった。長い時間が過ぎ、医師が部屋から出てきた。顔をこわばらせてながら言った。「致命傷ではありません。ですが……麻酔薬がないので、弾を取り出すには、患者が痛みに耐えるしかありません」医者である寧々はその苦痛を理解していた。「どこかから薬を調達できませんか?」医師は首を振った。「戦況が混乱しています。麻酔薬はどこも不足している。それに……弾を取り出したら、一刻も早く本国へ送り返さねば。ここで感染したら助からない」寧々が病室に駆け込むと、創太はベッドで血の気が失せていた。額には玉のような汗が浮かび、こめかみの髪が汗で濡れ、唇が微かに震えている。創太がゆっくりと瞼を開けた。唇を動かすのも辛そうだった。「寧々……俺、死ぬのかな?」声には震えが混じっていた。答えを恐れているようだった。だが彼は寧々の顔を見ると、ふっと笑った。「でも……お前が無事でよかった」寧々が自分のために涙を流しているのを見た瞬間、弾を遮ってよかったと思った。余命いくばくもない自分を救うために命を投げ出すなんて……寧々の声が詰まった。彼の傷とこれから行う手術をありのままに伝えた。創太は静かに聞いていたが、目に複雑な色が走った。そして寧々の手を弱々しく握
Comments