LOGIN孝寛は署長の言葉など信じる気になれなかった。ついこの前まで、辰琉は自分に電話をかけてきていた。はっきりと「ここから出たい」という意思も伝えてきた。あの時は確かに普通だった。それが、たかだか数日のあいだにどうやって廃人みたいになるというのか。孝寛は到底受け入れられなかった。そんな彼をよそに、署長は静かに口を開く。「安東会長、これが現実です。私たちとしても、こういう事態は見たくありませんでした。しかし目の前の事実は変えられません。どうか、受け入れてください」だが美月が黙っていられるはずもない。「私たちを中に入れないくせに、うちの娘をあの男と一緒の部屋に入れてるっていうの?」声には怒りも不安も混じっていた。「もし辰琉に娘が傷つけられたら、どう責任を取るつもり?」その声音には、はっきりとした怯えが滲んでいた。この数日緒莉の姿を見なかったが、喉を休めるために病院にいるのだとばかり思っていた。まさか、こんなところでこんな扱いを受けているなんて──想像すらしていなかった。もっと早く迎えに来ていれば、ここまで苦しまずに済んだのではないか。そう思うと、胸の奥が締めつけられる。しかし署長は落ち着いた表情で美月に視線を向けた。「二川会長、その点はご心配なく。辰琉さんは他人には攻撃的になることがあります。ただし緒莉さんに対しては、おとなしくしています。たぶん、かつて婚約者だったという記憶がまだ残っているのでしょう」美月は何度か深呼吸し、ようやく気持ちを鎮めた。言われてみれば、一応筋は通っている。娘が傷つけられていないのなら、それだけでも救いだ。すでにあの男のせいで十分すぎるほど傷を負っているのだ。これ以上は耐えられない。「それで、私たちを呼んだ目的は何?」美月は余計な時間をかけたくなかった。本題に入りたかった。一方の孝寛は、ガラスの向こうで顔を髪に隠した息子を凝視していた。信じられない、ほんの少し前まではあれほど元気で見栄えのする男だった。この短期間でどうやってこうなるというのか。拳をぎゅっと握り締め、ふと横を見ると、緒莉も確かに汚れはしているが、息子に比べればまだ人の姿を保っている。精神状態も崩れてはいないように見える。しばらく沈黙したあと、孝寛
もしかすると、紗雪も今ごろは同じように華やかな姿をしているのかもしれない。それが緒莉には到底受け入れられなかった。彼女は頭を抱えたが、手錠がそのまま頬に当たり、小さく苦しげな声を漏らす。その様子を見た美月の胸はさらに締めつけられる。「早く中に入れて。ここに座ってるだけなんて、おかしいでしょ?」娘に会いたかった。抱きしめてやりたかった。それのどこがいけないというのか。署長は鼻をさすり、気まずそうな表情を浮かべる。「止めているわけじゃありません。ただ、あなたが怖がるんじゃないかと......」「自分の娘の何を怖がるっていうの?」美月は訝しげに眉をひそめる。「そんなの笑い話にもならないでしょ?」彼女はぐっと強引に署長のそばまで歩み寄り、扉を開けるよう迫ろうとした。その様子を中で見ていた緒莉は、ゆったりとした態度で成り行きを見守っている。どうやら、ようやくここでの生活が終わるらしい。母親さえ来てくれれば、もう怯える必要はない。これまでは、立場を明かすことを躊躇っていただけだ。だが今となっては、明かしたほうが得策だと判断する。結局のところ、体面など大した問題ではない。生きている以上、自分の命こそが一番大事。見栄や外聞なんてものは、所詮は些細なことだ。それに、ここ最近、自分の情緒がどこかおかしいと自覚もしていた。理由もなく苛立ちが込み上げることが増え、とくに辰琉のあの狂ったような姿を見ると、怒りが沸点に達する。どうして紗雪の男はあんなに優秀なのか。しかも顔立ちまで辰琉より整っている。それに比べて自分はどうだ。無能な男を選んだだけでなく、今ではその両親にまで見捨てられかけている。そんな男を抱えていて、一体何の意味がある?連れて帰って飾り物にでもするのか?その飾りの顔が良いわけでもないのに。緒莉は大きく息を吸い、窓際に歩み寄る。母親の視界に自分の顔をはっきり映らせるためだ。今はただ、一刻も早くここから出してもらい、そのうえで辰琉に相応の罰を受けさせたい――それだけを願っている。あとのことは、外に出てから話せばいい。ここに長くいすぎて、このままでは本当に精神に異常をきたしそうだった。美月は痩せ細った娘の顔を見て、胸が張り裂けそうになる。
この期間、緒莉は相当な苦労をしてきたに違いない。こんな場所に、よくもまあ耐えていられるものだ。しかし、いざ口に出して聞いても、どう慰めていいか分からない。美月はため息をつき、顔色を曇らせた。その様子を見ていた孝寛は、心の中で思わず嘆息する。――まったく、これだから女は。その迷いのせいで、事態がどう転ぶか分からないというのに。もし二川グループの力を頼らざるを得ない立場でなければ、孝寛にとって美月という人物は、決して好ましい相手ではなかった。むしろ、大任を任せられる器ではないとすら思っている。もちろん、そんなことは心の中で思うだけで、口に出す勇気はなかったが。「署長、早く連れてきてください」孝寛は堪えきれずに急かした。六時には別の用事がある。これ以上ここで時間を潰してはいられない。息子のことなど、二川グループとの関わりがなければ、放り出していただろう。辰琉など、何の取り柄もなく、頭も悪い。外に連れ出せば、ただの恥さらしにしかならない。署長も二人の様子を見て、もう待ちきれないのだと察した。無理もない。午後からずっと引き延ばされてきたのだから。それに、彼らの事業の利益からすれば、一分一秒も惜しいはずだ。美月の方はまだ落ち着いていた。なにしろ紗雪が会社を見ているからだ。その存在がある限り、彼女は安心できたし、何の問題も起こるはずがないと信じていた。署長はなだめるように微笑んだ。「まあまあ、焦らないでください。すでに部下に命じて連れてこさせています」やがて、鎖のガチャガチャと鳴る音が響いた。二人の手首には手錠がかかっていた。緒莉は唇を噛みしめ、見るからに不満げな表情を浮かべている。その姿を目にした瞬間、美月は思わず立ち上がった。目の前のやつれた女性。乱れた髪、くたびれた服――彼女の瞳がじわりと潤む。これが本当に自分の娘......?たったこれだけの時間で、どうしてこんな姿に......一方、隣に立つ男は俯いたまま。その髪は緒莉以上にひどく、まるで吹き飛ばされた後の残骸のようだった。全身から漂うのは、打ちひしがれた気配。服も替えた様子がなく、歩くのも警官に押されてやっと、という有様だった。――自分で歩く力すら、もう失ってしまっ
その直後、背の低い小柄な老人が現れた。顔には無数の皺を刻んだ笑みを貼りつけ、いかにも人当たりのいい調子のへりくだった態度をしている。美月は眉根を寄せた。こういう人間は見慣れている。処世術には長け、表向きは穏やかで問題を起こさないが、結局は利害で動くタイプだ。信用して深く関わるような相手ではない。裏では計算高く、自分に必要なものだけを確実に取り込む。だが、その一方で妙な一線は守る。自分の領分でないものには安易に手を出さない、そういう種の人間だ。美月は顎を引いて言った。「人は?」無駄話をする気はなかった。時間を潰すより、核心に触れたほうが早い。紗雪からは何も聞き出せなかったが、まさかここへきて直接答えに辿り着くとは思っていなかった。せっかく転がり込んできた機会を逃す気はない。署長からの電話は、まさに望んでいたタイミングだった。孝寛は黙っていたが、その視線は明らかに同じ答えを求めている。署長をまっすぐに見据えながら、何かしらの情報をうかがおうとしていた。署長は終始、穏やかな笑みを浮かべたまま言った。「まあまあ、お二人とも焦らずに。こちらへどうぞ」美月と孝寛は一瞬だけ目を合わせ、互いに鼻で笑ってそっぽを向いた。文句を言い合うこともなく、黙って署長の後についていく。この道中、珍しく美月は孝寛に噛みつかなかった。警察署の中では、さすがに軽率な態度は控えるべきだと理解している。ここは鳴り城。変に騒ぎ立てて自分たちの顔に泥を塗るわけにはいかない。会社の株価に影響するなどとなれば、笑い話では済まない。その点については、二人とも暗黙のうちに考えは一致していた。大局の前では、多少の頭は回る。特に孝寛は会社のこととなれば敏感だ。最初に「辰琉を切り捨てる」と言ったのも本音ではあったが、それを知っているのは安東母だけで、他には誰も知らない。自分から口外するはずもない。そんなことを考えていたせいで、孝寛はだんだん歩調が緩み、ぼんやりし始めた。美月は苛立ちを隠さず言い捨てた。「あんた、自分の息子見に来たんじゃないの?そんなにのんびりして、あの子たち二人とも私の子供だったっけ?」心の中で盛大に白目を剥きたくなる。ここまで来て、まだ気楽な態度を崩さないとは
署長は片手を上げた。「どうせすぐに人が来る。そしたら、あの二人の問題も片がつくだろう」「誰が来るんですか?」警官は興味津々だった。あの二人の戦闘力は、ほとんど闘犬レベルだ。そんな連中を黙らせられる人間なんて本当にいるのか?署長は頷く。「もう家族に連絡してある。間もなく到着するはずだ。あっちの騒ぎは、とりあえず放っておけ」「了解しました」警官の声には、珍しく嬉しさがにじんでいた。要するに、あの二人とかかわらなくて済むなら、それで十分なのだ。彼らは本気で人を精神的に壊せるタイプで、同じ勤務でも日に日に消耗が激しくなる。署長は手を振って、警官を下がらせた。警官は頷き、「失礼します」と言って退室しながら、そっとドアを閉めた。少しでも署長に静けさを与えようと気を利かせたのだ。見ていればわかる。この数日、署長はあの二人のことで頭を抱えっぱなしで、一気に十歳ほど老け込んだように見える。ドアが閉まったのを確認すると、署長は椅子の背にもたれ、大きく息を吐いた。あとは二人が来るのを待つだけだ。ここに滞在されている間ずっと、胃が痛くて仕方なかった。警察署全体が、彼らのせいで落ち着かない。正直、犯人を取り押さえる方がまだ楽だ。だが、もうすぐ終わる。ようやく終わるのだ。ほどなくして、美月と孝寛の二人が到着した。二台の高級車が前後に並んで鳴り城警察署の前に停まる。美月が車を降りたちょうどその時、孝寛も反対側から姿を見せた。目が合った瞬間、空気に火花が散ったような気さえした。美月は相手の黒い高級車をじろりと見やり、「あら、これはこれは」と皮肉を隠そうともせずに言い放った。奇遇なことに、今日二人が乗ってきた車はブランドまで同じだった。美月の表情は一段と険しくなり、視界に入るだけで不愉快そうだ。だが孝寛は、まるで何も感じていないかのように、丁寧な物腰で応じた。「二川会長、奇遇ですね。こちらでお会いするとは」その言葉に、美月は思わず白目を剥きそうになった。互いの目的など見ればわかるのに、「奇遇」などとよくも言えたものだ。「図々しいにも程があるわね?」今回はもう、完全に遠慮を捨てていた。こういう厚顔無恥な人間には、容赦しないのが一番だ。でなければ、さらに
孝寛がきちんと躾けられないというのなら、自分が警察署に行って、あの息子をしっかり管教してやればいい。「状況が少し複雑でして。詳しいことは、来てからお話しした方がいいでしょう」署長は言葉をかなり控えめにし、断言は避けた。何とかこの二人をスムーズに警察署まで来させるために、使える手はすべて使っている。仕方がない。あの二人をこれ以上ここに留めておくわけにはいかないのだ。時間を浪費するだけで、誰の得にもならない。しかも、どちらも人の言うことを聞くタイプではない。署長としては、この手しか残っていなかった。正直に言えば、この署長の手は確かに効果があった。美月も、辰琉が今どんな状態なのかかなり興味を持っていた。署長の言う通り、百聞は一見に如かず。やはり自分の目で確かめる方がいい。家の中でできることには、どうしても限界がある。外に出てこそ、より広い世界が見えるものだ。美月は署長の提案を受け入れ、午後には出発するつもりだと言った。署長は何度も頷き、「問題ありません」と応じた。彼がどれほどこの日を待ち望んでいたか、神にしかわからない。ようやく二人を対面させることができるのだ。電話を切った瞬間、署長はようやく息を吐いた。やっとこの問題に区切りがつきそうだ。これ以上引き延ばせば、自分の寿命が半分になる気がしていた。前にA国の署長はどうやって耐えていたのか、本当に理解できない。それどころか、あんな長期間よく面倒を見ていたものだと、署長自身も驚いている。とはいえ、すべては自分の一時の甘さが原因で、二人を呼び戻してしまった結果だ。だが今後は、同じことは起こさない。今回の件は、多少なりとも取り返せそうだ。人間というのは、自分のやったことに対して、結局は代償を払うものなのだ。署長がやっと一息ついたのも束の間、「二川緒莉がまた向こうで騒ぎ始めました」と報告が入った。署長は眉間を押さえた。「一体何をそんなに騒ぐ。まだ数日しか経ってないのに、どうして次から次へと問題が出るだ」報告に来た警官も困惑気味だった。「自分も知りません。とにかく、あの人はいつも何かしら騒ぎを起こすんです。なんでも、安東辰琉と同じ部屋にいたくないとか、臭くて我慢できないとか言ってるらしいです」署長は盛大に