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遅れた愛が、灰になった日

遅れた愛が、灰になった日

By:  呼び声Completed
Language: Japanese
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私、永瀬亜沙美(ながせ あさみ)の30歳の誕生日に、恋人の立花葉一(たちばな よういち)の幼馴染である久世沙那(くせ さな)から、1枚のスクリーンショットが送られてきた。 その投稿には、遊園地の位置情報が添えられていた。 投稿された写真には、しゃがみ込んで沙那の靴紐を結び直している葉一の姿が写っていた。 そこには、こんな一文が添えられていた。 【カレいわく、30歳の女はつまらないから、若い子と遊んでる方がずっと楽しいんだって~】 送られてきたSNSの投稿画面を見つめたまま、私は「いいね」も押さず、返信もしなかった。 5分もしないうちに、葉一から電話がかかってきた。 電話の向こうからは、遊園地の音楽に混じって、綿あめをねだる沙那の甲高い声が聞こえてきた。 葉一の口調はいつも通りで、悪びれる様子もなかった。 「写真、見たろ?沙那がどうしても行きたいって言うからさ。お前が素直に謝って、もう勝手に俺のスマホを覗かないって約束するなら、今日中に帰ってケーキでお祝いしてやるよ」 いつもの手口だ。 彼と沙那との距離感のなさに私が腹を立てるたび、決まって沙那の元へ行くのだ。 彼女を映画に連れて行き、旅行に出かけ、お揃いの服を着て、私に見せつけるようにSNSに写真を投稿する。そうして私が音を上げて謝るのを、まるで高みの見物でもするかのように待っている。 「俺が他の女といる姿を見せつけないと、お前もその異常な束縛癖を少しは改めるだろ。それに沙那はただの妹分だし、お前も本気で怒ってるわけじゃないだろ」 彼はいつもそう口にした。 沙那も決まって調子を合わせた。 「亜沙美さん、怒らないでね?葉一くんは、私のこと妹みたいに思ってるだけだから」 まるで決まり文句のように。 電話の向こうで、葉一はまだ待っていた。私が「ごめんなさい、帰ってきて」と言う、そのひと言を。 けれど、誕生日のお祝いに作ったパスタがすっかり伸びきっているのを見ていると、急に、何もかもが嫌になった。 「もう、帰ってこなくていい。 私、30歳になったの。 もう、あなたの世話を焼くのはうんざりよ」

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Chapter 1

第1話

電話を切ったあと、私はテーブルの上に置かれた、すっかりふやけたパスタを、ただ黙って見つめていた。

ソースはすっかり冷え、表面には白く固まった脂が浮いていた。その隣には、小さなイチゴのショートケーキが置かれていた。

私はパスタの皿を持ってキッチンへ向かい、中身をそのままゴミ箱に捨てた。

時計は夜の11時を回っていた。

不意に、玄関で物音がした。

葉一が入ってきた。そのすぐ後ろから、沙那がぴったりとくっつくようにして入ってきた。

「亜沙美さーん、今日はどうして泣かないの?」

彼女は葉一の背中からひょこっと顔を覗かせた。葉一の大きな黒いブルゾンを羽織っているせいか、いっそう小柄で無邪気な印象が際立っている。

葉一は靴を脱ぎながら顔を上げ、ソファに座る私を一瞥すると、嘲るように口元を歪めた。

そのままアイランドキッチンへ歩み寄り、コップに水を注ぎながら気のない調子で言った。

「まだ起きてたのか。少しは考え直したか?

今ここで素直に謝って、これからは俺の交友関係に口出ししないって約束するなら、買っておいた誕生日プレゼント、渡してやってもいいぞ」

私は彼を見つめたまま、何も言わなかった。

以前なら、喧嘩のたびに葉一が沙那を連れて現れると、私は決まって泣きわめき、彼を問い詰めていた。そして最後には、彼の冷たい視線に耐えきれず、私のほうが折れて、目を真っ赤にしながら彼に譲歩していたのだ。

彼はこの一連の流れを知り尽くしていた。

だからもう、私の機嫌を取る気すらなく、ただ高圧的に構えてこちらが折れるのを待っているだけだった。

そのとき、部屋の隅から弱々しい鳴き声が聞こえた。

7年前、ふたりで迎えたゴールデンレトリバーの「団子」だ。

団子ももう年を取り、最近は重い病気を患い、立ち上がるのもやっとだった。

それでも葉一の声を聞きつけると、後ろ脚を踏ん張って体を起こし、尻尾を振りながらよろよろと近づいていった。そして、葉一のズボンの裾に鼻先をすり寄せようとした。

沙那が甲高い悲鳴を上げ、慌てて葉一の背中に隠れた。

「きゃー!葉一くん、この犬、くさい!ノミとかついてるんじゃない?怖いよぉ!」

葉一は不快そうに眉をひそめると、ためらうことなく足を振り上げた。

「邪魔だ!」

もともと弱っていた団子は、その容赦ない蹴りをまともに受け、床に転がった。痛々しい悲鳴を上げ、そのまま起き上がれなくなった。

私は思わずソファから立ち上がった。心臓を鷲掴みにされたような痛みが走った。

葉一は床に倒れた団子に目を向けることもなく、こちらを振り返って咎めるように言った。

「この老いぼれ犬、さっさとベランダにでも出しておけよ。毛が抜けて散らかるし、沙那が犬の毛にアレルギーがあるの、知ってるだろ」

私はその場で固まったまま、葉一の露骨に嫌そうな顔を見つめていた。

7年前、私たちはまだ大学を卒業したばかりだった。起業に失敗し、生活が一番苦しかった頃は、日当たりの悪い古びたアパートで暮らしていた。

あの冬はひどく寒かったのに、暖房すらなかった。

葉一は毎晩、団子を抱きかかえて眠っていた。あの頃、彼はよくこう言っていたっけ。

「亜沙美、団子は俺たちの息子みたいなもんだな。いつか稼げるようになったら、絶対に庭つきの広い家を買ってやる。毎日日向ぼっこさせてやろうな」

今、広い家だけは手に入った。

それなのに彼は、他の女の「怖い」というたったひと言のために、私たちが積み重ねてきた日々を、たった一蹴りで踏みにじったのだ。

「葉一くんを責めないであげて。私が昔から犬が苦手なだけだから……」

沙那が彼の背中からおずおずと顔を覗かせ、怯えたように私を見た。

「やっぱり、私もう帰るね。私のせいでふたりが喧嘩するの、見たくないし」

葉一は彼女の手首をぐいと掴んだ。

「何言ってんだよ、帰るなんて。外はこんな大雨だぞ。今夜は俺の寝室で寝ればいいから」

そう言うと、彼は冷たい目をこちらへ向けた。

「亜沙美、さっさとその犬をどかせ。二度は言わせるなよ」

床の上で全身を震わせている団子に目を落とすと、喉の奥に血の味が込み上げてきた。

私は無言のまま歩み寄り、しゃがみ込んで団子をそっと腕の中に抱き上げた。

団子は私の肩に頭を預け、温かい舌で首筋をそっと舐めてきた。

私は団子を抱きかかえたまま、ベランダへと向かった。

窓を閉めたその瞬間、リビングから沙那の甘えた声が聞こえてきた。

「葉一くん、さっき犬を蹴ったとき、すごく怖かったよぉ。びっくりしちゃったぁー」

葉一が小さく笑う声がした。

「あいつがお前に飛びかかろうとしたから悪いんだろ」

私はベランダのガラス戸に背中を預け、そのままずるずると床に座り込んだ。

団子は私の腕の中で小さく丸まり、荒い息をしていた。

そのごわついた毛並みを撫でながら、私の目から、ようやく涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。

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第1話
電話を切ったあと、私はテーブルの上に置かれた、すっかりふやけたパスタを、ただ黙って見つめていた。ソースはすっかり冷え、表面には白く固まった脂が浮いていた。その隣には、小さなイチゴのショートケーキが置かれていた。私はパスタの皿を持ってキッチンへ向かい、中身をそのままゴミ箱に捨てた。時計は夜の11時を回っていた。不意に、玄関で物音がした。葉一が入ってきた。そのすぐ後ろから、沙那がぴったりとくっつくようにして入ってきた。「亜沙美さーん、今日はどうして泣かないの?」彼女は葉一の背中からひょこっと顔を覗かせた。葉一の大きな黒いブルゾンを羽織っているせいか、いっそう小柄で無邪気な印象が際立っている。葉一は靴を脱ぎながら顔を上げ、ソファに座る私を一瞥すると、嘲るように口元を歪めた。そのままアイランドキッチンへ歩み寄り、コップに水を注ぎながら気のない調子で言った。「まだ起きてたのか。少しは考え直したか?今ここで素直に謝って、これからは俺の交友関係に口出ししないって約束するなら、買っておいた誕生日プレゼント、渡してやってもいいぞ」私は彼を見つめたまま、何も言わなかった。以前なら、喧嘩のたびに葉一が沙那を連れて現れると、私は決まって泣きわめき、彼を問い詰めていた。そして最後には、彼の冷たい視線に耐えきれず、私のほうが折れて、目を真っ赤にしながら彼に譲歩していたのだ。彼はこの一連の流れを知り尽くしていた。だからもう、私の機嫌を取る気すらなく、ただ高圧的に構えてこちらが折れるのを待っているだけだった。そのとき、部屋の隅から弱々しい鳴き声が聞こえた。7年前、ふたりで迎えたゴールデンレトリバーの「団子」だ。団子ももう年を取り、最近は重い病気を患い、立ち上がるのもやっとだった。それでも葉一の声を聞きつけると、後ろ脚を踏ん張って体を起こし、尻尾を振りながらよろよろと近づいていった。そして、葉一のズボンの裾に鼻先をすり寄せようとした。沙那が甲高い悲鳴を上げ、慌てて葉一の背中に隠れた。「きゃー!葉一くん、この犬、くさい!ノミとかついてるんじゃない?怖いよぉ!」葉一は不快そうに眉をひそめると、ためらうことなく足を振り上げた。「邪魔だ!」もともと弱っていた団子は、その容赦ない蹴りをまともに受け、床に転がった。痛
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第2話
翌朝、私は団子が激しく痙攣する気配で目を覚ました。ベランダの床は氷のように冷え切っていた。団子は床に横たわったまま全身を激しく震わせ、口からは血の混じった白い泡を大量に吐いていた。その目はすでに焦点が定まらず、うめき声すら出せずにいた。私は恐怖に全身を震わせながら、転がるようにリビングへ駆け込んだ。「葉一!葉一ーッ!」返事はない。寝室にも姿はなかった。家の中は、不気味なほど静まり返っていた。私は震える手でスマホを取り出し、SNSを開いた。タイムラインの一番上には、30分前に沙那が投稿した写真が表示されていた。位置情報には、郊外の高級温泉リゾートの名前が表示されていた。写真には、水着姿で露天風呂の縁に腰かける沙那が写っていた。隣からは男の手が伸びて、タオルで彼女の髪を拭いていた。そこには、こんな一文が添えられていた。【週末はやっぱり山の温泉だよね~。昨日の夜は怖い思いをしたから、ちゃんと埋め合わせしてくれるんだって】スマホを握る指に、思わず力がこもった。けれど今は、傷ついている場合じゃない。玄関へ飛んでいって車の鍵を取ろうとしたが、靴箱の上のキートレイは空っぽだった。私の車の鍵がない。葉一の車は昨日、整備に出したはずだ。――彼は、私の車に乗って出かけたのだ。私は慌てて葉一に電話をかけた。電話に出た葉一の声には、隠しきれない苛立ちがにじんでいた。「亜沙美、また何のつもりだ?俺がいなくなってから、ようやく謝る気になったのか?昨夜は意地を張ってベランダで一晩明かしたくせに、よく凍え死ななかったな」私の声は震えていた。「……団子が危ないの。血を吐いてるの。お願い、車で戻ってきて!団子の薬も車に置いたままなの……っ」「もういい加減にしろ!」葉一は冷たく私の言葉を遮った。その声には、明らかな嘲りがにじんでいた。「お前さぁ、そういうのまだ通用すると思ってんのか?沙那がいるときに限って、具合が悪いふりをする。前は胃痛、この前は発熱、今度はとうとう犬まで利用する気か?」「嘘じゃないわ!団子は本当にもう危ないの!」私はほとんど叫んでいた。電話の向こうから、沙那の声が聞こえてきた。「葉一くん、お湯加減ちょうどいいよ。早くおいでよー」葉一は一瞬黙り込んでから、言
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第3話
団子は集中治療室へ運ばれていった。獣医師から、危篤状態だと説明された。複数の臓器が機能不全に陥っており、できる限りの処置をするしかないという。受付で必要な書類に記入し、預り金を支払うと、私は廊下のプラスチック製の椅子に腰を下ろした。全身ずぶ濡れで、髪からも服からも水が滴っていた。ひどい有様だった。私のスマホが震えた。葉一の友人である滝井雄太(たきい ゆうた)からのメッセージだった。メッセージには、高級レストランの位置情報が添えられていた。【亜沙美さん、昨日は誕生日だっただろ。葉一がわざわざ店を貸し切って、埋め合わせのサプライズを用意したんだ。あいつ口は悪いけど根はいいやつなんだから、早く来てくれよ。みんな待ってるからさ】画面の文字を見つめながら、あまりのばかばかしさにめまいがした。さっきまで温泉にいたはずなのに、いつの間に街へ戻って、店を貸し切ったというのか。おそらく沙那が温泉を十分に楽しんだところで、ようやく思い出す気になったのだろう。7年付き合ってきた恋人の30歳の誕生日を、昨日すっぽかしたことを。私は処置室の固く閉ざされた扉をちらりと見やった。獣医師に、何かあればすぐに電話をもらうよう頼んでから、立ち上がって病院を出た。タクシーを拾い、レストランへ向かった。個室の扉を開けた瞬間、中の賑わいがぴたりと止んだ。全員の視線が、一斉に私へ集まった。泥と雨水にまみれた服。濡れた髪が顔に張りつき、見るに堪えない姿だった。その部屋の中央、本来なら私が座るはずの上座には、沙那が腰かけていた。上品なミニドレスを着て、首元ではもともと私のものだったのネックレスが輝いていた。私より、よほど主役らしく見えた。隣に座る葉一は、このみすぼらしい私の姿を見るなり、眉間に深い皺を寄せた。「亜沙美、何のつもりだ?みんなお前の誕生日を祝いに集まってくれたっていうのに、こんな格好で来て場をぶち壊す気か?」隣で雄太が、取りなすような、それでいてどこか面白がっているような口ぶりで言った。「亜沙美さん、葉一は亜沙美さんを焦らせたくて沙那を温泉に連れてっただけだって。そんなに怒るなよ。ほら、沙那にも1杯お酒を注いでやって、それで水に流そう。さあ、こっち座れよ」皆が待っている。葉一は椅子の背にもたれかかり
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第4話
「亜沙美、待て!」背後で椅子の倒れる音がして、葉一が追ってきた。レストランの長い廊下で、彼が私の手首をつかんだ。「お前、頭おかしいんじゃないか?せっかくみんなが助け舟を出してくれてるのに、どうしてぶち壊すような真似をするんだ?」怒りを抑えつけているのか、彼の胸が激しく上下していた。「言っただろ、あの酒を飲みさえすれば許してやるって。沙那だって帰るって言ってるだろ。これ以上どうしろって言うんだ?もう30歳だぞ、亜沙美!俺以外の誰が、お前みたいな面白みもなく、融通の利かない女に耐えられるっていうんだ?」沙那も追いかけてきて、目を赤くしながら葉一の裾を引っ張った。「葉一くん、亜沙美さんを責めないであげて。私が悪いの。このネックレスもすぐに外して返すから……」そう言ってネックレスの留め具を外そうとしたが、なかなか外れず、焦って涙ぐんでいた。葉一がその手を押さえ、いたわるように言った。「外さなくていい。一度あげたものを返させるなんて、そんなことできるわけないだろ」彼は私のほうへ向き直り、冷ややかな目を向けた。「亜沙美、今日この扉から出ていくなら、もう二度と俺がお前のご機嫌を取ると思うなよ」「そうね、あなたの言うとおりだわ」私は葉一を見つめたまま、風のように軽やかな口調で言った。「だから、もう解放してあげる」私は彼の指を1本1本、力ずくで剥がし、静かにその手を振り払った。葉一は呆気に取られたようだった。まさかこんな反応を返されるとは思っていなかったのだろう。その目には、ほんの一瞬だけ動揺の色が浮かんだ。そのとき、私のポケットの中で、スマホが鳴った。動物病院からだった。電話に出ると、動物看護師が申し訳なさそうに小さな声で告げた。「永瀬様、申し訳ございません。団子ちゃんは、助かりませんでした。先ほど息を引き取りました。最後に一度、団子ちゃんのお顔を見に来ていただけますか?」廊下の照明が、やけにまぶしく感じられた。私がスマホを握りしめていると、大粒の涙が次々とあふれ出し、頬を伝って落ちた。でも、声は少しも出なかった。葉一は私が涙を流すのを見て、さっきの言葉で私が折れたのだと思ったらしい。表情が少し和らぎ、声も柔らかくなった。「もういいだろ。泣くなよ。これからは俺の行動を
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第5話
葉一は、亜沙美がただ意地を張っているだけだと思っていた。この5年間、彼女は何度も別れを切り出してきた。一番激しかったときには、スーツケースに荷物を詰めて、マンションのエレベーターホールまで飛び出したこともある。けれどあのときも、彼はただ玄関のドアの前に立ち、冷たく一言だけ告げた。「今日このエレベーターに乗ったら、もう二度と戻ってくるな」その瞬間、亜沙美の目から涙があふれた。彼女はスーツケースを引きずって部屋に戻り、泣きながら夕飯を作ったのだ。だから今回も、葉一は少しも動じていなかった。むしろ、レストランで酒をぶちまけたあの行動すら、自分を折れさせるための強引な手段にすぎないと思っていた。「数日間放っておけば、勝手に戻ってくるさ」彼は雄太に笑って言った。あれから3日間、彼はわざとマンションに帰らず、亜沙美にはメッセージの1つも送らなかった。3日目の午後。沙那がオフィスで宅配の荷物を開けていたとき、うっかり指先を切ってしまった。沙那は血のにじんだ指を見せ、甘えた声で痛みを訴えた。葉一は眉をひそめ、家に置いてある救急箱を取りに、沙那を連れてマンションに戻った。扉を開けた瞬間、彼は反射的にこう呼びかけた。「亜沙美、救急箱持ってきてくれー!」返事はなかった。部屋の中は静まり返っていて、玄関の壁掛け時計の秒針の音だけが聞こえた。葉一は靴を脱ごうとした動きを止めた。顔を上げ、あたりを見回した。リビングのローテーブルには、いつもなら亜沙美が用意してくれていた、温かいゆず茶の入ったマグカップは置かれていなかった。ソファの上には、亜沙美が気に入っていたクッションも、1つ残らずなくなっていた。勢いよく靴箱を開けると、中にあったはずの亜沙美の靴は、1足残らず消えていた。葉一の胸が、嫌な予感にざわついた。大股で寝室へ向かい、クローゼットを勢いよく開けた。中はもぬけの殻だった。亜沙美の服も、バッグも、化粧台の上の化粧品一式まで、すべてきれいに消え失せていた。彼はさらにベランダへ駆けつけた。あの大きな、いつも犬の毛がついていた犬用ベッドも、餌皿も水入れも、何もかもなくなっていた。「亜沙美さん、もしかして引っ越しちゃったの?」沙那が後ろからついてきて、嬉しさを隠しきれない様子で言
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第6話
葉一は狂ったように車を走らせ、亜沙美の会社へ向かった。警備員の制止も振り切り、まっすぐデザイン部に駆け込んだ。亜沙美のデスクはきれいに片づけられていて、見覚えのない新人がすでに座っていた。「亜沙美はどこだ!今すぐ呼んでこい!」葉一は血走った目で怒鳴り散らした。人事部の責任者が近づいてきて、眉をひそめながら言った。「社長、永瀬亜沙美さんは1週間前に退職届を提出し、3日前にはすべての引き継ぎを終えて退職されています」葉一はその場で立ち尽くした。1週間前。つまり、団子のことが起きるよりも前、30歳の誕生日を迎えるよりも前から、彼女はすでに去る準備を進めていたのだ。意地を張っていたのではなかった。彼女は計画的に、一歩ずつ、葉一の人生から自分の存在を完全に切り離そうとしていたのだ。葉一は魂が抜けたような足取りでビルを出て、薄暗い地下駐車場へ歩いていった。いつの間にか沙那が後をついてきていた。ヒールを鳴らしながら小走りで追いつき、再び彼の腕に絡みついた。彼女は葉一の様子にまったく気づいていないらしく、相変わらず甘えた声で不満を漏らしていた。「なーんだ。亜沙美さんも本当に分からず屋だよねー。仕事まで辞めちゃって。気を引きたくて隠れてるだけでしょ?もう放っておこうよ。数日もすれば戻ってくるって。お腹空いちゃった。新しくできたお店に行かない?ね?」葉一は振り返り、沙那の顔をじっと見つめた。以前、沙那を連れてあちこちで食事をしたり買い物をしたりしていたのは、写真を撮らせるためであり、亜沙美が嫉妬し取り乱す様を見るためだった。亜沙美が取り乱せば取り乱すほど、問い詰めれば問い詰めるほど、彼の心にはどこか歪んだ満足感が広がった。彼は沙那を鞭のように使い、何度も亜沙美の心を打ちのめし、彼女が自分なしでは生きられないことを証明しようとしていた。けれど、今はもう観客がいない。亜沙美は去ってしまった。振り向きさえしなかった。この茶番は、途端に滑稽で、笑うに笑えないものになっていた。その後、ふたりで入った店の個室では、温かみのある淡い黄色の照明がテーブルを照らしていた。沙那は厚切りのサーモンの刺身を箸でつまみ、わさびをつけると、甘えた笑みを浮かべて葉一の口元へ運んだ。「はい、あーん」生魚特有の匂
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第7話
葉一は、がらんとしたマンションに戻った。明かりはつけなかった。窓から差し込む街灯の光だけを頼りに、ソファにどさりと身を投げ出した。部屋の中は、静まり返っていた。ポケットを探り、タバコを取り出そうとしたが、箱が空なのに気づいた。ローテーブルの引き出しに身を乗り出し、予備のタバコを探した。タバコは見つからなかったが、代わりに分厚いハードカバーのノートに手が触れた。葉一はそのノートを取り出し、スマホのライトを頼りに最初のページを開いた。それはスクラップブックだった。切り抜いた紙片や印刷した資料がびっしりと貼られ、脇には亜沙美の整った字で書き込みが添えられていた。最初のページには、葉一の好物のレシピが細かく書かれていた。【葉一は長ネギが苦手。入れるなら大きめに切って、取りやすいようにすること。肉じゃがが好き。でも甘すぎる味つけは苦手だから、砂糖は控えめに】ページをめくっていくと、今度は胃の調子が悪いときの対処法が細かく記されていた。【胃薬は指示された服用時間を守ること。仕事の付き合いでお酒を飲んだ日は、翌朝すぐ食べられるように雑炊を作っておく。飲みすぎると、夜中に胃が痛くなることがあるから】葉一の指先が震え始めた。ページを1枚1枚めくり、最後のページにたどり着いた。そこには、すっかり黄ばんだ応募用紙が挟まっていた。【セーヌ芸術学院・若手芸術家研修コース】応募用紙に記された名前は亜沙美、日付は5年前のものだった。用紙の右下には、赤い「辞退」のスタンプが押されていた。葉一の息が止まった。思い出した。5年前、亜沙美はこの研修プログラムの推薦枠を手に入れていた。それは、彼女が幼い頃からずっと抱いてきた夢だった。けれどあの頃、彼が会社を立ち上げたばかりで資金繰りが行き詰まり、彼は毎晩ろくに眠れず、ストレスで髪が抜け落ちるほど追い詰められていた。亜沙美は海外へは行かなかった。航空券をキャンセルし、推薦枠を辞退し、留学のために用意していた100万円の保証金を全額引き出して、彼の会社につぎ込んだのだ。彼女はそのとき、こう言った。「葉一、絵ならいつでも描ける。でも、あなたが潰れていくのを黙って見ているなんてできない」ぽたり。涙が、その黄ばんだ紙の上に落ち、文字をにじませ
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第8話
葉一のもとを去って2か月。私は海沿いの、時間がゆっくりと流れる小さな町に落ち着いた。ここには身を切るような寒風もなく、あるのはただ、塩気を帯びた温かい潮風だけだった。手元の蓄えを使って、海辺に庭付きの小さな平屋を借りた。庭には大きな木が1本立っている。団子の遺灰は、家主の了承を得て、その木の根元に埋めた。毎朝起きると、きれいな水を汲んで、木の根元にそっと注ぐ。「団子、おはよう。今日は海風が暖かいよ。たっぷり日向ぼっこしてね」ざらついた木の幹を撫でながら、小さな声で語りかけた。もう、泣くことはなかった。私はこの平屋を少し改装し、自分の陶芸工房を開いた。7年間手放していた陶芸用のヘラと土を、私は再び手に取った。長年伸ばし続けていた腰まで届く髪も切った。それは、葉一が一番気に入っていた長さで、「おしとやかに見える」からだと言っていた。キャリーケースの中にしまい込んでいた、地味でおとなしい印象のワンピースはすべて捨てた。代わりに身につけるようになったのは、ゆったりとしたリネンシャツと、粘土のついたデニムのエプロン。足元は履き古したスニーカーだ。隣でカフェを営む青木葵(あおき あおい)とは、すぐに友達になった。彼女は明るく物怖じしない性格で、毎日アイスコーヒーを片手に工房へ遊びに来る。私は自分で作った、少しいびつな形の陶器のマグカップを彼女に贈った。葵はそのカップを両手で包むように持ちながら、私を見て笑った。「亜沙美、ここに来たばかりの頃のあんたって、まるで抜け殻みたいだったよ。生気がなくてね。でも今は、笑うと目にちゃんと輝きが戻ってるよ」私は一瞬きょとんとして、思わず自分の目元に触れた。そうなのだろうか。あの街で過ごした7年間を思い返す。あの頃、私は毎日不安に苛まれていた。葉一がその日も時間どおりに帰ってくるか、彼の胃痛がぶり返さないか、彼のスマホにまた沙那からのメッセージが届いていないか。そんなことばかり気にしていた。まるで彼の母親代わりになって、いつ爆発するかわからない爆弾を抱えながら暮らしているようだった。私は自分の喜怒哀楽のすべてを、ひとりの男に委ねていたのだ。けれど今は違う。毎日気にかけているのは、粘土の水分が足りているか、窯の温度が適切かどうか、夕焼け
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第9話
冬のある夕方、冷え込みが一段と厳しくなった。海風にも、刺すような冷たさが混じっていた。工房の作業台に並べたヘラなどの道具を片づけ、シャッターを下ろそうとして、ふと振り返った瞬間――私は動きを止めた。扉の外、街灯の下に、ひとりの人影が立っていた。葉一だった。一瞬、誰だか分からなかったほどだ。すっかり痩せ細っていて、かつて体にぴったりと合っていた黒いコートが、ひどくだぶついて見えた。目は落ちくぼんで充血し、顎には濃く無精髭が伸びていた。かつての、自信に満ちて余裕たっぷりだったエリートの面影は、もうどこにもない。彼は冷たい風の中に立ち、小刻みに震えていた。そして、そのコートの胸元には、何やらもこもことしたものを抱えていた。私が振り返ったのに気づくと、彼は大股で近づいてきた。コートのジッパーを開け、懐から小さな子犬を取り出した。ゴールデンレトリバーの子犬だった。生後1、2か月ほどだろうか。ふわふわの毛並みで、幼い頃の団子にそっくりだった。葉一は私を見つめ、みるみるうちに目を潤ませた。声はかすれきっていて、ひどく鼻にかかっていた。「……亜沙美、やっと見つけた……」彼は一歩前に出て、小さなゴールデンレトリバーの子犬を私の前に差し出した。まるで宝物を捧げるように。「見てくれ。丸1か月かけて、ブリーダーを10軒以上回って、ようやくこの子を見つけたんだ。団子の子供の頃とそっくりだろ。耳のところにある白い毛まで同じなんだ。亜沙美、また一緒にこの子を育てよう。な?」彼はすがるような目で私を見つめながら、この数か月の自分の変化を、まとまりもなく話し続けた。「沙那とはきっぱり縁を切った。もう二度と会わないと誓う。会社の持ち株もすべて売った。もうあの仕事からは手を引いたんだ。こっちで庭付きの家を買おう。お前は陶芸が好きなら続ければいい。俺がそばにいるから。もう一度やり直そう、な?」彼は見捨てられた子供のように泣いていた。涙がこけた頬を伝って流れ落ち、子犬の頭にぽたぽたと落ちていった。彼はこの犬を差し出し、自分がどれだけ犠牲を払ったかを並べ立てて、私の心を揺さぶろうとしていた。私は工房の入口の一段高くなった床に立ち、静かにその様子を見つめていた。落ちぶれて、惨めなその姿を。
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第10話
葉一の顔色が、さっと青ざめた。彼は子犬を慌てて足元に下ろすと、ドサッと音を立てて、その場に姿勢を正したまま私の前にひざまずき、すがるように頭を下げた。粘土のついたデニムエプロンの裾を強く握りしめ、顔を上げて私を見つめた。「亜沙美、俺は自分が馬鹿だったって本当に分かってる!前はあまりにひどい男だった。お前が俺のそばにいるのが当たり前になりすぎて、お前が離れていくなんて考えもしなかった……沙那を当て馬にしてお前を苛立たせたのは、お前が俺を気にかけてる証拠が欲しかっただけなんだ。お前が俺のために嫉妬する姿が見たかっただけで……」彼は自分の歪んだ心理を、まとまりもなく語りながら、全身を震わせて泣いていた。「もう一度だけ、チャンスをくれ。たった一度でいい!残りの人生をかけて償うから。頼む、亜沙美、俺を見捨てないでくれ……」街灯が彼の影を長く、そして惨めに伸ばしていた。膝をつくその姿を、私はただ見つめていた。もし1年前だったら。いや、半年前だったとしても。彼がただひと言、優しい言葉をかけてくれさえすれば、私は迷わず彼の胸に飛び込み、すべての過ちを許していただろう。けれど、今は違う。私は手を伸ばし、彼がエプロンを握りしめる指を、1本ずつ、そっと外していった。「実のところ、私はとっくにあなたを許してるの」彼ははっと顔を上げた。充血した目に、一瞬狂喜のような光がよぎった。「本当か?亜沙美……」「でも」私は彼の言葉を遮った。声はあくまで静かだった。「許すことと、やり直すことは別なの」彼を見つめながら、ひと言ひと言、はっきりと告げた。「あの日、団子がベランダで血を吐いていたとき。私がその子を抱いて、土砂降りの雨の中、道路脇に膝をつき、タクシーも拾えずにいたとき。あなたを愛していた亜沙美は、もうあのとき、あの街で死んでしまったの」葉一の目に宿っていた光が、完全に消えた。彼の顔色は、土気色に変わった。口を開けたまま、喉の奥から「カッ、カッ」という音が漏れるだけで、とうとう言葉にならなかった。彼はようやく悟ったのだ。ふたりの関係は完全に壊れてしまったのだと。もう二度と、元には戻らないのだと。私は彼から視線を外した。背を向け、シャッターを下ろして工房に鍵をかけた。いつの
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