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シャンゼリゼの雪が止む日まで
シャンゼリゼの雪が止む日まで
Author: カノン

第1話

Author: カノン
葵(あおい)は想像もしていなかった。翻訳資格を取って最初に回ってきた仕事が、夫の加賀涼(かが りょう)がかつての初恋相手に送った、九十九通のラブレターを訳すことだなんて。

パソコンの画面には、感情があふれたフランス語が並んでいる。それを読んでいるだけで、胸の奥がじんじん痛くなる。

涙がキーボードに落ちるたび、あの言葉が胸の奥でもう一度、焼けるように突き刺さった。

【優衣、どれだけ遠くにいても、夜空の月みたいにずっとお前を見守っていたい。

パリに初雪が降る日は、お前と歩いたシャンゼリゼ通りを思い出す。それだけで胸が熱くなる。

三年経ったら、絶対に帰ってきて。ずっと待ってるから】

今日は本当なら、涼と葵の結婚三周年の記念日だった。

だけど今、彼の心にいるのは大学時代、留学のチャンスも大切な人も全部奪った、因縁の女、荒木優衣(あらき ゆい)。

……

葵は胸の奥がぎゅっと締めつけられて、しばらく動けなかった。そのとき、錦戸遥(にしきど はるか)からビデオ通話がかかってきた。

「ねえ葵、加賀社長、最近ちょっと変わったんじゃない?」

遥の声はいつもみたいに明るかった。「空港で偶然会ったんだ。あんたが好きなケーキまで持ってたよ。

あれ?しかも花束まで。あの冷たい男が、ついにロマンチックなことするなんて。

今日、結婚三周年でしょ?ついに幸せ掴んだって感じじゃん!」

葵はぎこちなく笑うしかなかった。

遥は違和感に気づいたみたいで、何か言いかけたけど、突然画面の向こうで声が跳ね上がる。

「葵、見て!」

画面の向こうで、涼が優衣をしっかりと抱きしめていた。

普段ならネクタイが少しでも曲がっていればすぐに直すあの男が、今は高級スーツが女性の手でしっかり握られて皺ができても、全く気にしていなかった。

優衣の頬は、まるでバラの花束よりも鮮やかに染まっていた。

二人が離れるまで、まるで時間が止まったみたいだった。

遥は元々短気な性格。そのまま突っ込んでいき、涼の背中をパシッと叩いた。

「あら、加賀社長、偶然だね。浮気相手をそんなに堂々と抱いてて、葵の気持ち考えたことある?」

涼はゆっくり振り向いて、冷たい目で遥を見たが、全く動じていない。

そのまま優衣をしっかり守るように腕を回してた。「俺と葵のことに、他人が口を出すな。

優衣はこれから加賀グループのチーフデザイナーになる。

昔のことははっきりしてないんだから、勝手に決めつけるな」

「はっきりしてない?」遥は呆れたように笑って、スマホを涼の目の前に突き出す。「じゃあ加賀社長は、新人とそんなにベタベタしてて大丈夫なの?周りから見たら……」

遥は優衣をチラッと見て、鼻で笑う。「どう見ても浮気相手じゃん」

その言葉に、涼の表情が一気に険しくなった。

周囲からもざわめきが起きる。

涼は泣きそうな優衣を強く抱いて、立ち去る前にきっぱり言い捨てた。

「遥さん、今日の暴言のツケをきっちり払ってもらう」

遥は追いかけようとしたけれど、葵が小さな声で「やめて、遥」と制した。

画面越しに葵の目が赤くなっているのを見て、遥は焦って足をバタバタさせた。「葵、加賀涼なんて最低!あんた、本当ならあの留学のチャンスだってもらえてたのに、あいつがプロポーズしたから…全部狂ったじゃん!優衣のことも『ちゃんと片付ける』って言ってたくせに、これが処分?笑わせるよね!」

その言葉に、葵の胸がまたズキンと痛んだ。でも、逆に優しい声で答える。「大丈夫だよ、遥。自分でなんとかするから、心配しないで」

遥はそんな葵の様子に、ますます怒りと心配が入り混じった声になる。「学生の時から思ってたけど、あの二人絶対なんかあるって!涼と結婚してからも冷たかったくせに、今さら優衣が戻ってきたら、ますます怪しいでしょ。あんたもちゃんと見張ってなきゃダメだよ!」

葵は小さく「うん」とだけ返し、何度も「大丈夫」と繰り返したあと、ようやく遥はしぶしぶ通話を切った。

ソファに座り込んだまま、テーブルに広げたラブレターが、胸にじんじんと刺さるようだった。

三年かけて守ってきた結婚生活は、全部自分だけの思い込みだったのかもしれない。

思い返せば、翻訳資格を取ったのも、涼が「フランスから新しいデザイナーが来る」と言ったからだ。

役に立ちたくて、半年もフランス語を勉強した。

でも、やってきたのは――優衣。

葵はソファで小さく丸くなって、もう結婚記念日を祝う気持ちなんてどこかに消えてしまっていた。

大学を卒業する時、優衣は葵のデザイン案を盗み、フランス留学の留学枠まで奪っていった。

本当は、正々堂々と戦って、自分を証明したかった。でも、ずっと片想いだった涼が突然プロポーズしてきて、彼女のデザインまで製品にして「ちゃんと取り返してやる。優衣のことは絶対に許さない」なんて約束してくれた。

そのときは、夢みたいに嬉しくて、もう優衣のことを深く追及しようなんて気持ちは消えてしまった。

だけど、涼の「罰」っていうのは、優衣を一流のデザイン学院に入れて、熱いラブレターを九十九通も送る「三年契約」だった。

それって、誰を罰してたんだろう。

この瞬間、葵はもう自分に嘘をつけなかった。涼は最初から自分を愛していなかった。

あの日のプロポーズは、ただ優衣の問題を先延ばしにするためのものだった。

涙で視界がにじむ中、玄関のチャイムが鳴る。

ぼんやり立ち上がると、そこには高級家具の配達員が立っていた。

「奥さま、加賀様のご依頼で、古い家具をすべて入れ替えに参りました」

道を開けると、結婚のときに自分で選んだベージュのソファが運び出され、代わりに優衣が好きなピンク色のソファが運び込まれてきた。

さらには、ピンク色の特注スタインウェイのピアノまで。

思い出した。ラブレターの中に【お前が戻ってきたら、リビングにスタインウェイを置いて「愛の夢」を弾く】って書かれていた。

胸の奥がギュッと痛くなる。

涼は家の中の家具を全部取り替えて、壁の絵まで新しくしていた。

葵は思わず苦笑いを漏らした。

きっと、涼が本当に一番取り替えたかったのは、この「妻」という存在なんでしょう。

配達員が会計を済ませようとしたとき、葵は涼からもらったブラックカードを差し出した。

けれど、配達員は困ったような顔でカードを返してきた。「奥さま、このカードはもう無効になっています。加賀様はすでに国内の戸籍を抜けて、新しい名義でカードを作られて、古い権限はすべて解除されているようですが……そのこと、お聞きになってませんでしたか?」

葵は、頭が真っ白になって、その場に立っているのもやっとだった。

どうして……涼は、わざわざ戸籍まで抜いてしまったんだろう。

直感的に、きっと優衣が関係していると思った。

今までにないほどの疲れが全身を覆う。

見慣れたはずの家が、急によそよそしく感じて、もう、これ以上こんな愛のない結婚を守るのは無理だと悟った。

記念日のために用意していた食材を配達員に渡して、震える手で先輩にメッセージを送る。

【先輩、星野グループの海外常駐翻訳の仕事、引き受けます】

そのあと、もう一人に電話をかけた。

「直人(なおと)、離婚協議書を作ってほしい。それと、人をひとり調べてほしい」
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