ログイン瀬奈は泰西からの誘いを受け、里亜が眠っているのを確認して部屋を出た。そのまま二人は、泰西の自室まで移動する。「母さんの日記って……そんなもの、一体どこから?」「母さんが暮らしていた部屋の押し入れの奥に入ってたんだ。俺も全く気付かなかったんだがな……」泰西は机の上に置いた日記を開いた。今は亡き、母親がつけていた日記。当然、瀬奈も泰西も見たことはない。泰西はともかく、瀬奈は母親のことをほとんど覚えていない。そもそも母が亡くなったのは瀬奈がかなり幼い頃だったし、泰西を溺愛していた彼女は瀬奈や静香を気にかけることが少なかった。(何だか、ドキドキするわね……見たいような見たくないような……)母の日記は、静香が生まれた頃から始まった。主に育児のことを綴っている日記のようだった。「あら、姉さんのことが書いてあるわ」「そうだな……」静香は瀬奈よりも五つ年上だった。当然、瀬奈は彼女の幼い頃の様子なんて知らない。母の日記を読んで、初めて静香の幼少期を知った。「姉さんも昔は大人しかったのね、驚いたわ」「アイツが大人しいだと?想像つかないな」眉をひそめる泰西に、瀬奈はアハハッと声を上げて笑った。大好きな姉の隠された一面を知り、何だか嬉しくなった。静香のページが終わると、次は泰西について書かれていた。「姉さんと兄さんが遊んだですって?そんなことあるのね」「俺は記憶にないぞ、アイツと遊んだなんて」「そりゃあこんな昔のこと、普通覚えてなんていないわよ」泰西と静香は犬猿の仲で今は一切連絡を取っていないが、お互いを心から嫌い合っているわけではないと瀬奈は信じている。(いつか、姉さんと兄さんと……三人でお酒でも飲みたいな……)その願いが叶うかはわからないけれど、二人が和解するまで気長に待とう。瀬奈は口元に笑みを浮かべながら、すぐ正面にいる泰西を見つめた。彼女の視線に込められた意味を感じ取ったのか、彼が気まずそうに目を逸らした。「次は……お前のことが書かれているぞ」「…………私のことが?」瀬奈は思わず身を乗り出した。自分を産んだとき母親が何を考えていたのか、彼女は知りたかった。瀬奈はずっと、母親は女として生まれた自分を好いていないのだと、心のどこかで感じていた。(……今になって、母さんの本心を知れるだなんて)瀬奈は意を決して、ページをめくった。
電話の向こうから聞こえた女性の声。推定三十代くらいの、おそらく湊斗や瀬奈と同年代の女性のものだろう。当然、瀬奈はその声に聞き覚えがなかった。(……どうして、湊斗は私の知らない女性と一緒にいるの?)瀬奈はスマートフォンを手に、固まった。暁家にいる彼女には、今湊斗がどのような状況かわからない。しかし、彼女の知らない女性と一緒にいるのはたしかなわけで。しかも下の名前で呼び捨てにするほど、親しくしている。しばらくすると、湊斗の声が電話から聞こえた。「……瀬奈、どうかしたのか?」「………ううん、何でもないの」瀬奈は一緒にいる女性のことを問い詰めたかったが、結局何も言わなかった。ここで聞いてしまったら、彼に迷惑をかけてしまうのではないかと不安だった。喉がつっかえたかのように、しばらくの間言葉が出てこなかった。夫を前に、瀬奈は何を話せばいいのか悩んでいた。少し前まではこんな気まずい感情を抱くなんてことなかったのに、一体何が二人の間に壁を作ってしまったのだろうか。瀬奈は迷いながらも、何とか言葉を紡いだ。「……ただ、ちょっとあなたの声が聞きたくなっちゃっただけよ」「……そうか」湊斗は短く返事をするだけだった。いつもなら俺も聞きたかったなんてことを言うはずの彼だが、今日に限ってやたらと冷たく感じる。彼女は声が震えるのを誤魔化すように、笑った。「夜遅くに電話しちゃってごめんなさい」「いや、気にするな」「そろそろ切るわね、あなたと話せて嬉しかったわ」瀬奈はそのまま一方的に湊斗との電話を切った。どうせもっと話したいと引き留めることもないんだから、わざわざ返事を聞くこともしなかった。「ママ、パパ元気だった?」「ええ、心配しなくても……元気にやっているわよ」里亜は相変わらず湊斗が大好きなようだった。純粋無垢な瞳を輝かせながら父親の話をする娘を見ていると、瀬奈の胸が締め付けられた。「里亜、そろそろ寝ましょうか」夜も遅くなり、瀬奈は里亜を寝かしつけた。いつもと違う環境で寝れるか心配していたが、日中遊んだことで疲れが溜まっていたのか、里亜はぐっすりと眠りについた。彼女が寝たあと、部屋で休んでいた瀬奈の元に予期せぬ来訪者があった。「――瀬奈、中にいるか?」「…………兄さん?」部屋の扉を開けると、立っていたのは泰西だった。「兄さん、どうかしたの?
泰西一家と夕食を摂り終えた瀬奈は、里亜と一緒にお風呂に入っていた。瀬奈は里亜の頭をシャンプーで洗いながら、話しかけた。「伯父さんと伯母さん、優しい人でよかったわね」「うん、お姉ちゃんもとっても優しい!」お姉ちゃんとは、泰西と千郷の間に生まれた一人娘のことである。瀬奈はまだ深く関わったことがないものの、里亜はすぐに彼女と打ち解けたようだった。(……まぁ、千郷さんに育てられたんだったらきっと優しい子よね)まだ子供ではあるが、既に千郷と泰西の美貌を受け継いだ綺麗な子になっていた。成長したらとんでもない美人になるんだろうな、と瀬奈は彼女の未来をある程度予想することができた。「お姉ちゃんにね、小学校の勉強教えてもらったんだ」「あら、そうだったのね。難しかった?」「ううん、簡単だったよ」「そ、そう……」両親どちらにも似ているところのある里亜だが、頭のほうは湊斗に似ているようだ。瀬奈は昔から勉強が苦手だったため、テストもいつも平均点だった。一方の湊斗は常に一位を死守するほどの天才で、瀬奈は彼と比べられることが多かった。しかしだからといって、湊斗を憎く思うなんてことはない。むしろそんな彼と結婚できることに瀬奈は誇りを感じていたし、憧れてもいた。「早く小学校行きたい!もっとお勉強したい!」「お勉強したい……?」幼稚園児で勉強がしたいと言うだなんて、一体誰に似たのだろうか。(私、幼稚園の頃何してたっけ……泥団子作って遊んでたわ……)瀬奈の脳裏に、泥で服を汚しまくってメイドに怒られた若き日の記憶が蘇る。「あともう少しだから……小学校に入ったらたくさんお勉強しましょうね」瀬奈はそう言いながら、里亜の頭を洗った。風呂から上がった彼女は、服を着替え、部屋へ戻った。「特に連絡はナシ……か」瀬奈は真っ先にスマートフォンを確認するが、湊斗からの連絡は入っていなかった。自分から彼に送ろうかなとも思ったが、結局迷惑をかけたくなくてやめた。(そうよね……久々に一人になれたんだから、彼もきっとゆっくりしたいはず……)それでも瀬奈は心配になってしまって、湊斗に電話をかけることにした。通話ボタンをタップし、スマートフォンを耳に当てる。「――どうした?」五コールを超えたあたりから不安になったものの、湊斗は瀬奈からの電話に応じた。声を聞いてようやく瀬奈は安心する
泰西や瀬奈が家族揃って夕食を食べていたちょうどその頃、父親は一人書斎にいた。彼は特に仕事をするわけでもなく、部屋にある椅子に座ってボーッとしていた。「……なぜか、落ち着かないな」一人の部屋で、彼はポツリと呟いた。当然、その呟きを聞いた者は誰もいないため、返事はない。何とも虚しい空間だと、彼は心の中で自身を嘲笑った。妻が亡くなってからというもの、彼は寂しい日々を過ごすこととなった。以前まですぐ横にいた存在が、急にいなくなってしまうことの寂しさ。彼女が亡くなる前は、そんなこと想像すらしていなかった。耐えられなくて新しい女を作ったが、結局全員長続きはしなかった。元々傲慢な性格であるせいか、女性たちは半年ももたずに彼に別れを切り出すのだ。『あなたとはやっていけないわ!もう終わりよ!』『私は暁社長に相応しい女ではないようです。どうか関係を終わらせてください』『ごめんなさい。あなたにはついて行けません。もう二度と私と関わらないでください』今まで彼が関係を持った女性たちに言われた言葉だった。ある程度好感を持っていたから交際をスタートさせたが、結局は全て振られてしまったのである。そのときになって彼はようやく自分は結婚に向いていないのだと理解し、新しく女性を作ることをやめた。結局、彼の横暴に何も言わずに耐えていたのは、前の妻だけだったということに気が付いた。「泰西たちは今頃、食事を摂っているのか……」今は亡き、唯一の妻との間に生まれた三人の子供。そのうちの二人がすぐ近くの別邸にいるのだと思うと、何だか複雑な気持ちだった。泰西はともかく、瀬奈は愛情を注いだ記憶がない。そんな娘に、今さらどう接しろと言うのか。ちょうど今行われている晩餐も、彼だけが招待されていなかった。その事実に悲しくはなるが、彼が何か言えるような立場ではなかった。「そういえば、里亜って言ったか……」彼はついさっき会ったばかりの孫娘を思い浮かべた。瀬奈が遅くに夫の神宮司湊斗と作った一人の娘。顔は子供の頃に湊斗に似ているけれど、瀬奈の面影を色濃く感じさせた。真っ先に浮かぶのは、足を噛まれたこと。彼は未だに歯形の残るふくらはぎをじっと見つめた。『じいじ、ママをいじめないで』幼いながらに力強い、覚悟の決まったような眼差し。まだ五歳だというのに、あんな目ができることに彼は驚いた。しかし、
「ちょ、ちょっと里亜……何をしているの……」本当なら愛する娘の行動を止めたくはないし、否定したくもない。しかし、今回ばかりはわけが違う。里亜が噛みついた相手は暁家の横暴な社長だった。目的のためならばどんな手段も厭わない男。それが瀬奈の父親だった。彼は相手が幼い子供だろうと、容赦はしないだろう。(……でも、里亜は私のためを思ってやってくれたのよね?)命知らずな行動ではあるが、瀬奈を守るためにやったのはたしかだ。「……今、私に何をした?」瀬奈から里亜に視線を移した父が、冷静に尋ねた。声を荒らげてはいないものの、顔をしかめている。かなり頭に来ているということが、一目瞭然だ。里亜はそんな父に対し、キッパリ言い放った。「じいじがママをいじめてたから、里亜がおしおきしたの」「いじめてただと?私は当然のことを言ったまでだ。大体、お前に何がわかるんだ」どちらも一歩も退かない言い争い。里亜も父も、自分が正しいことをしていると信じて疑わないのだろう。里亜はまだ幼さが残る、頑固な性格だった。ふと父の噛まれた膝を見ると、小さな歯型が残っていた。血は出ていないものの、痛みは多少なりともあったのではないだろうか。(父さん、誰かに膝噛まれるだなんて生まれて初めてだろうなぁ……)だからこそ、信じられなくて理解が追い付いていないのだろう。羞恥に身を震わせていた父は、しばらくすると瀬奈に向かって冷たく告げた。「――お前、さっさと娘を連れて出て行け」「父さん……待ってください……」瀬奈は何とか父を落ち着けようと手を伸ばすが、無惨にも振り払われてしまった。「今すぐにだ、出て行け」「……」瀬奈は渋ったが、最終的には里亜を連れて大人しく部屋を出て行った。泰西たちの元へ戻るまでの道中、彼女は里亜にお礼を言った。「里亜、私のためにありがとうね」「うん!里亜はママが一番大事なんだから!」「まぁ……パパよりも?」その問いにも、里亜は満面の笑みで頷いた。湊斗に懐いている里亜だが、生まれたときから一緒にいる瀬奈が最も大切なのは変わらない。二人の間には、普通の母娘以上の絆があった。「このあと、伯父さんたちと一緒にご飯を食べましょうか」「わぁ、お腹ペコペコ!」幸せそうに笑う里亜の頭を、瀬奈は優しく撫でた。今日は泰西が二人のために特別なディナーを用意してくれていたのだ。里
瀬奈が起こした離婚騒動は、家出ということになっている。彼女はたしかに家を出て行った。しかしそれは単なる家出ではなく、瀬奈は本気で湊斗から離れるつもりで黒川区を出た。真実を知っているのは湊斗本人や秘書の一馬、そして泰西くらいである。(兄さん、父さんに家出だと伝えたのね……)もしかすると、泰西はその頃から瀬奈が湊斗の元へ帰ってくることを予想していたのではないだろうか。「……ええ、その通りです。神宮司家が息苦しくて……ちょっとだけ家出したんです」「……息苦しくなっただと?」父親はその言葉に、眉をひそめた。瀬奈が思っていた通りの反応だ。「お前、自分の立場をわかっているのか?」「……はい、間違ったことをしたという自覚はあります」瀬奈の返しが気に入らなかったのか、父の表情はさらに険しくなった。彼は娘の里亜がいる前にもかかわらず、瀬奈に向かって声を荒らげた。「お前はどこまで暁の名に泥を塗るんだ!」「……父さん」久しぶりの父親からの叱責だった。いつもなら少し落ち込むくらいで終わることだが、今日に限ってなぜか胸がギュッと締め付けられる。おそらく、里亜がすぐ傍で見ているからだろう。愛する我が子にこんな姿を見せてしまうとは、何とも情けない母親だった。「大体、お前のような者が神宮司家に妻としてもらえただけでも奇跡のようなものだ!それなのに息苦しくなっただと!?お前のその行動が神宮司家に、暁家にも迷惑をかけているんだぞ!わかっているのか!?」「……」いつまでも続く叱責に、瀬奈は泣きそうになってしまった。父に叱られて泣くのは子供の頃以来だった。早く終わらないかなと願っていたそのとき、突然小さな身体が瀬奈を守るように前に出た。「――ママをいじめないで」「…………里亜?」突如前に立ちはだかった里亜に、彼は呆気に取られていた。「な……そこをどかないか」「ママをいじめないで」里亜は父の剣幕を前に怖気づくこともなく、きっぱりと言い放った。小さいはずの身体が、なぜか今の瀬奈にとってはとても大きく見えた。前に比べると、少し背が伸びたようだ。しかし、それでも対峙している父親の半分もない。里亜は父があ然としている隙にササッと駆け寄ると、彼のズボンをギュッと手で握った。そしてそのまま、里亜は父の足にガブッと噛みついた。「じいじ――めっ!」「……」ふくらはぎ







