ANMELDEN「で、今日はどうするんだ?」
「んー……とりあえず、森の外を回ってみるよ。昔行ったところを見れば、何か思い出すかもしれないし」
「……あの日のこと、やっぱりまだ何も思い出せないのか?」自然と声が低くなった。直樹の笑顔も硬くなる。
「兄貴が消えた日のこと、だよね」
「ああ」 「そうだな。そこだけは、さっぱり」直樹はしばらく黙り込んだ。
やがて何かを思い出したように、わずかに眉を寄せる。「……でも、一つだけある」
浩美が首を傾げると、直樹は小さく頷いた。
「兄貴のことで、妙に記憶に残ってること」
その表情に緊張が滲む。
「……兄貴の目が」
「……目?」 「そう」直樹は窓の向こうへ視線を向けた。
差し込む朝の陽ざしは燦々と明るく、暗い森の影など、一片も見当たらなかった。
直
「で、今日はどうするんだ?」浩美の問いに、直樹は少し考えてから答えた。「んー……とりあえず、森の外を回ってみるよ。昔行ったところを見れば、何か思い出すかもしれないし」 「……あの日のこと、やっぱりまだ何も思い出せないのか?」自然と声が低くなった。直樹の笑顔も硬くなる。「兄貴が消えた日のこと、だよね」 「ああ」 「そうだな。そこだけは、さっぱり」直樹はしばらく黙り込んだ。 やがて何かを思い出したように、わずかに眉を寄せる。「……でも、一つだけある」浩美が首を傾げると、直樹は小さく頷いた。「兄貴のことで、妙に記憶に残ってること」その表情に緊張が滲む。「……兄貴の目が」 「……目?」 「そう」直樹は窓の向こうへ視線を向けた。差し込む朝の陽ざしは燦々と明るく、暗い森の影など、一片も見当たらなかった。直樹がゆっくりと口を開く。「あの頃の春樹、時々変な目をしてたんだ」窓の外で葉が擦れ合う。 その音に呼応するように、直樹のまつ毛がかすかに揺れた。「普段の兄貴なら、絶対に見せないような目」しばしの沈黙。「まるで──誰かを憎んでるみたいな」浩美は眉をひそめた。「憎むって、あの春さんが? 一体、誰を」 「それがわかれば苦労しないよ」直樹は肩をすくめ、マグカップを持って席を立った。 浩美もそれに続こうとする。その瞬間だった。 ぐらり、と視界が揺れた。「……あれ?」反射的にテーブルへ手をつく。 急激な眠気が、頭の芯まで一気に押し寄せてきた。 身体から力が抜ける。「なんだ、これ……?」どうにか踏ん張ろうとしたが、膝が言うことをきかない。 そのまま床へ膝をついた。頭が重い。 視界が滲む。
「はい、どうぞ」 「ん、ありがとう」差し出されたカップを受け取ると、浩美はダイニングテーブルの向かいに座る直樹をちらりと見た。 ぼんやりとコーヒーを啜る姿は、一見いつも通りだ。 けれど、首筋に点々と残った赤い痕が、昨夜ベッドの中で起きたことをありありと物語っている。そこから色々と思い出してしまい、浩美は慌てて手元のコーヒーに口をつけた。「あ、うまい。……あれ? でも、ここってインスタントしかなかったよな?」何気なく聞くと、直樹は少し居心地悪そうに視線を逸らした。「ああ。置いてあるやつ使った。インスタントでも、それなりに美味しく淹れる方法があるんだよ」 「へえ」 「俺、一応バリスタの資格持ってるから」 「えっ!?」危うくカップを取り落としそうになった。「お前、そんなにコーヒー好きだったっけ?」こくりと頷いた直樹は、照れくさいのか、妙にかしこまった顔で答えた。「大学受験の勉強してた頃にハマったんだ。それで結局、大学には行かずに専門学校へ通って、店で見習いしながら資格を取った。将来はマイスターの資格も取りたいと思ってる」その口調には、静かながらも確かな意思があった。 浩美は、なんだか不思議な気持ちで直樹を見つめた。──そうか。 当たり前のことなのに、今さら気づいた。 こいつは、昔の直樹でもなければ、春樹でもない。十年という時間を生きてきた、今の直樹なのだ。 いくら幼なじみとはいえ、浩美は村を去ってからの彼を何も知らない。 誰と出会い、どんな場所で暮らし、何を好きになって、何を目指して生きてきたのか。自分の知らない十年間が、直樹にはある。 それなのに浩美は、目の前の彼を十年前の直樹や春樹に当てはめようとしていた。それなのに今の彼を、昔の春樹や直樹に当てはめようとしていた自分が恥ずかしかった。そう思うと、少し恥ずかしくなる。 同時に、嬉しくもあった。彼は森の〝魔〟でも
「は?」直樹は小首を傾げた。「だって結局、お前──」浩美が楽しそうに目を細める。「俺が春さんばっかり頼るのを見て、嫉妬してたんだろ?」 「なっ……!」図星を突かれ、直樹は反射的に立ち上がろうとした。 だが、その前に浩美の腕が伸びる。 逃げようとする身体をソファの背へ追い込み、そのまま覆いかぶさるように抱きしめられた。「直樹。直樹、直樹、直樹──」 「おい、名前連呼するなよっ! この二世! ヒロミちゃんめ!」直樹がバンバンと背中を叩くと、浩美は堪えきれないように笑い始めた。「あはははっ! ついに直樹の本領発揮だな。俺、お前にそれ言われるの、意外と好きかも」 「わ、わ、変態!」 「ほーら、変態だぞ」慌てて身を引いた直樹を、大きく腕を広げた浩美が捕まえる。「直樹──」今度はふざけた響きではなかった。 顎をそっと持ち上げられ、そのまま唇が重なる。 最初は、啄むような軽い口づけだった。 一度離れて、また触れる。 それを繰り返すうちに、キスは少しずつ深くなっていった。先ほどとは違う熱に戸惑いながらも、直樹はもう逃げなかった。 触れてきた舌に、おずおずと応える。絡み合った熱が、唇から身体の奥へゆっくり溶けていく。「んっ……ふ……」息が苦しい。 それなのに離れたくないと思っている自分が、どうしようもなく恥ずかしかった。浩美の指が、直樹のシャツのボタンに触れる。 一つ。また一つ。 ゆっくりと外され、開いた胸元から滑り込んだ手が、骨の形を確かめるように肌を辿った。「あっ……浩美、ちょっと、待っ」直樹はとっさに、その手首を掴んだ。 すると浩美はすぐに動きを止めた。 一瞬だけ直樹を見つめ、それ以上何もせずに身体を離す。 「……ごめん」そして、さっき自分で外したボタンを一つずつ丁寧に留め始めた。
「え?」直樹は瞬きを繰り返した。「俺は直樹がいいって言ったんだ。好きな方で呼んでいいなら、俺は直樹の方を選ぶ」浩美に耳元で囁かれ、直樹は動揺を隠せなかった。「な、なんで? 春樹じゃなくていいの? あんなに『春さんの方じゃないのか』って、しつこいくらい聞いてたのに」 「もちろん、春さんのことは好きだよ。今でも尊敬してる。あの人からもらった〝言葉〟は、今だって俺の救いになってる」浩美はそこで一度、言葉を切った。「でも今になって、ようやく認められたんだ。春さんの言う通り、俺はあの人を通して、ずっと別の誰かを見てた。春さんはそれに気づいてたからこそ、俺の気持ちを否定しなかったんだと思う」そう言うと、浩美は抱擁を緩めた。 そして当惑したままの直樹の頬へ、そっと手を添える。「直樹。たとえお前が本当は誰であったとしても──今だけは、直樹でいてくれ」色の薄い瞳が、真っ直ぐ直樹を見つめる。「俺は直樹に、ここにいてほしい」再び強く抱きしめられ、直樹は息をするのもやっとだった。「浩、美……」何と言えばいいのかわからない。 頭の中はぐちゃぐちゃなのに、何かを返さなければという気持ちだけはあった。迷った末、直樹はおずおずと浩美の背中へ腕を回した。 その瞬間、浩美の身体がわずかに緩む。「直樹。これでやっと、本当のことが言える」浩美は直樹の耳元へ顔を寄せると、低い声で囁いた。「俺はずっと──子供の頃から、お前のことが好きだったんだ」 「……⁉」意味を理解するより先に、唇を塞がれた。頭の中が真っ白になる。 逃げることも、押し返すこともできないまま、直樹はされるがまま浩美の唇を受け入れた。首筋に回された手が、襟足の髪を優しく梳く。 それだけで、どうにかなってしまいそうな甘い不安が身体の奥から込み上げた。「……っ、ふ……」 「直、樹」名
後悔は、棘のように胸の奥に刺さったままだ。 十年経った今も、抜ける気配はない。だからこそ、春樹そっくりの〝彼〟を見つけた時、浩美は怖いと思った。 自分がしでかした罪のせいだけではない。 直樹を守ると約束したのに、自分の不幸ばかりに囚われて、何もできなかった。でも、今は違う。 浩美は一度、深く息を吸った。 もう、怖くて逃げるだけの無力な子供じゃない。立ち向かう力くらいはあるはずだ。 今度こそ、守りたいものから目を逸らしてはいけない。「──直。俺は、何があってもお前を守るから」浩美は直樹から目を逸らさず、そう言った。 しかし向かい合った直樹は、小さく首を振った。 そして静かに、浩美の手を取る。「もういい。いいんだ、浩美。そんな約束、果たさなくていい」 「直……?」 「お前は十分やってくれたよ。俺、知ってるから」直樹は浩美の手を包んだまま、ゆっくりと言葉を続けた。 「このコテージを見ればわかる。ここがずっと使われてないなんて、嘘だろ。浩美、今でも頻繁にここへ来てるよな? それで森に入って、春樹を探してる。そうだろ?」浩美は何も答えられなかった。 錆びついたようなざらつきが、喉の奥に引っかかっている。「春樹がいなくなってから、俺たちが村を出るまでの一年もそうだった。お前、毎日森に入って、暗くなるまで帰ってこなかった」遠い記憶を辿るように、直樹の声が静かになる。「帰ってくると、そのままウチに来るんだ。寝込んでた俺の枕元で、『春さん、今日も見つからなかった。ごめん』って……泣きながら」 「……」 「そんなお前を見かねて、おじさんがお前を全寮制の学校に入れるまで、ずっと毎日。それでも長期休みになるたび村へ戻ってきて、また森へ入った」直樹の指先が、浩美の手をきゅっと握る。「それを今も続けてる。十年間ずっと」胸の奥が、鈍く痛んだ。自分ではとうに慣れたつもりでいた。
言い切ると、浩美は正面の直樹を見据えた。 直樹は眉をひそめ、信じられないものを見るように浩美を見返した。「は? 守る? 浩美、何言ってるの?」直樹の喉の奥から、かすれた笑いが漏れた。「俺はそんなこと望んでない。さっきだって、助けてほしいなんて一言も──」 「お前がどう思おうと、俺には関係ないんだよ」浩美は肩をすくめ、直樹の言葉を遮った。「俺は、春さんとの約束を果たしたいだけだ。それが、あの人への償いになるなら……」直樹の表情がわずかに強張った。「約束? 償い?」 「そうだ。昔、俺は春さんと約束したんだ」胸につかえていたものを呑み込むように、浩美の喉仏が大きく動いた。「お前を守るって」握りしめた拳に力がこもる。「だから俺は、その約束を果たす。お前が何を言おうとな」浩美はそこで言葉を切った。 これ以上口を開けば、抑え込んでいた感情まで溢れ出しそうだった。脳裏に、あの日の春樹の声が蘇る。『浩美、直樹を守ってやって。これは、君だから頼むんだ』春樹を抱いた、あの時。 彼は確かに、そう言った。※当時の浩美は、厳格で神経質な父親とうまくいっていなかった。 家の空気が耐え難くなるたび、都心の家を抜け出しては、この村へ戻ってきていた。どうしても、あの家にはいたくなかった。 家族はいるはずなのに、屋敷の中はいつもひっそりと静まり返っていた。誰も、必要なこと以外は口にしない。 誰かが余計な一言をこぼせば、かろうじて保たれていた均衡が崩れ、家中に怒声が響いた。浩美はいつも、その張りつめた空気を背中に感じていた。 まるで、薄いガラスに今にもひびが入りそうな、危うい気配。 そして、その気配を察するたび、浩美は都内の家を飛び出し、父親の実家がある村へ逃げ込んだ。家族と向き合う勇気などなかった。 そもそも、家族の誰もが
「じゃ、今日はこれで。──あ、そうだ、これ」コテージの玄関で、浩美が振り返った。 ポケットを探り、何かを差し出してくる。「ここの鍵だ」掌の上にあったのは、二つの鍵だった。 開きかけのドアから差し込む夕焼けの中で、鈍く光っている。直樹はそれを受け取り、ふと眉をひそめた。「ありがとう。でもこれ、合鍵までついてない?」持ち上げると、同じ形の鍵がチャラリと乾いた音を立てる。 直樹は片方をホルダーから外し、浩美へ差し出した。「一つは浩
「ちょ、とあんま、近寄んな」窓際まで追い詰められ、浩美の長い両腕が逃げ道を塞ぐ。 肩を押し返そうとしても、相手の体はびくともしなかった。「浩美、どけ」だが浩美は聞く耳を持たない。 さらに距離を詰めると、直樹の肩を掴んで強く揺さぶった。「いい加減、本当のことを言ってくれ。お前、本当に直樹なのか?」整った浩美の顔が、目の前まで迫る。「とてもじゃないけど信じられない。その顔も、仕草も……春さんにそっくりなんだよ」浩美の口元がひくりと痙攣した。「もしかしてお前……いや」浩美の喉仏がごくりと上下する。「……貴方は春さんなんじゃないですか?」
どれほどそうしていたのか、自分でもわからなかった。「直樹」不意に名を呼ばれる。 ハッと振り返ると、すぐ目の前に浩美がいた。知らないうちに、直樹は窓際まで近づいていた。 背中がひやりとガラスに触れる。すっと浩美の手が伸びてくる。一瞬身構える。 だが、その手は直樹の腕を軽く掴み、もう片方の手でカーテンを閉めただけだった。 まるで森の気配を遮るように。「直、って呼んでいいんだよな? お前はちゃんと直樹──高谷家の弟の方なんだよな?」浩美は真正面から直樹の顔をじっと見つめてくる。「……あ、あぁ」夢から引き戻されたような気分のまま
沈黙が車内を支配する。「……俺は直樹だよ」そう言ったあと、直樹はたまらず吹き出した。 こんな質問をされるとは思わなかった。「当たり前だろ。兄貴──春樹は、あの日からずっと行方不明なんだから。残ってるのは俺しかいない」はははと笑うと、浩美もつられるように笑った。「そう、だよな……」けれど、その声はどこか弱々しかった。「それより、ちょっと仮眠していい? ここまで歩いてきたから、もうへとへとなんだ」答えを待たず、直樹は窓に頭を預ける。 どこまで行っても変わり映えのしない森が、車窓の向こうを流れていった。故郷の村は、市街地から車で一時間ほど走