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30話

last update publish date: 2026-10-20 21:01:27

──浩美ひろみはいつだってこうだ。

いつも自分を守ろうとしてくれる。

それは、春樹はるきとの約束よりもずっと前から変わっていない。

浩美は昔から、直樹なおきにとって頼れる〝兄貴分〟だった。

春樹よりも年の近い彼は、いつだって自分と同じ目線に立ちながら、ほんの少しだけ先を歩いていた。

直樹がそこへ追いつくのを待ちながら、さりげなく手を貸してくれる。

しかも、守られているこちらにそれを悟らせないほど自然にやってのけるのだ。

昔、兄貴につきまとっていた奴に直樹が喧嘩をふっかければ、一緒になって買ってくれた。

一人でつまらなそうにしていれば、何も聞かずに外へ連れ出してくれた。

お坊ちゃんのくせに喧嘩はやたら強くて、くだらない悪戯にも嬉々として乗ってくる。

真面目で慎重な春樹とはまるで違う。

だからこそ、一緒にいるのが楽しかった。

今になって思えば、直樹は浩美といる時だけ、素の自分でいられたのかもしれない。

あの頃の

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  • 不惑の森   32話

    女性は小首を傾げた。 けれど、自分がおかしなことを口にしたと気づいたのか、すぐに照れくさそうな笑みを浮かべる。「──って、ごめんなさい。そんなことあるはずないわよね。でも、出会った頃のあの人にあまりにもそっくりだったものだから、つい」そう言って気を取り直すと、女性は正樹へ向き直り、その小さな頭を拳でぐりぐりと押さえつけた。「正樹。今日という今日は、お父さんにきっちり叱ってもらいますからね。ちょうど帰ってきたところだから、もうすぐこっちに来ると思うわ」 「ひてててて……へっ、俺は父さんなんて全然怖くないもんね! どっちかっていうと、お前の方が数百万倍怖いやっ!」ごつん。確実に頭に拳が入った音がした。「いってぇぇぇっ!」正樹は頭を押さえ、痛みを逃がすようにその場をぴょんぴょんと跳ね回る。 直樹は、その騒がしい光景をただ呆然と眺めていた。胸の奥で、何かがざわついている。 まだ形にもならない予感が、じわじわと輪郭を持ち始めていた。隣の浩美も同じなのだろう。 探るような視線を直樹に向けてくる。 二人の視線が、長い間重なった。その時だった。「桐子さん、速いって」少し離れた茂みが、がさがさと大きく揺れた。 そこから、一人の男が姿を現す。 雨上がりの陽射しの中、スーツの上着を小脇に抱え、白いシャツの袖を肘まで捲り上げていた。少し息を切らしながら、こちらへ歩いてくる。 その姿を見た瞬間、直樹の心臓が、止まった。本当に、そう思った。 音も、呼吸も、森を揺らす風さえも、すべてが一瞬、遠ざかる。「あ……」再び心臓が動き出すより早く、足が勝手に前へ踏み出していた。 あれは、あれは──。「兄貴っ……!」喉が裂けそうなほどの声が出た。 スーツ姿の男は俯いていた男が顔を上げる。 そして、自分へ向かって駆けてくる直樹を見た瞬間、その目が大きく見開かれた

  • 不惑の森   31話

    浩美の視線に気づいたのか、子供は「あっ」と声を上げた。 次の瞬間、くるりと背を向け、浩美たちとは反対の方向へ一目散に駆け出していく。「おい、ちょっと待てっ!」浩美はその背中へ向かって叫んだ。 そして、まだ自分の肩にもたれかかっていた直樹の手を取ると、そのまま強引に走り出す。「ちょっ、浩美!? 何だよ!」 「いいからっ! ついてこい!」 「わけわかんないんだけど!」戸惑いながらも、直樹は引かれるまま浩美の背中を追った。 前方では、白い服を着た子供が木立の合間を縫うように駆けていく。 その姿を見た瞬間、直樹は息を呑んだ。──これは……。どこかで見た。 いや、何度も見た。 夢の中で。白い影を追って、森の奥へ奥へと走り続ける。 あの夢と、まるで同じではないか。妙な既視感に眩暈を覚えた、その時だ。 前を走る子供が、こちらを窺うように振り返った。その横顔を見て、直樹の足が止まりかける。「……直樹?」そんなはずはない。 あれは、自分だ。 十年前の──幼い頃の自分。直樹は必死にそう否定しようとした。 しかし、前を走っていた浩美まで振り返り、困惑した顔で言う。「やっぱり、あれ……直樹だよな。昔の」 「……」何が何だかわからなくなった。 頭がおかしくなりそうだ。 いや、もしかすると最初からおかしかったのかもしれない。混乱する思考に足まで引きずられ、直樹の走る速度が落ちる。 その間にも、子供の背中はどんどん遠ざかっていった。少年の小さな身体は、木の根や垂れ下がった枝をひらりひらりと躱し、迷う様子もなく森の奥へ入っていく。「クソッ、速いな」浩美が悔しそうに舌打ちした。 だが次の瞬間には、持ち前の切り替えの早さで口元を吊り上げる。「ヨッシャ! 眠気覚ましに、いっちょ本気でも出すか!」

  • 不惑の森   30話

    ──浩美はいつだってこうだ。いつも自分を守ろうとしてくれる。 それは、春樹との約束よりもずっと前から変わっていない。浩美は昔から、直樹にとって頼れる〝兄貴分〟だった。 春樹よりも年の近い彼は、いつだって自分と同じ目線に立ちながら、ほんの少しだけ先を歩いていた。 直樹がそこへ追いつくのを待ちながら、さりげなく手を貸してくれる。しかも、守られているこちらにそれを悟らせないほど自然にやってのけるのだ。昔、兄貴につきまとっていた奴に直樹が喧嘩をふっかければ、一緒になって買ってくれた。 一人でつまらなそうにしていれば、何も聞かずに外へ連れ出してくれた。お坊ちゃんのくせに喧嘩はやたら強くて、くだらない悪戯にも嬉々として乗ってくる。 真面目で慎重な春樹とはまるで違う。 だからこそ、一緒にいるのが楽しかった。今になって思えば、直樹は浩美といる時だけ、素の自分でいられたのかもしれない。あの頃の直樹は、兄を守ることに必死だった。 けれど浩美の隣だけは、唯一、気を張らなくてよかった。一見軽そうに見えて、実際かなり軽いところもあるくせに、妙に面倒見がよく、何かにつけて世話を焼いてくる。 その背中に庇われることを、直樹はどこか心地よく感じていた。 浩美の背中は、いつだって頼もしかったから。それなのに、この十年間。 直樹は彼に会いたいと思ったことがなかった。──いや、会いたくなかった。怖かったのだ。 あの事件を境に、自分たちの関係まで変わってしまったことを知るのが。けれど、本当のことを言えば、それも少し違う。 二人の関係が変わったのは、事件の日ではない。もっと前だ。 浩美が春樹への想いを打ち明けた、あの日から。あの時──浩美が春樹に告白した時、実は直樹もコテージまで来ていた。 ちょっとした悪戯を仕掛けようと思い、用事があるふりをして春樹だけを先に行かせたのだ。少し遅れてコテージへ

  • 不惑の森   29話

    浩美の声が、風に乗って届く。「俺がわからないとでも思ったのかよ? 昨日も言ったよな、もう迷わないって」 浩美は真っ直ぐ直樹を見つめた。「お前は間違いなく直樹だ。他の誰でもない」そう言うと表情を和らげ、直樹の頭をぽんぽんと叩いた。 けれど、直樹は俯いたまま動かない。「……おい、直樹?」不審に思った浩美が顔を覗き込む。「お前、泣いてるのか?」 「バッ……そんなわけないし」直樹は慌てて顔を背けた。「それより、お前こそなんでここにいるんだよ。あの薬、結構効くやつなんだけど」ごしごしと目元を拭いながら、改めて浩美を見る。 その視線に気づいた浩美は、なぜか得意げに胸を張った。「まあ、コテージの台所にあったコーヒー、全部飲んだからな」 「……は?」 「飲んだっていうか、最後の方はもう食ったに近いけど」ぺろりと舌を出した彼に、直樹は言葉を失った。「嘘だろ。何その無茶苦茶な理屈。いくらカフェインが入ってるからって、そんなのでどうにかなるわけ──」 「いいんだよ。要は気持ちの問題だ。何事も気合いでどうにかなる」 「いや、ならないだろ」即座に突っ込んだものの、浩美の身体は言葉とは裏腹にふらふらと揺れている。 目も半分閉じかけていた。「お前、全然どうにかなってないじゃん」これではこいつも穴へ落ちかねない。 見ていられなくなった直樹は、浩美の腕を自分の肩へ回し、その身体を支えた。「さんきゅ」と浩美は眠たげに呟いた。 そのまま閉じかけていた目を開き、今度は真剣な顔で直樹を見つめる。「なあ、直樹」 「ん?」 「お前が直樹だってことは、もう疑ってない」一瞬、言葉が消える。「でも、どうしてだ?」浩美の黒い瞳が、直樹を真っ直ぐに見つめる。「どうしてお前は、あの日この森で起きたことを、あんなに詳しく知ってる? 春さん

  • 不惑の森   28話

    「違うっ!」途端、男が勢いよく身体を起こした。 「違うっ! 違うっ! オレはやっていない! 結局、あれは失敗したんだ! 春樹なら知っているだろう!? お前が止めに来たから──」男はじりじりと膝行りながら後ずさる。 そして突然、もつれるように立ち上がると、背を向けて森の奥へ駆け込んだ。春樹はその後ろ姿を眺めながら、ゆったりとした足取りで自らも森へ入っていく。──いくら逃げても無駄だ。 この森で、俺の知らないことなどないのだから。前方では、男の巨体が木々の間をふらふらと逃げていく。 春樹はその背中へ、静かに言葉を投げかけた。「俺はあの日、直樹がいないことに気づいて、すぐこの森へ向かいました」男の足が、わずかによろめく。「貴方がいつも少年たちを連れてきていた、この場所に」春樹は足を緩めない。「俺がここへ着いた時、貴方は直樹に手をかける寸前だった。あの子は地面に倒れて、頭から血を流していた」男の肩がびくりと揺れた。 足取りはよたよたとおぼつかなかったが、それでも前へ進もうとするように、両手だけが必死に宙を掻いていた。「暴れたから、殴ったんでしょう? そのせいで、直樹はあの日の記憶をすべて失った」そこで春樹は、わずかに目を伏せた。「……まあ、それは今はいい」再び男を見る。 神父の背中が、うす暗い木々の間をぬっていく。「あの時、血だらけの直樹を見た俺は、頭に血が上って貴方に掴みかかった。でも、体格の差には勝てなかった」淡々とした声が、濡れた森に響く。 鳥の声が遠くの空へと消えていく。「俺は貴方に首を絞められて──」 「埋めた!」男が突然振り返った。 立ち止まり、狂ったように両腕を広げる。「だって、そうするしかなかった! お前はオレの正体に気づいていたから!」男は後ずさった拍子に木の根へ足を取られ、ぬかるんだ地面へ派手に倒

  • 不惑の森   27話

    「さっきから、そう言っているじゃないですか?」春樹は前屈みになると、すっと男の顔を覗き込んだ。 途端、男は短い悲鳴を上げて身を引き、背後の木の幹に背中を打ちつけた。春樹は、その様子を笑顔のまま見つめていた。 この顔が、男を何よりも怯えさせている。 それをわかったうえで、さらに追い打ちをかける。「残念ですよ」 「……な、何が……」 「もし貴方が〝神父様〟なんて呼ばれていなければ、もっと早く正体に気づいた人がいたかもしれない」男の顔が強張った。「神戸で起こした事件の記事を偶然見つけて、問い合わせる人だっていたかもしれない。でも、誰もそうしなかった」春樹は静かに目を伏せる。「村の人たちは、誰一人として貴方の本名を知らなかったから。〝神父様〟なんて大層な呼び名だけを信じて、安心しきっていた」 「……」 「本当に、残念です」春樹が目を伏せた、その瞬間だった。 男は力任せに腕を振りほどくと、春樹の脇をすり抜けた。そのまま背後にぽっかりと口を開ける森へ駆け込もうとする。 だが、一歩も入れなかった。 春樹が素早く回り込み、その進路を塞いだからだ。「どこへ行くんです?」男が息を呑む。「この森に逃げ込んだら、終わりですよ」春樹は背後の暗い森へ、ちらりと視線を向けた。「貴方が拐した少年たちが、きっと逃がしてくれない」 「……っ」 「俺、何度か見ましたよ。この森で」春樹は微笑む。「貴方が連れてきた子供たちを」男の顔が、ぎくりと強張った。「バ、バカなっ!」突然、声を荒らげる。「そんなはずないだろう! オレはちゃんと、あの子らを生きて街へ帰している!」 「……」 「ただ……ただ、服を少し、記念にもらっていただけだ!」ぬかるみに膝をついた男は、背中を丸めて震え始めた。 春樹はゆっくりとそ

  • 不惑の森   7話

    直樹は思わず足を止めた。 振り返った影の顔は、兄にしては幼すぎた。(あれは──)「……直、樹?」足を緩めた隙に、子どもは木立の奥へ消えていた。 葉をかき分ける音だけが、徐々に小さくなっていく。自分の粗い呼吸音だけが鼓膜に響く。あの子は誰だ? なぜ、昔の自分と同じ顔をしていた?直樹は、泥と血で汚れた手で髪を掻きむしる。──じゃあ、ここにいる俺は誰なんだ?叫びが喉元までせり上がった、その時だった。「おいっ!」

  • 不惑の森   6話

    夢を見る。 いつもの夢だ。森の中を、ひたすら走っている。 暗く、深い森を。視界の端を、白いものがよぎった。 白いシャツの華奢な背中が、木々の間をすり抜けていく。 風のように軽やかに。──あれは。「兄貴っ!」影がふっと振り返った。 だが、風に乱れた髪が顔を覆い、その表情までは見えない。白い影はそのまま森の奥へ駆けていく。 枯葉を踏み砕く音だけが、やけに大きく響いた。その時だった。「待ってっ! 兄貴っ!」

  • 不惑の森   5話

    「じゃ、今日はこれで。──あ、そうだ、これ」コテージの玄関で、浩美が振り返った。 ポケットを探り、何かを差し出してくる。「ここの鍵だ」掌の上にあったのは、二つの鍵だった。 開きかけのドアから差し込む夕焼けの中で、鈍く光っている。直樹はそれを受け取り、ふと眉をひそめた。「ありがとう。でもこれ、合鍵までついてない?」持ち上げると、同じ形の鍵がチャラリと乾いた音を立てる。 直樹は片方をホルダーから外し、浩美へ差し出した。「一つは浩

  • 不惑の森   4話

    「ちょ、とあんま、近寄んな」窓際まで追い詰められ、浩美の長い両腕が逃げ道を塞ぐ。 肩を押し返そうとしても、相手の体はびくともしなかった。「浩美、どけ」だが浩美は聞く耳を持たない。 さらに距離を詰めると、直樹の肩を掴んで強く揺さぶった。「いい加減、本当のことを言ってくれ。お前、本当に直樹なのか?」整った浩美の顔が、目の前まで迫る。「とてもじゃないけど信じられない。その顔も、仕草も……春さんにそっくりなんだよ」浩美の口元がひくりと痙攣した。「もしかしてお前……いや」浩美の喉仏がごくりと上下する。「……貴方は春さんなんじゃないですか?」

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