登入1ヶ月後、共用口座の精算が終わった。悠真は、私が入れていた分の半額に、いくらか上乗せした金額を振り込んできた。私は上乗せ分だけ、そのまま返した。償いは要らない。償いという形にすれば、まるで7年分の痛みに値段がつくようで嫌だった。その数日後、紗英が家の近くまで来た。手には、昔私が好きだったケーキの箱を持っていた。「夏海」彼女は目を赤くしていた。「本当に……ごめん」風の強い日だった。ケーキの箱のリボンが揺れているのを見て、高校の夏を思い出した。2人で一本のアイスを分け合い、将来の話を飽きるほどした。あの頃の気持ちまで、嘘だったとは思わない。けれど、裏切られたこともなかったことにはできない。私はケーキを受け取らなかった。「紗英を恨んではいない。でも、許すことはできない」彼女は泣きそうな顔でうなずいた。その後、莉奈はこの街を離れたらしい。悠真は会社を辞め、SNSの更新も止まった。最後の投稿は、莉奈との3周年パーティーの写真のままだった。共通の知人から、悠真が後悔していると聞くことがあった。酔うと、私に電話をかけようとすることもあるらしい。けれど、もう私に届くことはない。私は携帯番号を変えた仕事も変え、生活のリズムも変えた。癒えるのは、簡単ではなかった。ふとした瞬間に、悠真の癖を思い出す。朝目が覚めると、彼が寝る前にカーテンを少しだけ開けていたことを思い出した。花屋の前を通ると、雨の中で彼が買ってきてくれた、少ししおれかけたバラを思い出した。胃が痛むと、慌てて薬を持ってきてくれた彼の姿を思い出した。愛した人は、ボタン一つで消せるファイルではない。彼との記憶は、生活のあちこちに入り込んでいた。けれど、時間だけは、誰にでも平等に流れている。傷をすぐに消してくれるわけではない。それでも少しずつ、人はまた息をすることを覚えていく。私は母の買い物に付き合い、父とは久しぶりに将棋盤を挟んだ。しばらく離れていた絵も、また描き始めた。私の部屋に残っていた空の植木鉢を洗い、小さなサボテンを植えた。母が笑った。「今度は枯らさないでね」私も笑った。「大丈夫。ちゃんと育てる」サボテンのことだけではなかった。私はもう、誰かの嘘の中で、自分を枯らした
翌朝、私はSNSに長い投稿をした。7年間、口にすることさえ避けてきた悠真の名前を、初めてはっきり書いた。泣き言も、罵りも書かなかった。ただ、時系列を並べた。大学での告白。7年の交際。同棲していたこと。共用口座を作り、生活費を出し合っていたこと。悠真が私の両親に会い、結婚の約束までしていたこと。そして、彼が3年前から水瀬莉奈と付き合い始めたこと。彼女を友人に紹介し、彼の母親にも会わせていたこと。その間、私には「出張」「仕事が忙しい」「今は時期が悪い」と言い続けていたこと。最後に、あのホテルで撮った動画を添えた。そこに映っていた悠真の声を、そのまま載せた。【結婚する相手は君だ。でも莉奈とは、式だけ挙げてやりたい】投稿を終えると、私はスマホを裏返して置いた。母が台所から顔を出した。「スーパーへ行くけど、一緒に来る?」私は少し迷って、うなずいた。母は何も聞かず、ただ私の手を握って歩いた。子どもの頃と同じように。スーパーの入口で、焼き芋の甘い匂いがした。昔、私が落ち込むと、母はよく焼き芋を買ってくれた。母は袋を受け取り、袋の中から焼き芋を一つむいて、私に手渡してくれた。口に入れると、ほくほくした甘さが広がった。その瞬間、涙がこぼれそうになった。愛されているとき、人は自分に価値があることを、必死に証明しなくていいのだ。昼過ぎ、スマホを開くと、通知は数えきれないほど増えていた。悠真の友人たちは急に静かになっていた。中には謝ってくる人もいた。【莉奈ちゃんが悠真の彼女だと思っていました】【事情を知らずに失礼なことを言ってすみません】前日に私を責めたコメントを、こっそり消している人もいた。莉奈からは、長いメッセージが届いていた。彼女は、悠真と私がとっくに別れていたと思っていたと言った。証拠を見た瞬間、すべてが崩れ落ちたとも。そして最後に、謝罪の言葉が送られてきた。【ごめんなさい】私は、その一言を長い間見つめていた。もちろん、彼女が何も知らなかったとは思っていない。3年ものあいだ、何ひとつ違和感を覚えなかったなど、あり得るはずがない。けれど、もうどうでもよかった。誰がよりかわいそうで、誰がより悪いのかを決めるために、これ以
悠真は、すぐには帰らなかった。その日の昼まで、何度もメッセージが届いた。【莉奈の連絡先は消した】【SNSでも、ちゃんと夏海のことを書く】【家族にも友人にも説明する】【だから、もう一度だけ話したい】私は返信しなかった。その日の午後、紗英からまた電話があった。昨日までの強気な口調は影を潜め、声には疲れがにじんでいた。「夏海、本当にそこまでする必要があるの?悠真くん、あなたのために夜通しで戻ってきたんだよ。莉奈は今、泣き崩れてる。あの子は、あなたたちがまだ付き合っていたなんて知らなかったの。莉奈だって被害者なんだよ」私は窓辺に座り、母が差し出してくれたホットコーヒーを片手に持っていた。そして、静かに尋ねた。「それで?」紗英は息をのんだ。「私に、あの子を慰めろって言うの?悠真を譲って、2人を祝福してって?」「そうじゃない。ただ、誰かが引かないと、みんな傷つく」「どうして、その誰かが私なの?」電話の向こうで、沈黙が落ちた。ふと、高校の夏を思い出した。悠真と初めて喧嘩した日も、私の隣にいてくれたのは紗英だった。あの日、彼女は怒りながら悠真を責めた。「もしあいつが夏海を傷つけるようなことをしたら、私が絶対に許さない」そう言って、誰よりも私の味方でいてくれた。私は泣きながら笑って言った。「ねえ、これからもずっと私の味方でいてね」彼女は迷わず答えた。「もちろん」でも、もちろん、って言葉も……永遠じゃなかった。想いも、立場も、何も変わらない間だけ成り立つものだった。「私、紗英のことを本当に親友だと思ってた」紗英の声が震えた。「私だってそう思ってるよ。だから言えなかった。夏海が知ったら、耐えられないと思ったから」私は静かに答えた。「違うでしょう。私が知ったら、悠真とあの子が今までどおりにいられなくなると思ったからじゃないの?」紗英の声が急に鋭くなった。「じゃあ、どうすればよかったの?みんなに知られて、悠真くんが二股男って言われて、莉奈が笑いものになって、私まで責められれば満足?」彼女は、自分たちが恥をかくことを恐れていた。けれど、私がこの3年間人前でどれほど恥をかかされたかは、最後まで見ようとしなかった。「あなたたちがどんな思いをしようと、私
翌朝、階下の騒ぎで目が覚めた。母の冷たい声が聞こえる。「夏海は会いたくないと言っています。帰ってください」カーテンの隙間から下を見ると、悠真が玄関先に立っていた。しわの寄ったシャツ。ほとんど眠っていないのか、目の下が青い。私に気づいた瞬間、彼の目がぱっと明るくなった。まるで、やっと助かったと言わんばかりに。「なっちゃん。1回だけでいいから、顔を見せてちょうだい」彼は荷物も持たず、早朝の便で飛んできたらしい。「俺が悪かった。頼む。俺を捨てないでくれ」以前なら、そんなふうに呼ばれただけで心が揺れた。赤い目をした彼から「なっちゃん」と言われると、どれほど怒っていても許してしまった。今は、知らない人を見ているようだった。近所の人たちが、何事かと顔を出し始める。母が玄関を閉めようとした瞬間、悠真はその場に膝をついた。父が慌てて出た。「やめなさい。人の家の前で何をしている」悠真は頭を下げた。「すみません。夏海さんを傷つけました」父の顔は怒りで青ざめた。「娘と付き合いながら、別の女性と3周年を祝っていたことか?」悠真は顔から血の気が引いた。まさか私が、家族にすべてを話したとは思っていなかったのだろう。7年間、私はずっと彼を庇ってきた。「仕事が忙しい」と言われれば、私もそう説明した。「家族に会うのはまだ早い」と言われれば、まだ仕事が安定していないからだと自分に言い聞かせた。「公にしないのは、なっちゃんを守るため」と言われれば、彼は控えめな性格なのだと思い込んだ。私はいつの間にか、彼の嘘を守る一番の味方になっていた。でも、もう彼のために取り繕うつもりはなかった。私は階段を下りた。母がすぐに私の手を握った。まるで、私がまた彼のもとへ戻されないように。その温もりに、胸の奥が少しだけ落ち着いた。悠真は私を見るなり、必死に言葉を重ねた。「莉奈には、はっきり言った。俺が結婚するのは夏海だって。あの子には悪いと思ってる。でも、これ以上間違ったことは続けない。俺と一緒に帰ろう。帰ったらすぐ式のことも相談しよう。母さんにも会わせる」私は思わず笑ってしまった。7年間、私が待ち続けたものが、彼が失うことを恐れた途端、あまりにも簡単に差し出された。彼の家族に会うこと。婚
飛行機を降りると、外は小雨だった。スマホの電源を入れた途端、通知が一斉に流れ込んできた。悠真からの着信は30件以上もあった。メッセージも、最初はなだめるようなものだった。【どこにいる?】【怒らせたなら謝る】【なっちゃん、頼むから返事して】彼のメッセージは少しずつ、苛立ちを含んだ言葉へ変わっていく。【いい加減にしろ】最後には、短いメッセージが立て続けに届いていた。【俺が悪かった】【電話に出てくれ】【頼む】私は画面を見つめた。悠真は、友人たちの前で私が傷つけられたとき、自分が悪いとは思わなかった。私に結婚を約束しながら、莉奈には式を挙げると言ったときも。3年ものあいだ、私を隠し続けたときも。けれど私が本当に姿を消した途端、ようやく「悪かった」と言う。到着ロビーには、両親が待っていた。母は私を見るなり、何も言わずに抱きしめてくれた。父は少し離れたところで立っていて、ぎこちなくティッシュを差し出した。「帰ってきたなら、それでいい。何があっても、帰る家はある」その不器用な言葉に、また涙が出そうになった。家に戻ると、私は倒れるように眠った。目が覚めたのは夕方だった。枕元でスマホが鳴った。母がドアの向こうから声をかけた。「出たくないなら無理しなくていい。でも、あなたには味方がいる。それだけは忘れないで」私はしばらく迷い、通話ボタンを押した。悠真の声は、ひどくかすれていた。「なっちゃん、どこにいる。迎えに行く」「来ないで」短く答えると、電話の向こうで息をのむ気配がした。「昨日のことは説明する。莉奈は体が弱いんだ。あの場で刺激したら、何をするかわからなかった」「だから、私は我慢すればよかったの?」悠真は少し黙った。「そういう意味じゃない。俺たちは7年だろ。俺が一番愛しているのは君だって、わかってるだろ?莉奈のことは、俺が少しずつ整理する。だから戻ってきて。ちゃんと話そう」私は窓の外を見た。雨はまだ降っていた。「戻らない」「それは、別れるって意味?」「そう。別れるってこと」その言葉を口にしたら、痛みで息が詰まると思っていた。でも、そうはならなかった。長く腐りかけていた何かが、その一言で、ようやく断ち切れた気がした。
ホテルを出ると、父からメッセージが届いていた。【悠真くんはいつ出張から戻るんだ?母さんが、結婚の話をそろそろ進めたいと言っている】画面を見つめたまま、私はしばらく動けなかった。この数年、私は家族にも嘘をついてきた。悠真は忙しいだけ。私を大事にしてくれている。ただ、人前で愛情を見せるのが苦手なだけ。何度もそう説明し、自分にも言い聞かせてきた。けれどもう、言い訳を重ねる気力は残っていなかった。私は母へ電話をかけた。声を聞いた瞬間、喉が詰まった。「お母さん。私、悠真と別れた」電話の向こうで、母は長いあいだ黙っていた。責められると思った。どうして今さら、どうしてもっと早く言わなかったのかと。母は、ただ静かに尋ねた。「つらい?」その一言で、涙があふれた。私は道端にしゃがみ込み、声を殺して泣いた。母は何も聞き出そうとしなかった。しばらくして、母は静かに言った。「帰っておいで。夏海には帰る家があるのよ。お父さんもお母さんも、ちゃんといるから」その夜、私は2人が同棲している部屋に戻り、最後の荷物をまとめ始めた。夜明け前、悠真からメッセージが届いた。【やっと落ち着いた。疲れた】続けて、短いボイスメッセージも送られてきた。「なっちゃんがここにいたら、今すぐ抱きしめるのに」その声はひそやかで、まるで眠っている誰かを気遣うようだった。私はベッドに座り、7年分のトーク履歴をゆっくり遡った。優しい言葉は、たくさんあった。夜中に遠い町まで行って、ショートケーキを買ってくれたこともある。好きだと何度も言ってくれた。しかし、過去の優しさは、今の裏切りを消してはくれない。私は自分のSNSを開いた。悠真からもらった花。一緒に観た映画の半券。やけどしながら作ったお粥。彼が送ってくれた甘いメッセージ。投稿を一つずつ削除していく。悠真は、私の投稿に一度も「いいね」を押したことがなかった。コメントを残したこともない。まるで、私ひとりで恋人ごっこをしていたみたいだった。朝になり、私はタクシーで空港へ向かった。7年前、初めて手をつないだ日、悠真は真剣な顔で言った。「なっちゃんは俺のだから、ほかの男を見るなよ」その言葉に、私は頬を赤くして笑った。彼