LOGIN私、永瀬亜沙美(ながせ あさみ)の30歳の誕生日に、恋人の立花葉一(たちばな よういち)の幼馴染である久世沙那(くせ さな)から、1枚のスクリーンショットが送られてきた。 その投稿には、遊園地の位置情報が添えられていた。 投稿された写真には、しゃがみ込んで沙那の靴紐を結び直している葉一の姿が写っていた。 そこには、こんな一文が添えられていた。 【カレいわく、30歳の女はつまらないから、若い子と遊んでる方がずっと楽しいんだって~】 送られてきたSNSの投稿画面を見つめたまま、私は「いいね」も押さず、返信もしなかった。 5分もしないうちに、葉一から電話がかかってきた。 電話の向こうからは、遊園地の音楽に混じって、綿あめをねだる沙那の甲高い声が聞こえてきた。 葉一の口調はいつも通りで、悪びれる様子もなかった。 「写真、見たろ?沙那がどうしても行きたいって言うからさ。お前が素直に謝って、もう勝手に俺のスマホを覗かないって約束するなら、今日中に帰ってケーキでお祝いしてやるよ」 いつもの手口だ。 彼と沙那との距離感のなさに私が腹を立てるたび、決まって沙那の元へ行くのだ。 彼女を映画に連れて行き、旅行に出かけ、お揃いの服を着て、私に見せつけるようにSNSに写真を投稿する。そうして私が音を上げて謝るのを、まるで高みの見物でもするかのように待っている。 「俺が他の女といる姿を見せつけないと、お前もその異常な束縛癖を少しは改めるだろ。それに沙那はただの妹分だし、お前も本気で怒ってるわけじゃないだろ」 彼はいつもそう口にした。 沙那も決まって調子を合わせた。 「亜沙美さん、怒らないでね?葉一くんは、私のこと妹みたいに思ってるだけだから」 まるで決まり文句のように。 電話の向こうで、葉一はまだ待っていた。私が「ごめんなさい、帰ってきて」と言う、そのひと言を。 けれど、誕生日のお祝いに作ったパスタがすっかり伸びきっているのを見ていると、急に、何もかもが嫌になった。 「もう、帰ってこなくていい。 私、30歳になったの。 もう、あなたの世話を焼くのはうんざりよ」
View More葉一の顔色が、さっと青ざめた。彼は子犬を慌てて足元に下ろすと、ドサッと音を立てて、その場に姿勢を正したまま私の前にひざまずき、すがるように頭を下げた。粘土のついたデニムエプロンの裾を強く握りしめ、顔を上げて私を見つめた。「亜沙美、俺は自分が馬鹿だったって本当に分かってる!前はあまりにひどい男だった。お前が俺のそばにいるのが当たり前になりすぎて、お前が離れていくなんて考えもしなかった……沙那を当て馬にしてお前を苛立たせたのは、お前が俺を気にかけてる証拠が欲しかっただけなんだ。お前が俺のために嫉妬する姿が見たかっただけで……」彼は自分の歪んだ心理を、まとまりもなく語りながら、全身を震わせて泣いていた。「もう一度だけ、チャンスをくれ。たった一度でいい!残りの人生をかけて償うから。頼む、亜沙美、俺を見捨てないでくれ……」街灯が彼の影を長く、そして惨めに伸ばしていた。膝をつくその姿を、私はただ見つめていた。もし1年前だったら。いや、半年前だったとしても。彼がただひと言、優しい言葉をかけてくれさえすれば、私は迷わず彼の胸に飛び込み、すべての過ちを許していただろう。けれど、今は違う。私は手を伸ばし、彼がエプロンを握りしめる指を、1本ずつ、そっと外していった。「実のところ、私はとっくにあなたを許してるの」彼ははっと顔を上げた。充血した目に、一瞬狂喜のような光がよぎった。「本当か?亜沙美……」「でも」私は彼の言葉を遮った。声はあくまで静かだった。「許すことと、やり直すことは別なの」彼を見つめながら、ひと言ひと言、はっきりと告げた。「あの日、団子がベランダで血を吐いていたとき。私がその子を抱いて、土砂降りの雨の中、道路脇に膝をつき、タクシーも拾えずにいたとき。あなたを愛していた亜沙美は、もうあのとき、あの街で死んでしまったの」葉一の目に宿っていた光が、完全に消えた。彼の顔色は、土気色に変わった。口を開けたまま、喉の奥から「カッ、カッ」という音が漏れるだけで、とうとう言葉にならなかった。彼はようやく悟ったのだ。ふたりの関係は完全に壊れてしまったのだと。もう二度と、元には戻らないのだと。私は彼から視線を外した。背を向け、シャッターを下ろして工房に鍵をかけた。いつの
冬のある夕方、冷え込みが一段と厳しくなった。海風にも、刺すような冷たさが混じっていた。工房の作業台に並べたヘラなどの道具を片づけ、シャッターを下ろそうとして、ふと振り返った瞬間――私は動きを止めた。扉の外、街灯の下に、ひとりの人影が立っていた。葉一だった。一瞬、誰だか分からなかったほどだ。すっかり痩せ細っていて、かつて体にぴったりと合っていた黒いコートが、ひどくだぶついて見えた。目は落ちくぼんで充血し、顎には濃く無精髭が伸びていた。かつての、自信に満ちて余裕たっぷりだったエリートの面影は、もうどこにもない。彼は冷たい風の中に立ち、小刻みに震えていた。そして、そのコートの胸元には、何やらもこもことしたものを抱えていた。私が振り返ったのに気づくと、彼は大股で近づいてきた。コートのジッパーを開け、懐から小さな子犬を取り出した。ゴールデンレトリバーの子犬だった。生後1、2か月ほどだろうか。ふわふわの毛並みで、幼い頃の団子にそっくりだった。葉一は私を見つめ、みるみるうちに目を潤ませた。声はかすれきっていて、ひどく鼻にかかっていた。「……亜沙美、やっと見つけた……」彼は一歩前に出て、小さなゴールデンレトリバーの子犬を私の前に差し出した。まるで宝物を捧げるように。「見てくれ。丸1か月かけて、ブリーダーを10軒以上回って、ようやくこの子を見つけたんだ。団子の子供の頃とそっくりだろ。耳のところにある白い毛まで同じなんだ。亜沙美、また一緒にこの子を育てよう。な?」彼はすがるような目で私を見つめながら、この数か月の自分の変化を、まとまりもなく話し続けた。「沙那とはきっぱり縁を切った。もう二度と会わないと誓う。会社の持ち株もすべて売った。もうあの仕事からは手を引いたんだ。こっちで庭付きの家を買おう。お前は陶芸が好きなら続ければいい。俺がそばにいるから。もう一度やり直そう、な?」彼は見捨てられた子供のように泣いていた。涙がこけた頬を伝って流れ落ち、子犬の頭にぽたぽたと落ちていった。彼はこの犬を差し出し、自分がどれだけ犠牲を払ったかを並べ立てて、私の心を揺さぶろうとしていた。私は工房の入口の一段高くなった床に立ち、静かにその様子を見つめていた。落ちぶれて、惨めなその姿を。
葉一のもとを去って2か月。私は海沿いの、時間がゆっくりと流れる小さな町に落ち着いた。ここには身を切るような寒風もなく、あるのはただ、塩気を帯びた温かい潮風だけだった。手元の蓄えを使って、海辺に庭付きの小さな平屋を借りた。庭には大きな木が1本立っている。団子の遺灰は、家主の了承を得て、その木の根元に埋めた。毎朝起きると、きれいな水を汲んで、木の根元にそっと注ぐ。「団子、おはよう。今日は海風が暖かいよ。たっぷり日向ぼっこしてね」ざらついた木の幹を撫でながら、小さな声で語りかけた。もう、泣くことはなかった。私はこの平屋を少し改装し、自分の陶芸工房を開いた。7年間手放していた陶芸用のヘラと土を、私は再び手に取った。長年伸ばし続けていた腰まで届く髪も切った。それは、葉一が一番気に入っていた長さで、「おしとやかに見える」からだと言っていた。キャリーケースの中にしまい込んでいた、地味でおとなしい印象のワンピースはすべて捨てた。代わりに身につけるようになったのは、ゆったりとしたリネンシャツと、粘土のついたデニムのエプロン。足元は履き古したスニーカーだ。隣でカフェを営む青木葵(あおき あおい)とは、すぐに友達になった。彼女は明るく物怖じしない性格で、毎日アイスコーヒーを片手に工房へ遊びに来る。私は自分で作った、少しいびつな形の陶器のマグカップを彼女に贈った。葵はそのカップを両手で包むように持ちながら、私を見て笑った。「亜沙美、ここに来たばかりの頃のあんたって、まるで抜け殻みたいだったよ。生気がなくてね。でも今は、笑うと目にちゃんと輝きが戻ってるよ」私は一瞬きょとんとして、思わず自分の目元に触れた。そうなのだろうか。あの街で過ごした7年間を思い返す。あの頃、私は毎日不安に苛まれていた。葉一がその日も時間どおりに帰ってくるか、彼の胃痛がぶり返さないか、彼のスマホにまた沙那からのメッセージが届いていないか。そんなことばかり気にしていた。まるで彼の母親代わりになって、いつ爆発するかわからない爆弾を抱えながら暮らしているようだった。私は自分の喜怒哀楽のすべてを、ひとりの男に委ねていたのだ。けれど今は違う。毎日気にかけているのは、粘土の水分が足りているか、窯の温度が適切かどうか、夕焼け
葉一は、がらんとしたマンションに戻った。明かりはつけなかった。窓から差し込む街灯の光だけを頼りに、ソファにどさりと身を投げ出した。部屋の中は、静まり返っていた。ポケットを探り、タバコを取り出そうとしたが、箱が空なのに気づいた。ローテーブルの引き出しに身を乗り出し、予備のタバコを探した。タバコは見つからなかったが、代わりに分厚いハードカバーのノートに手が触れた。葉一はそのノートを取り出し、スマホのライトを頼りに最初のページを開いた。それはスクラップブックだった。切り抜いた紙片や印刷した資料がびっしりと貼られ、脇には亜沙美の整った字で書き込みが添えられていた。最初のページには、葉一の好物のレシピが細かく書かれていた。【葉一は長ネギが苦手。入れるなら大きめに切って、取りやすいようにすること。肉じゃがが好き。でも甘すぎる味つけは苦手だから、砂糖は控えめに】ページをめくっていくと、今度は胃の調子が悪いときの対処法が細かく記されていた。【胃薬は指示された服用時間を守ること。仕事の付き合いでお酒を飲んだ日は、翌朝すぐ食べられるように雑炊を作っておく。飲みすぎると、夜中に胃が痛くなることがあるから】葉一の指先が震え始めた。ページを1枚1枚めくり、最後のページにたどり着いた。そこには、すっかり黄ばんだ応募用紙が挟まっていた。【セーヌ芸術学院・若手芸術家研修コース】応募用紙に記された名前は亜沙美、日付は5年前のものだった。用紙の右下には、赤い「辞退」のスタンプが押されていた。葉一の息が止まった。思い出した。5年前、亜沙美はこの研修プログラムの推薦枠を手に入れていた。それは、彼女が幼い頃からずっと抱いてきた夢だった。けれどあの頃、彼が会社を立ち上げたばかりで資金繰りが行き詰まり、彼は毎晩ろくに眠れず、ストレスで髪が抜け落ちるほど追い詰められていた。亜沙美は海外へは行かなかった。航空券をキャンセルし、推薦枠を辞退し、留学のために用意していた100万円の保証金を全額引き出して、彼の会社につぎ込んだのだ。彼女はそのとき、こう言った。「葉一、絵ならいつでも描ける。でも、あなたが潰れていくのを黙って見ているなんてできない」ぽたり。涙が、その黄ばんだ紙の上に落ち、文字をにじませ