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第009話

作者: CHUE
last update publish date: 2026-06-26 23:04:04

 ジュハは、あの日のことを思い返しかけた。

 だが、しょんぼりしたドヒョクの顔を見て、その思考を途中で止める。

 正直、着信拒否までしたのだ。

 まさか別の番号から連絡してくるほど執念深いとは思ってもいなかった。

 忙しいからと適当にあしらえば、そのうち諦めると思っていた。

 それなのに、大学にまで来た。

 その時点で、考えを改めるしかなかった。

 もっとはっきり断らなければ。

「だから、おじさんともう会うことはありませんって」

「一回食って捨てるなんて、ひどいじゃないか!」

 ……このおじさん、本当に頭がおかしい。

 ジュハは慌てて周囲を見回した。

 幸い、こちらを気にしている人はいない。

 だが、誰かに聞かれたら誤解されても仕方のない言い方だった。

 一体どっちが誰を食い捨てたというのか。

「いい歳した大人が何言ってるんですか?

 一回手伝っただけでしょう。

 そういうのは他でやってください。

 私、卒業制作で忙しいんです」

「ひどい。

 俺はもう、ご主人様じゃないと駄目な身体になったんだ。

 責任取ってよ」

 気の強い口調も。

 澄ました顔も。

 それはもういい。

 だが――"ご主人様"だけは理解できなかった。

 誰が勝手にご主人様なんだ。

 そう聞きもしないのに、ドヒョクは全部察したような顔で言う。

「だって、俺の身体がご主人様にしか反応しないんだから。

 それなら、ご主人様以外に何て呼べばいい?

 俺の身体の主人になっちゃったってことだろ」

 滅茶苦茶だった。

 ジュハは短くため息をつく。

 どうすれば、この男を諦めさせられるのか。

 頭の中で必死に考え始めた。

 だから何で酔った勢いで、見ず知らずの男なんか相手にしたの。

 心の中で自分を責めながら、答えを探す。

「ご主人様?」

「いいですよ。

 確かめに行きましょう」

「何を?」

「本当に私じゃないと駄目なのか。

 それを確認して、本当だったら、ご主人様でも何でも認めます」

「本当?」

「その代わり。

 私じゃなくても平気だったら、もう二度と会いません」

 ドヒョクは勢いよく何度も頷いた。

 ジュハが何を考えているのかまでは分からない。

 だが、手放すつもりはなかった。

 ジュハは深く息を吐く。

 本当に、どうしてこんなことになったのだろう。

 とはいえ、原因を作ったのは自分でもある。

 だから、自分で終わらせるしかない。

 何としてでも。

 ドヒョクは、ジュハから見えない位置で小さく笑いながら、その後ろをついて歩いた。

 数日間、連絡も返事もなかったことが腹立たしかった。

 それなのに、顔を見た瞬間、その気持ちは全部吹き飛んでしまう。

 遠くから歩いてくる姿を見るだけで、身体が勝手に反応してしまうのだから。

 そうなるのも、もはや当然なのかもしれなかった。

     ◇

「ご主人様!」

「おじさん。

 脱線しないでください」

 あまりにも晴れやかな返事だった。

 その大きな身体にはまるで似合わない、妙に明るい声。

 正直、顔にも合っていない。

 道ですれ違うだけで人を震え上がらせそうな、冷たい顔立ちなのだから。

 ……もっとも。

 その顔で「ご主人様」と呼ばれると、怖がる気も失せるのだが。

「全部脱ぐ?」

「今さら隠してどうするんですか。

 もう見るものは見た仲でしょう」

「さすが、ご主人様。

 話が早い」

 笑いながら、ドヒョクは服を脱いでいく。

 軽薄そうな口調とは裏腹に、脱いだスーツは皺ひとつなくきれいに畳まれていた。

 妙な違和感がある。

 だがジュハはそんなことには目もくれず、ドヒョクの身体を見渡した。

 何度見ても、不思議な身体だった。

 筋肉一つひとつが大きいわけではない。

 それでも、素人目にもよく鍛えられていると分かる。

 ほとんど癒えてはいるものの、あちこちに傷跡も残っていた。

 背中いっぱいに刻まれた刺青も、不思議なくらい似合っている。

 正面から見ても、脇腹まで伸びる黒い線がちらりと見えた。

 あの日は酔っていて、そこまで見る余裕はなかった。

 だから今日は、改めてじっくり眺めてしまう。

「こういう腹筋って、何か月くらい鍛えたらできるんですか?」

「これ?

 さあな。

 俺はジムで作ったわけじゃないから。

 まあ、今は通ってるけど」

 じゃあ何をしたらこうなるんだろう。

 そんな疑問は浮かんだが、口にはしなかった。

 別に知りたいわけでもない。

 ジュハは世間話はもう十分だと言わんばかりに、ドヒョクをベッドへ座らせた。

 二時間二万ウォンの安いモーテル。

 大学からそう遠くない場所にある。

 照明は薄ぼんやりとしていて、シーツも本当にきれいなのか少し怪しい。

 だが、二人ともそんなことは気にも留めなかった。

「それで?

 どうやって確かめるんだ?」

「自分で試してください。

 今から。

 それでも駄目なら、ご主人様でも何でも認めます」

 予想外の答えだった。

 ドヒョクは一瞬だけ目を丸くする。

 だが、迷いはしない。

 そのままジュハを見上げ、にやりと笑った。

 今まで格好いいだけで何の役にも立たなかったこの顔が。

 オ・ジュハには、ちゃんと効く。

 それをもう知ってしまった。

 あれほど警戒心の強い彼女が、酒に酔っていたとはいえ一緒にモーテルまで来た。

 そこには、この顔も少なからず関係していたはずだ。

 ジュハは、その意味ありげな笑みから目を逸らし、何でもないような顔で彼を見下ろす。

 立っていると山のように大きく見えて、見上げるだけで首が疲れそうなのに。

 ベッドへ腰掛けている今は、不思議なくらい見やすかった。

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