เข้าสู่ระบบ「探さなかったとでも思うか?」柊也の声には、深い虚無感が滲んでいた。「俺は、探したんだよ」あの日から二日も三日も、泥の中に手を突っ込んで探し続けた。そのせいで半月以上も高熱で寝込む羽目になった。今のように穏やかな気候ではなかった。骨まで凍てつくような冷たい水の中、必死でかき回した。けれど、結局何も見つからなかったのだ。太一はそれ以上何も言えず、最後は拝み倒すようにして、ようやく柊也を湖畔から引き剥がすことに成功した。「なあ柊也、実家に居づらいなら、俺んちに来ないか?部屋ならあるし」本当のところは、目を離せばまた消えてしまいそうな彼を監視しておきたかったのだ。しかし、柊也は考える素振りもなく首を横に振った。「住むところならある」「はあ?どこだよ?」太一は目を丸くした。今回の事件で、柊也名義の資産はすべて差し押さえられている。かつて詩織と暮らそうとしていたあの新居だって例外ではないはずだ。だが、太一の疑問に答えることなく、柊也は車に乗り込むとエンジンをかけた。「おい、待てって!だからどこに行くんだよ!」太一の叫び声だけが虚しく響き、柊也の車は土煙を上げて走り去っていった。……詩織は、帰国後すぐに会社の陣頭指揮を執ることに追われていた。会議に次ぐ会議で、すでに一週間が経過している。この日もコンコン、とオフィスのガラス戸がノックされた。顔を出したのは、アシスタントの密だった。「詩織さん、引っ越しの件について確認したいのですが」華栄キャピタルの新社屋は、今年の上半期すでに完成し、一部の部署はそちらへ移転を済ませている。しかし、肝心のトップである詩織の執務室がまだ旧オフィスのままだったため、会社としてのグランドオープンを宣言できずにいたのだ。すべては詩織のスケジュール次第で動いている。「ああ、前の予定通りに進めてちょうだい」詩織は手元の書類から目を離さずに答えた。密もすっかり板につき、今では安心して多くの権限を委ねられる頼もしい存在だ。「わかりました。それと、ここの社長室ですが、そのまま残しておきますね。今後もこの場所は支社として機能しますし、詩織さんがいらした時に使える場所があったほうが便利でしょうから」密の提案に、詩織は頷いた。実のところ、彼女はこのオフィスに愛着があった。人
もともと届け物をしたらすぐに帰るつもりだったため、詩織たちの滞在は短いものだった。車のエンジン音が遠ざかっていくのを確認してから、二階のカーテンの陰から柊也が姿を現した。照明の落ちた部屋は漆黒の闇に包まれ、彼の輪郭を深い影の中に隠している。暗闇の中、彼は伏し目がちに立ち尽くしていた。握りしめた拳の手の甲には血管が浮き上がり、目元は微かに赤く潤んでいる。ノックの音が響き、松本さんの心配そうな声がドア越しに聞こえてきた。「柊也様、もう少し何か召し上がりませんか?さっき、ほとんど手をつけずに残していらしたでしょう」これ以上、彼女に心配をかけるわけにはいかない。柊也は短く返事をした。十分後、再び一階のリビングに降りてきた時、柊也の表情は能面のように静まり返っていた。松本さんは手早く食事を温め直してくれたが、やはり箸はほとんど進まなかった。重苦しい沈黙の中、松本さんが言い淀みながら口を開いた。「さっきね、詩織さんが来たとき……女の子を連れていたんです。自分の娘だ、って紹介されて」スープを口に運ぼうとしていた手が、ぴたりと止まった。「十歳……もう少し上かしら。少し痩せていて、とても可愛らしいお嬢さんだったわ。目がね、詩織さんにそっくりなの」そこから先、彼女が何を言っていたのか、柊也の耳にはもう入ってこなかった。嵐のように掻き乱されていた心が、さらに激しく揺さぶられ、思考が粉々に砕け散っていくようだった。「……帰るよ」彼は箸を置くと、上着を手に取って立ち上がった。「今夜は泊まっていかれないんですか?」「ああ」松本さんは何か言いかけたようだったが、それを遮るように、柊也はドアを開けて夜の闇へと消えていった。街灯の光が流線型を描いては後方へと飛び去っていく。柊也はアクセルを深く踏み込み、夜のアスファルトを切り裂くように車を走らせた。窓は全開にしてある。吹き込む夜風が荒々しく髪をかき乱し、車内を満たす轟音が思考を無理やり断ち切っているようだった。どれくらい走っただろうか。不意に車を止めたとき、そこは南山湖の畔だった。無意識のうちにハンドルを切っていたらしい。早秋の湖水は、まだ凍えるほどの冷たさではない。柊也は岸辺に降り立ち、両手で水を掬って顔を洗った。冷たい水が肌を打ち、混乱した頭の中にわずかな
太一は出て行こうとする背中に声をかけようと口を開いたが、結局、無力感に襲われて言葉を飲み込んだ。ドアが閉まると、掛川が深い溜息をついた。「最悪のパターンだな。今の彼の精神状態は、過去最悪と言ってもいい」掛川の表情は、これ以上ないほど深刻だった。「あの頃……母親を亡くした直後も、彼は強い自殺願望に取り憑かれていた。だが、江崎さんとの出会いが彼をこの世に繋ぎ止め、母親の無念を晴らすという執念が彼を生かし続けてきたんだ」掛川は机の上で両手を組み、静かに続けた。「だが今、すべての復讐は終わり、唯一の光だった彼女とも完全に決別した。生きる目標も、心の支えも失った彼にとって、今の生は苦痛の延長でしかない。生きている意味を見失っているんだ」太一は、水を含んだ真綿を無理やり喉に押し込まれたような息苦しさを感じていた。柊也の友人として、己の無力さと無知が恥ずかしくてならなかった。長年の付き合いだと思っていた。だが、自分は彼のことを何一つ知らなかったのだ。母親の死後、彼が深刻なPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しみ、何度も死の淵を彷徨っていたことも。誰にも言わず精神科に通い詰めていたことも。そして、亡き母の復讐のために七年もの歳月を費やし、自らの身を危険に晒してまで地獄へ飛び込もうとしていたことも……友達失格だ、と太一は唇を噛み締めた。ここ二年ほど、頻繁に面会に通うようになってようやく断片的な事実を知ることができたが、それすらも氷山の一角に過ぎないのだろう。彼の心の奥底にある本当の闇を、自分はいまだに理解できていない。掛川は重々しく太一の肩に手を置いた。「手遅れになる前に、なんとかして彼を説得してくれ。このまま放置すれば、遅かれ早かれ取り返しのつかないことになるぞ」その言葉は、太一の心をより一層深く冷たい底へと突き落とした。……午後、詩織は早めに仕事を切り上げると、ホテルへ小春を迎えに行き、そのまま実家へと車を走らせた。今夜の夕食は、初恵の手料理だ。豪勢なものではない、ごくありふれた家庭料理ばかりだったが、小春は「おいしい!」と目を輝かせ、嬉しそうに頬張っていた。食後、初恵が冷蔵庫からガラス瓶を二つ取り出してきた。飴色に透き通ったそれは、彼女がじっくりと時間をかけて煮込んだ自家製の『梨のハチミツ煮』だった。
ホテルに到着し、医師団が車を降りた。詩織はこれから本社で会議があるため、小春を一時的に医師に預け、「あとで迎えに来るから」と言い含めてその場を離れた。後半の道程は、詩織と運転手の二人きりになった。車は滑るように、極めて滑らかに走っていた。詩織は手元のタブレットに視線を落とし、会社から上がってきた案件のスクリーニングに没頭していた。集中していた彼女は、バックミラー越しに注がれる熱っぽい視線に気づいていなかった。その視線は、貪るように彼女を追いかけていた。まるで記憶の画用紙に、いまの彼女の姿を一筆一筆写し取るかのように。白くしなやかな首筋、エアコンの微風に揺れる髪の一筋に至るまで――だが、その視線がある一点で凍りついた。彼女の右手の薬指に嵌められた、指輪の上で。車はいつの間にか華栄キャピタルのビル前に到着し、音もなく停止した。詩織がタブレットを閉じると、すでに運転手が降りてきてドアを開けてくれていた。「ありがとう」詩織は礼儀正しく声をかけたが、相手の顔をしっかりと見ることはなく、そのまま車を降りた。ビルの入り口では、密が今か今かと待ち構えていた。詩織の姿を認めるなり、小走りで駆け寄ってくる。「荷物、お願いね」詩織はPCバッグだけを手に持ち、トランクケースを密に任せて足早にエントランスへと向かった。密は運転手からトランクを受け取ると、階段を上がっていく詩織の背中をちらりと確認した。彼女が聞こえない距離まで離れたのを確かめてから、密は声を潜めて運転手の男に囁いた。「……今回だけですからね!こんなこと詩織さんにバレたら、私クビじゃ済みませんよ!」深く帽子を目深に被っていた男は、低く、懐かしい声で短く応えた。「わかってる」密はそれ以上何も言わず、逃げるようにトランクを引いて詩織の後を追った。その場に残された柊也は、誰にも気づかれないよう、遠ざかっていく彼女の背中を静かに見送った。しばらくして、ポケットの中でスマートフォンが震えた。柊也は慌てることなく、ゆっくりと通話ボタンを押した。「おい、どこにいるんだ!予約時間過ぎてるぞ!」電話の向こうから、精神科医の掛川一樹(かけがわ かずき)の焦った声が響いてきた。「今から行く」柊也の声には気だるげな響きがあった。「本当にお前ってやつは……自分
ほどなくして、階下の騒音は潮が引くように収まった。限界に達していた詩織は、そのまま深い眠りへと落ちていった。翌朝。ドアをノックする音とともに、主治医が日課の健康チェックに訪れた。小春は特殊な体質の持ち主で、響太朗が雇った専属医が毎日こうしてバイタルや数値をモニタリングし、万全を期しているのだ。検査を受けながら、小春がばつが悪そうに切り出した。「先生……ごめんなさい。昨日の夜、お薬飲まなかったの」医師の手が止まる。「眠れましたか?」と心配そうに問う彼に、小春は力強く頷いてみせた。「うん!ぐっすり眠れたよ」医師は驚きを隠せない様子で目を見開いた。「驚きました……あなたが安定剤なしで自力で眠れたのは、ここ五年で初めてのことですよ」その声は興奮に震えていた。詩織は小春が何らかの投薬治療を受けていることは知っていたが、睡眠障害がそこまで深刻だとは知らなかった。まさか特製の安定剤なしでは眠ることさえできない体だったとは。小春が洗面所へ向かった隙に、詩織は医師に詳しい病状を尋ねてみた。医師の説明によれば、小春の脳波は常人とは異なる波形を示しているという。脳の活動レベルが異常に高く、それが睡眠や日常生活に干渉してしまうらしい。一種の「天才病」とも呼べる症状だ。それを聞き、詩織はますます小春のことが愛おしく、そして不憫に思えてならなかった。「……江崎さん、ひとつお願いがあります。もしよろしければ、簡単な実験に協力していただけませんか?あなたのそばにいることが、彼女の睡眠を改善する鍵になっているのかどうか、データを取ってみたいんです」「もちろんです」詩織は即答した。検査を終え、二人が朝食をとるために一階へ降りると、詩織はリビングの雰囲気が少し変わっていることに気がついた。昨日まで飾られていたはずの年代物の花瓶が、いくつか姿を消していたのだ。模様替えでもしたのかしら。詩織は深く気に留めることなくダイニングへ向かった。響太朗は昨夜、結局戻らなかったらしい。使用人からそう聞かされても、詩織は「そう」と頷くだけで、特に理由を尋ねはしなかった。小春と朝食をとっていると、二人のメイドが誰にも聞かれないよう、ひそひそと話し込んでいるのに気がついた。距離があるから聞こえないと高を括っているのか、彼女たちはさして
江ノ本市へ向かう機内で、太一は空白の三年を埋めるように、世の中の変化を語り続けた。「今の江崎は……マジですげえよ。大袈裟でもなんでもなく、江ノ本の産業の半分はあの人の息がかかってると言っても過言じゃない」柊也はただ静かに耳を傾けていた。質問もしなければ、感想も言わない。窓の外の雲海を見つめるその横顔は、どこか魂が抜け落ちてしまったかのように空虚だった。……G市の名門・高坂家が主催する婚約披露パーティーは、その名に相応しく壮大で華やかなものだった。詩織は響太朗の腕に軽く手を添え、二人で会場を回りながら、次々と現れる招待客たちへの挨拶をこなしていた。「高坂社長、おめでとうございます」グラスを片手に近づいてきたのは、小宮山序だった。彼は響太朗に声をかけつつも、その視線は彼の隣に立つ詩織に釘付けになっていた。まさか、五年もの間探し続けていた女性が、他人の婚約者として目の前に現れるとは。詩織は彼に気づくと、儀礼的な微笑みを浮かべて軽くグラスを合わせただけだった。その瞳に彼を認識したような光はなく、視線はすぐに次のゲストへと移っていった。どうやら完全に忘れられているらしい。今の小宮山は以前より地位を向上させてはいたが、高坂家のような伝統ある名門の前ではまだ吹けば飛ぶような存在に過ぎない。今の小宮山は以前より地位を向上させてはいたが、高坂家のような伝統ある名門の前ではまだ吹けば飛ぶような存在に過ぎない。響太朗も彼に対しては最低限の挨拶を交わしただけで、すぐに詩織を促してその場を離れてしまった。取り残された序は、遠ざかる詩織の背中を、亡霊のようにただじっと見つめ続けていた。視線を逸らすことすら惜しいかのように。しばらくして、ポケットの中のスマートフォンが震えた。彼は我に返り、通話ボタンを押した。妹の小宮山遥(こみやま はるか)からだった。家で『あの狂った女』がまた暴れて物を壊しているという苦情だ。「……壊させておけばいい。お前は手を出すな、怪我をするぞ」序は気のない声で答えた。「そう言われても、もったいないじゃない!あれ全部高いのに……」かつて貧しい暮らしをしていたせいか、遥は物の価値に執着するきらいがある。だが序の意識は受話器の向こうにはなかった。彼の心はまだ、会場の奥へと消えていった詩織の残像を