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第51羽:サンマと酸素カニューラ(上)

last update تاريخ النشر: 2026-06-15 23:30:56
事件から6日目となった。キヨミはまたアパートのベッドで横になり、ただ天井を見つめている。

時刻は――まだ夜中の10時か。それでも体は疲れて果てて睡眠を求めているような気がする。一方で思考は堂々巡りを繰り返し、どれだけ目を閉じても眠りは訪れなかった。

昨夜会って以来、テラダからはLINEも無い。無月経であることを打ち明けて関係にひびが入ったのは間違いなく、その関係をどうすれば修復できるのか。そもそも、その必要があるのか否か。

キヨミも恋していたのは間違いないが、テラダから連絡が来ない以上、こちらから送る言葉は何もなかった。「どうか捨てないで」と懇願しろとでも? 「浅ましい女」と思われるだけだ。

“私にプロポーズしたのはマコトでしょ。だから、マコトがリードして見せて。ちゃんと私に相応しい男だってこと、証明して”

よくあんなセリフが言えたものだ。仕方ない、テラダといるときの自分は“アカリ”なのだ。笑顔が明るく、妖艶で、自信に満ち溢れた娼婦。

実際は寡黙かもくで、表情の乏しい陰キャ。無月経であることを差し引いたとしても、そもそも一般男性が結婚相手に選ぶような人間ではなかった。
道中ヘルベチカ

※2026/6/21 0:27(JST)更新

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    アズサの瞼がゆっくりと開いた瞬間、キヨミの心臓が激しく跳ね上がった。「アズサ……?」キヨミはその名を呼ぶ。“ユキ”ではなく、学生時代から深い関係にあった相手の名を。呼ばれた彼女は顔をキヨミの方へ向けつつも、瞳はまだ焦点が定まらない様子だ。酸素カニューラが鼻に繋がれ、点滴の管が何本も腕に刺さったまま、彼女は弱々しく唇を動かした。「……キヨミ?」ほとんど息のような、かすかな声。キヨミは立ち上がってナースコールを押そうとしたが、一瞬だけ躊躇した。タナベ医師は確かに“何か問題があればすぐにナースコールを押しください”と言っていた。だが、これは“問題”ではないはず。意識が戻ったのは喜ばしいことだ。もちろん、こじつけだとは自分でも分かっている。ただタナベは、短時間だけ一人で付き添っても構わないとも言っていた。点滴の交換準備の少しの間だけだ。キヨミは深呼吸をし、アズサの手を握った。「キヨミだよ。ちゃんとここにいる。ユキはアズサだったんだね。もう目覚めないかと思ってた」アズサの唇がわずかに緩んだ。腫れた顔の中で、その微笑みは痛々しくも美しかった。アズサの指はまだ冷たく、力も弱かったが、確かに生きている温もりがある。キヨミは失っていた9年間を思いながら、アズサの左手にもう片方の手も添え、包み込んだ。「キヨミ……ごめんね」アズサが最初に口にしたのは謝罪の言葉だった。「……私、キヨミに“書く”ことを禁じて、あなたを傷つけて……それなのにユキとして傍にいたなんて」声は弱々しく、途切れ途切れだった。キヨミは首を振り、アズサの額にそっと自分の額を寄せた。「謝らないで。アズサが生きていてくれて、それだけで十分だよ」アズサの目から涙が一筋こぼれた。キヨミはそれを親指で優しく拭う。「アズサ」キヨミは彼女の頰に唇を寄せ、軽くキスをした。腫れた部分を避け、優しく、優しく。アズサも弱々しく微笑み、唇を近づけてきた。二人の唇が触れ合う。最初はただ触れるだけの、優しいキス。そこからアズサの唇がわずかに開き、キヨミの口の中に舌を侵入させてくる。甘く湿った互いの吐息が混ざり合いながら、舌を絡め合った。「ん……」アズサの喉から小さな吐息が漏れる。呼吸が苦しくなったのだろうか。一旦、唇と唇を離して互いに見つめ合った。「キス、久しぶりだね」ポツリと呟くよう

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    【2019年10月】東京都・世田谷区 キヨミは自宅のアパートの風呂に浸かっていた。ほんの数時間前までテラダに抱かれていたことが、もう遠い昔の出来事のように思えた。湯船の中で膝を抱え、ぼんやりと白いタイルの壁を見つめる。体はまだ熱を持っていたが、心は妙に冷えていた。 “ご、ごめん……考えさせてくれないかな……?” テラダはホテルでそう言った。 “決して、子供ができない女性とは結婚できないって言ってるんじゃないんだ……ただ混乱してしまって” 必死に否定しようとする彼の言葉は、かえって本音を浮き彫りにしていた。彼のたどたどしい微笑みや視線の泳ぎ方からも、それが痛いほど伝わってきた。 つくづく嘘の下手な男だ。 キヨミは湯船の中で小さく息を吐く。テラダの言葉の後に、自分が紡いだ言葉を思い出した。 “ずっと黙っててごめんなさい。マコトに中出しを許したのも、自分がこういう体だってわかってたから。でも、誰でも受け入れてたわけではないことは信じて。マコトだけだから” テラダは、“アカリ……アカリさん”と掠れた声で彼女を抱きしめたが、それ以上の行為はなかった。シャワーを浴び、服を着て、互いにホテルを出た。 “また、会ってくれる?” そう訊ねたキヨミに、彼は、 “も、もちろんだよ……” と答えたものの、声は明らかにぎこちなかった。 子供が成せないという事実は、それほどまでに重いのだろうか。 無月経の体。これが風俗嬢としての最大の武器だった。生理の心配がなく、いつでも働ける。けれど普通の恋愛にとっては、やはり決定的な欠点でしかない。勘違いしていたのは自分だった。求婚されて、何を舞い上がっていたのだろう。 キヨミは湯船から上がって体を拭き、風呂場から出てバスタオルを体に巻くと、冷蔵庫を開けた。キンキンに冷えたデカビタCのペットボトルを取り出し、一気飲みする。強めの炭酸が喉をチクチクと刺激するが、鬱々とした気持ちは少しだけ浄化されるような気がした。 バスタオル姿のまま、気分転換に図書館から借りてきたタカナシカツヤの小説を読み始めた。 決してアズサのことを書いたという確証があるわけでもないが、少なくともそれがアズサとカツヤの関係性を知る上でのヒントになるのではと感じていた。 ※ 【2011年8月~2

  • 新米ソープ嬢は無月経の体で百合と童貞に溺れる ~シルヴァア・スワロウ~   第49羽:オムライスとエレベーター(中)

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  • 新米ソープ嬢は無月経の体で百合と童貞に溺れる ~シルヴァア・スワロウ~   第48羽:オムライスとエレベーター(上)

    「まずはせっかくレストランに来たんだから、食事を楽しみましょう」 キヨミは穏やかに微笑んで言った。テラダマコトは一瞬、ぽかんとした表情を浮かべたが、「あ、そ、そうだよね……」とやや苦笑しながらメニューを手に取る。 危ういところだった。いきなり事件の話やらプロポーズの話やらを切り出せば、テラダはきっとパニックを起こしていただろう。彼はそういう男だ。純粋で、真面目で、でも極端に緊張しやすい。 それで料理の味が台無しになるのは避けたかった。食べているときくらいは心穏やかでいたいものだ。 二人が注文したのはこの店の定番メニューだ。運ばれてきたのは、薄く焼かれた卵がチキンライスをふんわり包むオムライス。王道のスタイルであり、ノスタルジックな昭和タイプとも言える。 スプーンを入れると、薄い卵の中から熱々のチキンライスがこぼれ落ちる。チキンライスの味付けは薄口ながらもコクがあり、タマネギと鶏肉の甘みがじんわりと染み出していた。そこにケチャップで軽く味にメリハリがついて、懐かしい味わいに仕上げられている。 「美味しい」 一口ごとにほっとするような味わいが広がり、キヨミは思わず小さく呟いた。テラダも頷きながら、一口ずつ丁寧に味わっている。 ただ彼はスプーンを動かす手つきもぎこちなく、時折キヨミの顔を盗み見る。白い頰がわずかに紅潮しているのが照明の下でよくわかった。 「……実はこのお店、小さい頃、母親によく連れてこられたんだ」 不意にテラダが昔話をする。 「へぇ、テラダさんのお母さんって何歳くらい?」 「もう……亡くなったよ」 キヨミは一瞬、ピタリとスプーンを持つ手を止める。 「そう、ごめんなさい」 「謝らないで。もうずいぶん昔……僕が小2ぐらいの頃だったかな。くも膜下出血で突然倒れて、そのまま。お酒とかよく飲む人だったみたいだから」 初めて聞く話だった。そもそも彼が家族のことを話すこと自体、これが初めてかもしれない。 「うちは父親と、祖父と、男ばかり3人で暮らしてる。祖母も僕が生まれる前からもういなかったみたいで。男ばっかりさ。だから学校でも、女子とどう接していいのかわからなかった。高校は男子校だったし、今アルバイトしてる先も、あえて女性がいないところを選んだんだ」 「もしかして女性が怖かったの?」 テラダはぎこちなく微笑む。 「そうかも……

  • 新米ソープ嬢は無月経の体で百合と童貞に溺れる ~シルヴァア・スワロウ~   第3羽:亡霊とWebライティング(上)

    【2019年1月】東京都・港区キヨミが自分自身を、おそろしく醜悪な存在であると認め始めたのはいつからだろう。まだ純な乙女であるべき中学時代、とある留学生の男子と情事を重ねてからか。その恋は彼の帰国と共に終わりを迎え、深い喪失を味わった。あるいはそれより前、無垢な童女でいた小学生のころ、友達だと思っていた女の子に、アパートの屋上から突き落とされたときからか。藪に落ちたおかげで、奇跡的に大怪我は免れた。原因そのものは、幼少期にありがちな些細な気持ちのズレだった。物事の始まりを思い返してみてもキリがないことは、キヨミ自身もわかっている。ある宗教でも“人間は生まれながらに罪な存在である”と言っ

  • 新米ソープ嬢は無月経の体で百合と童貞に溺れる ~シルヴァア・スワロウ~   第2羽:ヴァンパイアとティッシュ(下)

    “この仕事はね、本能的に「感じる」ことのできる人間にしか続けられない。ただエッチが好きなだけじゃダメ。相手によって感覚が鈍るような、ただの女には無理。「ビッチ」になるの。身も心も「ビッチ」になりなさい。長く続けたいならね”初日の講習で、そう言われたことを思い出す。ああ、やはり自分には、この仕事が向いていたのかもしれないという気持ちになる。「気持ちいい?」「ああ、はい、気持ちいい、です」「うそ。初めてなのに、わかる?」まだ少し戸惑うような表情の客を見ながら、キヨミはイジワルを言う。それも、講習で習ったテクニックの一つだ。「わか、わかると、思います」「ほんとうに? 変な感覚でしょ。

  • 新米ソープ嬢は無月経の体で百合と童貞に溺れる ~シルヴァア・スワロウ~   第1羽:ヴァンパイアとティッシュ(上)

    【2019年3月下旬】東京都・新宿区その日の最初にキヨミを指名した客は、自らの名をテラダマコトと名乗った。身長は高く、全身がやたら白い。もうすっかり桜も満開の時期なのに、雪を思い出させるような色だ。ひょっとしたらこの日も、店へ足を運ぶまで一歩も外出しなかったのではと思うほどに。ただ、そのように日の光を避けて生きるヴァンパイアのような人種は、ここ歌舞伎町ではそう少なくはないと聞く。「ごめんなさい、こんなガリガリのみすぼらしい裸で」湯船から上がってバスタオルを腰に巻いた客は、キヨミに視線を向けられているのを恥じてか、両腕を胸の前で組んで体を隠すような仕草を取っている。キヨミは「大丈夫ですよ

  • 新米ソープ嬢は無月経の体で百合と童貞に溺れる ~シルヴァア・スワロウ~   プロローグ:空から落ちてきた手紙

    【2010年7月23日(金)】静岡県・三島市“我慢強く生きる覚悟を わたしにください――”そこまでのフレーズを書いた後、キヨミは顔を上げる。アズサと目が合う――その日の数週間前、三島市立の図書館で初めて言葉を交わしたばかりの先輩である、彼女に見られている。「アズサ」鏡を見たら恐らくクマだらけのやつれた表情で、キヨミは年齢が一つ上の彼女を呼び捨てする。そうするよう彼女が言ったからだ。“アズサでいい。ううん、それ以外許さない。もしアズサさんとか、アズサセンパイなんて言うなら、殺すから――君の首を絞めたあとで、その可愛らしい舌と、可愛らしい両目をとって、ずっとホルマリン漬けの宝物にしちゃ

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