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04:子犬の視線

last update Last Updated: 2025-09-16 08:03:54

「先輩、今、少しよろしいですか?」

 声のした方に顔を向けると、一条陽斗が分厚い資料の束を抱えて立っていた。

 美桜はデスクの上の書類を横によけて、陽斗が資料を広げるスペースを作る。

「ええ、いいわよ。どの点への質問かしら?」

「ここなんですが、ワークフローの手順がよく分からなくて。どうしてこの手順を挟める必要があるんでしょう?」

「ああ、それはね……」

 陽斗の真剣な眼差しに応えて、美桜は指導係として丁寧に的確に彼の質問に答えていく。

 いくつかの質問と返答を経て、陽斗は納得の頷きを返した。

「ありがとうございます。よく分かりました。先輩の教え方はいつも丁寧で、助かっています」

 彼の素直さや仕事に対する真摯な姿勢、時折見せる人懐っこい笑顔。そのどれもが、今の美桜にとってはささくれ立った心を撫でるような、穏やかな時間を与えてくれた。

(本当に、大きい子犬みたいね。癒やされるなあ)

 陽斗は物覚えがよく、一度伝えたことはきちんと覚える。さすがはT大を優秀な成績で卒業した人材だと、美桜は思った。

 陽斗とのやり取りは、今の美桜にとって唯一、オアシスのような時間だった。

 説明を終えて、自分の仕事に戻ろうとした時のこと。陽斗が別の資料を手にしていることに気づいた。それは先日美桜が自身の名前で作成し、部署内に共有した市場分析レポートだった。

「あれ、一条君。そのレポートは……」

 美桜が言うと、陽斗は目を輝かせた。少し興奮した様子でレポートを開き、一部分を指差した。

「先輩、ここの分析、鳥肌が立ちました。競合A社の弱点を、販売データだけじゃなく物流コストの観点から突くなんて。どうしてこんな視点が持てるんですか?」

「え?」

 美桜は、虚を突かれた。

 翔は、彼女の仕事が生み出す「結果」しか褒めない。君のおかげで契約が取れた、プレゼンが成功した、と。

 しかし陽斗は、美桜の思考の「プロセス」と「本質」に気づいて、純粋な尊敬と好奇心を向けてきたのだ。

 誰かに、自分の仕事そのものをこれほどまっすぐに評価されたのは、いつ以来だろう。美桜は戸惑いながらも、胸の奥にじんわりと温かいものが広がるのを感じていた。

(この子、ちゃんと見てる。私の仕事の本質を……)

 陽斗は美桜の答えを待たずに、感嘆のため息と共に呟きを漏らした。それは独り言のようでもあり、心の底からの疑問のようでもあった。

「こんなにすごい人が、どうして佐伯主任の影に隠れてるんだろう」

 その言葉は、週明けのオフィスに鋭く響いた。

 翔の「影」という一言が、美桜が必死に目を背けてきた現実を、容赦なく突きつける。先ほどまで胸に広がっていた温かい感情は一瞬で消え去って、代わりに冷たいものが背筋を走った。

 美桜は何も言い返すことができず、言葉に詰まる。

 陽斗は、しまった、という顔になった。

「あ、すみません、言い過ぎました。今のは忘れてください」

 と慌てて付け加えて、自分のデスクへと戻っていった。

 一人残された美桜は、PCの画面を見つめたまま動けない。

 陽斗の無邪気な一言が、彼女の心に深く突き刺さっていた。

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