Masuk「俺たち、いい感じだったじゃないか」
『あなただけでしょう』
言われてみれば、その通りだった。
とはいえ、少し納得がいかない。
セックスを断ったのはジュハのほうだ。
二人で「よかった」と思う機会が、そもそもなかっただけなのだから。
「今どこだ」
何を話せばいいのか分からなかったはずなのに。
気づけば、ごく自然に言葉が出ていた。
まるで昔から知り合いだったかのように。
その違和感は、向こうも感じたのだろう。
受話器の向こうは、また長い沈黙に包まれた。
背後のざわめきが聞こえていなければ、電話が切れたのかと思ったほどだ。
『聞いてどうするんですか。
今、忙しいので』
「言わなくても探せるけど」
『……大学です。
来ないでください』
黙っていて勝手に来られるくらいなら、自分で言ったほうがまし。
そう判断したのだろう。
ドヒョクは、ジュハには聞こえないほど小さく笑った。
「この番号、登録しとけ。
昨日のは仕事用だから」
『昨日の番号で登録します』
「そっちは着信拒否しただろ」
『……解除すればいいだけです』
「やっぱり着信拒否してたんだ」
『…………』
また沈黙が流れる。
だからこそ、余計に会いたくなった。
今どんな顔で黙っているのか。
想像するだけでも楽しい。
きっと実際に見たら、もっと面白い。
「今日は何時に終わる」
『何がですか』
「忙しいの」
『卒業制作なので。
卒業しないと終わりません』
今日の何時、などという答えは最初から与えるつもりがないらしい。
どこまでも素っ気なく、冷たい。
酒の入っていない声は、あの日よりもずっと澄んでいて、よけいに冷たく響いた。
あの日も淡々としていた。
だが今日は、それ以上に警戒されている気がする。
それでもドヒョクは、自分には近づく理由があると思っていた。
自分の身体をこんなふうに変えてしまった相手なのだから。
なのに、焦る。
どういうわけか、ひどく焦ってしまう。
「今日また連絡する。
着信拒否は解除しとけ」
『……分かりました。
本当に忙しいので、切ります』
背後で誰かがジュハの名前を大きな声で呼ぶ。
返事を待つことなく、電話は切れた。
「はぁ……」
ドヒョクは力なくスマートフォンを見つめ、そのままベッドへ倒れ込んだ。
さっきの会話を何度も思い返す。
耳に残る声を、繰り返し思い出す。
オ・ジュハ。
また心の中で、その名前を呼ぶ。
身体は相変わらず言うことを聞かなかった。
だが、それもそのうち落ち着くだろう。
少し時間が必要なだけだ。
そう思うことにした。
その後は、いつもの日常へ戻る。
一日中トレーニングをこなし、報告書に目を通しているうちに、気づけば夜七時半になっていた。
部屋へ戻ると、今度は仕事用のスマートフォンからジュハへ電話をかける。
呼び出し音が数回鳴る前に、ぷつりと切れた。
……まだ解除してないのか。
そう思った直後、着信拒否ではなく着信拒否メッセージが届く。
――後ほどご連絡ください。
そんなメッセージを受け取ったのは初めてだった。
周りには、呼び出し音が三回鳴る前に電話へ出る人間しかいなかったからだ。
大学生というのは、こんなにも忙しいものなのか。
十分後、もう一度かけてみる。
返ってきたのは、また同じメッセージ。
仕方なく、今度はメッセージを送った。
『あとでって、いつ』
しかし、既読すらつかない。
もともと気の長い性格ではない。
それでも寝るまで何度かメッセージを送ってみた。
だが、ジュハが電話に出ることも、メッセージを読むこともなかった。
このままでは困る。
ドヒョクはテーブルの上の資料を手に取り、ジュハの時間割へ目を落とした。
探し出すこと自体は難しくない。
だが、授業は木曜日の午後に一コマだけ。
ちょうど明日だった。
家まで行くのは警戒心を強めるだけだ。
大学くらいなら。
それに、少しは分からせることもできるかもしれない。
あまり無視を続けるのは得策じゃない、と。
来週まで待つのは、どう考えても無理だった。
そうしてしばらく考え込んだ末、ようやく眠りについた。
時計の針は、午前二時を回っていた。
◇
「ご主人様!」
「あ、おじさん……
頭おかしいんですか?」
ドヒョクの姿を見た瞬間、ジュハは盛大に顔をしかめた。
いや。
顔全体が引きつったと言ったほうが正しい。
こんな大男が、きっちりスーツまで着込んで大学のど真ん中で「ご主人様!」などと大声で叫ぶ。
人の人生を終わらせる気か。
ジュハはドヒョクの腕を掴むと、そのまま裏門のほうへ引っ張っていく。
頭一つ分は背の高い男が、あっさり引きずられていく。
もちろん。
本人に抵抗する気がないからこそだと、ジュハにも分かっていた。
どう見ても鍛えられた身体だったし、あの日見た刺青だけでも、どんな人生を歩んできたのかは何となく想像がつく。
「学校には来ないでって言いましたよね?」
「でも、ご主人様は会ってくれなさそうだったから。
電話も出ないし、メッセージも返してくれない。
着信拒否と同じじゃないか」
昨日一日、ドヒョクからの連絡をすべて無視したことを思い出し、ジュハは深いため息をついた。
どうしてこんな、いかにも危なそうな男と関わることになってしまったのだろう。
基燦は、そろそろ道赫に言われていた仕事をしようと門へ向かっていた。だが、まだ着く前に。炳浩と万植が、誰かを悪しざまに罵っている声が耳に入る。「世の中、とんでもねぇイカレ女っているもんだな」「誰の話です?」「いや、見た目は普通のお嬢ちゃんだったんだが、ボスの名前を平気で呼び捨てにしてよ。"最後のチャンス"がどうとか――」まだ約束の時間までは一時間ある。少し世間話でもしてから門へ行こう。そう思っていた基燦だったが、その話を聞いた瞬間、慌てて腕時計へ目を落とした。「……え? いつですか!?」「五分くらい前か?」「やべぇ……。どうしました? 中へお通ししましたか?」「はぁ!? 何でお通しするんだよ? 追い返したに決まってんだろ!」炳浩は呆れたように聞き返す。あんな小柄なお嬢ちゃんを、わざわざ"お通し"する理由がどこにある。どう見ても様子のおかしい人間だったのだから。だが、その返事を聞いた途端。基燦の顔から血の気が引いていく。ごくり、と唾を飲み込んだ。……何でこんなに早く来たんだ。まだ時間あるのに。まずは状況を把握しなければ。炳浩も万植も、珠葉のことなど知るはずがない。よりにもよって、この二人だった。きっと、ろくな口を利いていない。今日に限って道赫が仕事を理由に大勢外へ出してしまい、門番が足りなかったのが運の尽きだった。炳浩と万植は、大田の仕事を片づけたばかりで待機中だったのだ。「……くそっ。ボス、今どちらです?」「寝てるんじゃねぇか?」だから連絡がつかなかったのか。基燦は震える手を落ち着かせるように、大きく息を吸う。「タクシーで来られました?」「ああ。タク
「人んちのボ……いや、代表のお名前を、そんな気軽に呼ぶもんじゃねぇよ」――やっぱり。あのバカ。人が来るって言ってなかったのか。珠葉の機嫌は一気に急降下した。この男は今、危うく「ボス」と言いかけた。そのうえ初対面の自分にいきなりタメ口。けれど珠葉はぐっと気持ちを抑える。怒られるべき相手は、こいつらじゃない。そう思った。「どうやって知ったのかは知りませんが、お引き取りください」「じゃあ、ここで合ってるってことね?」「だから、お帰りくださいって」こんな場所までタクシーで来る押し売りがどこにいるっていうんだ。珠葉は冷静に考えながらスマホを取り出した。あのとき会った"職場の人"たちの名前でも知っていればよかった。それもない以上、証明できそうなものは一つしか思いつかない。「これしか証明できるものないんだけど」「おじさん? それがどうし――」「……代表の番号じゃねぇか、それ」『おじさん』と登録された道赫の番号。そして何度も残っている通話履歴。二人は顔を見合わせ、小声で何か話したあと、結局また首を横に振った。「いや……どっかで名刺でも見て番号登録したのかもしれねぇし」「ちゃんと見て。こんなに何回も電話してるでしょ」「……いや、それでもな。うちの代表は、だからって家まで来れば会えるような人じゃねぇんだ」口調はさっきより少し柔らかくなった。それでも態度は頑なだった。珠葉は小さくため息をつく。道赫とのメッセージ履歴。あれを見せれば、自分たちの関係くらいすぐ証明できる。でも。あんな私的なやり取りを他人へ見せるなんて嫌だった。名刺には載っていない個人用の番号
「ディルド代わりに使ってあげる」『……』受話器の向こうから返事はなかった。思わず笑いそうになる。いや、もう少し漏れてしまったかもしれない。その小さな笑い声を、道赫は聞いていたのかもしれなかった。それでも彼は、しばらく何も言わない。やがて、一段低くなった声が返ってきた。『土曜日……ですか? 十二時に?』いつの間にか。「ここは郊外だから、タクシーは家の前まで来ません」そう伝えるつもりだったことすら忘れていた。今、自分が何を考えているのか。それすらよく分からない。ただ、頭の中は真っ白だった。彼女の言葉を、本当に正しく理解できているのかさえ怪しい。それでも。――とても、とても大事なことを言われた。その事実だけが、頭に残っていた。「うん」『……分かりました。お待ちしています』土曜日まで、あと二日。その二日がどれほど長く感じられるのか。このときの道赫は、まだ知らなかった。ただ、きっと長い時間になる。そんな予感だけがあった。珠葉は電話を切ると、長く息を吐いた。本当にこれでよかったのか。そう自分へ問いかけても、すぐには答えが出ない。こんな勢いで決めるために、今まで引き延ばしてきたわけじゃない。それでも。さっきの道赫の反応を思い返せば、きっと後悔はしない。たかがセックス。珠葉はそうやって自分へ言い聞かせる。けれど、「たかが」の一言だけで納得できるほど簡単でもなかった。だからもう一度、道赫のことを思い浮かべる。どんな意味であれ。自分へ本気で向き合ってくれる、あの整った顔の男を。そして彼へ言った通り、自
「大したことじゃない。ただの噂だし。事実でもないんだから、腹を立てる必要ないと思って言わなかった」やっぱり。珠葉なら、そう言うと思った。こんなことを聞かされても黙っていた理由なんて、一つしかない。彼女は、自分自身の名誉なんて少しも気にしていない。あれだけ聞こえよがしに騒がれていたんだ。今日初めて耳にした話なわけがない。何日もそんな声を聞きながら、何事もなかったように大学へ通っていた。そのことを、自分は何も知らなかった。それが、たまらなく腹立たしかった。けれど。怒る相手は、決して珠葉じゃない。それくらい、道赫にも分かっていた。「何であれ、ご主人様の許可がなければ、俺は何もできません」「じゃあ、しなきゃいい」「他のことは考えなくていいです。せめて、俺の名誉だけは守ってください」もちろん、それは口実だった。自分の名誉なんて気にしない珠葉だからこそ、わざわざ持ち出した口実。彼は、ご主人様の許可がなければ動けない自分を知っている。だからこそ、理由が必要だった。珠葉はそっと下唇を噛む。大学にも通っていない彼に、守るべき名誉なんてあるのか。そんな考えが一瞬よぎる。けれど同時に。自分と同じように、彼まで「金で人を買った男」にされてしまったこと。そのことには、まったく思い至っていなかった。彼だって、何も悪くない。しかも、こうしてちゃんと許可まで求めている。たった一言。それだけでいいと言っている。難しいことじゃない。それでも。彼が何をするつもりなのか分からない以上、簡単には頷けなかった。「……暴力はダメ」「はい」返事は驚くほど早かった。まるで、その言葉を待っていたかのように。
その日、道赫は一日中、珠葉から「迎えに来て」と連絡が来るのを待っていた。試験勉強の最中に、あの性格でどうでもいいメッセージを送ってくるはずがない。だから、日付が変わる頃に彼女から連絡が来たときも、ごく自然に車のキーを手に取った。「……え? 来なくていい、ですか?」「うん。今日は歩いて帰る。待つ時間のほうが長いし」そんなことは道赫だって分かっている。大学まで迎えに行くのに二十分。そこから珠葉の家までは歩いて十分ほど。それでも今までは、彼女は彼を呼んでくれていた。彼が着く時間を逆算して、少し早めに連絡をくれるくらいには。試験期間でも、夜に少しだけ顔くらいは見られると思っていたのに。これでは、罰を受けているときと大して変わらない。もちろん。連絡くらいは取れるだけ、まだ救いだった。「でしたら……明日は大学の前で待っていましょうか?」「何時に終わるか分かんない。電話しながら帰るから、そのとき話そ」道赫は仕方なく「分かりました」と答えた。声だけでも聞けるなら、それでいい。家へ帰ったあとも、少しだけわがままを言った。せめてビデオ通話をしませんか、と。珠葉は「いいよ」とあっさり了承し、帰宅するとすぐにかけ直してきた。画面越しの彼女は、いつもとほとんど変わらない。少し疲れて見えるくらい。試験期間なんだから、それくらい当然だろう。道赫は何度か身体を気遣う言葉をかけ、珠葉の話を聞いてから電話を切った。そんな日が、何日も続く。試験期間中は一度も呼ばないつもりなのか。彼女は毎日欠かさず連絡をくれるのに、会おうとはしなかった。道赫もまた、長い我慢の時間を過ごす。首席を何度も取ってきた人だという。その努力も生活も、自分が邪魔したくはなかった。珠葉も
その日、珠葉はホテルで眠ってしまった。「私が寝たら隣の部屋行って」そう言っておきながら。道赫は寝息を立てる珠葉をしばらく見つめ、その穏やかな呼吸を耳に焼きつけてから、静かに隣の部屋へ移った。寝顔を見せてくれるようになった。それだけでも、どれほど大きな変化なのか。道赫にはよく分かっていた。翌朝、大学まで送ると、「あとで連絡する」そう一言だけ残して、珠葉はさっさと校内へ消えていく。道赫もそこでようやく家へ向かった。珠葉も、ときどき道赫のことを思い出した。それでも昨日よりはずっと勉強に集中できていた。試験期間だというのに、余計なことばかり考えていたくはない。だから普段以上に意識して机へ向かう。ただ、ときどき周囲が妙にざわつく。試験期間中の大学は、物音一つ立てるのも遠慮するくらい静かなはずなのに。どこか落ち着かない空気だけが漂っていた。それでも珠葉は気にも留めなかった。◇「ご飯行こ」昼休みになると、友人の恵珍が珠葉の肩を軽く叩いた。珠葉はようやく伸びをして頷く。恵珍は同じ学科ではない。二年生のとき偶然仲良くなって、それからずっと付き合いが続いていた。五年制の珠葉とは違い、本来なら四年で卒業できるはずだったが、「青春を取り戻してくる!」と言って一年休学したせいで、結局まだ同じ大学へ通っている。「何食べる?」「トッポッキ」「りょーかい」そんな他愛ない話をしながら北門へ向かう。歩いているだけでも、周囲のざわつきがどこか気になった。店へ入り注文を済ませると、珠葉がぽつりと言う。「今日、大学なんか変」「それ……ちょうどその話しようと思ってた」「え? 何か知ってるの?」珠
「どう? 家族の借金は少しあるけど、学校の先生だ。 悪くないだろ?」 何が「どう」なのか。 ドヒョクはソンミンの手から酒瓶を取り上げ、自分でグラスへ酒を注いだ。 そして、一気に飲み干す。 少し酒が入れば、昨夜と同じ状態になるかもしれない。 そんな考えが頭をよぎる。「今までとはちょっと違うタイプを集めてみたんだけど?」 だが、ドヒョクの隣へ座った相手は、目を合わせることすらできず小さく震えていた。 別にここで誰かと関係を持つつもりで
ドヒョクは、その十一桁の電話番号をじっと見つめていた。 名前を登録しようにも、何と保存すればいいのか分からない。 昨夜は、酔い潰れるほど飲んだわけではない。 それでも朝になると、ようやく頭が冷えてきた気がした。 そもそも、なぜ番号を聞いたのか。 自分でもはっきり覚えていない。 あの女と、この先どうするつもりだったのか。 昨夜のことは、ちょっとしたハプニングとして終わらせればいい。 そう自分に言い聞かせながら、ベッドを降りた。 もしかすると、昨日
「もう、今にもイきそうですけど」「そんなわけない」 軽い挑発のつもりだった。 平然と言い返したつもりなのだろうが、その声は少しも格好よくなかった。 思った以上に震えていたからだ。 緊張しているようには見えなかった。 それでも、その声を聞いた途端、ジュハは少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。「そうですか?」 その一言が、ひどく挑発的に聞こえた。 どこまで耐えられるか試してみる、とでも言いたげに。 ドヒョクは少し意地になった。 だが、酒の入った身体は意思とは裏腹に勝手な反応を始める。 ここ数年、まともな性行為から遠ざかっていたせいかもしれない。 ――いや。 そんなものは
「まあ、この辺ならホテルなんていくらでもありますし」 この辺りはラブホテルだらけだった。 ドヒョクはジュハの言葉に、小さく周囲を見回す。 生まれながらの坊ちゃん育ちで、こんな場所に来たことは一度もない。 もっとも、今さら二人でタクシーに乗ってホテルを探すというのも、それはそれで妙な話だった。「ふーん」「手でしかしませんけど。 それでもいいなら」「……何?」 ずいぶんと肝が据わっていた。 自分より倍は大きな男に向かって言う言葉とは思えない。 世間知らずなのか。 それとも、何か根拠のない自信でもあるのか。 酒に酔っているはずなのに、その瞳だけは不思議なほど生き生きとして







