LOGIN御影山の邸宅全体が、凍りつくような陰惨な空気に包まれていた。「この人殺しッ!あんたなんか、私がここで殺してやるわ!」狂気に駆られた都子が、奇声を上げながら星歌の顔を掻きむしろうと飛びかかってきた。星歌は冷ややかな目でそれを一瞥すると、躊躇いなく右の拳を振り抜き、都子を容赦なく弾き飛ばした。「きゃあっ!」都子は再び無様な悲鳴を上げて床に転がる。一触即発だった空気は、遂に引き返せない臨界点を突破した。「星歌ァッ!!」飛鳥の獣のような怒号が響き渡った。星歌が視線を向けた時、飛鳥の大きな掌はすでに空高く振り上げられていた。だが、二人の視線が交差した瞬間——飛鳥の手は、空中でピタリと硬直した。星歌は一切の感情を排した目で、振り上げられた彼の手を、そして彼の顔を静かに見つめ返した。言葉は一言も発しない。飛鳥の胸が激しく上下し、荒々しい呼吸音が室内に響く。床に倒れたままの都子が、血走った目で飛鳥を煽り立てた。「打ちなさい!その女の顔を引っ叩きなさい!」「飛鳥!翼の子供がこの女に殺されたのよ!?それでもまだ、この人殺しを庇うつもり!?」先程、都子にかかってきた電話。それは、彼女が密かに手配していた捜索隊からの報告だった。「——申し訳ありません。探していた女の子ですが、遺体で発見されました」「翼はもういないのよ……!せめてあの子が残してくれた子供だけは守り抜きたかったのに……」都子の目から、悔しさと怒りの涙がボロボロとこぼれ落ちた。「男の子の方は、今も集中治療室でいつ死んでもおかしくない状態なのよ!?その上、唯一健康だった女の子まで……この女に殺されたのよ!!」都子の絶叫が、飛鳥の理性を少しずつ削り取っていく。怒りで目を血走らせた飛鳥の右手が、今度こそ星歌の頬を打ち据えようと勢いよく振り下ろされた。——しかし。振り下ろされる寸前、星歌はスッと一歩だけ後ろへ退いた。空を切った飛鳥の掌は、彼女の頬に触れることなく、ただ指先が微かに彼女の白い肌を掠めるにとどまった。そのわずかな感触が、狂乱の淵にいた飛鳥の怒りに冷や水を浴びせ、彼をハッと我に返らせた。星歌は、感情の抜け落ちた氷のような瞳で飛鳥を見据えていた。その絶対的な無温度の視線に射抜かれた瞬間、飛鳥は自分の胸の奥が、ポ
まさか底辺出身の嫁にビンタを食らうなど、彼女の肥大したプライドが許容できるはずもなかった。ずっとソファで冷酷な傍観者を決め込んでいた飛鳥も、この事態には思わず立ち上がり、ゾッとするほど陰惨な目で星歌を睨みつけた。しかし、星歌は微動だにしなかった。その場にすっくと立ち尽くし、両手を爪が食い込むほど固く握りしめたまま、絶対零度の瞳で地べたの都子を見下ろしている。「……姑、ですって?」星歌は、一文字ずつ噛み砕くように吐き捨てた。「忘れたとは言わせないわよ。あなたは今まで散々、私のことを『孤児院育ちの教養がない女』だと罵ってきたわよね?そんな底辺の女に、今更姑への礼儀だの我慢だのを求めているわけ?」——家族。それは、星歌が幼い頃からずっと胸の奥底に抱え続けてきた、最も深く痛む傷だ。児童養護施設『ブルーバード』で過ごした孤独な日々の中、彼女がどれほど血の繋がった家族を渇望していたか。ましてや、自分の腹に宿った新しい命——あの子供への思いは、言葉では言い表せないほど深かった。その子供こそが、星歌が飛鳥との関係を完全に断ち切るに至った最大の導火線なのだ。子供を失った。あの小さな命を守り抜いてあげられなかった。その自責の念と血を吐くような絶望に苛まれ、這うようにして冴島家という地獄から逃げ出そうとしている今。この女はあろうことか、その絶対に触れてはならない傷口を土足で踏み躙ったのだ。触れてはならない逆鱗を剥がされた。今の星歌に残されているのは、己の心を守り、敵を容赦なく切り裂くための「冷酷」という名の分厚い鎧だけだった。「あ、あんた……私が間違ったことでも言った!?あんたの家族も子供も、全部あんたが呪い殺したのよ!あんたなんかに関わったせいで、死ぬ羽目になったのよ!」なおも喚き散らす都子の言葉は、最後まで続くことはなかった。星歌が手元にあった何かを無造作に掴み上げ、床に倒れ込む都子に向かって思い切り振り下ろしたからだ。「危ないっ!」飛鳥が咄嗟に身を乗り出し、その一撃を腕で弾き飛ばした。星歌が振り下ろしたのは、先程のランチで使っていた保温ボックスだった。飛鳥に弾かれた保温ボックスは、都子の頭のわずか数センチ横の床に激突した。——ガンッ!!!鼓膜を突き破らんばかりの金属の衝突
一方、御影山の邸宅。都子が怒鳴り込んできた時、ダイニングの空気は最悪だった。星歌は、飛鳥が「自分が流産した事実」を知りながら、それでもなお夏蓮の関与を否定し続けるという彼の狂信的な態度を確信し、冷え切った視線を彼に向けていた。そこへ土足で踏み込むように現れた都子もまた、星歌に対してあからさまな敵意を剥き出しにしていた。「子供はどこに隠しているの!?」挨拶もそこそこに、都子は憎悪を込めた声で噛み付いた。都子の顔を見た瞬間、星歌の瞳に冷酷な光が宿った。彼女は無言で立ち上がると、直前まで座っていたダイニングチェアを思い切り蹴り飛ばした。——ガシャァンッ!!椅子は床を滑り、派手な音を立てて壁に激突した。その凶暴な振る舞いに、都子は心臓が止まりそうになり、顔を真っ赤にして怒鳴った。「なっ……!あんた、誰に向かってそんな態度をとっているのか分かっているの!?」「あなたに向かってよ」「なんですって……!」間髪入れずに放たれた星歌の冷酷な言葉に、都子は怒りで顔面を蒼白からドス黒い紫へと変えた。ソファに座っていた飛鳥も、険しい表情で眉間に皺を寄せる。都子はたまらず息子に助けを求めた。「飛鳥!あんたからもこの女に言ってやりなさい——」「私が大人しくあなたの不機嫌な顔を我慢して、黙って反論もせずにサンドバッグになるとでも思ったの?」都子の言葉を、星歌の氷のような声が鋭く遮った。頭に血が上り、目の前がチカチカする都子を、星歌は嘲るように見下ろした。「ふっ……そもそも私、昔からあなたの機嫌なんて一度も取ったことないわよね?」星歌の言う通りだった。かつて冴島家の本家で同居していた頃から、都子が嫌味を言えば、星歌は必ず十倍にして言い返していた。ただ当時は、都子が飛鳥の前で「出来た義母」を演じていたため、正面切っての衝突には発展しなかっただけだ。だが、星歌はこれまで一度たりとも、この傲慢な義母に阿ったことなどないのだ。「もういいわ!余計な御託は聞きたくない!」都子は怒りで胸を詰まらせながら叫んだ。「夏蓮の子供はどこ!?さっさと返しなさい!」夏蓮の都合のいい鉄砲玉として使われているとも知らず、必死に喚き散らす都子。その滑稽な姿に、星歌の唇に氷点下の笑みが浮かんだ。「その子供が死
吐き捨てるように言った都子の声には、ドロドロとした憎悪がこもっていた。都子は心の底から星歌を認めていなかった。どこの馬の骨とも知れない、児童養護施設出身の孤児。両親の顔すら知らない卑しい血筋の女が、神聖な冴島家をここまで引っ掻き回しているのだ。許せるはずもなかった。その言葉を聞いて、夏蓮と早苗は内心ほくそ笑んだ。だが早苗は、神妙な顔を崩さずに言う。「都子様のおっしゃる通りですが、まずは一刻も早く、あの方から子供を取り返さなくては……」「ええ、分かっているわ」都子は重々しく頷いた。彼女の中で星歌への怒りは既に限界を突破している。これまでは屋敷で騒ぎを起こす程度だったから見逃してきたが、冴島家の血を引く赤ん坊に直接手を出したとなれば話は別だ。都子は夏蓮の手を優しく握りしめた。「あなたは自分の体を治すことだけ考えなさい。あの子のことは、お義母さんに任せておいて」「お義母さん……っ」「安心して。絶対に、無事にあの子をあなたの腕の中に連れ戻してあげるからね」都子は力強く保証した。飛鳥の奴、未だにあの女から子供を取り返せないなんて。男のくせに、あんな小娘一人をどうにもできないなんて情けない!内心で息子への不満を募らせながら、都子は夏蓮を適当に慰めると、怒り心頭といった様子で病室を後にした。都子が去り、病室のドアが閉まった瞬間。部屋に残された夏蓮と早苗の顔から、先程までの悲劇のオーラが嘘のように消え去った。「お嬢様、スープはお飲みになられますか?」早苗が平然と尋ねる。「ええ、もちろんいただくわ」夏蓮もまた、つい先程まで娘の安否を憂いて泣き崩れていたのが信じられないほど、ケロリとした顔で答えた。我が子を平気で罠の駒として利用するような女に、深い母性愛などあるはずがないのだ。冴島家の人間がいない時は、夏蓮はしっかりと食事をとるようにしていた。産後の養生中とはいえ、あれだけの騒動を起こしながらも、自分の体だけは一番大切にしている。ただ、星歌と揉み合いになった時に開いてしまった帝王切開の傷口が、未だに少しズキズキと痛むのが不快だった。これも全部、星歌のせいよ……!あの女がさっさと飛鳥さんとの離婚に合意して屋敷を出ていきさえすれば、自分がこんな痛い思いをすることもなか
一方、その頃の病院。特別室のベッドで身を横たえていた夏蓮は、密かに部屋へ戻ってきた早苗から「ある知らせ」を聞かされ、瞬時に顔面を蒼白にさせた。「……嘘でしょ?あの子が、もう……」絞り出すような声は、喉の奥で詰まり、言葉にならなかった。感情の糸が切れそうになっている夏蓮を見て、早苗は慌てて口元に人差し指を当て、「しーっ」と息を潜めるよう合図した。病室の外には飛鳥が配置した見張りがいるからだ。「なんで……早すぎるわよ……!」夏蓮は必死に声を押し殺しながらも、荒い息を吐き、みるみるうちに瞳を涙でいっぱいにした。「……あの子は、もともとこの世にご縁のない運命だったのですよ」早苗が重苦しい溜息とともに告げた。「っ……」その言葉に、夏蓮の目からボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。あの子の深刻な病状を利用して星歌を罠にはめると決めた時から、娘の命が長くないことは分かっていた。それでも、いざ「死んだ」と報告を受けると、母親としての本能なのか、胸の奥がチクりと痛んだ。痛んだが——それだけだった。「いいですか、お嬢様。これで子供は完全にこの世からいなくなりました。あとは『星歌様が子供を攫い、殺した』と言い張るだけでいいのです」早苗が冷酷に囁く。夏蓮は胸を抑えながら、小さく頷いた。当初の計画は、ただ「子供の失踪」を利用して星歌を陥れ、飛鳥と離婚させることだった。しかし途中から、どうせなら星歌を「殺人犯」に仕立て上げ、飛鳥の手で刑務所へぶち込ませてやろうと計画を上方修正したのだ。そして今、娘は死んだ。飛鳥が「星歌が子供を拉致した」と完全に信じ込んでいる、この完璧なタイミングで。早苗の言葉で気を持ち直した夏蓮は、頬を伝う涙を乱暴に拭い去り、冷ややかな目つきに変わった。「……この情報を、飛鳥さんの耳に入れてちょうだい」「承知いたしました」「絶対に足がつかないようにね。飛鳥さんの部下が自力で子供の遺体を見つけたと思わせるように誘導して」「お任せを」と、早苗は深く頷いた。星歌を確実に刑務所へ送るためには、このタレコミが自分たちの側から漏れたと疑われることだけは絶対に避けねばならない。早苗は一度病室を出て工作を行い、しばらくして戻ってくると、夏蓮に向かって無言で頷いてみせた。「ご安心
その徹底した無視に、飛鳥のなかでギリギリと音を立てていた忍耐の糸が切れた。「答えろ。なぜこんな真似をする?」怒りを限界まで押し殺した声が響く。「なぜ、ですって?」星歌はそこでようやく箸を止め、ふっと冷笑を漏らした。「私が警戒していなかったら、今頃食中毒で病院のベッドに転がっていたのは私の方だからよ」一度目は、他でもない飛鳥自身に無理やり熱いスープを口に流し込まれ、病院送りにされた。そして先日の二度目——彼女の機転がなければ、確実に罠に嵌っていたはずだ。星歌は冷ややかな流し目で飛鳥を捉えると、淡々とした声で言い放った。「冴島家は、私の疫病神ね」——疫病神。それはかつて、都子が星歌に向けて吐き捨てた言葉だ。初めての子を流産したあの日から、都子は事あるごとに「あんたは冴島家に災いをもたらす疫病神だ」と彼女を罵ってきた。今、星歌はその呪いの言葉を、そっくりそのまま冴島家へと叩き返したのだ。飛鳥の顔色が、屈辱と怒りでどす黒く沈む。その重苦しい沈黙を破るように、つけっぱなしになっていた壁掛けの大型テレビから、ニュースキャスターの声が流れてきた。「——現在、唐沢琴乃容疑者の取り調べが進んでいます。冴島グループから提供された決定的な証拠により、容疑が固まり次第、唐沢容疑者は相応の法的責任を問われる見通しです——」『冴島グループから提供された証拠』。そのフレーズが耳に入った瞬間、星歌の視線がスッと飛鳥の顔を射抜いた。飛鳥の表情が硬直する。その漆黒の瞳の奥に、ぞっとするような冷ややかな怒りが閃いた。——一真の奴、マスコミの報道規制すらまともに処理できなかったのか。飛鳥の怒りの矛先は、裏工作を完璧にこなせなかった自身の側近へと向いていた。星歌は手にしていたスプーンをことりと置き、飛鳥を見た。「唐沢琴乃の職権濫用と不正の証拠……あなたが警察に提供したの?」飛鳥は彼女を一瞥しただけで何も答えず、身を翻して部屋の隅にあるソファに腰を下ろした。ポケットからタバコを取り出し、火をつけようとする。しかし、躊躇うように指先で弄るだけで、結局火をつけることはなかった。その無言の反応がすべてを物語っている。星歌は冷ややかな視線で彼を射抜いた。「証拠を提出したということは、私が妊娠
江里子は自分の家へ連れて帰るつもりだったが、星歌は頑なにそれを拒んだ。向かった先は、三ヶ月前に彼女が密かに購入していたマンション、星河レジデンスだった。この半年、彼女がどれほどの覚悟で飛鳥との別れを準備してきたかが、その決断から痛いほど伝わってきた。「私の家に来ればいいのに。今は誰かに付き添ってもらうべきよ。で、この部屋はいつ買ったの?」江里子は愚痴をこぼしながらも、手際よく毛布を持ってきて星歌の肩に掛けた。そのまま台所へ向かい、粥を作り始める。星歌は毛布の端を握りしめ、体を小さく丸めた。「翼さんが亡くなって、二ヶ月経った頃よ」「そんなに早くから?じゃあ、その時には
二人の間に流れる空気は一瞬にして凍りつき、静寂が痛いほど肌を刺した。一触即発の緊張が部屋を満たしていく。星歌は逃げようとする飛鳥の背中に向けて、足元の椅子を思い切り蹴り飛ばした。激しい衝撃音が、静まり返ったリビングに響き渡る。全身から剣呑な覇気を立ち昇らせ、星歌は飛鳥を鋭く射抜いた。「お義母様に教えなさいよ。私がいつ、潮汁なんて作れるようになったのかを」言葉の一つひとつが、研ぎ澄まされた刃のように飛鳥に突き刺さる。「夏蓮さんが私の作ったものを飲みたいですって?そんな見え透いた嫌がらせ、あなたには分からないの?それとも、私が料理なんて一度もしたことがないことすら、もう忘れたの
病院独特の、鼻をつく薬液の臭い。それが胃の腑を締め上げ、こみ上げる吐き気をこらえるだけで精一杯だった。冴島星歌(さえじま せいか)は、蒼白な顔でベッドに横たわり、浅い呼吸を繰り返している。スマートフォンの呼び出し音が途切れ、通話がつながった。星歌は乾ききった唇を、ようやく開く。「……流産の手術、同意書にサインが必要なの。病院に来てちょうだい」受話器の向こうで、一瞬の沈黙が落ちた。やがて響いたのは、夫である冴島飛鳥(さえじま あすか)の低く、不機嫌な声だった。「妊娠?いったいいつの話だ。俺が知らないはずがないだろう。星歌、気を引きたいからって、嘘や芝居も大概にしろよ」「……来
忘れ物を取りに戻った江里子は、病室に足を踏み入れた瞬間、目の前の異様な光景に息を呑んだ。咄嗟に星歌の元へ駆け寄ろうとしたが、飛鳥が放った冷徹な視線に射すくめられ、足が止まる。「星歌……!」江里子の声も届かないほど、病室は一触即発の熱気に包まれていた。飛鳥の髪は乱れ、眉間には怒りのあまり青筋が浮き出ている。「星歌!」彼が掴んでいる星歌の手首には、骨が砕けそうなほど強い力が込められていた。「離しなさいよ!」江里子の叫びを無視し、星歌は飛鳥の凍てついた瞳を真っ向から見据えた。「どうしたの?夏蓮さんのために私を殴りたいわけ?」その挑発的な一言に、飛鳥の手の力がさらに







