INICIAR SESIÓN「俺がわからないとでも思ったのかよ? 昨日も言ったよな、もう迷わないって」
浩美は真っ直ぐ「お前は間違いなく直樹だ。他の誰でもない」
そう言うと表情を和らげ、直樹の頭をぽんぽんと叩いた。
けれど、直樹は俯いたまま動かない。「……おい、直樹?」
不審に思った浩美が顔を覗き込む。
「お前、泣いてるのか?」
「バッ……そんなわけないし」直樹は慌てて顔を背けた。
「それより、お前こそなんでここにいるんだよ。あの薬、結構効くやつなんだけど」
ごしごしと目元を拭いながら、改めて浩美を見る。
その視線に気づいた浩美は、なぜか得意げに胸を張った。「まあ、コテージの台所にあったコーヒー、全部飲んだからな」
「……は?」 「飲んだっていうか、最後の方はもう食ったに近いけど」ぺろりと舌を出した彼に、直樹は言葉を失
浩美の声が、風に乗って届く。「俺がわからないとでも思ったのかよ? 昨日も言ったよな、もう迷わないって」 浩美は真っ直ぐ直樹を見つめた。「お前は間違いなく直樹だ。他の誰でもない」そう言うと表情を和らげ、直樹の頭をぽんぽんと叩いた。 けれど、直樹は俯いたまま動かない。「……おい、直樹?」不審に思った浩美が顔を覗き込む。「お前、泣いてるのか?」 「バッ……そんなわけないし」直樹は慌てて顔を背けた。「それより、お前こそなんでここにいるんだよ。あの薬、結構効くやつなんだけど」ごしごしと目元を拭いながら、改めて浩美を見る。 その視線に気づいた浩美は、なぜか得意げに胸を張った。「まあ、コテージの台所にあったコーヒー、全部飲んだからな」 「……は?」 「飲んだっていうか、最後の方はもう食ったに近いけど」ぺろりと舌を出した彼に、直樹は言葉を失った。「嘘だろ。何その無茶苦茶な理屈。いくらカフェインが入ってるからって、そんなのでどうにかなるわけ──」 「いいんだよ。要は気持ちの問題だ。何事も気合いでどうにかなる」 「いや、ならないだろ」即座に突っ込んだものの、浩美の身体は言葉とは裏腹にふらふらと揺れている。 目も半分閉じかけていた。「お前、全然どうにかなってないじゃん」これではこいつも穴へ落ちかねない。 見ていられなくなった直樹は、浩美の腕を自分の肩へ回し、その身体を支えた。「さんきゅ」と浩美は眠たげに呟いた。 そのまま閉じかけていた目を開き、今度は真剣な顔で直樹を見つめる。「なあ、直樹」 「ん?」 「お前が直樹だってことは、もう疑ってない」一瞬、言葉が消える。「でも、どうしてだ?」浩美の黒い瞳が、直樹を真っ直ぐに見つめる。「どうしてお前は、あの日この森で起きたことを、あんなに詳しく知ってる? 春さん
「違うっ!」途端、男が勢いよく身体を起こした。 「違うっ! 違うっ! オレはやっていない! 結局、あれは失敗したんだ! 春樹なら知っているだろう!? お前が止めに来たから──」男はじりじりと膝行りながら後ずさる。 そして突然、もつれるように立ち上がると、背を向けて森の奥へ駆け込んだ。春樹はその後ろ姿を眺めながら、ゆったりとした足取りで自らも森へ入っていく。──いくら逃げても無駄だ。 この森で、俺の知らないことなどないのだから。前方では、男の巨体が木々の間をふらふらと逃げていく。 春樹はその背中へ、静かに言葉を投げかけた。「俺はあの日、直樹がいないことに気づいて、すぐこの森へ向かいました」男の足が、わずかによろめく。「貴方がいつも少年たちを連れてきていた、この場所に」春樹は足を緩めない。「俺がここへ着いた時、貴方は直樹に手をかける寸前だった。あの子は地面に倒れて、頭から血を流していた」男の肩がびくりと揺れた。 足取りはよたよたとおぼつかなかったが、それでも前へ進もうとするように、両手だけが必死に宙を掻いていた。「暴れたから、殴ったんでしょう? そのせいで、直樹はあの日の記憶をすべて失った」そこで春樹は、わずかに目を伏せた。「……まあ、それは今はいい」再び男を見る。 神父の背中が、うす暗い木々の間をぬっていく。「あの時、血だらけの直樹を見た俺は、頭に血が上って貴方に掴みかかった。でも、体格の差には勝てなかった」淡々とした声が、濡れた森に響く。 鳥の声が遠くの空へと消えていく。「俺は貴方に首を絞められて──」 「埋めた!」男が突然振り返った。 立ち止まり、狂ったように両腕を広げる。「だって、そうするしかなかった! お前はオレの正体に気づいていたから!」男は後ずさった拍子に木の根へ足を取られ、ぬかるんだ地面へ派手に倒
「さっきから、そう言っているじゃないですか?」春樹は前屈みになると、すっと男の顔を覗き込んだ。 途端、男は短い悲鳴を上げて身を引き、背後の木の幹に背中を打ちつけた。春樹は、その様子を笑顔のまま見つめていた。 この顔が、男を何よりも怯えさせている。 それをわかったうえで、さらに追い打ちをかける。「残念ですよ」 「……な、何が……」 「もし貴方が〝神父様〟なんて呼ばれていなければ、もっと早く正体に気づいた人がいたかもしれない」男の顔が強張った。「神戸で起こした事件の記事を偶然見つけて、問い合わせる人だっていたかもしれない。でも、誰もそうしなかった」春樹は静かに目を伏せる。「村の人たちは、誰一人として貴方の本名を知らなかったから。〝神父様〟なんて大層な呼び名だけを信じて、安心しきっていた」 「……」 「本当に、残念です」春樹が目を伏せた、その瞬間だった。 男は力任せに腕を振りほどくと、春樹の脇をすり抜けた。そのまま背後にぽっかりと口を開ける森へ駆け込もうとする。 だが、一歩も入れなかった。 春樹が素早く回り込み、その進路を塞いだからだ。「どこへ行くんです?」男が息を呑む。「この森に逃げ込んだら、終わりですよ」春樹は背後の暗い森へ、ちらりと視線を向けた。「貴方が拐した少年たちが、きっと逃がしてくれない」 「……っ」 「俺、何度か見ましたよ。この森で」春樹は微笑む。「貴方が連れてきた子供たちを」男の顔が、ぎくりと強張った。「バ、バカなっ!」突然、声を荒らげる。「そんなはずないだろう! オレはちゃんと、あの子らを生きて街へ帰している!」 「……」 「ただ……ただ、服を少し、記念にもらっていただけだ!」ぬかるみに膝をついた男は、背中を丸めて震え始めた。 春樹はゆっくりとそ
あの日は、雨だったのだろうか。 それとも、晴れていたのだろうか。それすら、もう思い出せない。 だから今は、柔らかな春の小雨に濡れる森の姿を、目に焼きつけておくことにした。 細い雨が枝葉を濡らし、森全体をしっとりと沈ませている。「何をしているんですか? 〝神父様〟」声を掛けると、目の前の大きな背中がびくりと揺れた。 ゆっくりと振り返った〝神父様〟は、まるで迷子になった子供のような目をしていた。彼がいたのは、林道を進んだ先にある空き地の隅だった。 しゃがみ込み、地面に掘った小さな穴へ何かを埋めようとしている。「それ……子供の服、ですか?」 「直樹──どうして、こんなところに……」〝神父様〟は弁解するように両手を上げた。 その拍子に、手にしていた布がぽとりと地面へ落ちる。「直樹、これはね、故国にいる年老いた母が送ってきたものなんだ。彼女はいまだに、私に子供がいると思い込んでいてね。少し惚けているんだろう。私に息子なんていないのに……」そして、逃げるように話題を変える。「それより直樹、君こそどうしてここにいるんだい? 傘も差さずに。こんなに濡れているじゃないか!」そう言って伸ばされた手を、直樹はがしりと掴んだ。「……っ!」〝神父様〟が息を呑む。 あまりにも冷たい手に驚いたのだろう。「直樹!? こんなに冷えて……まるで幽霊みたいじゃないか」男は慌ててその手を擦ろうとした。けれど直樹は、それを許さなかった。 掴んだ手首を離さないまま、静かに言う。「その通りですよ、〝神父様〟」 「……え?」 「実は俺、直樹じゃないんです」男の顔から、表情が消えた。 直樹は微笑んだ。「俺は、春樹なんですよ」 「──っ!?」男の顔に、ありありと悪寒が走った。 掴まれた腕を振りほどこうとする。 だが、びくともしない。
「で、今日はどうするんだ?」浩美の問いに、直樹は少し考えてから答えた。「んー……とりあえず、森の外を回ってみるよ。昔行ったところを見れば、何か思い出すかもしれないし」 「……あの日のこと、やっぱりまだ何も思い出せないのか?」自然と声が低くなった。直樹の笑顔も硬くなる。「兄貴が消えた日のこと、だよね」 「ああ」 「そうだな。そこだけは、さっぱり」直樹はしばらく黙り込んだ。 やがて何かを思い出したように、わずかに眉を寄せる。「……でも、一つだけある」浩美が首を傾げると、直樹は小さく頷いた。「兄貴のことで、妙に記憶に残ってること」その表情に緊張が滲む。「……兄貴の目が」 「……目?」 「そう」直樹は窓の向こうへ視線を向けた。差し込む朝の陽ざしは燦々と明るく、暗い森の影など、一片も見当たらなかった。直樹がゆっくりと口を開く。「あの頃の春樹、時々変な目をしてたんだ」窓の外で葉が擦れ合う。 その音に呼応するように、直樹のまつ毛がかすかに揺れた。「普段の兄貴なら、絶対に見せないような目」しばしの沈黙。「まるで──誰かを憎んでるみたいな」浩美は眉をひそめた。「憎むって、あの春さんが? 一体、誰を」 「それがわかれば苦労しないよ」直樹は肩をすくめ、マグカップを持って席を立った。 浩美もそれに続こうとする。その瞬間だった。 ぐらり、と視界が揺れた。「……あれ?」反射的にテーブルへ手をつく。 急激な眠気が、頭の芯まで一気に押し寄せてきた。 身体から力が抜ける。「なんだ、これ……?」どうにか踏ん張ろうとしたが、膝が言うことをきかない。 そのまま床へ膝をついた。頭が重い。 視界が滲む。
「はい、どうぞ」 「ん、ありがとう」差し出されたカップを受け取ると、浩美はダイニングテーブルの向かいに座る直樹をちらりと見た。 ぼんやりとコーヒーを啜る姿は、一見いつも通りだ。 けれど、首筋に点々と残った赤い痕が、昨夜ベッドの中で起きたことをありありと物語っている。そこから色々と思い出してしまい、浩美は慌てて手元のコーヒーに口をつけた。「あ、うまい。……あれ? でも、ここってインスタントしかなかったよな?」何気なく聞くと、直樹は少し居心地悪そうに視線を逸らした。「ああ。置いてあるやつ使った。インスタントでも、それなりに美味しく淹れる方法があるんだよ」 「へえ」 「俺、一応バリスタの資格持ってるから」 「えっ!?」危うくカップを取り落としそうになった。「お前、そんなにコーヒー好きだったっけ?」こくりと頷いた直樹は、照れくさいのか、妙にかしこまった顔で答えた。「大学受験の勉強してた頃にハマったんだ。それで結局、大学には行かずに専門学校へ通って、店で見習いしながら資格を取った。将来はマイスターの資格も取りたいと思ってる」その口調には、静かながらも確かな意思があった。 浩美は、なんだか不思議な気持ちで直樹を見つめた。──そうか。 当たり前のことなのに、今さら気づいた。 こいつは、昔の直樹でもなければ、春樹でもない。十年という時間を生きてきた、今の直樹なのだ。 いくら幼なじみとはいえ、浩美は村を去ってからの彼を何も知らない。 誰と出会い、どんな場所で暮らし、何を好きになって、何を目指して生きてきたのか。自分の知らない十年間が、直樹にはある。 それなのに浩美は、目の前の彼を十年前の直樹や春樹に当てはめようとしていた。それなのに今の彼を、昔の春樹や直樹に当てはめようとしていた自分が恥ずかしかった。そう思うと、少し恥ずかしくなる。 同時に、嬉しくもあった。彼は森の〝魔〟でも
夢を見る。 いつもの夢だ。森の中を、ひたすら走っている。 暗く、深い森を。視界の端を、白いものがよぎった。 白いシャツの華奢な背中が、木々の間をすり抜けていく。 風のように軽やかに。──あれは。「兄貴っ!」影がふっと振り返った。 だが、風に乱れた髪が顔を覆い、その表情までは見えない。白い影はそのまま森の奥へ駆けていく。 枯葉を踏み砕く音だけが、やけに大きく響いた。その時だった。「待ってっ! 兄貴っ!」
「じゃ、今日はこれで。──あ、そうだ、これ」コテージの玄関で、浩美が振り返った。 ポケットを探り、何かを差し出してくる。「ここの鍵だ」掌の上にあったのは、二つの鍵だった。 開きかけのドアから差し込む夕焼けの中で、鈍く光っている。直樹はそれを受け取り、ふと眉をひそめた。「ありがとう。でもこれ、合鍵までついてない?」持ち上げると、同じ形の鍵がチャラリと乾いた音を立てる。 直樹は片方をホルダーから外し、浩美へ差し出した。「一つは浩
「ちょ、とあんま、近寄んな」窓際まで追い詰められ、浩美の長い両腕が逃げ道を塞ぐ。 肩を押し返そうとしても、相手の体はびくともしなかった。「浩美、どけ」だが浩美は聞く耳を持たない。 さらに距離を詰めると、直樹の肩を掴んで強く揺さぶった。「いい加減、本当のことを言ってくれ。お前、本当に直樹なのか?」整った浩美の顔が、目の前まで迫る。「とてもじゃないけど信じられない。その顔も、仕草も……春さんにそっくりなんだよ」浩美の口元がひくりと痙攣した。「もしかしてお前……いや」浩美の喉仏がごくりと上下する。「……貴方は春さんなんじゃないですか?」
どれほどそうしていたのか、自分でもわからなかった。「直樹」不意に名を呼ばれる。 ハッと振り返ると、すぐ目の前に浩美がいた。知らないうちに、直樹は窓際まで近づいていた。 背中がひやりとガラスに触れる。すっと浩美の手が伸びてくる。一瞬身構える。 だが、その手は直樹の腕を軽く掴み、もう片方の手でカーテンを閉めただけだった。 まるで森の気配を遮るように。「直、って呼んでいいんだよな? お前はちゃんと直樹──高谷家の弟の方なんだよな?」浩美は真正面から直樹の顔をじっと見つめてくる。「……あ、あぁ」夢から引き戻されたような気分のまま