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last update Last Updated: 2025-10-04 06:00:08

 ――静寂だった。世界の音が、すべて消えていた。

 耳の奥では、自分の心臓の音だけが鳴っている。

 どくん、どくんと、痛いほどに強く。

 気が付くと、朝になっていた。

 ゲストルームでもなく、見知らぬホテルのような部屋だ。大きなベッドに横たえられている。西条の屋敷とは格が違う大きな屋敷に思えた。西条の家は小さな庭園のある日本家屋を、無理やり洋風に増築したような家。この家は最初からモダンな洋装の部屋だ。しかも広い。

(ここはどこなの…?)

 布団はかかっていたが、美桜は裸だった。そういえば昨日、京にもらったシャンパンを飲んでから、おかしくなった。

 昨夜の記憶が、断片的に蘇る。

 乱れた呼吸、苦しいほどの男の圧、耳元で笑う京の声。引き裂かれた体――…

 彼に襲われ、散々花を散らされ――思い出すと身体が震えた。

 まるで自分の身体が、もう自分のものではないように感じる。

(どうしてこんなことに……)

 喉の奥が焼けるように熱く、叫びたいのに声が出ない。

 涙だけが勝手にあふれ、頬を伝って枕を濡らしていく。

 カーテンの隙間から差し込む朝の光が白すぎた。

 あまりにも優しい。まるで、この世のすべてが“何もなかった”かのように輝いている。

 夢ではなかったのだと体の痛みが教えてくれている。

 これが現実なのだと思うと、頬を伝う涙が止まらない。

――カチャリ

 扉の開く音がした。

 そちらを向くと、京が立っている。昨日と同じ整った顔、同じ微笑み。

 「起きたか」

 淡々とした声。

 罪の気配も、後悔も、何ひとつ感じられない。

 それが、美桜には何より恐ろしかった。

 「……どうして私をこんな目に」


 ようやく絞り出した声は、掠れて震えていた。

 京は、まるで何事もなかったかのように答える。

 「君があまりにも情熱的だったから。一目ぼれだったんだよ。それに昨夜は君も楽しんでいただろう」

 言葉の温度は冷たかった。

 謝罪ではなく、支配を包むための優しさ――そんな声音だった。

「わたくしは楽しんでなんかっ…!」

「責任は取る」

「……責任?」


「そう――結婚しよう」

 その言葉に、美桜は息を呑む。

 信じられなかった。彼の口から出たその一言が、昨夜以上に残酷だった。

「な…ぜ、結婚を?」

「君は働き口を探していたのだろう? 俺も身の回りの世話をやってくれる女性がちょうど欲しかったんだ。だから結婚しよう」

 結婚とはそんな理由でするものなのだろうか?

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